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第十二章 スッドーダナ王の章   光と影

シッダールタの父、スッドーダナ王の語り。彼が持つ、誰にも言えなかった秘密とは。


 私が最初に気が付いたのは、ルンピニーの宮殿だった。私は雨季になっても城に帰ってこない王子に業を煮やして、雨季の足元悪いなか、歩を運んだのだ。

 

 もう十七にもなって妃も(めと)らないとは非常識にもほどがある。戦もいいが、私はなにより身を固めて欲しかった。遊びはそれから存分にするがいい。私だって、派手ではないが、妾の一人や二人はいたからな。


 私は王子のお妃候補を引き連れて、ルンピニーに向かった。いずれも花咲き誇る美姫ぞろいだ。彼女たちを見れば、王子も心奪われることだろう。

 だが、そんな私を浅はかとあざ笑うかのような衝撃が待っていた。そこで私が見た者は……。


 

「おまえが阿修羅か。この度の戦では随分と活躍したようだな。ご苦労であった」


 軍神と誉れ高い戦士、阿修羅。私は彼と会うのも実は楽しみにしていた。見た目も美しく大変な技量を持っていると、噂は尾ひれを付けてまことしやかに語られていた。しかし、実際に目にしたのは、噂以上の美しさと心胆寒からしめるほどの技量だった。


 私は彼の、あまりに華奢(きゃしゃ)で男娼のような見た目に俄かには信じがたく、模擬試合を提案した。応えたのは我が親衛隊一の槍の使い手、バサラだ。これはいい試合になる、と私は思った。だが、それは全くの間違いだった。バサラは赤子の手をひねるがごとく、阿修羅に瞬殺された。


 そのあっという間の出来事には、私はもちろん、連れてきたお妃候補の姫君たちも感嘆の声を上げていた。私は度肝を抜かれたが、一方では大層興奮した。私も武人の端くれだ。見事な阿修羅の速攻も、剣を扱うときに見せる美技も全てに惹きつけられた。まこと軍神だと感心したものだ。


 だが、そんな高揚した気分を一瞬にして冷やしたのは、シッダールタが阿修羅に送った視線だった。あの、言葉よりも雄弁に語る目は何を意味するのか。


 その後、シッダールタと二人で話した時も、あいつはしばらくは妃をもらうつもりはないと言い放ち、あげくに一晩中、コーサラ戦の話をした。コーサラに勝利したことはまこと素晴らしい、誇らしいことだ。長い年月、父の代、祖父の代から力でねじ伏せられていた相手だ。私だって胸の空く思いだ。

 だが、シッダールタから語られる言葉は『阿修羅』のことばかりだった。彼がどれほどに素晴らしく優れているか、私は一晩中聞かされたのだ。


 私はルンピニーを後にするとき、何とも嫌な胸騒ぎを抱えていた。シッダールタは阿修羅をどう思っているのか? まさか思いを寄せておらんであろうな? 素性もわからぬ上に男だぞ。王子が同性愛のために婚姻を引き延ばしているなど、あってはならんことだ。それならなおのこと、姫との婚姻を急いだほうが良い。

 甥のダイバダにもさっさと適当な姫をあてがって黙らせたいというのに、おまえを差し置くわけにもいくまい! それを「ダイバダが先でもいい」とは何事だ。


 そしてもう一つ、私は気になって仕方のない事があった。阿修羅がバサラと対峙したときの立ち姿、何故か見たことがあるような気がした。くるくると剣を回して鞘に納める姿にも……。何か靄がかかったような、そんな不確かな記憶。


 私はカピラがマガダを攻め立て、勝利に次ぐ勝利を収めていても、膨れ上がっていく悪い予感に苛まれた。シッダールタがいつか出家をして、カピラ国を捨ててしまうのではないか。そんな疑念に襲われたあの日々が戻って来たような気分だ。


 私は側近のアナンに阿修羅の過去を探らせることにした。アナンはダイバダの異母兄だが、弟とは疎遠のようだ。弟は油断のならない男だったが、アナンは私に忠実だ。内密にと言えば、それを守るだろう。私はアナンがこの不安を吹き飛ばすような話を持ってきてくれるのを願った。


 確かにアナンは私の期待に応え、内密に事を進めてくれた。だが、持ち返って来た情報は、私を地獄に突き落とした。




「阿修羅殿は女です。元々カピラ国出身で、幼い頃砂漠に出たようです」


 それだけで、全てのパズルのピースが揃ったわけではない。だが、私の脳内で、稲光のようにそれは突然再現された。


 あの日の阿修羅の武芸。それはちょうど十七年前、ある舞人によって踊られた剣の舞に重なった。まさか? まさかそうなのか? 私は頭の中で繰り返し再生される二人の剣の舞に眩暈を感じた。


「どうかされましたか? スッドーダナ王」


 アナンが私の顔を覗き込む。見るな、私の顔を見るな。私は今、どんな顔をしている? 私は顔を両手で覆う。見られたくない。


「もう阿修羅のことを探るな! このことを誰にも言うな!」


 私はそう言うしかなかった。私は今まで記憶の底に封印していたことに図らずも対面した。私が犯した罪を自らの手で掘り起こしてしまった。




「スッドーダナ王、本日は勇ましくも美しい舞の達人をお連れしました。是非ご鑑賞ください」


 その頃、私は血気盛んな若者だった。美しい姫、マーヤと婚姻を果たし、王としての治世も脂がのってきた。マガダやコーサラも今ほど脅威はなく、平和な日々。怖いものは何もないと思っていた。


「そうか。それは楽しみだな。ウパーリのところには珍しい客人が多いのう」


 ウパーリはカピラの貴族。代々広い領地を持つ富豪だ。彼の趣味は文化の育成とかで、自分の豊富な財を賭して文化人(と言っても私の目から見れば芸人に過ぎないが)を養っていた。


 この日も、またかという気分で付き合った。なんにせよ金持ちの貴族は大切にしないとな。と、そんな軽い気持ちで。


 だが、その日彼が連れてきた舞姫に、私は心を、魂を持っていかれてしまった。


 その(ひと)は、どこか異国情緒を思わせる顔立ちをしていた。長い髪は栗色、髪の両横を掬い上げて後ろで縛り、前髪はふわりと額を隠している。誇らしげなウパーリに連れられて私の前に現れた彼女は、深い藍色の瞳を私に投げかける。まだ十代だったろうが、大人びたその視線に私は一瞬たじろいだ。

 

 色白で容姿端麗な彼女は、その身をわずかな布地だけで覆い、長い手足、鍛えられた腹筋、恥ずかし気に胸の谷間を覗かせている。それだけで凛々しく美しい絵のようだった。


 舞いの演目は剣の舞だった。細い体に似合わず、力強く、音に合わせて舞う姿は妖しく美しかった。すべらかな肌のすぐそばをくるくると生き物のように剣が舞う。彼女を傷つけてしまうのではないかとハラハラしながら見ているうちに胸苦しくなり、私は曲が終わった時にはすっかり恋に落ちてしまった。


 実のところ、私はマーヤ妃以外の側室を置いていなかった。子に恵まれないまま一年が過ぎていたので、そろそろ側室を持ってはという話もなくはなかった。それを私はやんわりと退けていた。マーヤ妃を大事にしたい。そう考えていたからだ。


 だが、舞姫となるとそうもいかない。相手は奴隷(スードラ)より身分の低い芸人、もしかすると異国人だ。側室と言えど、貴族以上の姫から選ぶのが当たり前。私は彼女を欲しいと思ってもそれを側室と扱うことはできなかった。


 そしてもう一つ問題があった。当の本人が私のところに来るのを拒んだのだ。ウパーリを通して、私の床に来るように申し付けたのに体調不良を理由に断ってきた。たかが芸人風情が私の誘いを断るとはどういうことだ。


 まだ若く、驕りもあった私は、この拒絶がどうしても許せなかった。側室に迎えることは(はな)から無理な話。だがたとえ愛人だったとしても、不自由なく暮らすことは出来る。ウパーリもいくら財力があろうと、所詮は豪族にすぎん。


 私は圧力をウパーリにかけた。王としてのプライドを賭けて。思えば、こんな無体なことをする必要はなかったのに。


 舞姫はシャリーンという名だった。ウパーリの窮状を見かねて、それから間もなく私の別邸にやってきた。その頃、都合の良い事に、マーヤ妃が体調を崩し、実家に帰っていた。私は彼女の待つ別邸に入り浸った。


 シャリーンは、だが私に笑顔を見せなかった。憂いのある瞳で私を見つめて全身で拒否をした。時には涙で長い睫毛を束にした。だが、声を出すことは一度もなかった。

 私は彼女を喜ばせようと手を変え、品を変え務めた。大切な王家の紋がついた短剣も授けた。だが、その心をつかむことが出来ず、そのうちに腹を立てて酷いこともしてしまった。若気の至りで済ますのも心が痛い。





 実家に帰っていたマーヤ妃から予想もしなかった朗報が入ったのはそんな頃だった。


「なに? マーヤが身籠ったと? まことか?! 間違いないのだな?」


 私は天にも昇る心地になった。婚姻から1年半が経っていた。体の弱いマーヤでは、もう子供は無理かと思っていた時の吉報だった。だが、それからだった。全てが変わってしまったのは。


 マーヤが子供を身籠ってからすぐ、預言合戦が始まった。高名な預言者アシタに始まり、この国のバラモン教の僧侶もこぞって祝い出す。この波に乗り遅れてはならないという風潮があったのではと思うほどだ。

 この地を平定する聖王となる。その預言は私を天にも昇る気持ちにさせた。だが一方で、出家を果たして『仏陀(めざめたひと)』となるという預言は憂鬱な気分にさせた。カピラを捨てられて坊主になどなられてたまるか。

 

 そしてもう一つ、戦慄する事実が発覚した。シャリーンも私の子を身籠ったのだ。これには私も戸惑った。マーヤが子供を授かったら、私の気持ちは現金なもので、気持ちもあっさり妃に戻っていた。シャリーンのことはいくらかの金を渡してウパーリの所に返そうかとも思っていたのだ。


 私は考えた。マーヤのお腹にいる子供はこの印度を制覇する大王になるやもしれん。そんな子供に面倒な異母兄弟ができては困る。それにマーヤの子供がもし女だったら? シャリーンの子供が男だったら? どう考えてもよくないことが起こる。私はもしもシャリーンの子供が男だったら、殺そうとまで考えた。我ながら恐ろしいことを考えたものだ。


 シャリーンは頭もよく、勘も鋭い女だった。私のよからぬ考えに気が付いたのか、ある日忽然と姿を消してしまった。

 私はもちろん探した。直属の部下に命令して探させた。ウパーリの所には自ら足を運んだ。だが、見つからなかった。


 その後、シッダールタが誕生した。男子が生まれたことで、都をあげての祝い事となり、カピラヴァストゥに花の雨が降った。一週間後には涙の雨になってしまったが。私はあの時、自分の子供を殺そうとした因果がマーヤの命を奪ったのかと悩んだものだ。


 ウパーリは2年後病死した。あの男はシャリーンの行方を知っていたはずだ。だが、ついに何も語らず逝ってしまった。ところがその後まもなくして、親子の消息が割れた。恐らくウパーリの死によって、彼女たちを守る壁が取り除かれたのだろう。


「お子様は女の子でした」

「本当か? 間違いないのか?」


 部下によると、親子は大変貧しい生活をしているという。ウパーリが生きているうちは援助もあったのかもしれないが、今はもうそれも尽きただろう。私は二人が不憫に思えた。子供が女の子であれば、心配はないだろう。二人がどこかで生き延びることができるのならそれでいい。

 

 私は幾ばくかの金を二人に渡すように部下に託した。その代わり、娘を私の子だと名乗らないように約束させようとした。だが、部下が向かった時、二人の姿はなかった。私はもう探さなかった。シャリーンがこの都に戻ってくるとは思わなかったから。


 シッダールタは、親の目から見ても、眉目秀麗で才色兼備な子供だった。すくすく育っていき、それにつれて預言が本当になるんじゃないかと私は気が気でなかった。シャリーン親子のことなど、忘れかけていた。


 だが、シッダールタが七歳の誕生日、それは突然やってきた。

 その日はささやかな祝いの席を城で設けた。それでも、末は聖王か仏陀になると言われた王子を見ようと、たくさんの国から王族や僧侶がやってきた。その中の一人、隣国からやって来たという僧侶が私にこう言った。


「王、シッダールタ王子は真の王となられる方と思われます。その誕生の折り皆が口を揃えたように。このように光輝く子供を私は見たことがございません」


 私は聞き飽きたその言葉に、曖昧な笑みを作って応えた。どいつもオウムのように同じことを言いよって、と。ところがこの僧侶は『しかし……』と言葉を繋いで躊躇(ちゅうちょ)した。


「うん? 何か不吉なことでも?」

「実は少々気になることが……」

「何だ。許す、申してみよ。」


「王子はこの世の光です。全てを照らす光です。だが、光のあるところ、必ず影が生じます。そしてその光が強ければ闇も濃い。王子の影となるもの……。その存在を強く感じます。王子の影として生まれたものがこの世にいる。同じ星の下、生まれた影が」


 私は雷に打たれたような衝撃を受けた。『王子の影、同じ星の下、生まれた影!』 思い当たる者はこの世に一人しかいなかった。今の今まで記憶に蓋をしてきたあの親子。見ることもなかった我が()


「その者はやがて王子に、いえ、この国に災いをなし、ひいては世を闇に陥れる。そのように見えます。そう、同じ星と言うよりは全く逆の、王子とはちょうど表と裏、まさしく光と影。凶星に生まれし者。そのような者の気配を感じます」


 私は鼓動が一気に速まるのを感じた。こめかみのあたりがひくひくして、目が回りそうだ。


「もし、思いあたる者がいるのなら、今の内に対処なさる事を勧めます。さもなければこの国……滅びます」


 この国が……滅ぶ! シッダールタが出家するのではないかと日々恐れているのに、まだ私を脅かすものが? やはり……シャリーンの子は災いの種なのか!?


「カピラヴァストゥの街を隈なく捜すのだ」


 私はその夜遅く、悩んだあげく、親衛隊の兵に命令した。シャリーンを捜し、そしてその子供を……。


「どうされました、王。兵達が数名街に行きましたが」


 苦悩する私のもとに、当時の将軍、ディーパがやってきた。彼は私にとって、最も信頼おける兵士だったが、情に厚く真っすぐな気性だった。とても本当の事を話せなかった。私は適当なことを言って彼を追いやった。今思えば、相談していれば何か変わったかもしれない。私は……。私は兵に命じた。見つけ次第、子供を殺せと。



 親子を捜索に出した親衛隊兵士達は、それから何十日もかかって帰城してきた。逃げ出した子供を追って砂漠に出たと。そこで確かに子供は息絶えたと報告してきた。その証拠に一束の髪の毛を持ってきた。栗色の髪だった。それを見て、私は安堵した。鬼畜の性だ。私は自分の娘を、何の罪もないはずの娘の命を奪った。


 その時は仕方のない事だと自分に言い聞かせ、忘れようとしてきた。記憶を閉じ込め、なかったことにしてきた。

シッダールタが兵を興してコーサラを攻めると宣言したとき、どんなに嬉しかったか! これで良かったのだ。私は勝ったのだと、そう確信した。


 だが、違ったのか? 砂漠から甦った亡霊。阿修羅、おまえは私の娘なのか? おまえの剣技を見た時に、なぜ気が付かなかったのか。あれは、あれはあの日私を虜にした、シャリーンの舞そのものだったのに! おまえは、私の、この国の、喉笛に剣を突き刺すのか?





第十二章 スッドーダナ王の章   了    次章に続く。

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