夏香×みなと。
夏果のしゃべり方がほとんど男の子っぽいのですが、気にしないでそのまま読み進んで頂ければと思います(笑)。
ボス。
頭にカバンを乗せられた。
視線が合いざまに。
「なんだよ、お前」
夏香はカバンを自分の頭に乗せた他校の女に言い放つ。
喧嘩なんてしたいものか。
だけど、何も言わずにこの屈辱は耐えることが出来ない。
確かに夏香は目の前の他校の女に比べればカバンを置きたくなるくらい背が低いだろう。
だからと言って、してもいい事と悪いことがある。
「相変わらず、背ぇちっちぇよな、ナツ」
意地の悪い顔で夏香を見て言う。
後ろには同じ高校の仲間と思われる女子が数人、見た目からしてガラの悪いグループだと思われる。
今は下校中なので周りには同じ高校、またはこの周辺の他校の生徒も居て遠巻きに夏香たちを見ていた。
「うるせえよ、ヤギ!」
頭に乗せたカバンを叩き落す。
一触即発、今にも喧嘩が起こりそうな雰囲気になった。
こんな喧嘩はいつものこと。
夏香は女子高生だが小さい身体で喧嘩はめっぽう強い、周囲の不良たちからは一目置かれていた。
「顔かせよ」
女が夏香を見下ろして言う。
気に入らない―――
夏香は見下ろされたり、見下されるのがことのほか嫌いだった。
「お―――ん、ぐっ」
おう!と言おうとしたら夏香は背後から口を塞がれた。
「ン―――!ンン―――!!」
ひょいと、身体が軽々と持ち上げられる。
目の前の女が驚くのが分かる、そして夏香は自分にこんなことをする人間に心当たりがあった。
「ダメだよ、女の子が喧嘩しちゃね」
聞きなれた声、やはり。
でも、心なしか楽しそうな雰囲気を持っている。
「・・・みなと!てめえ!!」
なんとか手をかいくぐって叫ぶ。
両手両足をバタつかせて逃げようとするのだけれど、しっかりと掴まれて逃げられない。
身体は大柄でもないのに同じ女子高生のくせに力が強いのだ。
「離せ―――!」
「喧嘩しない、っていうなら離してあげるけどね、夏香」
にっこり笑いながら言う。
喧嘩をふっかけてきた少女たちは目の前のやりとりに唖然としている。
「喧嘩なんて無駄な体力消耗と思わない?」
夏香にみなとと呼ばれた制服の女子は目の前のヤギと呼ばれた女生徒に言う。
「無駄な体力消耗だと?」
「時間の無駄だし、怪我はするしで、いいことなんてないでしょ」
「こっ、これは私が買った喧嘩だぞ!みなと」
バタバタ。
そう言っても、抱え上げられて足をばたつかせているだけなので威厳も無い。
「ここは引いとくのがいいと思うけど―――」
相手の女子高生たちの表情が変わった。
引きつった表情というのだろうか、好戦的だった態度が一変する。
「・・・ちっ、命拾いしたな」
「なにぉう――んぐっ!」
女子高生たちは後ずさり、急ぎ足でその場から去って行った。
周囲の緊張感が解かれ、夏香たちは行きかう人たちの波にまた紛れ混む。
注目も興味も失われたのか、元通りの商店街の道になる。
「おい、いつまで抱えているんだ、下ろせよ!」
「あ、ごめん」
とすん。
両脚がアスファルトに付く、やっと。
そしてすぐさま、振り返って怒鳴った。
「みなと!なに邪魔してんだよ!あれは売られた喧嘩だぞ、買うのが筋だ!」
「喧嘩なんてしたら制服が汚れるよ?」
夏香の喧嘩腰の言い方に慣れているらしく、歯牙にもかけない調子で言い返す。
「そうよ、その可愛い制服が汚れるのなんて見たくないわ」
みなとの後ろからひょいと彼女と同じ制服の生徒が現れた。
「樹里―――」
「それに、喧嘩なんてしたら女の子なのに顔に痣が付いてしまうじゃない」
「そうそう、女の子なんだからね」
ピキッ。
夏香は女の子なんだから、と言われるのが一番嫌いだ。
女だからどうして女の子らしくしなければならないのだ、するしないは自分が決めることで他人が決め付けることではないはず。
「うるさい、お前ら! 私は私だ!」
みなとには夏香は抱え上げられるほどに敵わない、ついでに言うと口でも理路整然と言ったことに言い返してくるので敵わない。
―――なので、出会ったら言い逃げすることにしている。
今日もいつもの如く、逃げようとしたら襟首を掴まれた。
「なっ、何する!!」
「母さんが夏香に会いたいんだって、連れて来てって言われているんだよ」
「知るかっ!」
またしてもバタつく、逃げられない。
「おばさま、夏香ちゃんのために美味しいものを作って待っているそうよ?」
ぴくっ。
樹里の言葉に夏香はバタつきを止める。
自分でも情けないと思うのだけれど、みなとの母親の作る“美味しいもの”は本当に美味しいのだ。
ほっぺたが落ちるほどに。
だから、ついいつもいいように釣られてしまう。
「食べたいよね? 夏香も」
自分の襟を掴んでいるみなとが、にっこりと笑う。
怖い笑いではないが、顔の筋肉だけで笑っているように感じて自分の顔の筋肉をヒクつかせた。
逆らうのは賢明ではない―――そう感じる、本能的なもの。
昔から夏香はみなとには弱かった。
「・・・・分かった」
いつも負け。
でも、喧嘩で負けたのではないので気分が悪くなるわけではなかった。
あのあと、商店街を抜けてすぐに黒塗りの高級車がやってきた。
みなとたちの通う学校はここら辺では有名なお嬢様学校で、商店街に基本的に足を運ぶことはない。
今日、商店街来たのは夏香を探すためだったらしい。
「セレブめ」
夏香は後部座席に座り、左右をみなとと樹里に挟まれながら悪態をつく。
気に入らない。
みなとにいいようにされているから。
しかし、そんな風に思っているのは本人だけでみなとも樹里も気にしていない。
学校の校風なのか、世間から少しばかり浮世離れしているお嬢様だからなのか。
「少しの間だから我慢してよ、夏香」
「そうよ、怒ってばっかりでは可愛い顔が台無しよ」
樹里が手持ちの櫛で夏香の髪を鋤いた。
それにはいいようにさせている。
樹里は夏香が思うほど美人だ、頭もいいし、化粧はしていないがいつもちゃんと身だしなみを整えていて夏香にその理由を諭す。
みなとには反発するが樹里には夏香は従順だった。
「ちゃんと髪の毛、とかしている?」
「とかしてるよ、くせっ気だからいつもこんなになる」
くるくると毛先が丸まってしまう毛をひとつかみして呟く。
とりあえず、ポニーテールにするくらいは長い。
わさっとした髪はウザいので上げてポニーテールにしているが今は樹里に下ろされて髪を鋤かれている状態。
面白がられているのは分かっていたけれど悪い気はしなかった。
「ふふっ、でもなっちゃんに似合っているから私は好きよ」
「ダメだよ、樹里。夏香は私のものなんだから」
みなとが髪を鋤かれている夏香の肩を抱いて自分の方に引き寄せる。
「おいっ」
「あら、誰のものも無いわ。夏香は」
みなとに反論して、樹里も取り返そうとする。
「おい、お前ら!」
自分を挟んでいつものことが起きる。
車のバックミラーを見れば、運転手が小さく笑っているのが見えた。
・・・こいつら――――
溜息をつく。
そうなのだ、この二人は幼馴染みの親友だが夏香を取り合っている間柄なのだ。
自分としては甚だ遺憾ではあるが。
そんなやりとりが、みなとの屋敷に着くまで続いた。
屋敷。
家と言うには表現が正しくない、お嬢様学校に通うくらいだから住んでいるところも一般的な家よりも屋敷だ。
しかも門から玄関に着くまでに車で5分かかるというバカでかい屋敷。
「なんで、樹里も行くんだ?」
「私もお呼ばれしているのよ」
ちなみに樹里の家はみなとの屋敷の隣にある、こちらも広さや豪華さでは負けてはいない。
時々、遊びに行くけれどいつも迷って内線で居場所を教える羽目になる(苦笑)。
「ようするに暇、なんだな」
「ま、そうとも言うわね」
揶揄して言ったのだけど、そこは否定しないらしい。
玄関に付くと、人が立っていた。
執事の小川さん。
もう老齢だけど、シャンとして年齢を感じさせない。
みなとの屋敷の大きさも、執事や屋敷で働くお手伝いさんたちの存在にも嫌でも慣れた。
「お帰りなさいませ、お嬢様、高宮様。いらっしゃいませ、山下様」
執事の小川さんに慇懃に迎え入れられる。
これにはいまだ慣れない、夏香は身体がかゆくなって無意識に肌をかいてしまう。
「ただいま」
「お邪魔しますわ」
「ちわっ」
三様に応える。
最後の夏香の一言も最初は気にしていたようだけれど今はもう気にしないようだ。
豪華な大扉を開けると映画かドラマのような大きな階段が現れる。
そこから2人ばかりお手伝いさんを連れたワンピースを着た女性が下りて来た。
「まあ、いらっしゃい!夏香さん」
自分の娘や隣の娘さんを無視して夏香の名前を呼ぶ。
「ちわ、おばさん」
夏香は誰であろうと態度は変えない。
態度が気に入られなくて、もう来なくてもいいと言われたら来るつもりもないから最初からいつも通りにしていたら変に気に入られてしまった。
「あら、今日は髪を下ろしているのね。可愛いわ」
ふんわりと笑って夏香の髪に触れる。
普段ならそんなことは誰にもさせないのだけれど、樹里とみなとの母親にだけはさせていた。
悪意が無いし、拒否する必要性も感じないのが理由だ。
「おばさんもいつも美人だね」
「ありがとう、ささこっちに来て頂戴。もう、準備してあるのよ」
にこにこと、こちらが楽しくなるような笑顔で夏香を引っ張る。
「母さん」
娘のみなとの声がいそいそと夏香を連れて行くのを止めた。
「なあに、みなと」
「夏香もいいけど、私も樹里も居るんだけど」
「分かっているわ、あなたたちは毎日会っているのだから挨拶はいいでしょう?」
と、来た。
自分の娘より、夏香らしい(苦笑)。
いつものことだけど少し可哀想な気がしてみなとには同情する。
二人とも肩をすくめた。
「私は着替えてくるから、樹里はあの二人と先に行っていて」
「ええ」
広間から準備しているという部屋に移動した。
大きな廊下を相変わらずの装飾にあんぐりしながら歩く。
「今日はね、フランスから珍しいお菓子も取寄せたのよ?たくさん食べて行ってね」
「へえ、楽しみだなぁ!」
夏香はお菓子には目がない、ご飯よりも好きと言ってもいい。
屋敷と評する家なので広いし、部屋の数も半端ない。
そうこうしていると一つの部屋に通された。
ひとつひとつの部屋にはテーマがあると言っていたけれどここは何だろうか。
フランス風、ベルサイユ風?
夏香にはよく分からないが、すごい造りなのは分かる。
装飾品も何もかも本物ということが、ある所にはあるらしい。
うちのアパートの広さんてこの半分くらいだし、家具にしたってなん分の一の価値もなさそうだ(苦笑)
少し大きな昔ながらの洋風テーブルの上に、お菓子が芸術的に並べられていた。
これを夏香のために準備したのだろうか。
娘のみなとより好待遇だ。
「おばさん・・・これやりすぎだよ、こんなに食べられない」
みなとや樹里が居ても、だ。
樹里はにこにこしているけど、さすがに内心では苦笑しているのが分かる。
「残してもいいのよ、持ち帰っても構わないの」
椅子への着席を促され、お手伝いさんが紅茶を入れてくれているのを待った。
「嬉しいけどさ、みなとはいいの?」
自分の娘ではなく、夏香ばかり構って。
「いいのよ、あの子には本当に尽くし甲斐が無いから」
溜息をつく。
まあ、それも分かる。
大人びているし、構い甲斐がないのは。
「悪かったですね、構い甲斐がなくて」
遅れてみなとが入って来た。
制服はスカートだったけれど、今はGパンとTシャツというラフな服装に着替えている。
お嬢様とはいいがたい装いではあるが。
「ほんと、夏香ちゃんみたいな子が欲しかったわ」
いやいや・・・そうなったらどうなるか分からないので遠慮したいと思う。
「夏香いっそ、養女になっちゃったら?」
みなとは面白そうに言う。
「あ、いいわね、それ」
嬉しそうにおばさんは手を叩く。
「いや、嫌だから、それ」
さすがにそれはないだろう。
「えー、そうなの夏香さん」
なんだって今更他の家の子供にならなねばならないのだ。
確かにおばさんのことは気に入っているけど、それとこれは別物。
それに―――・・・冗談とはいえ、あんなこと言い出したみなともどうかしている。
キッと睨む。
夏香が睨んでいるのに気づくとみなとは肩をすくめて、おどけて見せた。
「これよ、今はやりなんですってフランスで」
と、急な話題変更。
わざわざフランスから取寄せたというお菓子を取り分けてくれる。
「ありがとう、おばさん」
乱暴な言葉をよく使うけど礼はきちんと言える。
確かに珍しいお菓子だ、見たことも無い。
樹里を見ると彼女も首を軽く振る、知らないらしい。
「おばさまは世界のお菓子には目が無いですからね、新しいものが出るとすぐにより寄せたり、食べに行かれたりと羨ましいですわ」
樹里が上手にフォークとナイフを使って食べながら言った。
さすがに使い方が上手い、夏香などはほとんど箸か手なので使う時になるとうまく出来ない。
「手でも構わないわ、夏香さん」
「いいの?」
「ええ、手拭きはあるから。それに正式の場でもないですしね」
にっこりと。
優しそうなのが伝わって来る笑顔なので夏香も安心できる。
かぷっ。
一口食べる。
「ふうむ!」
「どう?」
咀嚼して、飲み込む。
紅茶でも少々。
「美味しい!」
「良かったわ、夏香さんが好きな味だと思ったの」
ぱくぱくぱく。
久しぶりにこんな美味しい菓子を食べたような気がする。
甘すぎず、生地がパサつかずしっとりとしていた。
「それは洋菓子だけど、こっちは和菓子よ? 私が作ったの、食べてみてくれるかしら?」
いかにも日本を思わせる色使いと繊細な着色した餡で作った和菓子。
さすがにこれは手で食べられないので用意されていた、それ用の楊枝で切り口の中に入れた。
「うむむ!!」
唸り声を上げてしまう。
「美味しいかしら?」
ぶんぶんと首を縦に振る。
みなとには笑われたけど、表現方法としては間違っていないだろう。
「これさ、ホントにおばさんが作ったの?」
信じられない。
家はお金持ちだし、お手伝いさんも居るのだから自分で作る必要が無いのに。
「そうよ、夏香さんに食べて欲しくて」
まだまだある(苦笑)
毎回、呼ばれる度にこうなのだ。
嬉しいけれど過度な接待なような気もしないでもない。
理由を聞くけどもなぜかいつも何となくはぐらかされる。
夏香も単純なのでその時は気にするが、すぐに気にしなくなるのでそれの繰り返しだった。
さすがに夕飯が食べられなくなるのでお菓子はほどほどにしたが、流れで夕飯を食べていってと引き止められる。
樹里はさすがにお菓子だけですでに自分の屋敷に戻っていた。
「いやーーさすがに夕飯までは食べていけないよ」
「夏香さんに食べさせてあげたいものを作らせたの、ぜひ食べて行って欲しいわ」
夕飯となるとお抱えシェフの出番かと思う。
みなとはもう、何も言わずにアンティークの椅子で本を読んでいる。
「でもさ、そんな豪勢なのには慣れてないし」
フォークとナイフを使う食事などだ。
「大丈夫、お箸もOKよ。それに私は誰にも何も言わせないから、ね?」
必死だ、必死に引き止める。
はあ・・・
おばさんにそう言われるといつも最後は根負けして、食べて行くことになる。
下手すると、泊ってゆくことにもなってしまうのだけど。
まあ、家に帰っても誰も居ないから問題は無い。
おばさんがこうしてしつこく誘ってくれるのは、家族のいない夏香に気を使ってくれているのかもしれなかった。
「分かった、ご馳走になるよ」
「本当?」
嬉しそうな顔になり、夏香の両手をしっかと掴む。
「うん」
「じゃあ、用意させるわね!時間まで待っていて頂戴」
さっそく側に居たお手伝いさんに言いつけて夕飯の準備をさせに行かせ、自分も部屋を出て行った。
例えは悪いけれど嵐が去って、静かな部屋になる。
「はあーーー」
さすがに大息を吐いて、椅子に身体を沈めた。
「自分の母親だけど、疲れない?」
「・・・まあ、でも色々と考えてくれていることの裏返しだから嫌とは言えない」
悪い人じゃないんだけどね、少し押しが強いけど(苦笑)。
「嫌なら嫌って言わないとなにからなにまで押し付けられるよ」
「本当に嫌なら言う」
手を伸ばして、冷めた紅茶を飲む。
ここに来ると美味しいものづくしだ。
うちには安物のコーヒーだの、紅茶だのがあるけどここには高級なものがある。
「それより、私の喧嘩を止めるな」
商店街のことを言う。
「背が足りないだろうに、負けるよ。夏香」
「負けねえよ!」
喧嘩にタッパの高低は関係ない。
「負けるって」
みなとは本をテーブルに置いて椅子から立ち上がると夏香の所に来た。
「あんなのに私が負けるわけがない」
正面に立たれたので見上げて言った。
背が低いことで弱いと見られるのも侮られるのも嫌だ、喧嘩なら勝つ自信はある。
「うん、夏香は強いからね。負けないかも」
「―――言っていることがさっきと、反対だぞ?」
腰を折って、両手を椅子の両肘に付く。
「女の子なんだから、喧嘩して顔に傷をつけないで欲しいの、私は」
「・・・・・」
こういうことをいう時のみなとは真剣な表情で言う。
茶化したり、ふざけたことを言うことを一切させないような雰囲気を纏って。
「それは・・・無理だぞ」
喧嘩は抑えようにも抑えられない時の方が多い。
相手にしないようにしようとしてもカチンときてしまうと一瞬で湯沸かし器になって突っかかってしまう。
「そうだねぇ、夏香のことは誰にも抑えられないね」
とはいえ、さっきのようになる時はある。
でも、それは本気で夏香が逃げようとしないからだ。
本気を出したらみなとがけがをしてしまうから、夏香は本気であの羽交い絞めから逃げなかった。
それを彼女も分かっている。
「それでも喧嘩はしないで欲しいって私は言う、顔に痣を作った夏香は見たくないんだよ」
じっと目を見て言う。
雰囲気が変わってきたのでそのままでは気まずくなる。
「喧嘩する、しないは私の勝手だ。みなとには関係ない」
みなとの身体を手で払いのけて椅子から立ち上がった。
「夏香」
「しつこい」
自分のことを思ってくれるのはありがたいがここまで踏み込んでこられるのは困る。
「まったく、言うことを聞かないんだから夏香は」
お手上げのポーズをしたから油断していた。
まさか、次の行動があるなどとは思ってもいなかった。
急に腕を掴まれ、みなとに引き寄せられる。
「な・・っ」
あっという間に夏香の身体はみなとの身体にすっぽりと包みこまれて抱きしめられた。
「バ、バカっ、何すんだ、みなと!」
もがく、力いっぱい。
ここは全力で。
けれど、どうあがいても抜け出ることが出来ない。
「何って、夏香を抱きしめている」
「離せって!」
「いやだ、離さない。久しぶりだしね」
にっこり笑う。
笑顔なのに空恐ろしい。
「やーめーろー」
両手を突っ張って身体を離そうとするも隙間が空きもしなかった。
それもこれも高低差のせいか。
喧嘩は関係ないと言ったけど、こういう時はモノを言う。
「ンっ―――」
唇が塞がれ、キスをされる。
するりと舌が入って来た。
「んっ、んっ」
もはや部屋には夏香の抵抗する声しかしない。
しかし、その抵抗もしばらくするとなくなった。
口内を探られ、舌を絡め取られる。
息継ぎもままならないくらい激しいキスが数分続いた。
「わ・・・分かった・・・から―――そんなに強く抱きしめるな、痛い」
キスのあと何とか間を縫って、夏香は言葉を吐き出せた。
「分かったって、なにを?」
みなとは離してくれないし、本気にもしていない感じだった。
「みなとが私の事を好きだってこと」
「どれだけ好きかなんて分かりっこないよ、夏香でもね」
「分かる、今のキスでだ」
ペチッ。
軽く頬の頬を叩く。
いきなり強引にキスをして来たから、少しは怒っているという意味も込めて。
「ごめん―――」
みなとはすぐに意を汲んで謝ってきた。
「ま、いいけど」
それでも抱く腕は解かない。
「今日は泊っていったらいいよ」
「おやつを食べて、夕飯までご馳走になって、さらには泊まるって?」
ズルズル引っ張られ過ぎだ。
「母さんも喜ぶしね」
「みなとも、の間違いじゃないか?」
呆れたように言う。
「一人で帰る家なんて寂しくない?」
「もう・・・慣れた、ずっと繰り返し生活して来たし」
夏香には両親が居ない。
親戚の叔母は居るが、一緒には暮らしていなかった。
独りで暮らしていられるのは死んだ両親が残してくれた遺産があるから。
「夏香」
顔を見合わせる。
いつも言いたいことを言い合い、喧嘩しているような二人に見えるけれど、実は恋人同士。
本当の二人の事を知っているのは樹里だけ。
夏香はツンデレだけどなかなかデレない、けれどほんの少しの間だけデレる時があってみなとはその時、天にも昇るような気持ちになる。
「私は夏香に泊っていって欲しいな」
「・・・部屋は別々だからな」
「じゃ、夜這いに行ってあげるよ」
「バカじゃね!」
ぺしっ。
今度は容赦なく、頭を叩いた。
「決まりだね、母さんに連絡する。喜ぶだろうな」
今度のみなとは嬉しい気持ちを抑えられなくてニヤケ顔になっていた。
そういう時は女子に人気だという、整っている顔も台無しになる。
それはそれで、夏香にしか見られないレアな表情だった。
ギッ。
ベッドが沈む感覚に目を覚ました。
いつもよりフカフカ、高級ベッドは夏香に早く就寝させたが感覚は失われないようだ。
「?」
灯りは完全に消灯せず、僅かばかり付けたまま寝ていた。
「・・・呆れた、本当に来たのか」
寝ぼけることも無く、夏香はベッドに乗って来た人物に向かって言った。
「せっかくのチャンスなのにみすみす逃すわけなにいかないよ」
見れば、パジャマ姿のみなとが居る。
宣言通り、夜這いに来たらしい。
「これまた可愛いのを着ているね、夏香」
「うるさい」
バシッ。
頭を叩く。
普段なら絶対に着ないフリフリの可愛いパジャマだが、おばさんの頼みなら仕方がないと着ている。
「痛いなあ、褒めたのに殴るの?」
「お前に褒められるとなんか腹が立つ」
特に顔がまたにやけているからだ。
「ひどいなあ、恋人なのに」
「それも許せない」
どうしてこうなったのか。
最初から、みなとのことが好きではなかったはずだ。
気にも止めなかったし、セレブと小市民では知り合うこともなかっただろうに。
「私は夏香と恋人同士になれて嬉しい」
「・・・・・」
嘘を言っていないのは分かる、悔しいことに。
「夏香は?」
分かっているだろうに聞いてくるのがまた、腹が立つ。
「ねえ、どうなの?」
するりと手が伸びてきて、夏香の首筋に触れる。
びくり。
夏香は身体をビクつかせた。
恐いのではない、身体が伸ばされた手に反応しただけ。
溜息を吐く。
「分かっているのに聞くのはどうかと思うぞ」
「聞きたいの、夏香の口から」
楽しんでいるのが分かるので絶対言いたくない。
夏香は掛け布団を被って寝た。
「ねえ、ってば」
掛け布団を被った上から夏香の身体を抱きしめてみなとは聞いてくる。
「しつこい!分かっているならいいじゃないか、私は何度も言わない」
恥ずかしいし、みなとのにやけ顔を見るのが嫌なのだ。
「もーツンなんだから、夏香は」
「ふざけたこと言ってないで寝ろ」
明日は休みではなく、学校なのだ。
ここから通わないといけない、おばさんがあの高級車を回してくれるだろうけれど。
派手過ぎて学校の前までは乗り付けない(苦笑)
「何言っているの、私は夜這いに来たんだよ?」
「・・・・・」
そうだった。
「いいよね?」
掛け布団越しだけれど、夏香の身体を抱きしめる手が確実になって来る。
「・・・嫌だって言ってもするんだろう?」
夏香は億劫そうに掛け布団から顔を出した。
「そう、分かっているじゃない」
にっこり笑う、みなと。
ここまで来て何もしないで帰るみなとでもないことは知っている。
それに―――みなとを拒否しているようにみえて、自分自身もこのまま追い返す気がないことは自覚していた。
ようするに、お互い思っていることは一緒ということだ。
悔しいことに。
「しようがないな、手加減してくれよな」
夏香は自分の気持ちを素直に表現できない。
理由としてそれはみなとに対する照れであり、恥ずかしさ。
「うん、そうする」
みなとは両手で上体を起こし、夏香を見下ろしながら言った。
「忘れ物は無いかしら、夏香さん?」
おばさんが直々正面玄関にお見送りに来てくれる、いかに自分が好待遇かうかがい知れる。
ここの屋敷はほとんどおばさんが仕切っていて、みなとのお父さんは仕事が忙しく滅多に帰って来ないらしい。
忙しい事はそれはそれで大変なのだと思う。
「おばさん、忙しいのに見送りなんていいのに」
小学生じゃないから、忘れ物もない。
「いいのよ、好きでしているのだから。また遊びに―――泊りに来てね」
「うん、ありがと」
実のところ、家族が居ないからいつも家では一人だった。
自分の他に人の気配があるということは少しホッとする。
「私は樹里の車で行くから、ここでお別れ。気を付けてね、夏香」
昨晩のことなど微塵も感じさせずにみなとは笑って言う。
「ああ」
自分の方は少し顔の筋肉がヒクついていたかもしれない。
みなとのように上手く、感情を制御できないから。
車に乗ると滑るように発車した。
「――――いってぇ」
ペチ、ペチ!
赤チンを傷口に容赦なく塗りたくられる。
「黙る」
珍しくみなとが怒っている。
滅多に怒らないので怒ると少々夏香には怖い。
何に怒っているのかは明白で、自分が悪いのは分かっていた。
しかし・・・自分が喧嘩する時になると決まってみなとに見つかるのは何故だろうか。
学校は離れているし、通学路ではない夏香の生活圏に何故か居る。
ストーカーってことも無いだろうけど―――
いつも不思議だった。
そして今日も喧嘩の最中に割って入って来た。
お嬢様で、こんな喧嘩などとは縁遠いくせに、なぜか凄む時は不良たちより迫力がある。
喧嘩まではしなかったけど、喧嘩になったらどうなるのか知りたいとも思ってしまう。
まさか、強いのだろうか?
治療が終わるまでみなとは何も言わなかった。
夏香の家には救急箱がある、いつも喧嘩するからだ。
病院は嫌いで滅多に行かない、できるだけ自分で治す。
喧嘩を仲裁され、途中で切り上げさせられた夏香はみなとに引きずられるように自分のマンションに連れて来られて今に至る。
「終了」
「さ・・・サンキュー」
礼を言うのもおっかなびっくりといった感じなる。
普段、怒らない人間を怒らせると怖い。
パタン。
救急箱の蓋が閉められ、じっと顔を見られた。
殴られることはないだろうけど、何か言われるのは分かっていた。
喧嘩することは自分の責任だし、怪我をするのもそう。
怒られる、何か言われる筋合いはないのだけれど・・・
「殴り合いの喧嘩をするなんて、女の子の顔じゃないよ、今の夏香」
1発、殴られた。
あとは殴って、殴り返した。
その1発だけ。
みなとの言葉に言い返しても良かったけど、自分を思って言ってくれているのはわかっていたから言い返さない。
ここはぐっと我慢する。
「ああ」
「明日も学校があるのにどうするの?」
鏡に自分の顔を写されて見せられる。
「どうもしない、このまま行くしかないだろ」
今までだったそうしてきたし、これからもだ。
「1発、お見舞いして逃げたらいいのに」
「そんなわけには行くか」
逃げるのは卑怯だと思っている、まして勝ち逃げとかなんて。
「ずっとこんなことしているつもり?」
「まさか」
こんなことは学生の時分でしか出来ない、卒業したら社会人になるのだ。
「こんなこと、少し早く卒業して大人になるべきだよ」
「・・・・・」
真面目な顔で言われるから冗談も、茶化すこともできない。
みなとが言いたいことは分かる。
自分でも、そう思っていた。
それでも、瞬間湯沸かし器のようになっていつも相手をしてしまうのだ。
「それに、夏香が殴られるのは自分が殴られるみたいで私が嫌なの。いつも心配しているんだよ? また喧嘩しているんじゃないかって」
いつもの態度からは分からないけど、みなとが自分の事を心配してくれていることは分かっている。
喧嘩相手と夏香の間に割って入ってふざけたように引離すけど、その態度とは裏腹にケガをしないか心配をしてくれているのを。
「分かっているけどさ」
どうにもならない、勝手に身体が動いてしまうのだ。
「まあ・・・あの人数で殴られたのは1発程度だから夏香が強いのは分かるけどさ、女の子なんだし」
「そんなこと言ってくれるのはみなとくらいだな、あと樹里」
あと、ほとんどの学校の同級生や先生たちは女とは思っていないのではないか。
「普通にしていたら可愛いんだからさ、ね?」
みなとがついっと側に寄って来る。
「口の中―――切ったから痛いんだ」
夏香は近寄って来たみなとを片手で押しとどめた。
「大丈夫」
「何がだよ」
その手を取られ、引っ張られる。
「わっ」
体力じゃ夏香は負けないけど、瞬発力はみなとに負ける。
あと、口喧嘩だけは。
いつの間にか、みなとの腕の中にすっぽりと納まっていた。
「離せ―――!」
「ダメ、離さない。もう喧嘩しないって言うまでね」
逃げようと暴れるもとんでもない力で抑えつけられる、びくともしない。
「お前、本当はお嬢様じゃないだろ?!」
「なんで? それって差別だなあ、お嬢様だとか弱くないとダメなの?」
樹里はみたまんまのお嬢様だ。
みなとは制服を着て立っていれば樹里と同じく見える。
けれど、日常は夏香と大して変わらない。
「んっ、んんっ」
口の中が痛いと言っているのにみなとがキスをしてきた。
お互い納得ずくでキスする時の方が少なかった。
それでも・・・恥ずかしいからこういう流れでみなととキスする方がいい。
みなとには言わないけど。
少しばかりの抵抗をして夏香は痛くならないようにキスに応えた。
床に倒れ込む。
何も敷いていないから板張りだから背中が痛い。
みなとはしばらく長めのキスをしてから唇を離した。
「もう喧嘩しない?」
さらりと、上になったみなとの髪が下りてくる。
自分の髪の毛と比べたら、ストレートのサラサラヘアの髪は羨ましいくらいに綺麗だった。
触らせてくれと言えば触らせてくれるだろう、憎らしい笑みを浮かべて。
「不明確なことは言えない」
また吹っ掛けられたら喧嘩をするかもしれない、これは性格としか言いようがない。
「どうしたら喧嘩しないでくれるのかな、夏香」
「無理だ」
「私は毎回、止めには入れないかもしれないんだよ?」
夏香のことを思って言ってくれていることは重々感じるし、表情からも伝わる。
「自分の事は自分できる、無謀じゃない。怪我だって1発殴られたくらいだぞ」
「分かってないね、1発でも殴られると痛いんだ。それが自分自身の痛みじゃなくても」
みなとの顔が近づいてきて、頬に唇が触れた。
殴られた方の頬に。
「痛いのか、実際に殴られたわけじゃないのに?」
「痛いよ、誰も信じないと思うけど―――」
僅かにみなとの表情がゆがむ。
「私の痛みが分かるのか」
「分かる。どうしてか分からないけどね」
現実的ではない事だけど本人がそう言っているのだ、いつも見せない真面目な表情で。
「・・・でも、無理なものは無理だ。そんなものを私に求めるなよ」
「・・・だよね」
分かっていたという風に苦笑する。
「悪いな」
夏香はみなとの首に腕を回した。
「じゃあ、せめて殴られないようにして夏香」
「いつもしてる」
「今日は殴られたじゃない」
「―――あー言えば、こう言うなよ、面倒くさい奴だな!」
声を荒げて言ったけど、みなととのこういうやり取りが夏香は好きだ。
もう、真剣な話はおしまい。
「・・・もう、帰るか?」
「この状況で?」
二人とも床に倒れ込んでいる、みなとが夏香を押し倒して。
「だよな、お前がこんなおいしい好機逃すはずはないもんな」
「分かってるじゃない」
みなとは夏香の上に身体を落とすと、再びキスをしてきた。
今度は夏香もそれに応える。
さっきは急にだったし、自分の気持ちが無い時だったので嫌だったけれど今は違う。
言い合いはよくするけど、それは喧嘩ではない。
「みなと―――」
夏香の声が上がる。
みなとの身体にしがみついてキスに応えながら。
「好きだよ」
一旦、唇へのキスを止めて自分の唇を頬に滑らせるようにして耳元に移動するとみなとは囁く。
どくん。
いつもは反発するけれど夏香はみなとの事は好きだ。
みなとのように言葉にはしないけど―――
だからこうして抱かれるのも嫌いじゃない。
手が制服の裾から滑り込んできた。
「―――んっ」
びくり、と身体が反応する。
「酷いことしないよ」
「わ・・・分かってる」
その会話の間にも手は夏香の肌を這い、ブラジャーを覆った。
「今度、もっと可愛いのを樹里も誘って買いに行こうよ」
ブラジャーの話。
夏香は機能的なものが好きだ。
動きづらいものは意味がない、可愛いとかは二の次なのでいつもみなとが見るとため息を付くのだった。
そう囁かれたが夏香にそれに応える余裕が今は無い。
しがみついてみなとが与えてくることを受け止めているのが精一杯。
「ぁ・・・んっ」
手が意思を持って動き出したので悩まし気な声を上げてしまう。
こうなるとさしもの夏香ももう、おとなしくなる。
みなとの思うがままになるだけだった。
「ちゃんと食べてる?」
冷蔵庫を開けて中を見たみなとはリビングの夏香に言った。
「食べてるよ、生きてるだろ?」
自分の家なのであの後、お風呂に入って部屋着に着替えている。
みなとは制服の上着だけ脱いだ格好。
「そうじゃないよ、バランスよく食べているかってこと」
何やら冷凍庫から取り出す。
「冷凍食品しかないじゃない、レンジでチン」
「美味いんだぞ、それ」
冷凍食品は夏香の好物。
「美味しいのは分かるけど、少しは料理した方がいいよ」
「面倒くさい」
便利なものがあるのだからそれを使うべきだ。
「しようがないね、夏香は」
「作れる人が作ればいいさ、な? みなと」
何か作ってくれるつもりらしいから、期待して髪をタオルで拭きながら言う。
何から何までお手伝いさんがやってくれるというのに、みなとは料理もできる。
『立場に甘んじているより、出来ることが多い方がいいじゃない?』
夏香が聞いたらそう答えが返って来た。
ただのお嬢様ではないようだということがそれで強く印象付けられた。
「・・・冷蔵庫にもそんなに入ってない、無いものからはなにもつくれないよ、私も」
「来るとき、スーパーに寄れば良かったか?」
「そんな、余裕なかったじゃない」
みなとは怒って夏香に何も言わせずにマンションまで連れて来たからだ。
「いつもの通り、レンジでチンかぁ」
「それでいいじゃん、今度作ってくれればいいよ」
腕を披露する場はいつも夏香のマンション、それ以外で披露することは無いらしい。
「わかった」
キッチンでみなとが、ため息をつくのが分かった。
時計を見ればもう、19時過ぎ。
夕飯の時間だ。
いつもは一人で冷凍飯を解凍して食べているけど、今日はみなとが居る。
ほとんど、みなとの屋敷に呼ばれることが多いので夏香のマンションは珍しい。
「時々、食べると美味いだろ?」
冷凍食品のピラフを食べる目の前のみなとに言う。
独り暮らしで大きな机はいらないのでリビングの背の低いテーブルで食べる。
これで冬はこたつに変身して暖を取るようになっている。
「まあ、そうだね」
納得いかないと言ったような表情をしていたけど、美味しいみたいなので否定はしない。
「なんつってもみなとの所はお抱えシェフが作ってくれるんだから、こんなの滅多に食べないだろうからな」
シェフの料理も美味いけど。
「ねえ、夏香」
「なに?」
「今度、母さんが旅行に行くみたい」
みなみが言う。
「へえ、いいよなぁ。おばさんだから外国かな」
「国内だよ、温泉巡り」
意外に思う。
「温泉が好きなのか? 大体外国で優雅に羽を伸ばしているイメージだけど」
「夏香は金持ちのイメージを強く持ちすぎ」
「だって、金持ちだろ?」
「・・・まぁ、普通よりは」
何言ってんだ、あんなでかい屋敷に住んで通うのは全国でも有数のお嬢様学校だし、通学は高級外車。
どこからどう見ても、金持ちは否定できないだろうに。
「あー、別に私はどうも思ってないから気にすんなよ」
一般市民の夏香とセレブのみなととは、かなり隔たりがあるかと思いがちだが意外に、二人には無かった。
ありがちな別々の生活習慣による相違が。
「ありがと」
みなとは複雑な表情をしているけれど。
「それでさ、夏香を誘えって言ってきた」
「は?」
一瞬ほど、思考停止。
「・・・おかしいだろ?」
常々、屋敷に呼んで実の娘より可愛がっているけど今度は旅行に一緒に連れて行きたいとは程がある。
「そう言ったんだけど、母さんが聞かないの」
はあ、とため息。
ほとほと困り果てているような感じ。
「赤の他人だぞ、私は」
「そうなんだけどね、もうその気で行く気満々なの」
「本人の意思もなくか」
「だから、夏香がNOと言わないと思っているか、私が夏香をなんとしても説得してくると思っているの」
困り果てているみなと、さすがに旅行には夏香が付いてくるとは思っていないようだ。
「夏香、出不精だからやっぱり行かないよね?」
“行かない”と分かっているからか、みなとは話しただけで説得はしない。
まあ、おばさん以外の誘いならNOと断るところだけど・・・
「行ってもいい」
「は?!」
今度はみなとが夏香のようになった。
「おばさんがせっかく誘ってくれているなら行く」
「・・・旅行だよ?」
「温泉旅行だろ? ちなみにみなとも行くのか?」
おばさんが行くなら、みなとも行くかと思っていた。
「行けない、学校があるから無理」
私立と公立では休みが違うのか、それとも学校行事があるのか。
みなとのことだ、成績は問題ないだろうとは思うけれど。
「なんだ、行かないのか」
「本当は行きたいんだよ、母さんと一緒だけど夏香とだし」
悔しそうに言う。
「残念だな、今度行こうぜ」
おばさん、娘と行かなくて娘の友達と温泉旅行に行くという変わり者。
「もーなんで、学校の用事があるのかなあ」
叫ぶように言うみなと。
「お土産買ってくるからさ、楽しみに待っていろよ」
「むう―――」
余程、夏香と行けないのが悔しいのか車が迎えに来て乗り込むまで唸っていた。
39.6℃。
体温計の計測は何度見ても変わらない。
ついでに言うと、身体も同様に怠いし気分は悪いし熱のためかぼーっとしている。
旅行は明日。
ベッドから出ることも出来ない、今の夏香の情況は最悪の体調だった。
ゴホッ、ゴホッ。
こういう時、一人だと大変だと身をもって知っている。
なので、風邪を引いた時の薬はたくさん用意していた。
とりあえず明日の旅行は無理だな―――――
ぼっとしている頭でなんとか考えてから、スマホでメールをみなとに打った。
打った内容はすぐに忘れているほど、思考能力も無くなってしまっている。
横になってメールを打つ作業ですらも億劫で、打ち終えるとスマホが手からするりと滑り落ちた。
まずい・・・今度のは本格的かも・・・
息をするもの苦しい。
今まで風邪は何度も引いているけど、今回はいままでより重いかもしれない。
ゴホッ。
咳をすると胸が痛む。
薬を飲んだけど、症状があまりよくなった感じがしない。
みなと―――・・・
ぼうっとしているくせにこういう時、頭に浮かぶのはあのニヤケ面なのは何となくムッとしたものの、やっぱり一番信頼している人間の顔が浮かぶのかと夏香は朦朧とした意識で思った。
ひやり。
熱くて、息苦しくて、何も考えられないくらいぼうっとしていたのにいつの間にか身体が軽くなっていた。
夏香は冷たさに目を覚ました。
身体にはまだ怠さが残っていて、すぐに動かす事はできなかったけれど視線だけゆっくり動かす。
違う――――
自分が居るのは自分のベッド、自分の部屋ではないのが分かる。
自分の身体を支えているベッドはフカフカしているし、部屋が広い。
うちはこんなに広くないし、見覚えのない装飾品などがたくさんある。
「・・・みなとか」
それしかない。
風邪だから明日の旅行は行けないとだけメールしただけだけれど、独り暮らしの夏香を心配して手配してくれたのだろうと思う。
あのひどい状況は脱したようだ、咳も出ない。
感謝しないとな・・・つくづく勘がいいというか。
目は覚めたけれど身体に力が入らなかった。
仕方なく寝ようと目をつぶろうとした時、扉の開く音がした。
部屋が大きいので寝ている状況で入って来た人間が誰かは分からない。
仕方が無いので分かるまで声を出さなかった。
「―――みなと」
入って来たのは銀の容器を持ってきたみなとだった。
いつものTシャツにGパンとラフな格好で。
「起きたの? 身体の調子はどう?」
「大分いい・・・朝は死ぬかと思った」
正直なところ。
薬を飲んでも良くなるような感じはしなかったし。
「喉乾いてない? 水飲む?」
夏香はコクリと頷いた。
出した汗のせいで全身、内部から乾燥しているようだ。
喉が張り付いて声もあまり出せない。
みなみは水差しを口元に持ってきて、飲ませてくれる。
ごくり、ごくり。
喉を通る水は冷水ではないのに冷たく喉の粘膜を潤した。
「夏香、何で連絡くれなかったの」
「忘れてた」
こんな状態じゃ旅行に行けないなあ、と思っていたからそれが最優先で知らせることだった。
自分の状態は二の次だったけど、いざとなったら症状が酷くなって連絡もなにもできなくたったという・・・
「忘れていたってね・・・私が見つけた時、酷い状態だったよ?」
「ごめん」
素直に謝る。
誰にも頼れない時、一番頼れる人物は彼女だけだというのに―――
「そのまま、うちまで運んでお医者さんを呼んで」
「悪かったよ・・・」
「今度からはちゃんと連絡して、私に繋がらなかったらうちでもいいから」
強い調子で怒られる。
怒鳴られると思っていたから拍子抜けする。
額に乗せていたタオルを取り、持ってきた銀の器の中で水に浸してからまた夏香の額に戻す。
「ほんとに、どうなるかと思ったんだからね」
ベッドの近くに置いてある椅子に座ってみなとは言った。
「揺すっても全然、目を開けないし。汗をかいて動かないし」
「助かったよ、サンキュー」
「反省してない」
「―――しているよ、今度からは助けを求める」
まだ、若い身空で死にたくないし。
「おばさんには悪いことをしたなあ・・・」
せっかく楽しみにしていただろうに、直前になってのキャンセルは。
「仕方がないでしょ、夏香がこんな状態じゃ。でも、諦めていないみたいだから日を改めて誘うかも」
ぷっと夏香は小さく笑う。
諦めていないんだ、旅行。
おばさんらしくていいなと思う。
「みなと」
「うん?」
もぞ。
水を補給して少し、腕が動くようになったので布団から手を伸ばした。
「・・・みなとも行ける日程ならいいな」
「今度は風邪をひかないように、夏香」
「そう言うこと、言うか?」
そこはうん、だろうに(苦笑)。
「明日1日は休んだ方がいい、夏香の学校には母さんが連絡しておくから」
「おばさんが?」
「うん、私じゃ説得力ないからね。大人の方がいい」
なんだか、うちの叔母さんよりみなとのお母さんの方が親身になってくれている感じ。
どうしてそんなに親身になってくれるのだろうか。
一度、聞いたことがあるけど気に入った、好きになっただけでここまでするだろうか。
「みなと・・・おばさんさ、何でこんなに私にしてくれるんだ?」
手が触れて握った。
「深くは私も聞いてない、でも夏香の事を随分と気に入っているからじゃないかな」
「あからさまに、娘のお前よりもだぞ?」
「そうなんだけどね」
苦笑する。
「嫌じゃないのか? 実の母親なのに」
今まで胸の奥でチクリと気にしていた事を聞く。
「夏香のことは母もそうだけど、私も好きだよ。だから嫌じゃない」
「私の事が好きでも、いくらなんでも変に思うくらいだぞ」
「いいじゃない、こういう好きの表現もあるの。嫌じゃないなら受け取っておいて」
みなとは掴んでいる手を持ち上げ、顔を近づけると指にキスをした。
それだけで夏香の体温が少し上がる。
物理的ではなく、心理的に。
こういう時にも狙ったようにするのはみなとの真骨頂ともいえる。
「みなと」
「夏香と一つ屋根の下に居られて嬉しいよ」
「夜這いなんてかけたら風邪が移るからな」
「―――しないよ、元気になったらするよ。夏香、おやすみ」
聞き捨てならない事をさらりと言ったのに気づいたけど大目にみることにする。
「おやすみ」
私が答えるとベッドの近くの小さい明かりを残して部屋の電気が消えた。
みなとの屋敷も広いけれど樹里の屋敷もかなり大きい。
樹里の祖父が創業した店が大きくなって今や世界規模で仕事をしているらしい。
「もう、風邪は大丈夫なの?」
今日はみなと抜きで樹里のところにお茶のお呼ばれをした。
2人が別々なのは珍しい、いつも対なのに。
「ああ、ありがたいことにね」
用意されたお菓子も美味しいし、紅茶も美味い。
ただ、座っている椅子が何十世紀のアンティークものなのが気にかかる。
さすがの夏香も、お茶をこぼしたら、菓子のかけらを落としたらと思うと気が気でない。
「良かった。なっちゃんは独り暮らしなんだから、みなとを酷使していいのよ? 本人もその気なのだし」
「ああ、今後はそうするよ」
実際は思いつかなかったのだ、みなとの顔は思い浮かんだのに(笑)。
「――それより、珍しいよな、樹里だけって」
疑問をぶつける。
「あのね、私がいつもみなとに引っ付いているわけじゃないのよ?」
樹里は笑う。
「まあ、そうなんだろうけど・・・いつも一緒のイメージがあるからかな」
「幼馴染とか、家がお隣さんとか、母親が知り合いというのもあるかもしれないけど」
「ふうん」
部屋の洋風のテラスに出る窓からは隣のみなとの屋敷が見える。
何してんのかな―――
無意識にみなとのことを考えてしまい、ブルブルと首を振って追い払う。
みなとの事は好きだけど、四六時中考えているわけではないと思い切る。
夏香にはなんとなくそういう感じが恥ずかしい。
想うことも、思われることも。
クスっ。
樹里の笑う様子に彼女を見た。
「なんだよ」
「別に」
「別にって顔じゃないだろ、それ」
今の夏香心境を見透かしているような表情に顔が熱くなる。
例え樹里にでも自分の最部を人に知られるのは恥ずかしい、みなととは相思相愛と知っている樹里だけどそれでも、だ。
「ほんと、素直じゃないって思っていたの」
「・・・悪かったな」
みなとには天邪鬼で、つい反発してしまう。
多分、何をしてもあの顔で笑って許してくれるからだろう。
「ね、みなとが今日何をしているのか知りたい?」
「えっ」
顔を上げる。
「ふふふ、内緒にしておいてって言われたけど教えちゃおうかな」
悪魔モードだ、樹里。
彼女もお嬢様だが、付き合ってわかったけどこちらも全然普通じゃない。
2面性がある。
「怖いな、変なことじゃないだろうな?」
「全然。でも、本人は嫌がっていたけど」
本人が嫌がっていた?
そういえば、おばさんも一緒らしい。
「聞きたい?」
勿体付けてくる。
「樹里、勿体付けるなよ」
夏香は強く言って、話を促した。
「今日ね、みなとはお見合いなの」
さくっと、世間話でもするように樹里は言った。
あまりにも軽く話されたので話がよく理解できない。
「え・・・っと、お見合い?」
そう聞こえた。
「そう、お見合い」
樹里が頷く。
「お見合い!?」
思わず、椅子を立ち上がってしまった。
動揺を全く隠せない。
夏香には無縁のものだし、周りの同級生にも無縁のものだろう。
普通に生活をしていたら。
それが、急に唐突に自分の目の前に現れた。
「落ち着いて、なっちゃん」
笑顔のままの樹里は座るように促す。
「珍しくないの、うちの学校では」
「あ、ああ―――」
詳しくはないけれど、大まかな事は情報として耳に入っている。
周りの大人たち、色々な人たちが話しをして、それを聞いているから。
「系列の大学を卒業して、結婚する子もいるけど高校卒業を待って結婚というのも多いわ」
いいところのお嬢様はそういうこともあるらしいとは聞いていたけど・・・まさかみなとにも―――
「それだったら、樹里もなのか?」
「ふふふ――どうかしらね」
樹里は夏香の問いを濁す。
「ふうん・・・お見合いか」
関係ない、と言いたかったけれど声に出せなかった。
驚き過ぎて。
お見合い。
まったく縁遠い言葉だし、現実感も無いのにみなとが関わっているというだけで何故かキリリと胸が痛む。
「でも、大丈夫よ。おじさまの体面を慮ってのお見合いだから」
地獄に突き落として天国に引っ張り上げるように樹里が言う、UP DOUNが激しい。
「えっ」
「だって、みなとはなっちゃんの事が大好きなのよ? 結婚するわけがないわ」
そりゃあ・・・好き、なのは分かっている(苦笑)。
しつこいくらい、好きって言ってくるし、好き、好きオーラを発散しているから。
でも――――
「それにおばさまも、最終的にOKを出すとは思えないし」
「そこでおばさんなのかよ、オヤジさんじゃなくて」
「みなとのうちは女系家族なの、おじ様は婿養子で権力があるのはおばさま」
「・・・闇の権力者かよ、おばさん」
一番、強い人に好かれていたらしいと知って夏香は苦笑する。
「だから、安心して」
「安心ってなあ・・・人を驚かせてすぐに落ち着けるか!」
ドン、とテーブルを思わず叩く。
けれどすぐに我に返って、ゆっくりと手を上げてテーブルの面を確認した。
「大丈夫よ、それくらいでは壊れないから」
「わ・・・悪い」
ここはすべてが高級アンティーク家具なのだ、自分の家とは違う。
つい、忘れがちだけど。
「良かった、なっちゃんもみなとの事が好きって確認できて」
「こんなんで、試すなよ」
心臓に悪い、知らない方が良かったじゃないか。
知ったら余計な心配をしないといけないし・・・
口の中が渇いてしまったので紅茶で潤す。
「でも、試すというより面白がっているだろ?」
みなとと夏香のことで。
「フフフフ」
その笑いは肯定と受け取るぞ、樹里。
「まったく・・・樹里は他に楽しみが無いのか?」
「あなたたちを見ている方がずっと楽しいわ」
優雅に笑ってクッキーを口に運ぶ、その姿は憎らしい程に似合っていた。
夕方まで樹里の家に居たけど、隣が帰って来る気配はない。
仕方がないので(?)樹里の家の車がマンションまで送ってくれることになった。
「サンキュー」
下ろしてもらい、礼を言うと車の扉を閉めて見送った。
こういうのに慣れたらバスや歩きの日常が嫌になるかもしれない(苦笑)。
慣れるつもりはないけれど―――と思って、足が止まる。
マンションの入り口に制服姿じゃない、みなとが居た。
着ている洋服も見合い仕様なのだろう、いつものみなとじゃないように見えた。
「夏香」
姿をみとめて顔を上げるみなと。
一瞬、言葉が出てこなかった。
軽口さえも。
ぎこちなくなってしまう。
「あ、おう・・・みなと―――—」
その様子に、みなとが苦笑する。
「樹里が言ったんだって?」
「なにをだよ」
知っているけれど知らない振りをした。
「お見合いのこと」
「・・・・・・」
口を開きかけても言葉が出ない。
お見合いという言葉が、夏香が発しようとする言葉を邪魔してしまう。
「父さんの体面でしているだけだから・・・本心じゃないよ」
「それを言いに来たのかよ」
はあ、と息を吐く。
分かっているのに、わざわざマンションまで言いに来るとは。
「気にしているかと思って、夏香が」
「するか、そんなもん」
夏香は短く言うとマンションの中に入ろうとした。
みなとは言うだけ言って動かない。
「・・・なんだよ、そこにずっと突っ立てるつもりか? 樹里から美味い紅茶を貰ったから飲んで行けよ」
そう言うとみなとの表情がぱっと明るくなる。
ゲンキンな奴。
そう思うと夏香は頬が緩んで笑っていた。
「―――女って面倒くさいな」
「そうだよ、面倒くさいよ」
樹里から貰った紅茶を新しくお湯を沸かして入れた。
電気ポットではなく、やかんで。
その方が、味わいが深くなるという樹里の言葉を借りて。
リビングに少し大きめのソファーが増えた。
それに並んで座り、夏香はみなとの肩に頭を乗せている。
みなとの腕は夏香の腰に。
珍しく言い合いも無く二人は密着していた。
「私が男なら良かったのに」
みなとは言う。
男のみなとは想像できない、どんな感じだろうか。
見た目は時々、男に間違われるけれど(笑)。
「自分で伴侶を決められるし、夏香と結婚できるのに」
「女は面倒だけど、障害があった方が面白いんだよ」
そう言うとみなとが顔を上げて夏香を見た。
「・・・夏香は強いなぁ」
「みなとは弱気なのかよ、私と付き合って」
自分から怒涛の告白し、強引に付き合うようにしむけたくせに。
夏香はみなとのことが最初から好きだったわけじゃない。
なんだ、こいつと思っていた。
ヘラヘラしているし、人をおちょくるし。
女の子だからと言って喧嘩は止めるし。
「そうじゃないよ、私がお見合いしても信じてくれているからだよ」
みなとの唇が夏香の前髪に落とされる。
「あと、何回するんだ?」
身体を引き寄せられながら聞いてみた。
有名女子高卒の子女など引く手あまただし、大概相手はやはり、年上だろう。
「分からないな・・・父さんの付き合いによるとは思うけど」
「別に、オヤジさん顔を立てるためなら私の事は気にしなくてもいいぞ」
みなとの気持ちは今日、再度知った。
お見合いと聞いて驚いたけど、事実を知れば心穏やかだ。
「嫉妬しない?」
「―――なんで嫉妬するんだよ、知らない同士が話すだけだろ?」
「確かに、そうだね」
みなとが苦笑する。
夏香はごちゃごちゃしたことは苦手だ、簡単明確であることがいい。
「・・・それより、思ったんだけどさ」
「なに?」
みなとのお見合い話で現実を直視することになったので、考えた事を言うつもり。
抱き寄せてそのまま、夏香の肌に愛撫するつもりだったみなとを手で押し返した。
「夏香?」
「卒業したら、みなとはどうするんだ? 私たちはどうなる?」
みなとは動くのをやめた。
突然、そんなことを言われて思考が追い付かないというころか。
「な・・・に言って―――」
うろたえた表情がそれを物語る。
「考えてないのか?」
実のところ、夏香も今まで考えていなかった。
しばらく返答がない、固い表情で固まったままのみなと。
「私は卒業したら働く、介護ヘルパーの仕事だ。免許も取っている途中だよ」
なり手が少ないから、すぐに決まるだろう。
ただ、大変な仕事であることは間違いない。
「みなとは何をするんだ?」
「・・・大学に行くよ―――経済学に興味があるから」
遅れて返事が返ってきた。
「そうか、やりたいことはあるんだな」
ほっとした。
卒業してあの屋敷でゴロゴロしていると聞いたら呆れるところだ。
実際にそれがみなとには出来るけれど。
「で、私と付き合いは続けるつもりか?」
そこが問題。
「・・・なんでそんな話が出てくるのかが分からないんだけど、夏香」
「なんで?」
「だって、私たちって高校卒業までの付き合いなの?」
付き合うとき、期間限定とは言わなかったな。
「じゃあ、継続で」
「普通は、継続でしょ? 夏香が変なこと言うからびっくりしたよ」
額の汗をぬぐう仕草をする。
「そんなに変か?」
「お互い好きで付き合っているのに、嫌いにもなっていないのに高校卒業したら別れる?って聞いているようなものだよ」
そういういう認識で聞いたわけではなかったんだけどな、確認の意味で聞いただけで。
「みなとは大学、私は職場だとあまり会えなくなるな」
夏香はみなとに抱きつく。
「まだ先だよ」
やっと夏香を身の内に引き寄せることができてみなとの表情がいつものようになる。
「そう言っていても、時間が経つのはあっという間だぞ」
「・・・確かにそうだね、それまでにはもっとちゃんと夏香とのことを考えておくよ」
みなとの手が髪を愛おしく撫でつけた。
「任せる」
夏香は目をつぶると抱きついたまましばらくそのままでいた。
商店街で行く手を塞がれ、夏香は顔を上げた。
「どけよ」
毎回、毎回、ご苦労なことでいつもの嫌がらせ。
背が低いのは夏香のせいじゃない、牛乳を飲んでいるけど成果は出ていなかった。
「探したぞ、この間の礼はしてなかったよな?」
相手は5人。
これくらいの差はどうにでもできる自信がある。
「この間っていつだよ、もうずいぶんと前だぞ」
叩きのめしたのは半年も前のこと、そのあとは避けていたから会う事はなかった。
下半身、特に足に力を込める。
商店街は人が多い、逃げるには障害になって最適だ。
もう、喧嘩なんてしない。
「うるせぇ!」
「お前こそなぁ!」
バシッ。
「うわっ!」
カバンを振りまわし、相手に一撃すると一気に走った。
「なっ、逃げる気か!!」
不意を付かれ、尻もちをついたリーダー格のヤギが叫ぶ。
何とでも言え、喧嘩はもうしない。
子供の遊びは終わりにする。
「捕まえてみろ――」
逃げるが勝ちってね、笑って夏香は遠ざかった。
スタートダッシュが良かったからか、奴らは追ってはこない。
十分に離れたのを確認して夏香は息を付いた。
まったく、気が抜けない。
あと2か月したら、卒業する。
就職だってあるのだ。
このままでいることはできない、大人にならないと――――
「よく、我慢したね」
人ごみに紛れて声を掛けられる。
「・・・みなと」
と、樹里が居た。
「また、暇しているのか? こんなところに」
「ま、そんなところ」
樹里がウインクをする。
「もう、卒業だからずっと暇なんだけどね」
「いいご身分だな、うらやましい」
「なっちゃん、出席が足りないの?」
「そんなわけあるか。学校にはきちんと行っているし、成績も真ん中だったぞ」
失礼な。
「学校に用事があったんだよ、今はその帰り。そういうみなとたちは?」
ここは彼女たちの生活圏外のはず。
ずっと暇と言っているのに制服を着ていた。
「こっちも学校に用事があってね、後輩たちに」
「もう・・・卒業だしな」
本当にあっという間だ、まだだと思っていたのに。
「なっちゃんちってこの近くでしょ?」
樹里が聞いて来た。
「ああ、そうだけど」
「一回くらい私、なっちゃんちに行きたいわ」
そう言えば、樹里の屋敷には呼ばれることはあっても彼女が来たことなかったなと思う。
「狭いぞ、樹里の家のトイレくらいだからな」
冗談めかす。
「大丈夫、我慢する」
「お前な―――—」
断ることもないのでふたりともうちに呼ぶことにした。
「ホント、狭い」
玄関を開けて中を見た樹里が言う。
容赦のない奴だ、夏香とついでにみなとも苦笑する。
さすがにみなとは狭いとは言わなかったのに。
「追い出すぞ、樹里」
「はいはい、すみませんでした」
すまなさそうに思えない様子で答える。
「空いているところに座っていてくれよ、お茶でいいよな?」
「了解」
みなとは勝手知ったる、なのでそそくさといつもの指定席に座る。
普通のお茶なので、電気ポットを再沸騰させた。
その間にお茶菓子などを用意する。
「なっちゃんは、卒業したらすぐ現場なの?」
リビングから声が聞こえる。
「ああ、でも最初は人に付いて仕事だ。覚えることが多いからな」
無事、就職は内定した。
少し遠いけど、働き甲斐があるいい職場そうだった。
「みなとのおじさまの関係会社にも福祉関係の会社もあったのに」
「樹里」
みなとがやんわり注意する。
「あら、使えるものはつかうものよ? みなと」
「夏香はそういうことは考えない」
「そうなの、意外に筋が通っているのよね・・・なっちゃん」
パチン。
沸騰が終わったので急須と湯呑茶碗をお盆に乗せ、片手にポットを運ぶ。
「そういえば、樹里の卒業後は聞いてないな」
みなとは大学、夏香は就職。
樹里は?
聞いてもはぐらかすので、いつからか聞かなくなった。
「知りたい?」
「勿体付けるのは樹里の悪い癖だぞ」
睨むと樹里は肩をすくめる。
夏香はお茶っ葉派だ。
ティーパックではなく、ちゃんと茶筒に入れてある茶葉を急須に入れる。
「私はね、結婚するの」
あっさりと言った樹里。
「・・・一番、似合わないぞ」
似合わないと言ったけど意外性で納得する。
「私もそう思う、まだ実感が湧かないもの」
その言い方は冷静そのもので、感情の高ぶりも無い。
「それは、自分で納得したものの結果なのか?」
「―――みなとの家みたいならいいんだけどね、うちも」
夏香はみなとを見た、みなとは軽く首を振る。
樹里の方は、結婚を押し進める両親で、彼女には拒否権は無いらしい。
「それでいいのか?」
どうしようもないことは分かっているけど夏香は聞く。
「まあね、随分とわがまま言って暮らしてきたし」
諦めの境地なのか、現実を受け入れて納得させているのか・・・
2分ほど急須の中で蒸らしてから、お椀にお茶を注いだ。
「そうか」
「でもさ、そんなに遠くに行かないらしいからいつでも遊びに行けるよ」
「新婚家庭にか?」
フォローのように言ったみなとにツッコむ。
「あら、いつでもウェルカムよ。二人ならね」
にっこり。
これは何の害も無い笑み、か。
「この中じゃ、一番早く大人になるな」
「うふふふ」
もう、今までのようには過ごせなくなる。
樹里は結婚して家から離れられなくなるし、みなとは大学に行って経済学の勉強。
自分は介護施設でヘルパー従事なのだ。
少し、寂しい気がする。
3人でまったり2・3時間話をしたあと、樹里は先に迎えが来て帰って行った。
まだ、会う機会はあるけれどなんだかもう会えない気がして玄関で樹里を抱きしめた。
「みなとは帰らないのか」
「まだ、17時過ぎだよ。帰って欲しいなら別だけど」
首だけ、夏香に向けて言う。
そう言われたら何も言い返せない。
帰って欲しくない気持ちも少なからず夏香の中にあった。
それに会いたい時に会える時間は確実に減っているから―――
「寂しくなるな、樹里」
ソファーには戻らないまま言う。
「無理やり納得したような顔していたけど、樹里のことだから大丈夫だよ」
「まあ、あいつのことだしな」
一筋縄じゃいかないのは友達をやっていて分かっている。
幼馴染みのみなとはもっと分かっているだろう、その彼女が言っているのだから大丈夫なのだろう。
「そんなところに立ってないでこっちに来たら?」
みなとが誘う。
「みなとは大学へ通うのか?」
「どうしようかな、と思っている。母さんは外に出ることを進めているし」
「へえ、箱入り娘なのに?」
「温室培養じゃないけどね」
「自虐的だな、正真正銘お嬢様だろうに」
傍からはどう見てもお嬢様だ。
みなとに近づくと手招きされ、向かい合って膝の上に座らされた。
「ねえ、夏香」
「なんだよ」
随分と甘くなったような気がする。
昔ならこんなことしなかった。
したとしても少しは抵抗したものだけれど。
「外に出たら、一緒に暮らさない?」
思わぬ提案を言ってきた。
「みなとに普通の生活が出来るのか?」
ふふん、と笑う。
器用だとは思うけれど、なにからなにまでお手伝いさんがやってくれる生活から、身の回りのこと全てをする生活になるのだ。
あ、いや、あの両親のことだから面倒は見るのかな―――
「両親の手は借りない、自分で生活する」
夏香を見上げてみなとは言った。
「大変だぞ、分かっているのか?」
現に、夏香は遺産で生活をしているとはいえ金銭面以外の実生活は大変だった。
「夏香が居れば、頑張れると思う」
照れもせずに、どストレートに言う。
「・・・バカだな、甘すぎるぞ」
夏香は笑うしかない。
嬉しいのか、照れているのかも分からずに。
「大丈夫、秘策はあるんだ。それに私も人並みの生活は出来るよ」
「本当だな?」
「ダメだったら躾けてくれればいい、夏香が」
顔が引き寄せられるようにみなとに近づく、磁石のように。
抗うことが出来ない。
「―――好きだよ、夏香」
囁いたみなとには答えず、夏香は自分の唇をゆっくりと重ねた。
みなとのおばさんは夏香のことが好きでしょうがないので、自分の娘と暮らすのは大歓迎だった。
援助も惜しまないと、もろ手を挙げて喜んだらしい。
夏香はそこに居なかったので状況は分からないが、何となく想像できる。
何故、赤の他人の夏香をそこまで・・・と不思議に思っていたら思わぬところから理由を知らされた。
樹里の口から。
彼女は高等部を卒業してすぐに父親の取引先会社社長の息子と結婚して、1年後には子供を出産した。
まあ、妥当な流れだろう(笑)。
子育てがひと段落して、暇していたのか遊びに来いと(来てではない・笑)催促されたので遊びに行った時に教えられた。
その事実はみなとも知らなかったらしい。
「おばさまは、なっちゃんのお母様の同級生だったの。随分と親密だったらしいわ、私たちやおばさま、お母様の卒業した学校で」
みなとはその場で微妙な表情になる。
「母さんとおばさんが同級生だったのはびっくりしたけど、それだけで私をここまで贔屓するか?」
「・・・なっちゃん、少し鈍感すぎよ」
樹里はワザとらしくため息をつく。
「は?」
「私は、親密って言ったでしょ?」
親密という言葉を強調して言う。
樹里がそう言うので、夏香は言葉通りの意味を考える。
「嘘だろ・・・」
隣りでみなとが喘いだ。
「なんだよ、みなとは分かったのか」
「参ったな・・・本当だったら――」
「本当に分からないの? なっちゃん」
「鈍くて悪かったな」
思い当たる節も無い、生きていた母親の姿も分からないのだ。
「かあさんと夏香のおかあさんは、私と夏香みたいだったんだよ・・・多分。だから、夏香が彼女の子供だと知って自分の子供のように扱ってる」
唖然とする。
「―――んな、バカな」
「私だってそう思うよ、これが冗談だったらいいって・・・」
「うちの学校、古くて名門だけどそういうことは割と昔からよくあるのよ。ただ、ホントに卒業して最後まで添い遂げられるのはほんの僅かだけ。色々と障害があるから」
樹里が補足してくれる。
「彼女は亡くなってしまったけれど、その子供のなっちゃんが現れて嬉しかったんじゃないのかな。親子だからホントにそっくりなのよ?」
アルバムを見せられた。
白黒の写真に古さを感じさせられるが、写真はすぐに分かった。
「ホント、そっくりだ・・・夏香に」
みなとが呆けたように言う。
見たこともない母親なのに、夏香もすぐに分かる。
多少、顔の肉の付き方が違うけれどそっくりだった。
今の夏香同様に、ポニーテールにしている。
当時としてはその髪型は珍しく、目立ったらしいと樹里は言った。
「おばさん、教えてくれるかな」
ポツリと呟く。
「おかあさんのこと?」
「うん・・・全然知らないからさ」
早くに亡くなってしまったから、あるべき思い出が無い。
「―――聞く時間はたくさんあるよ、夏香」
みなとは労わるように夏香の肩を抱く。
まさかの偶然。
自分と同じく、おばさんと母親が付き合っていたなんて。
何らかの理由で解消されたものだろうけれど、今でもおばさんは母さんを想っているのか。
「だから、おばさまはみなととなっちゃんのずっと味方なのよ。あなたたちのこと、知らないわけが無いじゃないの」
「だよね・・・どうりで理解があると思っていたよ」
苦笑する、みなと。
「驚き過ぎて、頭がパンクしそうだ」
夏香もらった情報が追い付かない。
「とりあえず、サンキュー。子育てで大変だろうに」
「暇だしね」
高校時代から『暇だしね』をよく言っていた樹里。
今もそうらしい(笑)。
「子育ては暇になるのか?」
「乳母任せだから、暇なのよ」
あっさり言う。
ひと任せか。
とはいえ、無責任とは思わない。
家にはその家の仕来りがある、子供を育てるのだってそうだ。
「また遊びに来てくれると嬉しいわ、二人とも」
「今度はこっちが面白い話を持ってくるよ」
「楽しみに待っているから」
二人は樹里の住む、嫁ぎ先のこれまた屋敷というべき家を後にしたのだった。
迎えの車など無いから帰りはバス停まで歩く。
歩くのは苦ではない、体力をつけるのに時間が合えばウォーキングを二人ですることもある。
「びっくりしたな、おばさんと母さんが同級生だったって」
本当に驚いている、まさか見近に自分の母親を知っているひとが居るとは。
「私もだよ、しかも・・・アレはない、絶対ないって」
「事実だからな、もう認めろよ。しょうがないじゃん」
ポン、と肩を叩く。
まさか恋人同士だったとは―—―――
「これは運命だな、うん」
珍しく、夏香が言う。
「夏香がそんなこと言うなんて・・・どこか悪いの?」
「悪いわけないだろ、嬉しいんだよ」
みなとの腕をつかんで、身体を寄せた。
身長差は高校の時から変わらないけど、風貌は経過した分、少し大人びている。
「きっとうちらの事を引き寄せたんだな、おばさんと母さんがさ」
「夏香」
「おばさんたちは別れてしまったけど、うちらは大丈夫だよな?」
やっぱり、ふたり生きて行くのは色々大変だ。
でも、大変だけど今は楽しい。
独り暮らしをしていた高校生の時には考えられないくらいに楽しいことがある。
「もちろん」
みなとがいつもの笑みでこたえてくれる。
「よおし!久しぶりにおばさんに会いに行ってラブラブぶりを見せつけるか!」
そう言うと夏香はみなとを引っ張って母を知るおばさんに会いに向かった。