第七章 シッダールタの章3 王の来訪
シッダールタはカピラヴァストゥに戻らず、ルンピニーの宮殿で阿修羅と過ごす。
阿修羅の生い立ちは、少なからず私に衝撃を与えた。名の無い子どもにどれほどの過去があるか。想像しなかったわけではないが、全く思いも寄らないものだった。
阿修羅の母親は何者だったのだろう。なぜ阿修羅はカピラの兵士につけ狙われていたのか。そしてどうして私の名を彼に託したのか。まったくわからないことだらけだ。
だが、それを解き明かす法がないのであれば、考えても仕方がない。いずれわかるときが来るかもしれないが、既に終わったことなのではないのかと思う。
たとえカピラの兵士が阿修羅の命を狙っていたとしても、彼らはとうの昔に砂漠で死んだと思っているだろう。まんまと逃げきれたとも言える。
ただ、母親が託した私の名前については、うまく説明できなかった。その頃から私の名前は国内外に知れ渡っていた。旅芸人の花形が知っていても不思議ではないが、腑に落ちないことではあった。
私は阿修羅に言ったように、カピラヴァストゥには戻らなかった。彼が王都に入らないというのなら、私もここに留まろう。父王を悲しませたことは言うまでもないけれど。
私たちは私の生誕地、ルンピニーに建てられた小さいが花々が美しい宮殿に、少ない部下と雨季の安息を過ごすこととなった。
「王子、スッドーダナ王の使いの者が来ております」
「また帰城の催促だろ。適当に返しておけ」
私の側近、モッガラーヤが定期報告をしてくる。父王からは毎日のようにカピラ城に帰れと矢の催促だ。私は既にうんざりしている。
「いえ、それが……」
「なんだ? 何かあったのか?」
珍しく口ごもるモッガラーヤ。なんだ、いつも冷静なおまえらしくもないな。
「三日後、こちらにおいでになると」
「父王がか?」
「はい」
これには私も驚いた。確かに城からルンピニーまでは馬で一日半ほどの旅程だ。しかし、雨季は城を出るのも億劫な季節。それをルンピニーくんだりまで来るとは。おそらくお一人ではあるまい。私はそう思うとひどく憂鬱な気持ちになった。せっかく阿修羅とほぼ二人きりの時間を過ごせているというのに。いや、他意はない。
「そうか。それでは来るなとは言えんな」
そうは言っても、ここは観念するしかなさそうだ。
「阿修羅はどこにいる?」
「先ほど蓮池のあたりにおられましたが」
「うん。では父王を迎える準備を頼む。盛大にな!」
「はっ」
モッガラーヤは一礼すると、いつものように足音させずに立ち去る。私は阿修羅のいる蓮池に向かって、ひんやりとした白い廊下を歩いていった。
雨が降っている。雨季は毎日こんな具合だ。雨に煙る蓮池が見えてきた。阿修羅はテラスに立って、ぼんやりとしている。その立ち姿がなんとも言えない風情を醸し出す。蓮池の大きな葉の中に背伸びして、桃色の華をここぞとばかりに咲かせる蓮華のようだ。
阿修羅は男にしては小柄な部類だ。私よりは十五センチほど低いだろうか。綺麗な筋肉はついているが、線が細い。均整の取れた肢体の肩に馬の尾のように束ねた髪がゆっくりと揺れている。その後ろ姿は蓮池に溶け込み、一枚の絵のようだった。絵の中に入ってしまった彼に、私は声をかけるのをしばし躊躇った。
「阿修羅」
ようやくかけた声、夢から覚めたように阿修羅は一瞬ぴくりと肩を動かした。
「何をしている?」
「何も……。ただ、雨を見ていた……」
阿修羅はそう言うとゆっくり振り向く。瞳は何を語るでもないが、私はまた彼に見入ってしまう。
「不思議だな、と思って」
「何が?」
「いや、何でもない。蓮池に降る雨があまりに美しかったから。まるで、天から音もなく舞い降りてくる。何千本、何万本の蜘蛛の糸のようで……」
歌うように彼は答えた。私は人知れず息を飲む。魂ごと持って行かれそうになる。こいつはもしや天か地獄から使わされた妖ではないかと心の何かが忠告する。こいつに近づくな、心を許すなと。だが、その忠告はもはや手遅れのように私は思った。
「そうか……。まるで詩人のようだな。邪魔をして悪いが、三日後に父王がここに参られる」
「スッドーダナ王がここに?」
先ほどの妖が、今度は鋭い眼光の戦士に変化する。
「そうだ。こうなった限り、ここでおまえを会わせる。わがカピラ国の軍神として」
「軍神ね……。それはいいが、私はもしかするとスッドーダナ王に命を狙われていたのかもしれないぞ」
阿修羅は表情を変えずに言った。たとえ冗談でもそんな大それたことを言って欲しくない。
「まさか。兵士の躾が悪かったのは詫びるが、以前のカピラ軍兵士が奴隷を追い回すことはよくあったことだ。私はそれほどの意味があるとは思っていない。それにおまえを追い回していた兵士は、おまえは砂漠で野垂れ死んだと思ったのさ。おまえは逃げ切ったんだよ」
我ながらご都合主義な答弁だとは思う。だが、正しい見方とも言える。正確に言うと、旅芸人のような人種はカースト最下位の奴隷よりも下。他国からの異人も多い。阿修羅がインド系の顔立ちと少し違うのは、血の交わりがあるのかもしれない。
そういった血筋のものを極端に嫌う輩も残念ながらいる。そんな連中を潰すことも国力を上げるために不可欠だ。私は不届きな連中を排除することにも今まで尽力してきたつもりだ。
「第一、『カピラに軍神阿修羅あり』、とこれほど知れ渡っているのに、何の反応もないのは心配いらない証拠だ」
根拠のない結論だが、今はこれを信じるより他はない。尤も、今彼を暗殺しようなどと思うものがいるのなら、この私が許さない。返り討ちにしてやるだけだ。まあ、その前に彼自身に瞬殺されるだろうが。
「そうだな。それならいいが」
納得したのかどうかわからないが、阿修羅は曖昧に返事をした。私はこの話題をもう忘れたかった。こんなことに捉われて前進を止めたくない。私は彼の細い手首をぐっと掴んだ。
「何をする!」
相変わらず他人との接触を極端に嫌う阿修羅は、血相を変えて身構える。これも幼い頃に身に付いた習性なのだろうか。瞬時に腕を振りほどかれた。
「いや、こんな細い腕にどうして大男がバッサバッサと切り捨てられるのかと思って」
「ふん。細くて悪かったな。ガキの頃の栄養が悪かったのだ」
「ははっ、そう言うな。ああ、そうだ。雨続きで体も随分鈍ってきた。稽古をつけてくれ」
「いいだろう」
一転、明るい笑顔が返って来た。もやもやする時は身体を動かすに限る。私と阿修羅は磨き上げられた石の通路を足音たてて歩いていった。
父、スッドーダナ王がルンピニーの宮殿に到着したのは、それから三日後の午後のことだった。宮殿にいた全ての兵士、使用人達は降りしきる雨の中、宮殿の正門で立ち並んだ。阿修羅も大人しく私の傍らに控えている。
輿から姿を現した父の顔はいつになく満足げである。私は声を一段と高くして出迎えた。
「父上。お待ちしておりました」
「シッダールタ、この度は本当によくやった。あのコ-サラの息の根を止めるとは大したものだ。皆も喜んでおるぞ。城へ来ぬか? 王妃も会うのを楽しみにしておったのに」
この期に及んで、またその話か。私は正直うんざりしたが、笑顔を貼りつけ、常套句の返答をする。
「申し訳ありません。しかし、私も少々今回の戦には疲れました。それに、雨季が終わればすぐにもマガダ国を攻めます。この間にこの静かな宮殿で休みたく思います」
「そうか……。それも仕方がない。そこに控えておるのは阿修羅か?」
「はっ」
父は足を止め、私の後ろに添う阿修羅に気が付いた。隣にいたと思ったのに、何故か私の影のように背後に控えている。あいつもさすがに気おくれするのだろうか。
「そちにはゆっくりと話を聞きたいものだ。ずいぶんと手柄をたてたそうだな」
「いえ。私の力など……」
言いにくそうにしている阿修羅。私は気を利かせたつもりで父を促した。
「父上、後は宮殿で。歓迎の宴も用意できております」
「おお、そうだな」
父は上機嫌で宮殿内へと入っていってくれた。そして私の予想通り、美しく着飾ったどこかの姫君たちがぞろぞろと従って行く。姫たちが通った後には、ナメクジの這った跡のように強い香が混ざり合って鼻を突く。私はたちまち憂鬱になった。
「阿修羅よ。もっと近くに、さあ、顔をあげよ」
「はっ」
父上ご一行を歓迎する宴会が始まった。正装した阿修羅が父上の前で傅いている。私はまるで自分事のように緊張した。父上が彼をどう評するか。もちろん今披露できるのは見た目でしかない。あいつの凄さは戦場でこそ際立つのだ。
まるで初めて想い人を紹介する心境だな。私はソワソワしながら自嘲した。
「ほお……」
顔を上げた父上が感嘆の声を上げる。そうだろう。初めてあいつに会う奴は、誰もがほとんど同じ反応を見せる。かく言う私も同じだった。
最強戦士、軍神と呼ばれてどんな猛者が現れるかと思っていれば、目の前にいるのは世にも稀なる美少年。しかも華奢で触れれば折れそうだ。だが、涼やかな瞳に湛える猛々しさと鋭い眼光は隠しもしない。
父上が連れてきた姫たちも両手で顔を覆いながら、ざわめいている。なんだあいつら、何しにきたんだ。私は気もないくせになんだか腹が立った。
「阿修羅、お前の活躍を、ある者が三面六肢の異形の者と例えていた。六つの目、六本の腕、どこからでも繰り出される剣技と。私もそれを是非見てみたい。どうだ、見せてはくれないか?」
父上は自分の目で確かめたくなったのか。いいだろう、願ったりだ。私もこの微妙な空気のご一行様をおまえの剣技で黙らせてやりたい。
「阿修羅、いいではないか。見せてやれ」
私は父上に同調した。すぐさま周りを見回す。
「誰か、阿修羅の相手をしろ!」
だが、当然のことながら、誰も名乗り出ない。ここにいる兵士に、それほど腕の立つ者は残っていない。誰が阿修羅の相手などしたいものか。
「しょうがないな。別に殺されるわけではない。誰か?!」
最悪私がやるかと思っていたところ、父上の親衛隊の一人が立ち上がった。
「私がお相手いたしましょう」
バサラ王親衛隊副長だ。父王が即位したころから軍にいた者だ。大柄な体に筋骨隆々のまさに百戦錬磨の戦士と言ったところだ。前ディーパ将軍直下の部下でもある。
父上直属の兵士は今回の遠征に参加をさせてない。彼らは国王を守る最後の砦だ。戦場を知らない彼らは、恐らく阿修羅を見て、彼の戦歴をとても信じられないと思ったのだろう。立ち上がると私より長身で横幅もあるバサラは、その体躯の良さと厳めしい表情で阿修羅を上から威嚇している。
「おお、バサラか。いいだろう」
高座に収まる父上も納得の表情を見せた。私もバサラなら申し分ないと思う。阿修羅の凄さを見せつけるうえで、打って付けだと。しかし当の阿修羅を見て、私は当惑した。
あいつは上から睨みつけられているのに、なんだか心ここにあらずでぼんやりとしている。まさか威嚇に怯えているわけでもないだろう。バサラを直視しているが、何の反応も見せない。
「せいぜいその美しいお顔に傷をつけないよう、気をつけさせていただきます。貴殿の大事な武器でしょうから」
バサラのその一言に座が凍る。明らかに挑発だが、私もつい振り向いてバサラを睨んだ。阿修羅はふっと軽く息をした。ようやく体を起こす。
「獲物は?」
その様子を見て、私は安心する。阿修羅は剣を、バサラは槍を取った。もちろん真剣だ。
「殺すなよ。殺したら負けだ」
私はバサラに聞こえるように阿修羅に囁いた。先の奴の失礼な言に対する反撃の意味も込めて。阿修羅は何も言わず頷いた。
横目でバサラを見ると、真っ赤になって、歯ぎしりの音を宴会場に響かせている。相当腹に据えかねたと見える。まあ、精一杯やってくれ。真剣といっても寸止めできないようでは一級の戦士ではない。双方そこのところは大丈夫だろう。
宴会を催していた部屋は宮殿の中で最も広かったが、闘技場としてはやや狭い。飲み食いしていた連中を隅に寄せ、父王の高座の前に即席の闘技場を作った。
「捌きは私がしよう。二人とも、構えて」
私は二人の中央に立つ。バサラは燃えるような闘志を隠そうともせず臨戦態勢だ。対する阿修羅は、これから一戦を交えるのかと思えるほど平常心。静かな湖面のように眉一つ動かさず私の合図を待っている。
「始め!」
私が一歩下がるのも待たず、バサラが前に突進する。阿修羅はそれを迎え撃つようにゆらりと体を立てると剣を下段に構える。バサラは頭上で槍をぐるんぐるんと回すと、閃光のごとく歩を進め、阿修羅目掛けて槍を突き立てた。
「もらった! 他愛もない!」
客人たちは歓声を上げた。誰もがバサラの槍に突かれた阿修羅の姿を想像した。見た気がしたかもしれない。だが、バサラの槍の先に阿修羅の姿はなかった。
一瞬阿修羅を見失った。バサラも客も私も。そして次の瞬間息を飲み、絶句した。
影すら見せない神速で阿修羅は既にバサラの懐に在り、その喉笛に剣の刃をたてていた。
「動くな。動くとその首吹っ飛ぶぞ」
「な……んだと……」
「勝負あった!」
しんと静まり、止まってしまった場の時を進めるため、私は大声を上げた。それを合図に人々は息を吹き返したように感嘆の声を上げ、手を打ち鳴らし始めた。
「失礼いたしました」
未だ硬直して動けないバサラを尻目に、阿修羅は剣を右腕でくるくると回して華麗に鞘へと収め、王に一礼した。
「す……凄いものだな。さすが軍神と言われるだけはある。頼もしいぞ、阿修羅。今後もシッダールタを頼んだぞ!」
父上は頬を紅潮させ、周りを煽るように手を打ち鳴らす。場は一挙に盛り上がった。私も興奮を隠しえない。
「はっ」
その中心にありながら、阿修羅はいつもと同じように息一つ乱さず頭を下げた。その阿修羅がちらりと私の顔を見る。私は満面の笑みで力強く頷いて見せた。あいつもさすがに口元を緩ませる。
だが、その時は気づかなかった。歓声の隣で、父上がその様子を見ていたことを。言い知れぬ違和感を覚えていたことを。それと知るのは、もっともっと先の話になる。