第十五章 ダイバダの章2 即位
調印式の日。面白いことが立て続けに起こった。調印式そのものは何のことはない、普通に粛々と何事もなく、ただ退屈なだけで終わったけれども。阿修羅がいなかったのを誰も咎めなかったのは不思議と言えば不思議だった。
面白いのは、その調印式が終わってからのこと。シッダールタが阿修羅を探して城内を走り回っておる。なんとも情けない姿よ。王子ともあろうものが、取り乱してなにをやっておるのか。
どうやら、阿修羅は朝早く、この城を出たようであった。
実は、私はこうなることを予想しておった。嘘ではない。私は一昨日の夜、スッドーダナ王とディーパが密談するのを聞いたのだ。先客がおったが、私はそいつに気付かれぬよう間隔をとった。まあ、老人二人だから、ちょろいものだ。
その話は驚くべきことであった。やはり王はディーパに阿修羅のことを調べさせておった。あの怪しい訪問はそのためだったのであろう。彼はシャリーンという名の、恐らくは王の昔の愛人を見つけ出したと言った。
「阿修羅は、あなたの子供です。シャリーンとあなたの間に生まれた子供です」
私は隠れておるのも忘れて、思わず声を出しそうになった。もう一人の男も口を右手で塞いでおった。良く見たら、あれは阿修羅のところにおった兵士だ。これはどういうことだ? 阿修羅が放った間謀か? まあよい。それより話を聞かねば。
王はおかしな声を上げて唸っておる。まあ、唸りたくもなるであろうな。おまえの息子はそうとも知らず、阿修羅にぞっこんだぞ。さてどうするのだ? 王よ。
しかし、スッドーダナ王も隅におけないな。アナンに阿修羅を調べさせた時、様子がおかしかったのはこのためか。マーヤ妃一筋のような顔をして、ちゃっかり愛人がおったとは。
だがそれだけではない。話はさらに驚愕であった。王は阿修羅が七歳の時に、暗殺を謀ったと。自分の娘を殺しにいったのか。母親と逃げているのを探し出してまで。それも愛するシッダールタのためとはな。この話を聞いたら、アレはどうするかな。その話を私からしてやりたいものだな。
ディーパがどうするのか迫っておる。あいつはくそ真面目だからな。今回のことは知らされておらんかったか。気の毒に。腹に据えかねるという顔をしておるな。無理もない。流石の私も呆れて物が言えないからな。
ディーパが苦虫を噛み潰したような顔をしておる。スッドーダナは今にも倒れそうだ。昨日倒れたばかりなのに、また倒れると今度こそあの世行きだ。
私は耳を澄ました。王はまた、阿修羅を殺すつもりかと。だが、そこで思わぬ邪魔が入った。王妃のマーハラが部屋に入って来た。これでは肝心な話が聞けないではないか。おっと、先客が帰ろうとしておる。私に気が付くかもしれない。
私は後ろ髪を引かれる思いだったが、仕方ない、そのままその場を離れることにした。
だが、十分過ぎる情報はもらえた。阿修羅とシッダールタが異母兄妹。阿修羅の母は、異国の血を持つ舞人、奴隷以下だ。彼女の肌があれほどに白いのは、そのためか。そう思うと下賤な血が流れているだけで、少しも綺麗じゃない。ふふん、あんな女に惚れるアレも大した男じゃないな。
翌朝になって、私はこの話をシッダールタにしたらさぞかし面白い顔を見れるだろうと思った。だが、さすがに調印式の前日。私が最も忙しい一日だ。話をするどころか、アレの顔を見る事すらなかった。夜は夜で、客人の相手をしなくてはならないし、全くもって上手くいかない。私が自分の館に戻ったのは、既に夜も更けておった。
そして調印式。阿修羅の姿がなかった。あやつめ、もしや既に殺されたのか? スッドーダナ王が殺ったのか? もしそうだとしたら、アレが黙ってはおるまい。
城内を探し回るシッダールタを王が呼びつけおった。アナンが憮然とするシッダールタを連れて行く。これは私も行かねばと、また例によって部屋のそばで聴き耳を立てる。
「父上は、そんな嘘までついて、私と阿修羅の仲を裂きたいのですか?」
ふんふん、ついに話したか。まあ、アレが信じないのも仕方ないな。話を聞いていると、どうやら王は阿修羅を殺したわけではないらしい。本当かどうかはわからないが。早朝にここを出て行ったと言っておる。納得いかないアホの王子が怒り叫んでおる。みっともないこと甚だしいな。
調印式の後には当然ながら客人を迎えての晩餐会がある。私はその接待の準備もしなくてはならない。それなのに、主役のおまえは、おもちゃを取られたガキのように泣き叫ぶのか。
とうとう城を出て行こうと城門へと走っていく。恰幅のいい親衛隊の兵士が五人がかりでそれを止めようと必死だ。全く情けないにもほどがある。見ておれんわ。
おっと、王もやりおるな。薬師が持っているあれは強烈な眠り薬でないか。無理やりシッダールタの口に捻じ込んでおる。これは滑稽だ! ここで笑ってはいかんが、頬の肉が勝手に緩みおる! 私は下を向いて必死に笑いをこらえる。肩が上下に震えておる。うう。これは厄介だ。
アレはがくんと膝を折ったかと思うと、にわかに立ち上がり、門へと向かう。なんという力だ。これが愛の力か? いやいや、腹が痛いわ。だが、さすがに力尽きたらしい。扉に寄りかかるように倒れ込んだ。
「阿修羅……」
アレの悲しげな声が聞こえた。この世の終わりのような切ないばかりの声だ。アレのこんな声が聴けるとはな。今日がこんなに楽しい日になるとは思いも寄らなかった。
あれから月日は矢のように過ぎた。今日は栄えある日。私のカピラ国、国王即位の日だ。
ここまで来るのには実に長い年月がかかった。私の隣には夢にまでみた美しい妃、ヤショダラがおる。もう、言うことは何もない。
カピラ国第十三代、並びに印度統一国第三代、ダイバダ王の即位式が始まるのだ。
阿修羅がこの国を去って、数カ月。シッダールタは廃人のようだった。王に説得され、一次は王に即位した。まるで覇気のない王様だったが、一応は仕事をしておった。諸国には自分の息のかかった優秀な部下がおったから、統治もまずまずだった。だが、アレの力じゃない。
シッダールタは思い悩み、げっそりとしておった。スッドーダナ前王が、婚姻を勧めたが、アレは断固として首を縦に振らなかった。それだけは前王に対しての復讐のつもりなのか譲らなかったな。
そのうちに、前王は弱り切って、なんと崩御してしまった。それが二ヶ月前のことだ。私はここだとばかりにアレに話をもちかける。なんの因果か知らないが、このままではカピラ国にとって良くない。今こそ、出家の時ではないかと。
まあ、それは表向き。アレは多分、まだ阿修羅を思っておる。だから、焚きつければ王位も捨てて、彼女を探しに行くのではと思ったのだ。
王に腹を立て逆らってはおったが、心労ゆえに命を縮めてしまった父親に、少しは思うところがあったろう。出家して叔父上の弔いもしたらどうだという言葉に、アレは一瞬目を輝かせおった。本当にそう思ったかどうかはわからないがな。
それからしばらくして、シッダールタ王、(当時)、は私を自室に呼びつけた。ついに私に『その話』を告げるようだ。私は小躍りしたいのを必死に耐えて、アレの部屋へと向かった。アレは生意気にも高座に座り、私にこうのたまった。
「おまえの言う通り、私は父上にも母上にも、そして阿修羅にも取り返しのつかないことをしてしまった。このまま王の位に留まるのはいかがなものと思えてきた。位をおまえに譲りたいがどうだ?」
私はここでも両手を上げ、大声で叫びたいのを我慢した。そして、顔が自然と緩むのを抑えながら、こう答えた。
「私のようなもので務まりますでしょうか……」
「嫌なのか? それなら……」
「いえ! 大丈夫です! やる! やらせていただきます」
くそ! かっこ悪いじゃないか! 全く相変わらず嫌な野郎だ。玉座で苦笑いしてやがる!
「そうか。それならばよい。だが、条件がある。それを必ず違えずに執り行うと約束してくれ」
ふうん、条件ねえ。まあ、王になってしまえば、そんな約束、なんの役にも立たない。わかっておるだろうな? そういうことは?
「承知いたしました。王の示されることなら何事も違いませぬ」
と心にもない事を言っておいた。
条件というのは、まずは先の印度統一国調印式で他国と結んだ協定を維持すること。前王とアレが作成した我が国の法律を向こう十年は改変しないこと。そして、シッダールタ王、(当時)、がマガダやコーサラに送ったカピラの兵、つまりはアレの息のかかった連中のことだ。こいつらの地位を脅かさないこと。
マガダ、コーサラに送った連中は、両国の自治を認めて、それを監視している形になっておる。間接的統治だ。それは別に構わない。税だけくれれば問題ない。だが、アレの息のかかった連中をそのままあそこに置いておくのはどうかな。私の部下にだって優秀なのはおるし、冷や飯食っているとまでは言わないが、正当な評価をもらっておるとも思えない。まあ、この辺りはすぐにも手を付けるかな。
シッダールタは、阿修羅が去って一年を待たずに、自らも城の門をくぐった。見送りを全て断り、一人ひっそりと北の門から出て行った。迎えには名だたる僧が来ていたとのことだが、さて、アレは本当に出家したのか。まあ、私にはもう関係ない。生きるも死ぬも好きにするがいい。
こうして、雨季を越え、カピラで最も美しい季節に私の即位式が行われた。今や国力も充実しているカピラ国と北印度の同盟国、まあ、属国だが、その式は盛大に行われ、華やかなパレードと宴に城も街も大騒ぎになった。というのも、シッダールタの即位のときはアレの勝手な提案で質素に行ったものだから、民からは不評だったのである。そのうえ、王の崩御とあって、景気の悪い事このうえない。私は民のことを考え、国をあげての大祭を開催したのである。反対する者もおったが、力でねじ伏せてやったわ。
そして頃合いを見計らい、主だったアレの部下を粛正した。モッガラーヤ、ナダ、リュージュ、等等。今、わが国は西の異国から圧力を受けておった。そこを守らないと北印度が荒らされてしまう。そんなことはあってはならないことだ。私はナダ達、旧第一団隊の面々をその最前線に送った。有能な連中だ。良い采配であろう。だが、私はそんなに優しくない。前線はいくつもある。出来るだけみなが離れ離れになるように配置してやった。
前線は主に旧コーサラの西側。カピラからは途方もなく遠い。補給をままならんとこだったから、消耗戦になる。彼らなら、自分達の采配で何とかするだろう。なんたって、アレのいたころの最強軍団だからな。
私は夢にまで見た玉座のもと、自分の思うように施政をした。幼少の頃からずっとアレの下で埋もれていた私のようやくもぎ取った勝利の席だ。誰にも渡さない。
だが、私の幸福な毎日は長くは続かなかった。はらわた煮えくりかえる報せがもたらされたからだ。それは、旧コーサラの国王、ヴィルーダガが生きており、挙兵したという報せだった。
第十五章 ダイバダの章2 了 次章に続く。