第九章 シッダールタの章4 先勝
ざまあの回。
東の空に光が滲む。直に朝日が顔を出すだろう。その前にここを出立しなくてはならない。
私は親衛隊とともに砦前に出た。今回の作戦では、私は援軍として送った第三団隊と行動を共にすることになっている。彼らの最前列に位置を取った。
昨夜はほとんど眠っていない。そのまま闘技場で寝ていたのを阿修羅に起こされた。固い床のおかげで背中が痛い。
「おはよう。おまえは眠れたのか?」
私の顔を覗き込む阿修羅の頬に触れる。手に入らないと思っていた。決して届かないと。だが、私はいま彼女に触れている。胸に熱いものが満ちていく。今までどれほどの美女と寝ようが、どれほどの勝利を得ようが、これほど胸が満ちることはなかった。
「もうよせ。これから戦だ」
そう言って阿修羅は私の手を払う。表情は今まで見たことがないほど、柔らかなものだったが、小さなため息をついた。
「どうした?」
「ああ、大したことではないのだが。実は……、リュージュに知られた。私が男と偽っていたことを」
立ち上がり、腕や肩をぐるぐると回しながら阿修羅が答えた。視線は窓の向こうの薄明るい空気に向けている。
「リュージュが? そうか、すべからくカンのいい奴だからな。気にするな。それを言い回る奴ではない」
「だが……」
「それに、いつかはわかる事だ。阿修羅、今更お前が女だとわかっても、お前がカピラにとってなくてはならぬ戦士である事に変わりはない。誰がお前を排除できよう。もしそういう愚か者がいたとしても、私が命に代えてもそんな事はさせん」
私はそう言って笑ってみせた。
「阿修羅。この国を二人して駈け巡ろうと誓った事まさか忘れていないだろうな。もう、お前を誰にも渡さない」
私は阿修羅の目をしっかりと捉え、決意を込めて言った。あいつの心の奥底まで届くように。阿修羅も私の目をじっと見つめて聞いていたが、不自然に目を反らした。斜め下を向けた頬に少し赤みが差している? だが、そう思ったのも束の間、阿修羅はいつもの冴え冴えとした表情で、
「お前を真の王にしてやる。それが私の望みだ」
そう言い残して闘技場を後にした。
「王子、そろそろ先発隊が出立するようです」
「うむ。そうか。いよいよだな」
出陣の時を待つ私のところに、モッガラーヤが知らせに来た。見ると、阿修羅が白龍に乗ってこちらに向かってくる。さらにその奥を見ると、リュージュが阿修羅の後姿を見ているように思えた。あいつも阿修羅に惚れているのかもな。今朝の話を聞いて、私はぼんやりとそう思った。
先発隊が動き出した。ナダ第一団隊長が出陣の檄を飛ばしている。それに呼応する兵士たちの勇ましい声が地鳴りのように伝わりここまで届いた。士気も英気も高く兵は充実している。もう半分勝ったようなものだ。私は否応なく気持ちが高ぶった。
「シッダールタ、どうした。私たちもじき出陣だ。ナダ達を追うぞ」
いつの間に来たのか、阿修羅が私に声をかけた。昇り始めた朝日に整った鼻の線が浮き彫りにされる。切れ長の双眸がきらきらと輝いている。高ぶっているのは私だけではないようだ。
「いい朝だ。勝つぞ」
阿修羅は右の口角をくいっと上げると、大きく頷いた。
第一団隊、つまり先鋒隊と第二団隊の戦いぶりは逐一報告された。私は阿修羅と共にカピラ軍の第三団隊を率いて進軍している。
「シッダールタ、そろそろ象軍が届く」
「うむ。そのようだな。我が軍は?」
先ほどから悪い報告はないので、問題ないとは思うが。
「リュージュがうまくやっている。そろそろ東の森に逃げこめるだろう」
「ビンビサーラめ、ろくな軍師もおらんとみえる」
私は内心ほっとする。これは大きな戦だ。ここで勝利しないと今まで積み重ねてきたものが無に帰すといっても過言ではない。それをどれほどの者が理解しているか。
「そのビンビサーラが出陣しているらしい」
「なんだと! それは飛んで火にいる夏の虫だな」
「ふふ。多分向こうも同じ感想を持っていると思うぞ」
阿修羅が私の顔を見て言った。なるほどね。ビンビサーラのことだ。私が出陣したのを知って出てきたのだろう。相変わらず嫌なやつだ。これは本気で負けられない。
「弓を持て!」
辺りの空気を一瞬に切り裂き阿修羅の声が響く。兵士たちが一斉に弓を構える。そして阿修羅自身も弓を持つと、私の前に壁を作った。私はごくりと唾を飲み込む。象の走る地響きが敵の到来を告げた。
「シッダールタ!」
象軍の中央からビンビサ-ラの怒鳴り声が耳に届いた。目立ちたがりのあいつのことだ。最も巨大で派手な飾りのついた象に乗っていることが丸わかりだ。
「今日がお前の最後だ。この数の象軍ではいかにお前でもどうすることも出来まい!」
勝利を確信しているビンビサ-ラは、象の上で声を上げて笑っている。胸糞悪い奴。
「それはどうかな」
私は努めて冷ややかに応じた。これからここで起こることを、気取られてはならない。
「ふん。この後に及んで負け惜しみか。オレは容赦しないぜ。おまえなぞ、ぺしゃんこにしてやる!」
自信たっぷりのヤツの合図で、何百頭とも見える象軍が一斉に押し寄せた。だが、弓を構えた我がカピラ軍は、誰一人動かない。来い! 来い! ぐずぐずするな。
「行けぇ!」
ビンビサーラがさらに、そう畳み掛けて叫んだ時、ヤツの乗った象が、突然彼を振り落とした。やった! 私は思わず馬の上で背伸びをした。
「何!?」
象の大きな体がバランスを崩し、前足が地中に埋もれているのが見えた。
「落とし穴だと!」
次々と悲鳴のような声を上げて、象が穴に落ちていく。後続の象達も穴に落ちた象に躓き、将棋倒しになっている。圧巻な光景だ!
「今だ! 矢を放て!」
再び阿修羅の指示が飛んだ。一斉に放たれる矢の嵐。右往左往するマガダの象軍。象の嘶きと兵士の悲鳴が一帯を覆う。よし! 作戦通りだ!
「リュージュ隊が来ました!」
伝令の声がする。いつの間にか東側の森から現れたリュージュ隊が、象軍に攻撃をかけていた。私は思わず声を上げた。
「行け! いいぞ!」
今日のリュージュは調子がいいのか、気持ちのいいほど敵を蹴散らしている。行ける! 行けるぞ!
まんまと阿修羅の策がはまった。練られた策は、象軍をできるだけ横に広げないような場所に誘い出し、縦に長くすること。そしてその行く手には落とし穴を掘っておく。深い必要はない。象は大きいがために足元が見えないのだ。誘われるがままに突入した象たちは、阿修羅の策に文字通り落ちた。
この場所を探すこと、それとここに誘き出す手筈を練る事。それが今回の策の鍵だ。そのために阿修羅は砦を取ってから穴の開くほど地図を眺めていた。場所を定めると夜の内に落とし穴を掘らせた。
私はその策を聞いた時、一抹の不安を持つと同時に鳥肌がたった。阿修羅が敵じゃなくて良かった。余談だが、二つ目の誘き出す手立てに、私の旗印が大いに役立ったことを付け加えておこう。
「た、退却だ!」
マガダの兵士とともにビンビサーラも、倒れる象達の中、身動きが取れずにいる。穴の中に敷いてあったいばらの刺に絡み、象が巨体をのたうちまわらせているのだ。大国の王だからと、いつも威張りやがって、ざまを見ろだ。私は相当気分が良かった。
だが、そのときマガダ軍に動きがあった。どうやら敵の騎馬隊が間に合ったらしい。彼らは第二団隊が阻んで動けなくしていたのだが、策略に気が付いたのだろう。ビンビサーラが味方の馬に乗って逃げだすのが見えた。冗談ではない。あと一歩のところだと言うのに!
「ビンビサーラが逃げる! 追え!」
阿修羅が叫ぶ。前方で弓を放っていた私の本隊が、這うように逃げ出すマガダ軍を追う。一斉に馬に鞭が入った。
「追うぞ!」
私は阿修羅に向かって合図をすると共に後を追った。もう一息だ。ここでヤツの息の目を止めなければ。
だが、前を行く兵士達が馬上の黒い影に阻まれ、一歩も進めなくなった。カピラの兵士が次々と倒され土にまみれている。
「どうした!? 何者だ!」
阿修羅が再び私の前に馬を止めた。副官として当たり前のことだが、彼女に守られるのは本意ではない。複雑な感情を抱きながら阿修羅の背中を見つめた。私たちの行く手を阻む奴は誰だ。私は阿修羅の肩越しに敵兵を見た。
「おまえが阿修羅か?!」
「そうだ。貴様は?」
黒い影は、真っ黒な鎧をつけたマガダ国の兵士だった。毛艶の良い大きな馬に乗っている。私はその兵士をどこかで見た様な気がした。嫌な予感に胸が騒ぐ。
「私はマガダのアジャンタだ! ここから先は行くこと叶わん!」
名乗ると同時にアジャンタの鋭い大剣が阿修羅を襲う。二つの剣が雷光を放った。刃がぶつかり合う度、それはきらめき、大気が震える。私は思わず身を乗り出す。心臓が今にも飛び出さんばかりに胸の中で暴れている。
アジャンタだと!? 私は確かにその名に聞き覚えがあった。昔、まだ私が幼く、カピラがマガダの属国扱いされていた頃、マガダ国一の戦士と先代マガダ国王が自慢していた男だ。真っ黒な鎧をつけた無口な戦士。鋭い眼光に私は子供心に背筋が寒くなったのを覚えている。奴は手強い! 阿修羅、気をつけろ! 私は阿修羅から目を離さないため、出来得る限り近づく。ああ、右だ! いや、左!
「くっ!」
阿修羅の眉間に苦痛の皺が刻まれている。ヤツの剣が重いのか? やめろやめてくれ! 阿修羅、逃げろ! 信頼はしているが、私の心臓がもたない。親衛隊が私の周りを取り囲み始めたが、もはや邪魔でしかない。見えないどけ! 私は親衛隊の輪を破り、前へ出た。
気が付けば、カピラ軍も敵兵も阿修羅とアジャンタの一騎打ちに視線が釘付けになっていた。
「はっ!」
アジャンタの剣を押し返すと、阿修羅は突然白龍を走らせた。何をする気だ? 私は精一杯首を伸ばす。
「逃げるか! 阿修羅!」
追うアジャンタ。馬を激しく打ち続けている。懸命に追っているが、追い付けない。阿修羅の白龍に追いつくはずはない。あの馬の速さは異常だ。握る拳の中で汗が滲んでいる。大丈夫、大丈夫だ。阿修羅が負けるはずがない。
疾風のごとく走っていた白龍が、ふいにその身を翻した。そして次の瞬間、猛スピ-ドの馬の背に、阿修羅が立ち上がった! もはや私の心臓が止まりそうだ。阿修羅を追っていたアジャンタは驚いたのか、それとも馬が慄いたのか、一瞬スピードが落ちた。だが、再び思い直したように馬を叱咤する。このままではぶつかる! どうするつもりだ、阿修羅?!
アジャンタに向けて疾走する白龍。風が阿修羅の束ねられた髪を巻き上げる。流れるような黒髪が天を刺す。剣を敵の真正面に構え、走り狂う馬の背にいながら微動だにしない。まるで、妖魔……。
切り取られた絵のように、その姿は見る者全ての視覚を奪う。吸い込まれていく。釘付けにされる。
「あ、阿修羅ぁ!」
私は思わず叫んだ。あいつの名を呼んだ。このままどこかへ行ってしまいそうに思えたから。
それは刃を向けられているアジャンタも同じだった。いや、最もそれを感じていたか。一瞬、アジャンタの動きが止まった。その恐ろしいほどの美しさに目を奪われている。鼓動の一つ程の時間が、まるで止まった時のように。
「覚悟!」
阿修羅が白龍の背を蹴り、空を飛んだ。美しい放物線を描いて。そして、アジャンタの頭部を目掛け、阿修羅の剣が振り降ろされた。
「う!」
疾走する馬上でアジャンタは辛うじて剣を振った。だが、白く光る冷たい刃が、アジャンタの左腕を掠めた。やったのか!?
「しまった!」
アジャンタの叫びとともに飛び散る血しぶき。兵士たちが騒然とする。彼らを取り巻く歓声、嘆き、様々な音が津波のように伝播していく。一帯は興奮のるつぼになる。
口笛が響く。既に阿修羅は体勢を整え、白龍がまさにその主を乗せんと、間近に迫っている。決まった! 私はそう思った。白龍が阿修羅を捉えると、再びアジャンタに向けて疾走する。
「アジャンタ将軍! 王は無事撤退されました!」
だがその瞬間、マガダ騎馬隊の生き残りが前方で叫んだ。アジャンタは阿修羅に斬られた左腕を押さえている。
「よし! 我等も退避だ!」
アジャンタは阿修羅との一騎打ちを捨て、仲間と共に逃走を選択した。敵ながら正しい判断と言えるが、冗談ではない。親衛隊と共に私たちもヤツを追う。
「待て! アジャンタ!」
阿修羅も馬を操り、アジャンダを追った。だが、残っていたマガダ兵も一斉に退却しだした。アジャンタの栗毛の馬はその中に紛れ、私たちはもちろん、阿修羅も追い付けない。
「阿修羅! 今日は私の完敗だ。しかし、次は負けん!」
左腕を押さえたアジャンタはそう言い残して、戦線を離脱していく。私達はその後ろ姿を見送るしかなかった。
私は逸る気持ちを抑えた。ここは私が判断するところだろう。ここで熱くなっていてはいけない。今日の戦績としては十分過ぎる成果があった。
「深追いするな、阿修羅!」
私は阿修羅の名を呼んだ。彼女はまだ諦めきれずに進もうとしていた。だが、もう十分だ。戻って来い。戻ってきてくれ。今日の戦いの勝者は紛れもなく我らカピラ軍だ。私は戦勝を告げる。追っていた兵たちも足を止めた。
それと知ったか、見れば阿修羅も白龍をとどめていた。私はホッと胸を撫でおろす。
「大丈夫か? 阿修羅」
私のところに馬を寄せた阿修羅は、珍しく汗をたっぷりかいている。少し顔色が悪く見えた。
「ふっ、久々にプレッシャーを感じる相手だった」
額の汗を拭う阿修羅は、心なしか体が揺れている。そう思った途端だった。
「阿修羅!?」
何の前触れもなく、阿修羅は白龍の首にのしかかり、そのまま崩れるように落ちていった。
第九章 シッダールタの章4 了 次章に続く。