第十四章 阿修羅の章3 慟哭
なんびとも寄せ付けない厳しさと越えさせない険しさ、恐れ敬う象徴そのもの。それが天の山だ。幼き頃から仰ぎ見ていた未踏の山々がだんだんと近づいていく。それにつれて道は徐々に険しくなり、白龍の吐く息を荒くさせた。
しかし、こいつはそれでも山道を登ることを少しずつ覚えていく。景色がすっかり山間部の荒れた道と狭い田畑になるころには、軽やかに登りだした。
「また、おまえと二人になったな。おまえがいてくれて良かった」
私は白龍の長い首を撫でる。十歳の時に、おまえを選んで良かった。白龍は私の気持ちが伝わったのか、小さく嘶いて首を振った。
カピラを出てからまる一日。私は目指す村、コーサンビの村に着いたようだった。山の肌にへばりつくように建ち並ぶ家屋と猫の額ほどの田畑があちこちに点在している。絵にかいたような貧しい村だ。本当にこんなところに、母はいるのだろうか?
朝早くから働いている村人たちが、私と白龍を遠巻きに見ている。警戒しているのは間違いない。こんな辺鄙な村に、白馬に乗って剣を背に差した若いのが一人。怪しまれても仕方ない。
「そこの旅の方。貴方はもしかしたら……」
いきなり呼び止められた。振り向くと、そこにはこざっぱりした恰好の白髪の男が立っていた。引き締まった顔がいかにも知識人風だ。それでいて腕や胸板には鍛えた筋肉がついているのか、体格はがっしりとしていた。
「カピラ国からこられたのか?」
カピラ国……。この男は私を誰だか知っているのか。そして、母のことも。
「私は阿修羅というもの。貴方は私のことをご存じなのか?」
男は首を二度上下させた。そして目を細め、「よくおいでなさいました」と言うと、両手で顔を覆った。
男はヤーセナという名で、この村で医者をしているという。「もっともほとんどが山の薬草を採っては調べているばかりだが」と、付け加えた。
「シャリーンという女性が、この村にいると聞いてきたのだが」
私は単刀直入に聞いた。のんびりするつもりはない。ここまで来ておいて今更だが、私は母に会いたいのかどうか自分でもわからなかった。凱旋でカピラに戻ってからも、私は自分から母を探すことはなかった。母の言葉や自分の生い立ちなど、今までいろいろ言い訳をしてきたが、探しても既に亡くなっていたら、という不安が拭えなかったというのが本音だ。
『病の床にある』。老兵の言葉は、私に後悔の念を思い起こさせた。それでもなお、私は恐れている。母がその名を伝えた『シッダールタ』と情を通じた私を、母はどう思うのだろう。母はシッダールタが私の異母兄だと知っているのだから。
母はこの村にいた。数年前からこの村でヤーセナの手伝いをしていたらしいが、話の通り、今は病に伏していた。ふた月ほど前から体調を崩していたが、私達の凱旋式には無理をして来てくれたらしい。
「結局、それで命を削ってしまったが。シャリーンは嬉しそうだったよ」
ヤーセナが目を落として言う。もうあまり長くないだろうと言われた。食事がほとんど取れないらしい。
私はヤーセナに案内され、一つの小屋の前に立った。母には私が来ていることを伝えてくれたらしい。母の世話をしてくれている村人が扉の前で待っていた。
「どんぞ。今日は気分もよさそうだで、話もできんさねえ」
村人は暖かい眼差しで私を出迎えてくれた。母がこの村で心安らかに暮らしていたのがわかって、私は少なからず安堵した。
「かあさん。ご無沙汰しております」
私は頭を深々と下げ、ゆっくりと上げる。そこには、寝床に座る老いた母の姿があった。小屋の中は思ったよりも広く、戸口の近くに小さなテーブルと椅子が二つ。奥には炊事場があるようだ。母が休む寝床は窓際に置かれていた。
「よく来たね。生きているうちにおまえに会えるとは思っていなかった」
私は胸を抉られた。あれから十年しか経っていないというのに、いったい何が母をこれほどに老いやつれさせたのか。あれほど美しかった栗色の髪は光沢を失い、白いものが見え隠れしている。艶めかしい白い肌もうっすらと染みができ、目元、口元には深い皺が刻まれていた。だた、瞳、乾季の突き抜けた空を思わせる紺碧の瞳だけは、あの頃と変わらず美しかった。
自分が大きくなったせいかもしれないが、母は小さく見えた。肩も手も細くまるで骨の上に直接皮を乗せているようだった。
「かあさん……。もっと早くお探しするべきでした……」
私は今更言っても仕方のないことを言う。自分でも愚かしい言葉だ。
「ここへ来たのは。全てがわかったからだね」
私は頷いた。
「おまえの凱旋式には出かけたよ」
母は私の悔恨の言葉を気にもせず、唐突にそう言った。
「阿修羅と名乗るカピラの戦士が、もしかしたらおまえかもしれない。そんな気がして……。歳の頃も、噂に聞く容姿もおまえの成長した姿だとしか思えなくてね。『舞うような剣技と必殺の刃で敵を討つ』。こんな山奥の集落まで聞こえていた。どうしても確かめたくて、病を押してヤーセナに連れていってもらった。一目見て、わかったよ。おまえはちゃんと生きて、私の教えを守っていたと」
「かあさん、私は母さんの舞をいつも観ていました。空気がしんと張り詰める。あの舞に私はいつも目を奪われていました。あれは、剣の舞だったのですね」
「ふふふ」
母は自嘲するように笑った。窓から差し込む柔らかい日差しが母の横顔を照らしている。病の床にあるとはいえ、このように優しい母の笑顔を、私は見たことがなかった。
「見世物小屋では剣の舞など舞わせてはもらえなかった。でも、おまえはちゃんと受け取っていたのだね」
私の剣技の速さと美しさは、幼いころから目に焼き付いていた母の舞がお手本だった。もちろんそんなことは気づきもしなかった。昨夜、スッドーダナ王から聞かされるまでは。
「かあさん。一つだけお聞きしたいことがあります」
母と話したいことは山ほどあった。だが、私にはどうしても確かめなければならないことがあった。
「あの夜、なぜ私に『シッダールタ』の名を?」
目の前の母は、その名を告げると一瞬固まったように私を見た。そして再び視線を外して自分の皺だらけの手に落す。肩が少し上下している。私は母が息苦しいのではないかと不安になった。
「かあさん、大丈夫ですか?」
「心配はしなくていい。長くはないだろうけれど、まだその時ではない」
「母さん……」
胸が締め付けられる。母はもう既に、自らの死を覚悟しているのか。これほどに安らかな表情で死を迎えようとしているこの人は、短すぎる命の日々をどう捉えているのだろう。
「シッダールタ……。どうしてだろうか。どうしておまえにあの名を伝えたのだろうか。私もずっと考えていた」
母は、顔を上げて、宙をみるように視線を泳がしている。記憶を辿っているのだろうか。忌まわしい過去の記憶へと。決して母にとって楽しい思い出ではないはずだ。私は母にまた苦痛を与えるのか。膝の上に置いた両手を私はくっと握った。
私は知りたいという渇望と同時に、聞くべきでなかったとの後悔も感じていた。もういいのです。と喉まで出かかった時、母が口を開いた。
「おまえの父、スッドーダナ王は、多分立派な王様だっただろう。でも、私にとっては身勝手な暴君だった。私は王を尊敬していたけれど、男として見たことはなかった。だけど、度重なる出仕の強要にウパーリ殿にも迷惑がかかりそうになり、仕方なく従った」
母は滔々と語り始めた。まだ十代だった母。異国の血が混じった美しい舞姫。冷たい素振りの母に王は逆に思いを募らせ、自分の思うよう従わせるため、時には権力を時には物理的な暴力も使ったという。
「そのうちに、お腹におまえができた」
母がふっと溜息をつく。
「最初は呪った。何故あの王の子供を身籠らなければならなかったか。しかも、正室のマーヤ妃も子を授かっていたあの時期に」
私は……。やはり王の子か。間違いであって欲しいと僅かに期待していたのだが。脆くも裏切られたな。しかも母にとっても望まない子供だったのだと。哀れ過ぎて涙も出ない。
「でも。膨らむお腹とともに、おまえの生命力を感じて。必ず無事に産もう。無事に育てよう。そういう気持ちが日に日に大きくなっていった」
母の声が少しだけ高くなった。相変わらず視線は宙に浮いている。頬に一筋の涙が零れ落ちていく。
「だから、スッドーダナ王の元から逃げ出した。王はおまえを殺すかもしれない。その危険があったから」
母は浮かしていた視線を止め、私の顔をしっかりと捉えてそう言った。
私の記憶の中に、母との二人旅が甦ってくる。諸国をめぐり、見世物小屋の一座は一つところに留まらない。糸の切れた凧のように、風まかせに漂っていく。座を何回か変えたのも、追手の追跡を逃れるためだったのだろう。
「苦しいこと辛いことばかりだったけど、私は意外に幸せだった。好きな舞を踊り、おまえと一緒にいられたからな」
母が私に名を付けなかったり、冷たく当たっていたのは、いずれ一人で生きなければいけないことがわかっていたからなのだろう。それまでに教えられることを教えたい。そう考えていたと言った。
「おまえはそれをきちんと理解していた。ちゃんと自分のものにしていた」
「いや! 母さん、それは違う。私はそんな風に思ったことありませんでした。それに私は貴方を置いて一人で逃げた……」
「違わない。何も間違っていない。だからこそ、こうしてカピラ軍、いや、印度一の戦士となった」
印度一の戦士。今となってはその称号も何の意味も持たない。
母は精一杯の笑顔を私に向けた。起きているのが少し辛そうに見える。私は母の背中に手を伸ばして、枕の位置をずらす。痩せた背中、私のてのひらに皮膚から覗く背骨が当たった。
「でも、予想もできないことが起こった。私のせいかもしれない」
「かあさん」
「なぜ、あの最後の夜。おまえにあの名を告げたのか。『シッダールタ』の名を告げたのか」
自ら逡巡するように、母は言葉を繰り返す。なぜ。なぜそうしたのか。と。
「私は人を呪うとか、恨むとか、そんなことを自分の人生や感情に持ち込みたくなかった。下賤な生まれでも、剣を扱う限りは高潔でありたかった。でも……。幾人もの高僧や仙人から『救世主』、『聖王』と予言されるシッダールタに嫉妬していたのかもしれない。おまえにこそ、その力があるかもしれないのに、と。マーヤ妃から生まれたことで、世の人々に歓迎されたあのシッダールタが憎かった。おまえだって、スッドーダナ王の血をひく後継者だったのだから」
「そんな……」
「だから、言ったのかもしれないね。『シッダールタを殺せ』と」
え? なに? 今、何と言った?
「母さんは殺せなどとは言っていなかった! ただ、ただ名前を憶えろと」
私は一瞬、母が病気であることも十年ぶりの再会であることも忘れて食ってかかった。いや、想像していたことだったけれど、聞きたくない言葉だった。
「どうかな。でもあの時の感情は間違いなくそれだった」
母は、私の狼狽に驚きもせず、一言そう答えた。なら、何故そう言わなかった!? そう言ってくれていれば……。
「阿修羅……。いい名だ。シッダールタはおまえを愛しているんだね。凱旋の途上、王子の様子を見てすぐにわかった。そしておまえも……」
ふうっと大きなため息をついた。体を起こしているのが辛くなったのか、ゆっくりと体を横たえた。
「かあさん、ヤーセナを呼んできましょうか」
私は軋む椅子の背を持って、立ち上がった。母はそれを頭を横に振って制した。
「ふた月前から、腰の辺りが痛みだして、立っているのも苦しかった。それから食が喉に通らなくなってね。もう、長くはないのだよ。これも何かの因果だろう」
「そんな……。かあさんはなにも悪いことなど……」
「いいや、そうじゃない。ごめんね。おまえのその苦しみは私の責任だ」
『ごめんね』
それは私が母から聞く恐らくは初めての謝罪の言葉。私は胸を突かれる思いがした。思わず母の手を握る。
「凱旋式の後、ディーパと会った。王の側近だった男だ。あれは私を探していた」
ディーパ。私にこの場所を教えてくれた老兵。母のことをスッドーダナ王とのことも知っていたのだろうか。
「私は包み隠さず話した。おまえの心を引き裂くことになろうとも。今できることは真実を話すことしかないと思ったから」
私は頷いた。スッドーダナ王は気づいていたのだ。真実に手の届くところまで来ていた。もし、あのままこの事実がうやむやなままだったら。私はスッドーダナ王にまこと殺されていたかもしれない。つい一昨日の話なのに、随分と遠い昔のことのようだ。
「許して。私があの名をおまえに言わなければ、カピラに戻ることもなかったものを……」
母の手が私の手を握り返す。精一杯の力を出しているのだろうが、その力は途方もなく弱く、私を困惑させた。
「かあさん……。貴方には何も罪はない。謝らないでください」
もしあるとしたら、はっきりと『シッダールタを殺せ』と告げなかったことだろう。
「私は砂漠を離れてカピラに戻ったことを後悔していません。シッダールタと出会ったことも」
「阿修羅……」
横たわる母の瞳に涙が溢れていく。あれほどにこの人を泣かせたくないと願ったのに、いつも私は彼女の涙の源になってしまう。わたしは母親を恋しいと思うことはなかったが、ずっとどこかで、美しく凛としたその姿を誇らしく思っていた。母のようになりたいと、思っていたのかもしれない。それが今は病の侵され死の床にいる。いったい彼女が何をしたというのだろう。
「もう行きなさい。私はおまえにこのような姿を見せたくはなかった。私のことは忘れて、自分の行くべき道を進みなさい」
「かあさん……」
ふいに母の瞼が閉じる。長く話したことと、思い出したくもない過去の記憶を引きずり出したことが母を疲れさせたのだろう。私はゆっくりと手を離し、近くにあった手ぬぐいで母の頬にある涙の跡を拭いた。
「凱旋式に連れていったのは、もう最後だろうと思ったから。彼女の病状を悪化させるのはわかっていたのだが。でも、おまえの姿を見て嬉しそうだったよ」
村を立ち去る時、ヤーセナは形見となるだろうと一振りの短剣を私に渡してくれた。柄には天の山の印がついていた。
ここに留まって、母の最期を看取ることも考えたが、それは母が断固として拒否したとヤーセナから聞いた。母らしいと言えばそれまでだが、私もどこかそうしたくない自分がいた。一緒に時を過ごすには、思い出す日々が辛すぎた。ここで、ここでの母しか知らない村人たちと最期を過ごす方が彼女にとっても心やすらかだろう。
「これも持っていくがいい」
いくばくかの薬も持たされた。砂漠にでるのであれば役に立つだろうと。私は母が他界した時のことをお願いして、村を後にした。
燃える様な赤の太陽が西の空を染めている。私は砂漠に向けて白龍を走らせた。涙で前が見えない。溢れては頬を伝っていく。
母さんはシッダールタを殺したかったのか? ではなぜそう言ってくれなかったのだ! ならば私は確実にヤツを殺しただろう。こんなに苦しい思いに身を焼かなくてもよかったのに!
たとえそうであっても私はシッダールタを殺せただろうか? あの出会いの日。初めてシッダールタを見たときの衝撃。あの時すでに心を奪われていたのかもしれない。
なんて遠く遥かな日だろう!
私は声を上げて泣いた。白龍の疾走するままに。涙は風に流れて散っていく。
「シッダールタ、愛している。愛している! おまえと離れたくはなかったんだ!!」
誰に聞かれようがかまわない。私は叫んだ。自分自身を抱きながら。肌に残るシッダールタの体温をまさぐるように。
「シッダールタ。おまえも今、苦しんでいるのか? シッダールタ……」
私の叫びは風の中に消えていく。ひた走る白龍の背の上で、私の体は嵐の中の小舟のように揺れ動く。愛しいと思ったのはいつからなのか。共に生きたいと願ったのはまやかしではない。身が引きちぎられるほどの痛みが私を襲う。走れ、白龍。私の想いを振り切って走り抜けろ。
第十四章 阿修羅の章3 了 次章に続く。




