第十章 阿修羅の章2 三日月の夜
雨季に入り、戦は一旦休止となる。
雨季のルンピニー。そこでは時間がゆっくりと過ぎていった。私は日がな一日、雨を見て過ごした。濡れそぼつ桃色の蓮華は、より一層艶めかしく咲き、蓮池に落つ雨粒は美しい円を描いていた。
不思議だ。この世の果てまでこの雨は降っているのだろうか。視界が許す限りの遠く遙かまで、この雨の線は続いている。天から音もなく舞い降りてくる。何千本、何万本の蜘蛛の糸のように……。
「阿修羅。何を見ている」
背後に人の気配を感じていた。いつ声をかけるつもりなのか。私は待っていた。ようやくかけられた声は、遠慮がちで柔らかく優しい。長い豊かな黒髪を肩に揺蕩せ、端正な顔立ちを際立させている。私はためらいがちに彼の深い藍色の双眸を見つめた。
だが、その後に告げられたことは、あまり愉快なことではなかった。スッドーダナ王がこの宮殿においでになるとのことだった。城に帰らぬ跡取り息子に会いにくるのだという。まあ、それも仕方ない。元々帰京しないこいつが悪いのだから。
だが、それが私に新たなプレッシャーを与えるなど思いも寄らなかった。
王はその三日後、場違いな連れ達とともにルンピニーへやってきた。
「阿修羅、おまえの活躍を、ある者が三面六脚の異形の物とたとえていた。六つの目、六本の腕、どこからでも繰り出される剣技と。私もそれを是非見てみたい。どうだ、見せてはくれないか?」
初めてのスッドーダナ王との会見の場で、王は私にそう求めた。私を一目見た時、彼もまた誰もがする同じ反応を示した。目を見開き、感嘆と疑念の混ざった視線と声。常に好奇の目を向けられる。なぜ、戦士はガタイがでかくて筋骨隆々でなければならないと思うのだろう。
「阿修羅、いいではないか。見せてやれ」
シッダールタもノリノリだ。別に構わないが、かったるいな。誰も名乗り出ないなかで、王が連れてきた親衛隊の一人が立ち上がった。絵にかいたような立派な体躯に筋骨隆々な兵士だ。私は鼻で笑いたくなったが、同時に視線が釘付けになった。
天の山の印? それは兵士が着けていた武具にあしらわれていた印だった。見ると、王が連れてきた兵士の全てがその印が付いた武具を着けている。王の親衛隊。彼らにだけ許された模様なのか。私はその印をどこかで見た気がしていた。それは何か不穏な記憶と結びついている。
「殺すなよ。殺したら負けだ」
シッダールタの言葉に我に返った。ぼんやりはしていられないか。だが、相対してわかった。いつも思うことだが、遅い。動きが遅くてハエが止まりそうだ。どんなに厳つい顔して、どんなに勇ましく武器を振り回しても、私にとっては止まって見える。この立派な体躯の兵士も何に怒っているのか肩に力が入り過ぎだ。
一瞬でカタがつくな。私は何の感慨もなくこいつの首に剣を突き付けた。歓声があがっている。
「勝負あった!」
シッダールタが上気した声で叫ぶ。私は一礼をしてあいつを見たら、嬉しそうな顔をして私を見ている。そんなに嬉しいのか。私もつられて頬を緩ませた。
だが、私はその夜、眠れぬ夜を過ごすこととなった。王からは威厳の中にも優しさを蓄えた懐の深さを感じたが、あの『天の山の印』が気になった。王との会見も少なからず私に緊張をもたらした。そして、王とともに宮殿に入っていった美しい姫君たち。あのような着飾った姿に興味はないが、男というものは、ああいう女がいいのだろうと思え、何故か息苦しくなった。
私の心に波がたつ。大きくはないが、それはしっかりと自己主張してざわざわと音を立てている。私は何度も寝返りを打った。シッダールタは王と二人で話をしている。どんな話をしているか見当はつくが……。
この夜、私の胸の中に起きた様々な不安や疑い、不快といった黒い想いはスッドーダナ王に落ち、形となっていった。
雨季が終わり、カピラ軍の兵士たちがルンピニーに集まって来た。狭い宮殿には上位将校が陣取り、下位の兵士たちは宮殿の周辺に天幕を張った。静かだったここも一挙に騒がしくなり、活気が戻って来た。いよいよ次の戦だ。私は嫌な気分が振り払われ、胸が高まってくるのを感じた。
「阿修羅はここで王子と二人きりでいたようだな」
「噂では、今回あいつは副官に就任するらしいぞ」
「実力は申し分ないけど、元は盗賊だ」
「王子はあいつにメロメロだ。うまくやりやがったな」
浮かれた気分に冷や水をかけるような噂が聞こえてきた。ナダに抜擢された時も同じような噂が流れたが、私はそれ力をねじ伏せた。今は十分にそれを見せつけているというのに、奴らの嫉妬は底知れない。いいだろう。副官と呼ばれるに相応しいと言わせてやろう。
「ナダ一隊長、私も第一団隊に加わろう。この砦の攻略はかなり困難だ。リュージュ一人では荷が重い。王子、許可を」
いよいよマガダを叩くときがきた。その軍議で、私は最初の目標、国境の砦攻略に際し、第一団隊に加わることを申し出た。この攻略に絶対勝利しなければならないと同時に、王子の傍から離れたかったのだ。
「そう……だな。仕方あるまい。抑えには第二団隊を向かわせよう。だが、作戦終了後には、必ず本陣に戻って来いよ」
脱力する。本当にアホなのか、こいつは。なんでそうなる! 私は心の中で苦々しい想いを抱きながら、承諾の意を示した。軍議にいる将校共がニヤニヤしながら耳打ちしている。それが見えないのか。またあらぬ噂の的になる!
だが、ナダは嬉しそうに私を見ている。正直ほっとする。またリュージュとも一緒に戦える。それが私の気持ちを落ち着かせてくれた。
明朝マガダとの国境に出発する日の夜、私は旅立ちの準備に勤しんでいた。大して持って行くものはないのだが、これから始まる戦に思いを馳せるとガキのように心がはしゃぐ。
気を抜いていたのかもしれない。胸の膨らみ(と言ってもさほどないが)を隠すための帯を巻いていなかった。
「もう行くのか?」
シッダールダが私の部屋にやってきた。能天気なこいつは、私がイライラしている理由を知りもしない。まあ、そういうことに無頓着なのも上に立つ者の素養なのだろうか。こんなことに一々反応している私の方が愚かなのかもしれないな。
「怒った顔も魅力的だ」
今すぐ首を締めたくなる。だが、同時にどこか憎めないと思ってしまう自分もいた。私はどんどん自分の気持ちがわからなくなっていく。どうしてこの男はこれほどまでに私の心を乱すのか。私はこいつを足がかかりにして、この世を征するのだ。生き抜くために手に入れた剣技だったが、今やこの日のためにあったのかと思うくらいだ。その道はまだ始まったばかりというのに。
「やめろ!」
性懲りもなく、私の体に触れてくる。気安く私に触れるな! うわ! なんだ?
気が付くと私の背後でバランスを崩したシッダールタが覆いかぶさって来た。振りほどこうとしたのに足元にあった帯に足を取られる。そのまま床に叩きつけられた。
私の胸の下に、私のではない柔らかいものが置かれていた。それがいきなり、私の胸を掴んだ。しかも力いっぱい。
「うわ! や、やめろ!」
私は体を翻すと、覆いかぶさる物体の中央を思い切り蹴り上げた。物体、つまりシッダールタは部屋の壁まで吹っ飛んで行った。
私は自分の胸を抑える。しまった。なぜしっかり帯を巻いていなかった。いや、あいつが部屋に来るとは思っていなかった。本当か? 来ると知っていたのではないか? おまえは待っていたのではないのか? 私の心と頭の中は交互にせめぎ合う。何が何だかわからない。嵐のような気持ちは涙となって溢れ出た。頬を伝い、それは床を湿らすほど落ちていく。私は唇を噛みしめ、声を出さずに泣いた。
シッダールタは茫然として私を見ている。私と、今私に触れた左手を。
「出ていけ……。出ていけ! それがいやなら、今すぐ私を殺せ!」
私はそう叫ぶのがやっとだった。
ナダの第一団隊はやはり優秀だ。リュージュの活躍もあって(もちろん主役は私だ)、苦も無く『国境の砦』を奪取した。ついに我々はマガダの地を踏んだのだ。
私はシッダールタに秘密を知られたことに動揺しながらも、この道を進んでいる。これからあいつの態度がどう変わってくるか予想ができなかったわけではない。だが、私はここにしか居場所がなかった。
私は当然、本隊に帰らなかった。戦略的にもあり得ない。ここは国境とは言え、敵地なのだ。すぐにも次の作戦を練って歩まねば取り返されてしまう。さらに今度は敵地での決戦。マガダは得意の象軍を出してくるだろう。私も象と戦うのは初めてだ。だからと言って、絶対に負けられない。本隊に戻ってあいつのお守をしているわけにいかないのだ。
マガダの砦は完成したばかりということもあり、綺麗で機能的な造りだった。この国には優れた技術者がいるのだろう。さすが大国だ。このような技術が戦の武器や防具にも生かされていることは十分に考えられる。砦一つを取ったからと浮かれている場合ではないだろう。侮れない相手だ。次の作戦は念入りに練ること必須だ。
だが、そんな緊迫した時にも、厄介なことは起こるものだ。
「おまえは、女だろ?」
ほのかな灯りを頼りに自室で作戦を練っていた夜、共に仕事をしていたリュージュにそう言われた。
どうしてわかったのだろう。奴は私をずっと見ていたと言った。私の仕草のどこに女を感じたのだろう。自分にそんな部分があったことに驚きを隠せない。リュージュはそれを揶揄するわけでなく、私の気持ちを見透かすようにじっと目を見ている。奴の褐色の瞳に、私はどんなふうに映っているのだろう。
「腕ずくならいいのか?」
そう言って、リュージュは部屋の扉を閉めた。私は身構える。私は短剣を手にした。脅すつもりではない。腕ずくでくるなら、力で対するしかないだろう。だがこいつを殺すのは嫌だと心底思っている自分もいる。
私は言いたくもないセリフを言う。
「私はおまえを殺したくはない。有能な戦士だからな。だが、これ以上は容赦しない」
殺伐とした空気が流れる中、奴は私が本気と見たのか、「ああ、俺も間抜けだな」、と言って緊張を解き顔を緩めた。どうやら殺さなくても良くなったようだ。私は心の中でほっと胸を撫でおろす。
「阿修羅、おまえが男であっても女であっても、おまえの心を捉えられたら、と思うよ。それとも、おまえは王子のほうがいいかな」
「ふざけるな! 馬鹿馬鹿しい!」
それは自分でも全く予期しない反応だった。リュージュの冗談めかしたせりふに、何の防御もなく、私の口からその言葉は放たれた。無防備で裸のまま、空気を泳いでいった。言ってしまってから後悔するがもう遅い。
「すまなかったな。今のことは忘れてくれていい。俺も忘れよう」
リュージュは情けなさそうな顔をして去っていった。乾いた笑い声を残して。私はただ奴の背中を見ていた。束ねられた黒髪がしっぽのように揺れる背中を。
私はこのままカピラに留まることはできないのだろうか。複雑に絡む私の心の中の綾。自分でほぐすこともできなかった。
翌日、砦で次戦に向けての軍議が開かれる。ナダ第一団隊隊長と第二団隊の隊長。それにリュージュや他の主だった兵士たちが集まっている。リュージュはいつもと変りなく私に接していた。
鮮やかな砦取りに、私とシッダールタの噂は煙のように消えていた。ここの首級も私が獲った。敢えて出来るだけ残虐に演出したのも功を奏したか。
「ナダ一隊長! 大変です!」
「どうした! 敵襲か?!」
軍議の最中、味方の伝令が息せき切って乱入して来た。みな緊張する。だが、伝令は思いも寄らぬ事を私たちに伝えた。
「あ、いえ、王子が援軍とともに参られました」
「はあ?!」
場はあからさまに拍子抜け、しらっとした空気が流れた。
本気で馬鹿じゃないのか、あいつは! 自分が出した援軍とともにこの砦に参上したという。せっかくウザい噂を断ち切ったというのに。全てが水の泡ではないか!
だが、私は気が付いていた。腹を立てながら、ホッとしている自分に。
その夜、あいつは私の部屋へやってきた。話があると言って。私は拒否することもできた。だが、そうしなかった。シッダールタには拒否させない何かがある、と私は思う。
「阿修羅、何故男のフリを」
シッダールタは私にそう聞いた。私にしてみれば愚問にすぎない。
私は女という性を嫌っていた。憎んでいたと言ってもいい。母が私を男のように育てていたのは、私に自分と同じ運命を辿らせたくなかったのだと思っている。もちろん、日銭を稼ぐのに、ガキのころは男の方が良かったからという理由もあるだろうけれど。
私は話している間に、一人で熱くなってしまっていた。なぜこんなに熱くなっているのか、自分でもわからなくなるほど。いかに私が弱い自分を憎悪し、何ものをもひれ伏させる力を欲しているかを力説してしまった。
だが、あいつはそんな私の愚かな姿から、本当のところを簡単に見破ってしまった。それは私自身、自分で気が付かないふりをしていたことだった。
「おまえは母君を一人残して逃げたのを悔いていたのではないか?」
私はその言葉を二度見した。なぜこの男は私の素性をよく知りもしないで、私が心の奥底にしまっていたものを探り当てるのだろう。
私が憎んで拒絶していたのは私自身なのか。私は母が男に抱かれてきた夜、屈辱に涙していたのを知っていた。それをどうすることもできなくて、寝たふりをしていた。自分の力の無さを言い訳にして。
母が私を逃がしたあの夜も、戦えない私は逃げ出すしかなかった。『私は大丈夫』という母の言葉を嘘と知りながら。そんな自分を恥じていたのか。それをガキの足りない脳みその中で、女の性を憎むことに仕立て上げたのか。
滑稽だった。三つ子の魂ではないが、その呪怨を抱いてここまで来たらしい。自分でも気が付かなかった沈んだ塊を、シッダールタは何の武器も持たずに探り当ててしまった。
私はどこかすっきりした気分でいた。だからなのか、いつもより饒舌になった。我楽からあの『シッダールタ』が北印度で暴れていると聞いて、居ても立ってもいられずここへ来たという話もした。
私は知りたかった。なぜ、母は別れの際、おまえの名前を私に伝えたのか。なぜ私は追われなければならなかったのか。その答えがここにあると信じた。
「もしもおまえが真の聖王となるのなら、私自身、この歴史の中で意味を持つ存在なのか、それとも単なる歯車の一つなのか。それを確かめたかった」
だが、私の話を一部始終聞いたあと、あいつが私に言ったことは全く予想しないものだった。
「おまえがなぜ命を狙われたのか。母君がなぜ私の名を言い残したのか、私にはわからない。だが、これだけは言いたい。おまえが生き延びてここにいることが私にとっての全てだ。なぜなら、おまえ無しではこの戦いに勝利はない。そして、おまえ無しでは私は生きていけない」
私はどう反応したらいいのか見当もつかなかった。誰にも明かさなかった私の過去を聞き、母に自分の名をまるで仇のように使われた男の言うセリフとも思えない。こいつは今の今まで、一体何を聞いていたのだ? 『おまえ無しでは生きていけない』? これは、つまり、そういうことだよな? 私は奴の視線から逃れるように下を向くと、貝のように黙り込んでしまった。
「これでは、答えにならないか。ああ、私も一汗流したくなった。明日に備えてどうだ?」
奴は、私が行くつもりで置いてあった試技用の剣を取った。いい提案だ。なんかむしゃくしゃしてきたし、思いっきり叩きのめしてやる。
「いいだろう」
私は口の端を軽く上げて立ち上がった。
試技用とはいえ、当たると痛いものだ。受け身をしっかりしないと痣だらけのうえに下手をすると骨折する。さすがにマガダ戦前にそれはまずい。私は五割くらいの力で奴とやりあった。
だが小気味よい剣がたたき合う音と噴き出す汗が心地よかった。むしゃくしゃした気分も収まってきた。いいリズムだ。シッダールタはいい腕だ。おそらくリュージュより上だろう。いい勝負だが。
奴が一本取ろうと前かがりになってきた。私はそれを軽くいなす。すると奴は勢い余って燭台を倒してしまった。ふふ、まだまだだな。一瞬の暗闇が襲うが、闇は何の妨げにもならない。私は背後からヤツに迫った。だが、シッダールタもそこは読んでいた。足元に剣を這わせてきた。私はその剣もヤツも飛び越え体を翻した。
ところがそうはいかなかった。なんとそこに転がった燭台があった。足を取られて私は床に手をついた。そのまま体を回転させて態勢を立て直すことは難なくできた。だが、私はそうしなかった。
こんなことで疲れたわけではない。私はただ、冷たい床に体を横たわらせたかった。弾む息を整えるように私は床の上に寝ころんだ。窓から三日月が顔を覗かしている。その魔性のような柔らかな光は、私の体を透明なベールで包み込む。
「大丈夫か? 疲れたのか?」
奴の声がする。私は想像する。次に起こることを。すぐに立ち上がって剣を取らないと、間違いなく奴は私のところへ来るだろう。剣が指の先に触れているのを感じる。どうする? これを握って立つか? それとも……。私はゆっくりと指を解放した。剣がこぼれ落ちていく。そして、その指にシッダールタの指が絡まってきた。
「人が来るぞ」
「誰もこないさ」
ふいに私の視界は閉ざされた。人型の影が遮り、月の光も届かない。私はその影を見つめる。暖かい息が頬にかかる。意志を持った黒い瞳が私を捉えて離さない。私は強い力で縛られたように動けなかった。
シッダールタは私の頬に触れると唇を重ねてきた。柔らかいそれは、私の名を呼ぶ。頭の芯が弾けるような感覚。心臓は自己主張をしすぎて胸が痛い。熱を帯びたように体温が急上昇していく。私は思わず両腕を彼の首に巻き付けた。
「阿修羅、お前を愛している。男であろうと女であろうと、私にはどうでもよかったのだ。お前自身を愛しているのだから……」
短く荒い息と共にシッダールタの声が耳朶をこすっていく。私の唇からは聞いたこともないような音が漏れていく。天井のつる草の模様が見える。彼の豊かな黒髪を指で梳く。体が溶けるほどに熱い。全ての感覚が一つになって私を貫いていった。
青羽様から頂きました。ありがとうございます。