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第十章 阿修羅の章2 輪廻の法

一夜明け、マガダとの激戦が始まる。阿修羅の心に少しずつ変化が……?

 

 翌朝、私は気怠い体と共に出立の場所へと向かった。白龍は私の変化に気が付いているのだろうか。今朝は何故か私が触れるのを嫌がる。私は変わったのか? わからない。でも体中に痛みを覚えている。

 

 女の性をあれほど拒絶しておいて、昨夜の私はただの女だった。私はシッダールタを愛しているのか? 奴は何度も私にそう言った。愛しているとはどういうことなのだろう。私はなぜ、昨夜あの男を受け入れたのだろう。ああなるとわかっていて、私は床に伏したのだ。


「阿修羅!」


 漫然とした思いに鬱々としていると、前方で聴きなれた声がする。リュージュだ。


「リュージュ、先発隊は日の出とともに出陣だ。準備はいいか」

「ああ、大丈夫だ。それはそうと……。阿修羅、王子のお守は終わったのか?」


 なんで知っているのだ? 私はあからさまに驚いてしまった。まさか見られたわけではないだろうな。狼狽(うろた)える心を無理やり押し込んで、リュージュの顔を覗き見る。二枚目が台無しな、何とも言えない情けない表情をしていた。私は正直な感想を述べた。別に話を替えようとしたわけではない。


「その顔、都の姫たちが見たら嘆くぞ」

「ち、あんな女ども、ここの兵たちにみんなまとめてくれてやるさ!」


 かなり酷い捨て台詞を吐いて、リュージュはさっさと行ってしまった。私は大きく呼吸する。これから大一番というのに、いつまで昨夜のことを身に纏うのか。気持ちを奮い立たせると、自分の持ち場についた。


 背後で鳴るナダの出陣の檄が、私の背筋を伸ばす。それに呼応する兵士たちの声がマガダの豊かな里に響き渡った。




 マガダの攻略は予想以上にうまくいった。シッダールタが出てきたからか、ビンビサーラまで出てきた。どっちも目立ちたがりなのだな。これは怪我の功名とも言えるだろう。象軍に対する作戦もまんまとハマってくれた。


 しかし驚いた。この私にプレッシャーをかける兵士が現れた。シッダールタに感じたものとは別物だったけれど。


 兵士の名はアジャンタと言った。逃げるビンビサーラ王の盾となって私と戦った。こいつの上背や体躯はシッダールタと変わらないくらいで、同じように引き締まった筋肉が美しかった。騎乗している馬がでかくて、白龍より一回り大きかった。だから馬上での戦いは常に上を向いてなければならなく、首と腕が疲れる相手だった。


 昇りきった太陽の光が真っ黒な鎧の中に姿を現している。眩しくて私は目が(くら)む。しかもこいつの獲物は大剣。ただでさえ重いのに、こいつのは両腕で応じてもすぐに痺れてくる。まともにやりあっているとこちらがもたない。朝から体が重かった私は、白龍を走らせる。ついてこい! アジャンタ! 


「逃げるか!」


 かかったな。私の白龍に追いつける馬など、この世にいるわけがない。白龍が生まれてから私はずっと一緒にいた。人を乗せられるようになってからは、私がつきっきりで訓練した。速く強く美しく走れるように。無駄のない走りとは、そういうことだ。


 私はアジャンタとの距離をいくらか取ると、白龍を(ひるがえ)し、その背に立った。猛スピードで走り抜ける白龍。黒い敵へと一直線、髪が吹き飛んでいく。


「阿修羅ぁ!」


 シッダールタの声がする。心配するな、見ているがいい。

 アジャンタの馬も速度を上げる。肉薄する! 奴が大剣を上段に構えたのが見えた。


「覚悟!」


 私は白龍の背を蹴るとアジャンタの上を跳ぶ。頭上で思い切り振りかぶり、そのバネと落下の力を剣に乗せる。アジャンタがそれを受けようと咄嗟に剣を被せる。だが、残念だな。遅い。

 鎧では防げない、首を狙って私は剣を落としていく。だが、奴は瞬時に体をいざらせて急所を外した。さらにこの鎧は固い。刃が入っていかない。こんな鎧は初めてだ。マガダは鉄の産地だと聞くがそのためか? 私は鎧にそって剣を滑らし、剥き出しの肩を狙った。


「うお!」


 肩口に突き立てた私の剣はヤツの体を貫いていく。私の体重が否応なしに掛かって深く入っていくと、やがて半円を描いて血飛沫が飛んだ。手ごたえはあった。


 アジャンタが苦痛に顔を歪めながらも大剣を振り回す。私はやつの馬の背を踏み台代わりにして跳び、切っ先から逃れた。目の前には白龍の背がある。私から片時も離れず並走していた白龍。忠実な相棒の背に再び戻ると、再度アジャンタへと走らせる。次は命をいただく。


「退け! 退却だ!」


 だが、ここでマガダの兵は一斉に退却しだした。アジャンタも既に私に背を向けている。右手で左肩を押さえ、這う這う(ほうほう)の体だ。


「今日は私の完敗だ! だが次は負けん!」


 今日は二回も捨て台詞を聞いたな。男はどうして捨て台詞が好きなのかな。私は戦場でそんな呑気なことを考えていた。


「待て!」


 とは言うものの、ここで逃がしたくない。慌てて追いかけるが……。奴らの逃げ足は速く、加えて自軍も邪魔になり、私は行く手を阻まれてしまった。


「阿修羅! 深追いするな」


 背後でシッダールタの声がした。(たぎ)っていた血がすっと冷めていく。そうだな。ここで焦ってはだめだ。この先にある小城は既に別部隊が抑えているはずだ。私は白龍の手綱を緩めた。


「大丈夫か。阿修羅」


 シッダールタのところまで戻ると、奴がそう声をかけてきた。私は額の汗をぬぐう。どうしたことか、いつも以上に汗をかいている。


「久しぶりにプレッシャーを感じる相手だった」


 おかしい、言葉が滑る。シッダールタの顔が二重に見える。体が熱い。それが最後の思考だった。白龍のたてがみが私の目の前に迫ったら、全てが闇に呑み込まれていった。




 なんだか体が燃えるように熱かった。それだけは覚えている。朦朧とする意識の中で、何度かシッダールタの心配そうな顔が写り、私の名を呼ぶ声が聞こえた。私は体を動かそうとするのだけれどうまくいかない。酷い頭痛がして、指先すら鉛のように重かった。

 眠い。とにかく眠い。まぶたに糊でも貼り付けたように、私は目を開けることができなかった。



「阿修羅、大丈夫か?」


 ずっと真っ暗だった瞳に光が浮かんでいた。朝が来たのだろうか。頭痛で重かった頭が、今は不思議にひんやりとして気持ちがいい。私はゆっくりと目を開けた。


「良かった。意識がもどったのだな」


 目の前にはシッダールタがいた。私は寝床に横たわっているらしい。


「シッダールタ。ここは……どこだ? 私はどうし……たのだ。確か……、マガダの兵士と戦っていた」


 喉に言葉が貼りついて、声が上手く出せなかった。

 シッダールタは何も言わず、唇を緩めると私の額に手を伸ばした。そこには濡れた布が置かれていたようだ。ヤツはそれを新しいものと変えてくれた。額はさらにひんやりとした。


「悪いな……」


「マガダの兵士と戦った後に、突然倒れたのだよ。慌てて抱きかかえて驚いた。全身が火のように熱かったからな。ほら、喉が渇いていいるだろう?」


 差し出された器を手に取り、私は一気に水を飲みほした。上顎から舌の奥、喉へと、それは乾いた地面に染み込んでいくようにじんわりと潤していった。

 私はどうやら高熱を出していたようだ。あの日、朝から体がだるくて熱いと思っていたのは、そのせいだったらしい。風邪でも引いたのだろうか。


「どのくらい眠っていた?」

「丸一日だ。あれから慌ててこの砦に戻って医者を手配した。熱冷ましの薬を飲ませたが、一晩中うなされていたぞ」


「一晩中? おまえ、ずっとついていてくれたのか?」


 顔を覗き込むと、シッダールタの目は真っ赤になっていて、見たことのない皺が目の下に数本刻まれている。


「気にするな。どうせ眠れなかったのだから。おまえが目を覚ましたのなら、私はこれから安心して眠れるよ」


 そういうと、柔らかな笑顔を見せる。疲れているはずだったが、その笑顔には安堵が広がり、愛おしそうに私を見ている。

 私はなんだか恥ずかしくなって布団を鼻のあたりまで引き上げた。もう熱は下がっているはずなのに頬が熱い。


「マガダ軍は逃走したんだろう? 小城は獲ったのか?」


「ああ、象軍は壊滅状態だ。小城はすでにもぬけの殻だった。今は第三団隊が駐屯中だ。今度は一気にラージャグリハまで行けるぞ」


「そうか。シッダールタ、私はもう大丈夫だ。おまえも休んでくれ。大将が疲れていては次の戦に響く」


 私は戦況が問題ない事にほっとした。そしてこの何ともこそばゆい感じから解放されたかった。人にこんなにも心配されることに、私は慣れていなかった。


「そうだな。そうするかな」


 シッダールタが伸びをしながら席を立った。続いて扉に向かう足音が寝床に伝わる。私は突然、自分でも不可解な衝動にかられた。起き上がって奴の名を呼ぶ。額を冷やしていた布が落ちる。


「シッダールタ!」


 ――行かないでくれ。まだそばにいて欲しい。


「ん? 何だ、阿修羅、どうした?」

「あ……その。心配かけて済まなかった」


 芸のないセリフだ。この場でこんなセリフしか出て来ないとは。私は自分で自分を笑った。


「ああ」


 奴は頷くと扉に手をかけた。が、思いなおしたように振り向くと、再びその足を私の方へと向けた。その姿を目の中に捉えながら、心臓の音が耳の中で騒ぐのを聞いた。


「阿修羅」


 シッダールタの手が私の肩に触れる。気が付くと、いつもは束ねていた髪が解かれ、シッダールタの指の上で揺れていた。


「阿修羅。お前が白龍より落ち、地に伏した時、私は本当に生きた心地がしなかった。心の臓まで凍りついたほどだ」


「シッダールタ」


 私はシッダールタを見上げる。奴の瞳の中に、頼りげな私が映っていた。


「お前は知っているか。人は何度でも生まれ、何度でも死に、生と死の苦しみを永遠に享受しなければならないのだと。その罪の深さ故に、虫となり、馬となり、鳥となり、決して終えることなく生き続けるのだと」


「輪廻の法か」


 輪廻の法はこの地に古くから伝わる死生観だ。前世の因果が次の生に干渉する。


「そうだ。私は幼い時、その説法を聞いてとても恐ろしく思った。人として生きることすら長く辛く耐えがたいのに、虫や獣として生きるなんて…。食い物にされたり、いみ嫌われたり、容易に殺されるだけの存在となるなど」


 シッダールタは寝床に腰を掛け、そっと私の額から髪に手のひらを滑らす。私はまるで幼子(おさなご)のようにその手に身を委ねた。


「だが……、だが今、私はそれを少しも恐れてはいない」

「なぜ?」


「私はおまえを見つけた。もし私が死んでも、おまえが死んでも、私は何度でも生まれ変わっておまえを見つける。虫となろうと、獣となろうと、鳥となろうと。私は何にでもなっておまえを見つける」

「私が小さな虫でも? 海深くすむ魚や、疾風の狼でも見つけられるのか?」


 私はシッダールタの瞳を見つめた。初めて奴と会った時、私はその瞳の中に宇宙を見た。今もその宇宙は煌びやかに輝いている。私はその中に吸い込まれて、共にいる。


「もちろん私は見つける。おまえがどこにいようと、どんなものになっていようと。こうして、私がここでおまえを見つけたように、必ず引き付けられおまえを見つけることが出来る。阿修羅、この出会いは、最初で最後の出会いなんだ。永遠に続く出会いなんだよ。私は信じている。私の全てがそう叫んでいる。もう、二度と離すことはない」


「シッダールタ」


 シッダールタが語ったことは、私にとって途方もない話だ。だがシッダールタの深い藍色の目を見ていると、何故かその夢物語が真実のように思える。


「ならば私もおまえを見つけよう」


 寝床の足が木の擦り合う音をたてた。シッダールタが私を包み込むように抱いた。二つの心臓が重なる。おまえの心臓も耳の中で騒いでいるのだろう。速く強く打っている。

 もう少し、このままでいてくれるか? おまえの体温を感じていたいのだ。




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