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第十四章 阿修羅の章3 惜別


 心の整理がつかないまま、私は自室へと戻る。とにかく夜明け前にここを出よう。もう面倒はごめんだ。思い悩むのも苦しむのももうやめだ。今の気持ちを形にしてしまうとあまりに辛すぎる。何も考えないでいよう。そう思っていた。



「阿修羅、待ちくたびれたぞ。どこに行っていた?」


 私のささやかな願いは(もろ)くも崩れた。部屋にはシッダールタが待っていた。私はヤツの部屋には寄らないつもりでいた。黙って出ていこうと。そうでもしないと、決心が鈍りそうだったから。


「どうしたその格好? 父上のところに行っていたのか?」


 シッダールタは私の正装を見てそう言った。隠しようがない。


「ああ、話があると言われてな」


 ヤツが私の顔を覗き込もうとした。私は咄嗟に顔をそむける。涙の跡を見られたくなかった。


「シッダールタ、灯りを消してくれ」

「え? どうした」

「いいから早く! 着替えたいのだ」

「ああ……。いいけど」


 シッダールタが部屋の灯りを吹き消す音がする。窓から差してくる月と星々の柔らかな光が部屋をぼんやりと浮かび上がらせた。


「阿修羅、いよいよだな」

「ああ」


 私は暑苦しい衣を脱ぎ捨てる。背中にシッダールタの気配が近づいてきた。私の肩を抱くと、胸のあたりに手を伸ばす。 


「短剣?」


 胸に忍ばせた短剣に気付かれた。その手をすり抜けるように私は体をひねり、寝床に腰を落とした。


「父と何かあったのか?」

「いや、まあ、ただ厭味を言われただけさ。おまえが妃を娶らないから」

「だが、その短剣」

「これはいつものこと。私はいつでも用心しているのだ。おまえの父上といえど」


 何か言おうとしている。シッダールタは薄闇の中で、怪訝な顔をしていることだろう。気付かれたくはなかった。こいつに今聞いたばかりの話をすることなぞできはしない。


 私はやつの首に両腕を絡め、体を引き寄せる。そして唇を求めた。もう、何も聞くな。何も言うな。

 柔らかな感触が絹の衣のように私の全身を覆う。シッダールタの重みに身を委ねる。木枠で格子状に区切られた白い天井が闇に浮かんで見えた。


「阿修羅」


 吐息と共にシッダールタが私の名を呼んだ。唇が私の首筋を這う。私の指は逞しい指に絡めとられていく。されるがままになれば、頭の中は真っ白になっていく。


 私は短く声を漏らす。より一層、シッダールタが私を貪るのを誘うように。


 私は神など恐れない。何も、恐れるものなどない。たとえ、誰が許さなくても、私一人なら地獄の王とでも戦ってみせる。だが……、シッダールタ。おまえを道連れにはできない。おまえとはもう共にいることは出来ないのだ。


 私は指に力を込める。背中に爪を立てる。長い黒髪を絡めとる。この一瞬が永遠だと信じて。


『このままでは地獄に落ちていく』


 王はそう言った。これは許されない過ちなのか? もう止めることなどできないのに?


 でも……。


 もしも本当に……、この世の全てを支配する神がいるのなら、どうか、この最後の夜を、許して下さい。


 その夜、私は泣いた。涙も見せずに、声も出さずに。シッダールタの腕の中で、全てが引き裂かれるような、音にならない声を上げて泣き叫んだ。熱く激しく獣のように抱き合いながら、泣き続けた。


 


 

 夜明け前。私はカピラ城、城壁の外にいた。どういうわけか、警備が薄かった。誰に咎められることなく私はここまで来られた。


「行くのか」


 白龍に荷物を括り付けているとまだ薄暗いなか、城壁の向こうから声がした。リュージュだった。私はそれで全てを理解した。


「おまえが片付けてくれたのか」

「ああ、本当は行かせたくないのだけれど」


 いつもの快活な雰囲気はどこへ行ってしまったのか、随分と焦燥している。おまえが苦しむことは何もないというのに。何もかも知っていたのだな。だから私に忠告した。


「ディーパ殿はスッドーダナ王に頼まれていたんだ。おれは二人の会話を盗み聞きした。だから事情はわかってる」

「その分だと、昨夜の私と王の会談も聞いていたようだな」


 リュージュはゆっくり頷く。気配を感じなかったのは、こいつの技術があがったからなのか、私に余裕がなかったからなのか。今となってはそれもどうでもいいか。


 荷を括り終えた。お互いの顔がはっきりと見えてきた。もう行かなければ。城もじき目を覚ます。


「これからどうする? 砂漠に戻るのか?」

「その前に母のところに寄ろうかと思う。病に伏しているというから。話を聞いていたなら、知っているだろう?」


 王の部屋を退室した後、闇に沈む通路でディーパが私を待っていた。母のことを教えてくれたのは彼だ。それによると、母は天の山の小さな村にいて、病に伏しているという。

 彼は私がもし王を殺していたら、どうしていただろう。あそこで斬りかかられていたら、私は殺されていたかもしれない。いや、まさかな。私はディーパを返り討ちにしただろう。


「そうか、ディーパ殿が。俺もおまえにそのことを伝えようと思っていた。先を越されたな」


 目を伏せたまま、リュージュは言う。朝露を蓄えた木々の葉が、ゆうるりと揺れる。もうすっかり空っぽになってしまった胸の中に風が吹き抜けていった。


「おまえには世話になったな」

「いや、結局俺は何もできなかった。……また、会えるか?」


 また会えるか。リュージュが伏せていた目を開けて、私を見ている。おまえと共に戦った日々は楽しかった。人の生き死にを(もてあそ)ぶ悪の素業だとしても、私は何も恐れなかった。だが、もう、そんな日々は戻ってこない。


「いや、二度と会えないだろう」


 私はそう言うと、はるかに聳える天の山を見つめた。目頭が熱くなる。もう行かなければ。このまま泣き崩れるまえに。


「そうだな。すまない、愚かなことを言った。行け、阿修羅」


 愚かなことではない。私もまた会いたいと思っている。でも、それも許されない。夢の路は終わった。おまえは現実に残る。


 私は何故こうしたのか自分でもわからなかった。気が付くと、リュージュの浅黒い頬に唇を寄せていた。少しだけ背伸びして彼の腕に手を添えて。次の瞬間、私はリュージュの腕の中にいた。懐かしい日々があいつの逞しい腕に沈んでいく。ここに残していこう。私の残像を。私がここにいたことを、どうか覚えていてくれ。少しの間でいいから。おまえの気持ちを気付かなかったわけではない。困惑しながらも心地よかった。


「もう、行かなければ」


 私はゆっくりと体を離す。涙を溜めて私を見つめる双眸から、(こら)え切れない一滴が頬を伝っていく。それを振り切るように私は白龍の背に飛び乗った。白龍が小さな嘶きをあげる。


「阿修羅、生きていてくれ」


 私は口角を上げて笑ってみせた。もう朝日が山の背を赤く染めている。手綱を思い切り振り白馬の背を叩く。白龍の四脚が一斉に駆け、蹄の音とともに空を斬る。


 振り向かずに行こう。天の山を目指して。やがてカピラ城も起き抜けの太陽に照らされて朝を知るだろう。蓮池には桃色の蓮華が可愛らしい音とともに目を覚ます。人々が城内を行き交い賑やかな生活の音が響く。おまえももう、夢から目覚めているだろうか。


 さよなら、カピラ。さよなら、シッダールタ……。





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