第一章 シッダールタの章1 聖王出陣
シッダールタの章 末は仏陀と預言されたカピラ国の王子。何を語るか。
北に天の山を置く、シャカ族が暮らす国、カピラ。その首都のカピラヴァストゥは、雨季の終わりには赤や桃色の花が咲き乱れる美しい都だ。私はその国の第一王子として生まれた。名をシッダールタという。私の母は、私を産んで一週間後に亡くなったらしい。もちろん私は何も覚えていない。
私はこの世に生を受ける以前より、色々な人物から要りもしない預言と別名を与えられていた。
「長じて剣を持てば印度を統一する聖王となり、法を選べば世界を救う救世主となる」
そう世迷言を言った高名な仙人は、私を救世主、またの名を仏陀となるよう、幼い頃からいろいろと仕掛けをしてきた。
七歳の誕生祝いの席では、奴の配下と思われる若い僧侶が私を見学に来ていた。全く、珍獣じゃあるまいし、歯の浮くような世辞を私の前で披露して、うんざりしたのを覚えている。そう言えば、その後父上に何か進言をして、慌てた父上が血相を変えていたこともあったな。あれは何を言ったのだろうな。
私が十歳になったある日のことだ。城から外出すると、東西南北のそれぞれの門の向こうに人が待っていた。東門に行けば老人が私の行く手を阻み、南に行けば病人が、そして西には死人と続いた。
すぐにこれは預言者たちの新手の仕掛けだとわかった。では、最後の北の門には何がいるのか。私は結構楽しんで門へと進んだ。そしてそこにいたのは、なんと僧侶だった。
私はついついそこで噴出してしまった。僧侶だと? あいつらは自分達が身分制度の最上位なのをいいことに、好き勝手、贅沢放題していたのだ。そして忌まわしいことに、我らクシャトリア階級はそいつらと持ちつ持たれつの関係を築いていた。
僧がこの世の理不尽や苦しみを救えるなら、とうに救えているだろう。なんたって、この世界で最も力と財をお持ちなのだから。
私はその時確信した。私は僧侶になるべきではないと。世の中の苦しい人を救うには、もっと別の手段があるはずだ。そう考えるようになった私は、古い伝説をまとめた書物や外の国からの書物を読むようになった。高価なものだし、嵩張って場所も取るので手間はかかったが、それでもその時間は至福の時だった。
おかしかったのは、私の出家を阻止して聖王とせんとする父王、スッドーダナが手を変え品を変え、私を甘やかし続けたことだ。私には当にそのつもりがないというのに。この世は幸福で満たされていると言わんばかりに、美味しい食べ物や心休まる音楽、そして美しく着飾った女人たち。悪くはなかったが、ありもしない虚像を見せられているようで、いつもしらけた気分だった。
家族の話をすると、母の死後、父王はその妹を娶った。私にとっての母は、マーハラという名のその妹だ。兄弟はいない。マーハラは子を産むことがなかった。
だが、代わりにたくさんのいとこがいた。大人になったらさぞ美人になるだろうヤショダラやゴーパと言う名の姫たち。そして私にいつも対抗心を燃やしていたダイバダ。正直鬱陶しかった。
私は第一王子として、甘やかされていはいたが、きちんとした教育は受けていた。文武両方に良い教師がついた。
救世主や聖王と関係あるのかはわからないが、なんでも一通り、人並み以上にこなすことができた。ダイバダも悪くはなかったが、私に勝てたことは一度もなかった。いつも恨めしそうに私を見ていたな。面倒くさい奴だ。
一方姫たちはいつも私を憧れの瞳で見ていた。言っておくが、私は器量にも恵まれていた。運動すれば筋肉も綺麗についたし、目鼻立ちのよい整った顔は、彫像のようと言われていたくらいだ。王子という肩書がなくてもモテたと思う。いや、それは言い過ぎかもしれないが。
父王は、私に男子のたしなみができるよう、十三歳になるころには相手も用意してくれた。
若い私は、最初の頃は夢中になりもしたが、そのうちにそれもまた飽きてきた。宮廷で踊る女たちはみな美しく、肉付きも良い色気のある女人たちだった。いとこの姫たちも可愛らしい。だが、何故か私の心を満たすものはいなかった。
そう、あの日あいつに会うまでは。
私は書物を読んだり、架空の戦略を立てることに時間を割くようになっていた。教師から授かる学も古来の戦争の話が最も興味深かった。
「シッダールタよ。そろそろ妃を決めたらどうかな。この国の姫ならだれでもよい。どの姫もおまえの求婚をまっているぞ」
父王はそれでも私の行く末を案じていたようだ。十五歳を越えると、嫁を娶れとうるさくなってきた。これもいい加減鬱陶しい。どの女も悪くない。器量もいいし、頭もそこそこ良さそうだ。だが、私の心に響く者は残念ながらいなかった。衣擦れの音をそそと鳴らしながら歩く姿は、身に纏った薄手の衣装やそれに付随する光る石と共に輝いていたが、それをいつもぼんやりと眺めるだけだった。
小さい頃から着飾った女人ばかりを見ていた私にとって、これも虚飾に見えたに違いない。父王が良かれと思ったことが、実は私を貴族の女たちから遠ざける結果になったようだ。世の中皮肉なものだなと思う。
「コーサラが攻めてきただと!?」
私が十六になった時、広くはないが整然とした玉座がにわかにざわめいた。コーサラ国はカピラ国の西側に位置する強国の一つだ。カピラとは軍事協定を結んでおり、その内容はかの国の属国と言っても過言ではなかった。なのに、何故そのコーサラが攻めてきたのか。
「今年は国内の穀物の収穫がいつもより悪くて。雨季に雨が降らなかったことが原因ですが」
「しかし! 民にも我慢をさせて十分な税を支払ったではないか!」
父王は息子の私から見ても、善政を布く良き王だった。民に無用な痛みを与えぬよう、様々な施政を執り行ってきた。治水や道路工事などもその一つだ。弱国であることを受け入れ、無駄な戦を起こさないのも、戦により国が荒れるを嫌ってのことだ。
「コーサラも実りが良くなかったのでしょう」
政の要である宰相が苦し気に答えた。その報告を聞いて、父王は歯ぎしりをして悔しがっている。見るに見かねた私は声を上げた。
「スッドーダナ王。私に任せていただけませんか?」
今まで、父の治世に何も言ってこなかった私だったが、今回のコーサラの仕打ちにはいささか頭にきた。あちらの国は、強国なのをいいことに弱いところから搾り取ることしか考えていない。教育や文化はもちろん、経済についてもカピラのそれより遅れていた節もあり、国家としての体をなしていない。数と武器を頼りした軍にどれほどの力があるのか、試したいとずっと思っていたのだ。
「任せるとは? どういうことだ。王子よ」
急な申し出に王は訝し気に聞く。それはそうだろう。今まで戦争なんて机上のお勉強しかしてこなかったのだから。
「もちろん、すぐに挙兵は無理です。三か月、時間をください。その間は、父王の交渉で切り抜けていただきたい」
「三か月で兵を興すと申すのか? 交渉なら請け負うが……。本気なのか? シッダールタ」
息子の真意を量りにかねて父は心配そうな顔している。私は確かに荒唐無稽なことを言っているのかもしれない。今までコーサラのような強国はもちろん、カピラ同様の小さな国に対しても服従と共生の立場をとり、綱渡りのような平和を維持してきたのだから。
「父王。貴方をこの北インドの王にしてみせます。ディーパ将軍をお呼びいただけますか」
私のその言葉に、父王は目を見張った。直ぐには信じられないといった顔をしたが、それでもゆっくりと頷くと、
「そうか。承知した。ディーパをすぐここに」
この時、私の『聖王』への第一歩は踏み出された。父スッドーダナ王の前で、法ではなく剣を取ると宣言したのだ。
私はまず、人材を求めた。従来は厳しい身分制度により、武士階級しか兵士になれなかった。だが、そんな事を言っていてはいつまでも弱国のままだ。身分にかまわず、また外国人もその技量によって登用した。様々の階級、インドの外の国からも兵士はやってきた。
異国の兵はカピラでは大柄な私よりも大きく、金色の髪に碧眼。筋骨隆々の姿は見た者を怯ませた。
すると不思議なことに、機を見るに長けた商人たちの後押しも勝ち得るようになる。おのずと見たこともない最新の武器も手に入った。
「このようなことは、私の手には負えません」
将軍ディーパは老兵だった。父王が若い頃から、ずっと仕えてきた忠臣だったが、奴隷や異国の者と戦うことに我慢がならなかったようだ。最初は苦虫を噛み潰したような表情をしながらも私に従って動いてくれたが、徐々に表舞台から退くようになっていった。
今までざっくり感が否めなかった軍を私は進んで組織化した。人望があり腕の立つ兵士を五人選び、一つずつ隊を持たせ独立させた。その中で最も重要視したのが先鋒隊だ。カピラはそうは言っても小国だ。大国の物量に長けた軍隊に勝つためには速さ、機動力が命だった。そこに有能な兵士を集めた。
先鋒隊の隊長は、第一団隊長と名を冠した、ナダという男を選んだ。まだ若いが、カピラ生まれのカピラ育ちで人望もある。成人、十五歳が我が国の成人、してすぐに軍に入り、その技量も申し分なかった。この隊には、選別試験で勝ち残ったものを入隊させた。
二、三、四団隊は、中堅を持つ。そして、第五団隊は私が隊長を兼任する本隊だ。私は総大将の位置に付き、その栄誉を父王から拝命した。
私の周りには親衛隊も置いた。親衛隊長は私の側近中の側近、モッガラーヤだ。力技には向いてないが、諜報に長けていた。
幼い軍ではあったが、形はできた。それを今まで机上の空論でしかなかった戦法で本物の戦に通用するか。
私は王との約束通り、三月後、挙兵した。名目はインドの制圧である。もちろん最初は小国のカピラが何の冗談かと笑われた。田舎者が気でもふれたかと。だが、面白いように私の作戦は当たり、また兵たちも良く戦い勝利に次ぐ勝利を重ねた。あれよあれよと言う間に、私の軍はコーサラとの国境を侵すまでに達していた。
だが、私は気づいていた。本来あるべき位置に適材がいなかったことを。それは、私の副官となるべく軍師だった。
「王子、次なる作戦はどうなさるおつもりで?」
いよいよコーサラの国境に迫り、私たちの軍は、カピラヴァストゥからははるか西の地に駐屯していた。その地で主だったものを集めて軍議を開く。各軍団隊長五名と各々の副隊長、それにモッガラーヤだ。
「そうだな。そろそろコーサラ国の城の一つも落としてやらないとな。ナダ第一団隊長!」
「は!」
五名の団隊長の中でもひときわ目立つ大柄な男が、さっと立ち上がる。威風堂々といった体だ。気のせいか先だっての軍議の時より大きく見える。
「どうだ。この城、攻められるか?」
大きな机に広げられた地図の一点を指し、私は尋ねた。
「お任せ下さい。すぐにも落として見せます」
指された城を一瞥し、ナダは即答した。私は怪訝に思った。元よりこの男は有言実行の男だから、信頼には足る。しかし、いかに辺境の城とはいえ、国境を守る重要な拠点だ。一瞥して請け負えるほど簡単ではないだろう。
「凄い自信だな。そんなに簡単な仕事とは思えない。第一私は、おまえの隊一つで落とせとは言っていない。ハッタリだとしたら私にも考えがあるが」
少し脅すように言ってみた。しかし、ナダは表情一つ変えず、いや、むしろどこか嬉しそうにこう返してきた。
「いえ、恐れながらハッタリではありません。明朝には出立いたします。朗報をお待ちください」
軍議の場はざわついた。軍団隊長はカピラ人のクシャトリアばかりだったが、副隊長には異国の者やクシャトリア以外の階級の者も混ざっていた。悪態をつくものもなかにはいた。
だが、当のナダは全く動ぜず、余裕の笑みさえ浮かべていた。
「いいだろう。そこまで言うのなら。よし、議は終わりだ。解散!」
隊長たちが去ったテントで、私は先ほどのナダ団隊長の自信満々の様子を思い出す。熱い日差しがテントの隙間から差して込んで、机上の地図を焼く。気が付くとモッガラーヤが背後に佇んでいた。
「なあ、ナダのあの自信はいったいどういうことだ」
振り向くでもなく尋ねてみた。おそらく軍のなかで起こっていることはなんでも知っているであろうモッガラーヤに。
「なんでも最近、めっぽう腕の立つ兵を手に入れたとか。それはまるで軍神のような使い手と噂されています」
「へえ……」
軍神だと? まるでその言葉は魔法のように私の心をくすぐった。どこか神秘的で、生きている者には使わないような、そんな魔力を帯びた名称だ。この世に軍神などというものが、本当に存在するのだろうか?
「会ってみたいものだな。その軍神と呼ばれる男に」
私は相変わらず微動だにせず控えているモッガラーヤに命じた。
「ナダ第一団隊の軍神、その戦いぶりをしかと見届けよ」
「はっ!」
モッガラーヤはいつものように音もたてずにその場を立ち去っていった。
それからわずか二日で、ナダの第一団隊は城を落とした。先鋒隊が単独で城を落とすなど聞いたことがない。私は援軍を送れるよう準備をしていたが、その必要もなかった。
「城を落としたか」
偵察を終えたモッガラーヤがすぐさま私に報告に現れた。珍しく興奮気味に説明する。
「彼の者は、まさに超人的な技量で敵を粉砕しておりました。まるで六本の腕と六つの目を持つかのごとく」
「六本の腕……? それはまた凄まじいものだな」
いつも冷静なモッガラーヤの目がギラギラと滾っている。今まで見たこともないものを目撃して、それを必死に訴えるかのようだ。私はその様子に興味と好奇が胸に押し寄せてくるのを止められなかった。
「はい。あの男にはスキというものが全くありません。その剣技もどこから繰り出されるのか見えない程です」
「うむ、まさに軍神か」
心は決まっていた。会いに行こう。その、軍神とやらに。
「足を運ぶとするか。モッガラーヤ、準備せよ」
私はナダ達が奪った城へ向かうことにした。それが全ての始まりだった。その時はそんなことを気付きもしなかったけれど。
第一章シッダールタの章1 了 次章に続く。