第十章 阿修羅の章2 流沙からの旅立ち
満を持して阿修羅の章です。
私は我楽に拾われ、日々を雑用と鍛錬、それに盗賊稼業に費やした。鍛錬は血反吐を吐くのが日常茶飯事の厳しさだったが、小屋での奴隷時代と比べれば極楽だ。私は自分が確実に強くなっていくことに満足していたし、食に苦労しなかったのが助かった。ガキの頃は、食べる物がなくて野山に動物を狩りに行くことも珍しくなかったから。
寝床は馬小屋だった。だが雨風が凌げればこれも十分。可愛い子馬に癒されたし、私は許された時間の中で、色々と考えることができた。
奴らの隠れ家には不思議な部屋があって、そこには誰かが残した日記のようなものがあった。きれっはしの皮に尖った何かで傷をつけた粗末なものだったが、その人が忘れたくないことを書き留めているようだった。色々な国の歴史や地理が書いてあり、実に興味深かった。私はそれを馬小屋に持ち込み、寝るのを惜しんで読んでいた。
ああ、私は字が読めた。あんな酷い生活の中で、母は私に字を読ませた。あの頃の私はそれよりも眠りたかったが、今となっては有難い。
ある日、馬小屋に白い馬が生まれた。それは体全体が真っ白な美しい馬だった。私は一目で魅入られた。我楽に聞いたら、白い馬は弱いから早々に売るという。私は嫌だった。親馬もずっと世話してきた人懐こい馬だ。足も強いし速かった。きっとこの子馬もいい馬になる。私はある条件で、この白馬をもらうことを頼んでみた。
「ふうん。まあ、いいだろう。やってみろ」
我楽は本気にしていないようだったが、とにかく約束は取り付けた。
それまでの私は、盗賊稼業の後始末をするのが仕事だった。盗賊たちのうしろをついていって、奴らが商人たちを皆殺しにした後、荷物を馬に積む。そして隠れ家に帰ってきてからは盗品の仕分けだ。
その中には書き物のある時があった。盗賊の連中はかさばるだけだと言って書き物に興味がない。私はそれだけは自分の物にできた。時には日記の主が読みたいと言っていた物を見つけ、嬉々として手に取った。時々知らない文字のものもあったが、それでも良かった。
そういった書き物には、古い時代の戦の記述や戦略が書いてあるものも少なくなかった。
私は常々、盗賊の連中が多くの命を殺めるのが嫌だった。弱い者いじめも不快だし、恨みも買う。こちらも手傷を負うし、たまに命も落としていた。効率が悪すぎる。第一、商人がいなくなったら困るのは私たちではないか。私はずっと、もっと違うやり方があると考えていた。
そして、子馬を賭けて、私は自分の思っていた狩りを示すチャンスに恵まれた。私の出した条件は、自分の考えた策でキャラバンを襲撃すること。しかも、今度の標的は年に一度あるかないかの大キャラバンだ。胸が高まった。
「我楽、なんだよ、作戦って。いつものようにがーっと行って、ぶち殺して、お宝もらってくればいいだろう?」
連中はぶつくさ言っていたが、我楽は私の策だとは一言も言わず、「このままヤレ」と命令してくれた。奴は私の策を見たとき目を丸くしていたから、それなりに認めてくれたのだろう。
この日は私も襲撃に出た。自分の策だから、しっかりと見たかった。武器はいつも鍛錬で振っている木の棒だったが、私はその先を鋭利に削った。これで十分武器となるはずだ。
キャラバンが砂の原を往く。何十頭にも及ぶラクダと馬、そしてそれに付き従うような商人たち。陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。
私の作戦は単純明快。殺していいのはキャラバンを守る傭兵だけ。他はできるだけ生かしておくこと。特に馬とラクダは殺すなと明示した。襲撃前に、傭兵の位置を確かめ、一人につき複数で一挙に襲う。彼らは大抵散らばっているから、前方と後方から挟み撃ちして行けば早い。最後に奴らは必ず殺す。それだけだ。
我楽の合図とともに、盗賊たちは一斉にキャラバンへと走る。予め襲う相手を決めていたので無駄がない。私の作戦通りにことは運んだ。殺されると思い込んでいた商人たちは命を取られなかったことに安堵する。不思議なものだ。最悪な事態から逃れられたら、実は酷い事態であってもマヒするのだろうか。
キャラバンを制圧し、荷物を吟味していたとき、傭兵の一人がふらふらとやってきた。必ず殺せと言ったのに、誰か仕留めきれなかったようだ。そいつが我楽を殺そうと、片刃の剣を力いっぱい振りかぶった。気付いていたのは私だけだった。私は駆け寄り、そいつの背中を尖った棒で思い切り突き刺した。鎧の隙間を狙い、そいつの肉を通り、骨に当たったのを感じた。それでも体重をかけねじ込んだ。
「うわあああ!」
傭兵が断末魔の叫びをあげながら、苦し紛れに後ろを振り返る。血走った目が二つ。口からは大量の血が噴き出していた。だが、私は眉一つ動かさずさらに棒を捩じりこむ。男の手から剣が落ちて、そのまま砂上に崩れ落ちた。
私が初めて人を殺した時のことだ。不思議と何の感情も湧き起こらなかった。恐怖も躊躇いも後悔も……。私は十歳になったばかりだった。
同じ頃、私を悩ませていることが一つあった。それは夜だ。砂漠の盗賊は陽のあるうちに仕事をする。盗賊としては健全か。いや、冗談はよそう。夜、あいつらは暇を持て余す。私は盗賊の中にあっても、女であることを隠していた。知っていたのは頭の我楽だけだ。砂漠で拾われた時、全裸を見られたから仕方ない。
だが、私の見た目は綺麗な子供だったようだ。十歳頃になると、奴らの目つきが変わって来た。あいつらにとっては、男でも女でも関係ない。自分の欲望を叶えてくれれば何でもいいのだ。それが何を意味するか、私にはわかっていた。
仕方ないので私は鍛錬のとき、わざわざ目隠しをして稽古をした。稽古相手の我楽は不思議に思っていたかもしれない。だが、そうやって夜目が利くようにしたのだ。そうすれば、真っ暗な夜にあいつらが襲ってきても有利に立てる。まだ腕っぷしに不安のあった私はそれに賭けるしかなかった。
馬小屋の隣の部屋で私は一人でいた。夜ともなると、そこは月明かりしかない。私は一つだけある窓にわざと布をかけ、全くの暗闇にした。襲いにくる男共は、最初暗闇に戸惑うが、
「暗くして、恥ずかしいのか? やる気満々じゃないか」
なんて言ってくる。馬鹿じゃないのか。
私は手加減なしで奴らをボコボコにした。だが、あいらって本当におかしい。朝になると、さも私とよろしくやったように振る舞うのだ。私のようなガキにボコられたと言いたくないのだろうが、迷惑な話だ。皆そんなに簡単にやらせてもらえるのかと、毎晩のようにやってくる。もちろん、二度目の奴はいない。
そうこうして、私はほとんどの仲間をぶちのめした。みんな傷だらけになってるくせに、よくもまあしゃあしゃあと嘘をつけるものだ。我楽も察して呆れていた。結局、私に勝てる者はここにはいなくなった。
時期を同じくして私の大キャラバン襲撃作戦はまんまと成功した。そして、私が自分の倍ほどある傭兵を棒っきれで殺したのを連中は目の当たりした。奴らの私を見る目が再び変化した。私はいよいよ、この盗賊団のなかで頭角を現すことになったのだ。
もちろん、白い子馬は私の物になった。私は子馬に「白龍」と名前を付けた。
そのようなことがあったある日、私は我楽に呼び出された。
「どれでもいいから、馬に乗れ、風を見に行くぞ」
「風?」
我楽が私を連れていったのは物見岩だった。私達が住む隠れ家から、馬で半時ほどのところにそれはある。少し大きめの岩が積み上げられたそこからは、遠く行きかうキャラバンを見ることができる。陽炎の中にラクダたちが見えたら、我らの出陣の合図だ。
その日は風が強く、音と共に砂を舞わせていた。私は物見岩の上に立ち、ただ舞い散る砂を眺めていた。
「お前は今日から阿修羅を名乗れ」
「あしゅら?」
「そうだ。おまえ、あの人の日記を持って行っただろう」
私は驚いた。我楽が『あの日記』のことを知っていたなんて。私しか知らない秘密だと思っていた。
「あの部屋はな。牢屋のようなもんだよ。昔、一人の物知りの商人が捕まっていた。日記はその人が書いたのだ」
我楽はその商人のことを語った。色々と物知りで話が面白かったこと、書物を読みたがっていたこと、そして、逃げたけれど砂漠で命を落としたこと。
「返しておく」
私は申し訳ない気持ちがしてそう応えた。我楽の大切なものだと思ったからだ。
「いや、その必要はない。あの人の日記を生かせるのはおまえだけだ。オレも字は読めない」
我楽は笑う。こんな砂漠の盗賊には文字は必要ないからな、と続けた。
「だから、わかるだろう? オレが阿修羅とおまえに名付けたわけを」
阿修羅はアスラのことだ。天界に刃向かった愚かな悪魔。でもこいつは天界に負けていない。多分今でも戦っているはずだ。終わりのない不毛な戦いを。
日記には、この話を盗賊の若いのが興味を示したとあった。我楽のことだったのか。私は後に、『アスラ』の話をキャラバンの荷から奪った書物でも見つけていた。
「確かに。私に相応しいかもしれないな。気に入ったよ、我楽。ありがとう」
我楽は私を見下ろして笑った。
「よくぞここまで。おまえはオレの想像以上に成長した。もう教えることはないかもな」
我楽はそう言うと、黙り込んでしまった。私達はただここに佇んで砂の海を見ている。随分と長い時間、この風景を見てきた気がする。絶え間なく風は砂を運ぶ。束ねた長い髪がバサバサと音をたてて流れていく。じりじりと熱を持った太陽が私の肌を焼いている。だが、いくら燃やしても、私の肌は赤くも黒くもならない。いつまでも白いままだった。
「ここにいると、時の流れを忘れるな。我楽に会えて良かった。拾ってもらったことを心から感謝している」
幼い日の誓い。私はただ生き延びるだけが精一杯だった。生き延びて、強くなる。強くなって、どうしたいのだろう。私はもう、強くなったのだろうか。
「おまえはあの日、小さな体を燃やすように訴えたな。力が欲しいと。今でもその気持ちは変わらないのか?」
我楽が一人言のように呟いた。私は驚いて奴を見る。同じあの日を思い出していたことに。我楽は寂しそうな眼をして私を見下ろしていた。私は軽く息をつく。
「我楽……。私の心はあの頃のままだ。今でも力を欲している。でも、その先が今はまだ見えない」
我楽は何も言わない。私は続けた。
「なあ我楽。大キャラバンを襲撃した日、初めて人を殺した時、私は何故か何も感じなかった。私の心は氷のように冷静だった。まるで、今まで何人も殺してきたかのように。いつもと同じ景色を見ているかのようだった」
「おまえ……」
「私は、我楽が選んだ、阿修羅って悪魔と同じ目をしているのかもしれないな」
私の心にあるモヤモヤした物がなんなのか。盗賊の頭になりたいのか。力でもって何もかもをひれ伏させたいのか、それとも今更だけど、母を助けに帰りたいのか。この時はわからなかった。あの日が来るまで。
我楽は遠くを見つめるように目を細め、しばらく風の音を聞いていた。
「もしそうなら。阿修羅とは美しい悪魔なのだな」
「ええ? おまえがそんな冗談を言うとはな。ふふ」
照れくさそうに我楽は笑うと、一つ咳ばらいをした。
「阿修羅。私はおまえを、何を拾ったのかと恐れたこともあった。もしかして、本当に天から悪の神が降りてきたのかとも。だが、おまえは人間だ。間違いなく。迷いながら惑いながらも前を見ている。近い内におまえはこの砂漠で最強の者となるだろう。だが忘れるな。おまえは人間だということを。この砂の原、『流沙』の前では無力な人間だということを」
私はもう一度、物見岩の前方に広がる無限の砂の原を見渡した。砂の煙幕の向こうに、うっすらと人の暮らす街が見える。本当は遥か遠いところにあるが、何故か近く見える幻の街だ。私の心にあるものもあの幻影のようだ。すぐそこにあると思っても実は遠い。
頬に砂が打ち付ける。だんだんと目も開けられなくなってきた。涙が流れる。目の痛みで泣いているのか、それとも……。
それから間もなく、私は盗賊団の頭になった。『流沙の阿修羅』と呼ばれるのにもそれほど時間はかからなかった。毎日が順調で毎日が反吐が出るほど退屈だった。
その夜も商人の隊列を襲撃し、難なくお宝を手に入れた。仲間は楽しそうに酒を飲み、歌い、女と戯れていた。宴の熱気と反比例するように、私の心は冷めていった。そんな時だ。我楽があいつの名前を口にした。
「シッダールタ王子でございます。シャカ族のカピラ国が挙兵したのだそうです」
律義な我楽は私が頭になってから、敬語を使うようになった。この日も不機嫌な私をなだめるようにこんな話を持ち出したのだ。
「ふん! まさか聖王にでもなるつもりか!」
私は馬鹿にしたように鼻で笑うと酒を飲みほした。だが、心の中は嵐に見舞われていた。『シッダールタ』だと? あの日が鮮やかに蘇ってくる。奴隷の小屋に迫る足音、金属音、脅しの声。私は心臓の音に耳が痛くなるほどだった。血液が逆流しているかのように体中が熱い。
この名を覚えておきなさい。シッダールタという名を。
もうずっと忘れていたあの一言。母が私の耳に、耳から脳に、ねじ込むように伝えたあの名前。その男が軍を率いて北印度を攻めているだと?
私はその日、一睡もできなかった。いや、眠らなかった。眠らずに、どうすればあの男に会えるか考えた。母は、私が狙われたわけが分かるまで戻るなと言っていた。それがカピラかどうかは私にはわからなかった。だがもしそうだとしても、私はもう決めていた。私は再びあの地に戻る。そして、必ずシッダールタに会うと。
翌朝、私が白龍に荷を括りつけていると、我楽がやって来た。挨拶無しで行くのも躊躇われたので、丁度良かった。
我楽は私がシッダールタのところへ向かうと言うと驚いていた。まあ、そうだろう。私は我楽にも母が最後に残した名前のことを話していない。幾多の有難い預言を賜った王子。彼のことはここに来てから知った。私は益々、母がこの名前を告げた理由がわからなくなったものだ。
初めて話を聞いた頃は、てっきりシッダールタは僧侶になると思っていた。シャカ族は大人しい部族だし、国力の無いカピラ国が、いくらカリスマがあったとしても挙兵するなどありえないと。
だが、大方の予想を裏切って、シッダールタは打って出た。法ではなく、剣を取って。私の血は滾った。それこそ逆流するくらい。この高揚感を忘れないうちにここを旅立たとう。私は陽が昇るのも待てずに荷をまとめ、白龍の元へと急いだ。
「いずれここに戻ってくる」
私は我楽にそう言った。それは嘘偽りない言葉だ。全てが終わったら、私はまたここに戻ってくるだろう。そんな予感はあった。
白龍に跨ると腹を軽く蹴る。白馬は短い嘶きとともに、力強く砂を巻き上げた。
砂の原。流沙の地。その日まで、また悠久の時を刻め。
西畑様からいただきました。