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アメ、サラサノカサ

作者: ともみつ

 夢中でカメラのシャッターを押し続けた。大勢の人間の行き交う交差点。信号が変わり、一斉に傘を差した人が俺の正面から後へと通り過ぎていく。ピチャピチャと靴音が雨粒を巻き上げながら、傘を下げ顔までは見えることなく通り過ぎていく。きっと雨の中を飛ぶ鳥には、実にカラフルな花が満開に咲いているように見えるんだろうか。

 その中で俺は、傘を差していることも忘れるくらいにシャッターを切っていた。たった一人の女性を被写体に。

「映えるなぁ」

 打ち付ける雨音が、レンズに投影される女性を引き立てる。シャッターを押すことが快感だった。

 黒やピンク、茶や青、黄、緑などの洋傘が揺れている中で、たった一つだけ浮世離れでもしたかのような、江戸時代から時空の歪みにでも落ちて、現代にやってきたかのような、鮮赤の中に白の蛇の目をあらわした唐笠が、たった一本しかないにも関わらず、俺の目はその一本だけしか映してはいなかった。都会の喧騒が止んだ。今にもカランコロンと下駄の音が聞こえ、蛇の目が差に打ち付けるパラパラとした雨音が聞こえてきそうな感覚に襲われたままシャッターを押し続けた。

「いるんだな、今時」

 芸術家が路上パフォーマンスをしているようでもあり、洋傘を差している日本人が、その和傘を差す女性を怪訝そうに横目に流していた。人目をまるで気にしないその蛇の目傘は、とても優雅に雨を弾き、雨をスポットライトのように浴び、俺の前からゆっくりと消えていく。底には本来の日本人女性の美しさがあった。和服に洋傘なんて組み合わせはよく目にする。その度に和洋折衷は風情じゃないと落胆する。京の都でもないのに、あの人の後姿は見事としか言いようがなかった。

「あ、やば」

 とりつかれた。一目惚れだった。人ごみの中に消えていく一本の傘を差す女性が愛おしかった。けれどすぐに後姿はどこかへ消えた。もう二度と会えないかもしれない。その焦燥が俺に人ごみを掻き分けさせた。

「どっちに往ったんだ?」

 一つとして同じもののない、埋没していく中を追った。追い続けた。

「・・・・・・いた」

 大通りから二歩ほど入った路地裏に、彼女はいた。都会の喧騒に満ちたビル群のすぐ隣に広がっていた、情緒溢れる木造建築群。未来から過去へ来た気分だ。きっとそんなことがあればすぐに思うはずだ。何だ、ここは? と。

「こんなとこがあったのか……」

 知らなかった。こんな場所にひっそりと歴史を紡ぐ古風な建造物群があったなんて。

「この辺の人、か?」

 後姿の蛇の目の和服美人。とても映えるだろう。京都なら舞妓がそのような格好で出歩くこともあるだろうが、ここは違う。そして、彼女も違う。ただの蛇の目の和服美人なら、俺はカメラを構えることはなかった。

「あの店か・・・」

 女性は一軒の店らしき古家屋の中へ消えていった。

 既に二十枚近くはレンズに収めた。何故惹かれたのかは分からない。ただ、蛇の目傘を差す着物の後姿が、俺を呼んだ。そうとしか言えない。

「和傘屋か?」

 大した看板は何もない。ごく普通の古民家にも見える。ただそこが店なのだとは分かった。軒先に置かれている幾数の俺が追っていた蛇の目傘。他にも少し小さい番傘や派手な模様を施された舞踊傘がある。一本ずつしかない辺り、商品は蛇の目傘だけなのだろう。

「どうぞ、ごゆっくりと見ていって下さい。そこは濡れますよ」

 軒先から店内を覗いていると、薄いガラス戸が開けられ、女性が出てきた。三十代前半くらいだろう。だが、先ほどの女性だとすぐに分かった。纏うものが同じだった。そして、やっぱり綺麗な女性だった。

「あ、いえ。客じゃなんですよ」

 つい追ってきてしまったが、別に店に用があるわけじゃなかった。ただ撮ることだけに執着していただけだ。

「そうなの? でも、どうぞ。外は冷えるでしょ?」

 微笑を贈る女性はどこか甘く包み込むような香りがした。

「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただいて」

 特に予定もなく、ただ被写体探しで町を歩いていただけ。その中で久々に見つけた一つの光景。

「ここは和傘を販売してるんですか?」

「ええ。代々続く蛇の目傘専門店なのよ。今は洋傘の普及で、売り上げは不調の一途だけどね」

 経済事情を話す口調は明るかった。ただの儲けのために作っているわけじゃないから、仕方がないが、満足している。そんな口調と穏やかな表情だった。

「この傘は、全てここでの手作りですか?」

 写真を撮る際はプロじゃない分、地道に取材を重ね、作品を作り上げる。コネがあれば、と思うことがあるが、一つの作品を作り上げるために、普段人が目にすることのない、職人たちの世界をたった一枚の写真に物語を入れる。伝えたいことだけを撮る写真は、俺の主義じゃない。被写体の感じる全てを、一つのストーリーに組み込める写真を撮りたい、撮るということを俺は目指している。まぁ現実はなかなか評価の下らない厳しいもの。

「父が一人で作業してるのよ」

「お一人で、ですか。すごいですね」

 和傘の作り方なんて知らないが、一人で手作りすることは大変な作業じゃないかと思う。

「見てみる?」

「え? 良いんですか?」

「ええ、良いわよ」

 願ってもない申し出だ。ここしばらくは、まともな作品を作れなかった。そして、今日やっと出来そうなものを見つけた。製造過程なんてなかなか見れないもののはず。

 案内されて、先ほど追い求めていた背中を間近に突いていくと、店の奥に通され、木戸の向こうには、竹と油のような匂いがした。そして、一人の年配の男が竹の皮を剥ぐように、胡坐をかいて作業していた。貫禄があるというか、静かで黙々と作業している分、異質の空気を感じてしまった。

「ん? 紗美、その男は誰だ?」

 渋く低い少々掠れ声で、俺を見てくる。

「見学したいからって、連れてきたの。問題ないでしょ」

「初めまして、海藤琢也と申します」

 俺をじっと見つめる皺の刻まれた顔。喉の調子が悪いのか、時折喉で咳を堪えていた。そして、何故睨んでくるのだろう? ちょっと腰が引けた。

「お前さん、写真家か?」

 俺が肩に下げていたカメラを見て思ったのだろう。

「いえ、アマチュアの趣味みたいなものです。普段はスタジオのアシスタントをしてます」

 賞に出しても、佳作止まりの凡人だ。プロになれるのであれば、いつだってなりたいとは思う。そのためには技術を知り、磨かなければどうしようもない。自分ではいい作品でも、先人たちからの評価は無いことが多い。実に理不尽だと思いつつも、その賞の名があるか否かで評判がまるで異なる世界ゆえに、落ち込むことには慣れた。

「そうか。こんな所を撮りに来たのか。物好きな奴だな」

 俺が邪魔なのだろうか。声だけ俺を向いて、目は手元の作業に集中していた。竹の皮をむく音と、雨音が静けさを醸し出していた。

「まだ決めたわけじゃないですが、先ほど蛇の目傘を見かけて、追いかけてきたらここに着いたものですから」

 俺の言葉に女性が反応を見せた。確か紗美と呼ばれていたと思う。綺麗な人には綺麗な名前が用意されているんだろうか? 

「あら、そうだったの?」

「洋傘の中に一本だけ和傘を見かけて、ついシャッターを押してました」

 デジタル一眼レフの液晶を紗美さんたちに見せる。後姿の白い蛇の目の傘が人ごみの合間に浮かぶ写真ばかり。慌ててカメラを回したため、作品にはなりそうもないものばかりだ。

「やっぱり目立ってるわね。何だか恥ずかしいわ」

 紗美さんがはにかむ。間違いなく綺麗な女性だと思った。やっぱり俺の目は間違いじゃないのだと確信も持てた。勝手に撮影したことに対しては謝罪する必要があるというのに、嫌悪感を抱くことなく、むしろ自分の存在を多勢の中で見出すように隣に立って画面を覗き込んできた。

「お父さん、撮らせてあげても良いわよね? 彼、いい写真撮ってるのよ」

 紗美さんの口から彼、と呼ばれると何だか嬉しさのようなものを感じた。

「撮りたいものがあれば、好きにしろ」

「良いんですか?」

「だが、わしの邪魔はするな」

 まだ何も言っていないのに、撮影許可が下りた。

「今日はこれで終わりだ。撮るなら明日からにしてくれ」

「あ、はい」

 作業場を先に後にすると、紗美さんもついてきた。

「海藤君」

「はい?」

 外はまだ雨が降り続いている。気温が少しだけ肌を刺す冷たさを増している。そんなことにも気づけるくらいに俺を取り巻く空気が一変していた。

「お願いがあるんだけど、良いかしら?」

 奥の部屋に聞こえないように、静かな口調だが、俺を見るその目は真剣に見える。

「父の姿を、ずっと残してあげて欲しいの」

「?」

 言われた言葉が、どこかへ流れていく。意味を理解する前に。

「父はね、肺がんで、もうそれほど残された時間がないの」

「え?」

 突拍子もなく耳に入ってきた言葉が、現実を呼び起こしてくる。

「ここも後継ぎがいなくて、父の代で暖簾を下ろすことが決まってるの。だから最期まで、この店を、父の姿を撮って残して欲しいの」

 紗美さんの言葉を聞きながら店内を見回す。ここ数日お客が足を踏み入れた様子は感じられない。閉じられた赤い傘が活躍の場を待ってかけられている。

「本当は私が継いでも良いんだけど、父がそれを許さなくて。百二十年の伝統に幕を下ろすことになったの。だから、父の姿を残して欲しいの」

 最初は一目惚れだった。何も考えず、ただ撮りたいものを撮ると言う欲求の元、現代から足を滑らせて、幾星霜も経つ前の時代へ来た。安直な気持ちだった俺の前に突きつけられた、突然の依頼。さすがにカメラを撮る手にずっしりと重みが加わった。それは明らかな俺自身の未熟さを自覚した瞬間かもしれない。

「ダメ、かしら?」

 呆然としている俺を見て、不安げに見てくる。

「俺なんかで、良いんですか? こんな大事なことなら、プロに任せたほうが良い写真を残せると思いますが? 何ならウチの店に頼みましょうか?」

 そんな大役仰せつかるのは、俺には重い。嫌じゃない。だが、歴史に幕を下ろす最期を俺が切り取ることをしても良いのか。未だカメラアシスタントしか出来ない俺には、趣味程度の出来にしかならないのが目に見えている。自信はない。腕もない。

「いいえ。父もあなたを見て、ああ言ったんです。ですから、どうか海藤君にお願いしたいんです」

 口調を変えての正式な依頼。畏まる紗美さんに、俺まで畏まる。

「分かりました。ぜひやらせて頂きます」

 断れなかった。断ろうにも内心ではワクワクしてた。初めて感じるわけじゃない、高揚感にも似た気持ちの高まり。任されることの責任がやる気を起こさせる。あとはそのやる気にどれほど俺の腕がついてくるのか。それが少し気がかりだった。


「ああは言ったけど、何を撮ればいいんだ?」

 自宅に戻り、一通り必要なものを用意する。と言っても普段から持ち歩くカメラバッグに必要機材は全て入っているから、用意し直すものはない。

「百二十年か。あんな小さな店に、大きな積み重ねてきたものがあるんだな。すげぇな」

 洋傘が主流となった今、和傘の生産は極端に低迷しているだろう。雨の日に見る和傘なんて、俺は紗美さんが初めてだった。和服に洋傘なら何度も見かける。哀しいくらいにミスマッチで粋のない、様にならない姿を見て世も末だと感じたことがあった。

「俺に残せる最高の一枚なんて撮れるのか?」

 デジカメのメモリーをパソコンに繋ぎ、マイピクチャに登録する。改めて見る紗美さんの後姿は、レンズ越しに覗いた時に感じたものが、まるで感じられない、ただの和傘を差す女性だった。ストーリーがない。伝えたいものがない、ただの写真だった。恐らく、俺が今の俺に取れる最大のものなんだと、少し写真を見て落ち込んだ。

「そりゃそうだよな。何も考えてなかったし」

 自分で撮ったのに、自分がおかしくなる。信念があったはずなのに、それを残せなかった。そんな俺に撮れるだろうか。歴史に幕を下ろす瞬間を。

「最期まで、か」

 紗美さんの言葉と、親父さんの姿が浮かぶ。和傘の歴史や伝統工法などは知らない。知っているのは、番傘や蛇の目傘、舞踊傘、野だて傘などの種類くらいだ。そんな俺が・・・・・・と考える度にそこで思考が止まる。

「どっちを優先するべき、か」

 ストーリーや伝えたいことが浮かばないわけじゃない。浮かんでいる。何しろ百年以上もの歴史を生き抜いてきたのだ。素人でも、洋傘主流現代を思い起こせば、それくらいは判断が付く。戸惑いを感じているのは、『最期』という言葉。長い歴史を現代で終えることか、最期の職人の生き様か、二つの最期のうち、どちらを優先し、どちらの最期に、俺がシャッターを押すことが出来るのか。それが俺の前に躊躇いの壁を築き上げる。

「とりあえず、撮るだけ撮ってみるか」

 やらなきゃ、何も始まらない。終わりは始まりがなくとも必ず来る。俺が撮ることが始まりじゃないんだから。俺はあくまで初めからあったものに挿入された異物でしかない。


 翌日、昨夜まで降り続いた雨は上がっていた。太陽の顔は白と灰色の雲に隠れているが、晴れている。その表現で間違いはない空模様だった。

「おはようございます」

 下手なものは何も持ってこなかった。カメラとクリーニングキット、望遠レンズだけ。携帯も店に置いてきた。どうせまた戻ることになる上に、最低限のものでどれだけのものが撮れるのか、挑戦したかった。

「あら、おはよう、海藤君」

 開店してるはずの時間帯でも、紗美さんだけだった。閑古鳥が鳴いているが、それがいつもの光景らしい。週に三人立ち寄れば良い方だそうだ。不思議と気の毒と言う言葉は浮かばず、納得してしまった。

「今日はよろしくお願いします」

 挨拶も早々に、作業場へ足を踏み入れた。昨日の続きだろうか、竹を削っている紗美さんの親父さんが昨日と同じ場所に腰を下ろしていた。

「小僧、それ取ってくれ」

「あ、はい。どうぞ」

 足を踏み入れた瞬間、俺の近くにあった彫刻刀のようなものを取るように言い、手渡すと、ん、と短く返事をして、黙々と竹に取り組んでいた。

「あの。今は何の作業をされてるんですか?」

 紗美さんは軒先の掃除をしていて、作業場は二人。沈黙が重く、カメラをいきなり手に取る気になれなかった。

「大骨だ」

 なるほど。大骨か。何の作業だかさっぱり分からない。見ているには、骨作りと言った所だろうか。柄になる太い竹と、傘の骨になる細い竹を削っているようだ。機械の大量生産で洋傘が世に満ちている中で、一本一本の傘の骨を削りだす作業。組み上げられた骨だけの傘が隣に置かれていた。和紙の張られていない裸傘。カメラを向け数枚を収める。ピピというシャッター音に、親父さんが反応を見せるが、あまり気にしてはいないようで、静かに作業をしていた。だから俺も気にしないことにして撮影を続けた。職人相手に遠慮は無用。邪魔さえしなければそれで良い。そんな雰囲気があった。

「撮るといけないようなものはありますか?」

「ない」

「あ、はい。わかりました」

 一言で会話が終わってしまった。ちょっとその短すぎる返事が恐かった。

とりあえず、参考になるようなものを手当たり次第にメモリに収める。

「ここは赤い蛇の目傘だけを作ってるんですか?」

 聞いてはいけないことだっただろうか。竹を削る親父さんの手が止まり、皺をさらに深くした目が俺を捉える。

「昔は、他にも色々あった。職人もわし以外におったからな」

 嘆くような口調。その一言で一種類だけを作る理由が何となく分かった。それしか作ることが出来ない。その一言に尽きるのだろう。製法を理解していない以上、ここに浮かんだ、それしか作れないのかとかなぁんだ、と言う思いは打ち消した。

 黙々と骨作りをする親父さんは、大きく見えた。職人だという先入観から来るものなのかもしれない。

時折咳き込み、上手く痰が取れないようで苦しそうにして、紗美さんが介抱しては作業に戻っていた。それを見ると、どうしてかシャッターを押せなくなる。多分、怖いんだ、俺自身が。好きに撮れと言われて、好きに撮れない。背負うものが大きすぎて、俺にはその全てをレンズの中に納められる技量がない。だから、怖い。

「どうした。撮らんのか?」

「あ、えっと。お構いなくどうぞ」

 鼻を鳴らし、作業に戻る親父さん。

たった一枚にする必要はない。写真集のように枚数を重ねて一つの作品にすればいい。だが、俺がそれを拒否している。たった一枚の中に、百二十年を紡いできた最期の職人の姿を納めたい。今の俺の力量で撮れる最高の一枚を撮りたい。そんな思いと、病と闘いながらも決して手を抜くことなく受け継がれた傘を作り続ける親父さんの姿に、どうしても焦燥が生まれ、手に力が入らない。もっと俺に全てを見渡せる力があれば。悔しさにいい写真なんか撮れなかった。

「また、降ってきましたね」

 せっかく晴れだと思っていたのに、作業場まで雨音がかすかに響いてきた。傘、持ってこなかったんだよなぁと小さく息を吐く。

「梅雨だからな」

 他愛ない世間話に声だけ返ってくる。シュやら、ガンやら、カシュやら竹に向き合う音の中に、サーと道路を打ちつける雨音が混じり始めた。蒸し暑さはない。少し肌寒いくらいだ。格子の外には、正面の懐かしさ漂う商店が、古い映画のような雑線を走らせているように見えた。

「そろそろお昼にしようと思うんだけど?」

 紗美さんが、引き戸を明けて顔を覗かせた。

「海藤さんも一緒にどお?」

「ありがとうございます。いただきます」

 いつの間にか二時間近く経っていた。奥は居住空間になっていて、そこで昼食をご馳走になった。俺と紗美さんは弁当で、親父さんは体調を危惧してか、うどんだったが、ほとんど口にすることなく薬を飲んで作業場へと戻っていった。

「写真のほうはどうかしら?」

 食後、店先で雨を眺めながら軽く休憩を取っていると、紗美さんが後にいた。相変わらずの好い匂いが何なのだろうかと思っていたけど、それがお香の香りだと、居間に入った瞬間に理解できた。

「まだまだです。とりあえず撮らせてもらいましたけど、本撮りは出来ませんでした」

 近くにあった蛇の目傘を手に取る。一万三千円と書かれていた。高いんだな、和傘って。扱う手に緊張が走った。

「満足いく写真が取れると良いわね」

「そうですね。頑張ります」

 真剣な作業を撮るには、真剣に向き合わなければならない。まだその覚悟がなかった。企画を見出している最中な気分だ。

「和傘って、どれくらいで一本出来上がるんですか?」

 手に取った和傘を開いてみる。二段式になっているようで、中開きと全開に開くようだ。

「そうね、だいたい一〜二ヶ月ってところね。今は父一人だから、年間十本程度しか作れないのよ」

 商品としておいてあるのは二十本近く。少ないと思う。これで生計は立てられないはず。きっと紗美さんが他の仕事で生計を立てているのかもしれない。そこまで踏み込む勇気はなかった。

「手作業だけじゃどうしても大量には出来ないのよね。それに需要もお土産とか贈呈用程度にしかないから」

 今週は海藤君が来店一号よ、と紗美さんは言った。複雑な気分になった。

「あの、これ、一本頂いても良いですか?」

 俺の言葉に紗美さんが意外そうな顔を俺に見せた。

「折角だから、歩いてみたくなりまして」

 代金を手渡す。

「別に使ってもらって良いのよ?」

 そうは言うが、親父さんが丹精込めて繰り上げたものだ。相応の対価を払うからこそ、感じられるものがあるはず。拝借だけだと、破損の事を考えて緊張してまともに雨を楽しめない。

「少し、散歩してきます」

「いってらっしゃい」

 傘の和紙から漂う雨弾きの油の匂い、柄に張られた本藤の手に伝わる少し冷たく、しっかりと手に馴染む感触。傘を開く音、開いた時に空に透ける和紙の色。ただの傘なのに、どうしてこうも気分が高鳴るのだろうか。

「これが和傘か。良いな、これ」

 洋傘の布地に落ちる雨音と全く違う、パラパラと軽い雨音。雨を楽しく感じさせる不思議なハジキ音。テンションが上がる。四十六本の骨で支えられる独特の軽い質感が格好良さをも感じさせる。過ぎ去る人の差す洋傘が小さく見える。

「何か楽しいな」

 上を見上げれば傘の大骨を支える小骨の綺麗な円形が模様を生み出して、そこに太陽が顔を出して、俺を見下ろしているように見えた。軽やかな音が歩みを軽くさせ、傘を差している感覚があまり感じられない。こんなにも好いものだったなんて、とおかしくもないのに笑いが出てきた。

「これを一人で作るなんて、すごいよな」

 時間をかけて、手作りで、受け継がれた歴史を形に表して、現代に残してきた匠の技。それに幕を引くなんて勿体ない。病に犯され、薬治療のみを行っているということは、きっと親父さんは治癒させようとは思ってないのだろう。苦しみを和らげ、最期まで受け継いだものを残そうとしているはず。少しずつだが、俺の中にイメージが湧いてきた。後はいかに形に残すことが出来るか。自分との向き合いだけだろう。

「蛇の目傘、か」

 頭の中に子供の頃聞いた懐かしい曲のフレーズが浮かんだ。昔はきっと母親が子供を迎えに来た時にこの傘を差して雨の中を迎えに来た光景があったのだろう。蛇の目でお迎え嬉しいな、と子供が歌っている。この傘で迎えに来られると、俺は今でも嬉しく感じるかもしれない。誰が迎えに来るかは知らないが。

「やってやろうじゃないか」

 いつか見たような懐かしい通りを赤い和傘が色とりどりに満ちた時代を感じさせられるような、職人が生き、作り上げる思いを撮ろう。和傘の本質に何となく触れられた気がして、急にやる気が湧いてきた。

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい」

 一昨日まで何の関係もなかった。一軒の古い傘屋。散歩から帰れば、自然と声が漏れ、それを受け止める声が返ってきた。家に帰れば姉がいた気分だ。もっとも、こんな綺麗な姉がいればかえって複雑な気分になりそうだけど。

「どうだった?」

 紗美さんの俺を見透かす目。何が? だとか、どうして? だとか言葉は要らなかった。

「雨がこんなに楽しいとは思いもしませんでした」

 頬が緩んだ。雨を浴びることで傘が本来以上に朱色に輝いて見える。

「良いものでしょ?」

「はい。おかげでイメージが大体出来ました」

 ふふ、と紗美さんが微笑む。年上の女性の微笑みは、同年代や年下にはない魅力がある。どうやら俺は年上好みらしいな。初めに傘に一目惚れしただけのことはあったかもしれない。

「続き、撮らせてもらっても良いですか?」

「お好きにどうぞ」

 作業場に足を踏み入れる。職人の魂が無造作に転がっている道具一つ一つにも宿っている。その中に足を踏み入れた俺は、きっと異質の存在も同然だろう。ただ作って、売って、儲けを出す。それは商売じゃない。職人は商売と言うことを魂で次の世代へと残していくから、商売ではなく伝統として残っていく。ここには、そんなものが溢れている。

「近いぞ。手の邪魔だ」

「あ、す、すみません」

 つい夢中になって、親父さんのごつごつとした、長年の熟練された手さばきと、様々な思いと言うもので汚れた手を取り続けていた。望遠レンズをつければ良いものを、俺の考える一枚に仕上げるためには、レンズで調整してはいけなかった。

「おい、そこの竹を取れ」

「は、はい。どうぞ」

 写真を撮りながら、親父さんの注文を受ける。その背後で紗美さんがおかしそうに笑っていた姿にも俺は気づくことなく、パシリと撮影に取り組んでいた。

「それじゃ、二日後くらいにまた来ます」

「いつでもいらっしゃい」

 明日からは仕事もある。と言ってもアシスタントだが、サボるわけにもいかない。今日の分はとりあえず、満足できるくらいは撮った。後は家に戻ってチェックして、絞り込む。本命は撮っていない。徐々に本命の写真を撮るためのイメージ作りだ。ぼんやりと浮かんでいる一枚がある。それを俺は一枚のストーリーに仕立て上げる。そこに最期を見出せる気がした。

 

二日後に伺うと言っていたが、結局四日経ってしまった。急な仕事が舞い込んで、俺まで駆り出された。アシスタントだから仕事のえり好みはいってられないし、従うほかは雇われている以上なかった。作業の工程を逐一撮ろうと思っていたから、いくつかの作業を撮り逃しただろう。

「こんにちは」

「あら、いらっしゃい」

 まだ二日しか馴染んではいないが、随分と馴染んだ様な不思議な感覚があった。

 作業場に入ると、そこには相変わらず仏頂面で作業する親父さんがいた。何かの機械を操作していて、俺の挨拶は聞こえなかったのか、無視された。

「あれは何をしてるんですか?」

 仕事の邪魔をするわけにもいかず、隣に立つ紗美さんに声をかける。

「あれは轆轤(ろくろ)作業って言って、和傘の柄の先の骨が集まる所に固定して傘の開閉をさせるための臼型の器具を取り付けてるのよ」

 先日までは竹を削っていた作業も終わり、柄と骨を組み合わせる作業にかかっているようで、その骨と柄を繋ぐところに器具を機械を使い取り付けている所だそうで、早速俺はシャッターを押した。老眼鏡を付け、慣れた手つきで組み合わせていく。先日削っていた大骨に穴が開いていた。何をするのかは分からないが、俺はレンズを向けていた。真剣な目つきに言葉が出ない。時折苦しそうにしているが、紗美さんも手を出すことなく見守っている。少し二人から離れ、二人に向かってレンズを向ける。そこに親子の関係は見えなかった。写っているのは、職人とそれを見守る弟子のようにも見えた。ガチャと固定される機械音を聞きながら、孤独に作業を続ける姿。頑固で寡黙でちょっと恐い親父さんのどこからあの華やかな傘が出来るのだろうかと考えてしまうが、紛れもなくあの蛇の目傘は、この人の手から世の中に生まれ出るのだ思うと、一種の魔術師にも思えるから不思議だ。世の中には魔術師が意外と多いのかもしれない。そんなことを思って小さく噴出したら、親父さんにうるさいと一喝された。その後ろで笑う紗美さんには何のお咎めもないのに。

「最近は、少しずつブームになってきた傾向があるけど、昔は当たり前に誰もが使っていたものなのよね。こうして職人が一本一本手作業で作り上げるものの価値を本当に分かってくれる人って、どれくらいいるのかしらね」

 温かな眼差しで、父親の作る傘を見る紗美さん。思わず一枚その表情をレンズに収めた。乾燥を待っているのか、いくつか既に完成間近の傘もある。ようやくここまで辿り着けた結晶。それを誰が買って、どう使うかを知ることなく、手放す。作ることに意味があるのかもしれない。必要としてくれる人がどんな時にでもいるから、今日まで歴史は続いている。病気の治療なんて考える暇はないのだろう。職人は頑固だ。それは性格じゃない。受け継がれたもの、受け継がせたいものがあるから、妥協するわけにはいかないのだ。少しでも妥協したものを作れば、それがこれまでの思いを蔑ろにするから頑固にならなくてはいけないのだろう。作業場に会話はない。作業音だけ。親父さんの目を見ると、言葉が浮かばず、シャッターを押す、その一押しにも注意を払ってしまう。一瞬で現実を切り取ってしまう写真。残すべき思いを一瞬たりとも逃してはならない。好きに撮れと言われたからには、好きに、頑固に撮る必要がある。竹や油、和紙漉()きを終え乾燥させている和紙の匂い。竹を削る音、轆轤を固定する音、水の音、機械の音。その一つ一つが俺には重みを感じた。どれを撮ったら良いのか、撮りたいものがありすぎて逆に困ってしまう。

「少し休憩させてもらいます」

フォーカスを被写体に合わせて絞り、シャッターを押す。それだけの単純作業が難しかった。複雑な作業をしている親父さんの方が辛いだろうに、先に俺が疲れてしまった。修行が足りない表れだ。

「写真は撮れてるか?」

「あ、はい。とりあえずは」

 ゆっくりとした足取りで、親父さんが店先の椅子で休んでいた俺の隣に腰を下ろした。痰が絡むようで咳き込んでいる。

「大丈夫ですか?」

「何でもない」

 奥からお茶を持ってきた紗美さんが親父さんの背中を擦っていた。症状は芳しくはないようだ。俺はただその姿を見つめるしか出来なかった。

「もう、無理しすぎなんだから」

 紗美さんが、はぁ、と諦めを含んだため息を漏らす。親父さんは、ほっておけ、と頑なだ。頑固職人らしい気がした。

 しばらくして落ち着くと、お茶を啜り、一息ついた。

「今じゃもう、廃れたもんだ」

 店の外を見ながら親父さんが呟いた。不意の言葉にすぐに対応できなかった。

「傘なんてもんは、雨よけにさえなりゃ、何でも良い」

 雨のない景色を見つめる横顔に、職人の顔はなかった。疲れや肺がんと言っていたから、その影響で呼吸が少し荒々しく、座っているのも辛いようだった。

「お前もこんなものを撮るより、もっと良いものを撮ればいいものを」

「いいえ、とても良いものを撮ってますから」

 横目で俺を見て、ふん、と鼻で笑ったような気がした。

「一つだけ、お願いしたいことがあるんですけど」

「なんだ?」

 俺の中にある一枚の写真のイメージ。まだ未完成の傘が出来上がった時に考えている構想。

「今度、紗美さんとお二人で傘を差して歩いてもらえませんか?」

 怪訝げな目が俺に向けられる。

「もちろん、雨の時で良いんです」

「なぜそんなことせにゃならん?」

「撮りたいんです」

 少し強く言った。頑固なお人に懐柔は無理。だったら、俺の思いをぶつける。その方が通じやすい。

「最期の傘をお二人に差してもらいたいんです」

 何を考えているのかを探っているような目だ。

「・・・・・・勝手にしろ」

「ありがとうございます」

 最近の若いもんは何を考えとるんだか、なんて言い出しそうな顔だったが、それほど嫌そうじゃなかった。

 休憩を終え、再び親父さんが作業に戻る。轆轤を機械で傘の形に調整し、傘の柄に轆轤を繰り込んでいる。先ほどよりもずっと傘の形だと分かるようになってきた。まだバラバラだが、傘の出来ていく工程を見るのはなかなか面白い。邪魔にならないようにカメラを向けると、そこには職人がいた。

「親父さんはどれくらい傘を作ってるんですか?」

 傷や汚れのついた手。一年や二年でなれる手じゃない。

「四十三年だ。十五からやってる」

「四十三年ですか。すごいですね」

 俺のちょうど倍近くを和傘を作り続けているのか。俺の写真を撮るキャリアとは比べものにならないな。無駄な肉の付いていない、受け継がれた技術を継承するために必要な筋肉の付いた腕。細いのに、強そうだ。親父さんの手元を撮っていて、カラーよりもモノクロで撮るほうが風合いがあったかもしれないと思ったが、カラーだからこそ伝わる親父さんの傘を作る腕に付いた汚れ。汚いじゃない。格好良いのだ。だからそれは魅力というもの。

「一つのことを続けられるってすごいですね」

「これしかなかったからな」

 少し心を開いてくれたのか、問いかけに答えてくれる。時折俺を邪魔扱いしたり、パシリに使うが、前よりも表情が違っていた。親父さんを撮ろうとすると、前は憮然とした表情で作業をしていたが、俺に勘付いた時は、少し照れたような表情を浮かべていた。それが新鮮でシャッターを押した。

「あらあら」

 それを紗美さんが楽しそうに見ていたが、俺は親父さんにカメラを向け続けていた。


 それからも俺は仕事の合間も利用して通った。その間にお客さんと出くわし、傘を買っていく姿に頬が緩み、嬉しい日もあれば、今週のお客第一号になり、複雑な気持ちの日もあった。そんなことを全く気にすることなく親父さんは傘作りに没頭していた。毎日顔を合わせているわけではないから、親父さんが顔を合わす度に少しずつやつれているように見えた。紗美さんも仕事でいない日もあったが、父を気遣ってか、店番を兼ねて家にいることが多くなっていた。

「だいぶ出来てきましたね」

「まだまだだ」

 部品でしかなかった材料が徐々にその風貌を現していた。轆轤が取れないように釘で固定して、つなぎ工程で、親骨同士をバラけないように糸で繋ぎ合わせ、同様に小骨も糸でつなぎ、柄に親骨と小骨を糸で繋ぎ合わせる。これで後は和紙を張れば完成してもおかしくはないが、親父さんは骨の曲がり具合の調整を一本一本、咳き込んだりしながら温めながら、お手製だという道具を使いしなやかに竹を曲げ、傘らしい骨の形を仕上げていた。

「おい、そこの軒紙を取ってくれ」

 どれがどれだか分からず、戸惑っていると、紗美さんがこれよ、と渡してくれた。赤く細長い紙のような紐のようなものだった。

 軒はりと言う作業で、骨の軒先を補強するためと、親骨の間隔を固定するために、軒糸を包み込むように軒紙を張る作業に移っていた。骨組みだけの開かれた傘。一般的な傘が親骨が十本程度だが、和傘は四十五本程度もあるため、骨だけでも傘らしく見える。骨越しに居る親父さんをレンズ越しに見ると、職人なのだと改めて認識する。

「格好良いですよ」

「馬鹿もん」

 照れくさそうにそう言いながらも、良い表情だった。自分の仕事に誇りを感じて、決して高慢になることなく、何度も経験してきた工程をこなす。その姿に俺は憧れを感じた。町中にある一軒の古家屋。その奥に居るたった一人の職人。一目につくことなく、長い歴史を受け継ぐ最期の手。俺なんかよりもずっと高みに居る人を撮ることに、いつしか自己満足ではあるが、誇りのようなものを俺自身も感じていた。

「蛇の目傘って感じがしますね」

「そうね。でも、これは中おきって言って、この上から和紙を張るから見えなくなるんだけどね」

 親父さんの作業を紗美さんと静かに見ていた。傘の開閉によって破れやすい部分に中置き紙を張って補強し、いよいよ仕上げ作業へと向かっていた。

「今日も雨ねぇ」

「梅雨ですからね」

 今日も雨だった。少しムシムシとしているが、親父さんの手は止まってはいなかった。いや、止めるわけにはいかないのかもしれない。ここへ通うようになって一月。初めは大きく見えた親父さんが、休憩をよく挟むようになり、小さくなっていた。

 辛そうにしながらも、親骨にはけで糊をつけ、赤い平紙を左回りに貼っていた。まだ完成ではないが、和傘だとはっきり分かる。

ここ数日はあまり写真を撮っていない。撮れなくなった。親父さんは、撮れと言うが、病による倦怠感などで気性の浮き沈みもあり、俺自身が少し怯えていたのかもしれない。

「親父さん、体調は大丈夫なんですか?」

「何を言っても聞いてはくれないのよ」

 紗美さんからも昔は冗談のように言っていたのに、今は不安げな表情が増えていた。職人として、家族としての父を見守ることしか出来ないことに憤りを感じているはず。諦めきれないけれど、職人としての人生を全うさせてやりたいという気持ちは俺でも感じられた。


「梅雨、明けましたね」

「そうね。これから暑くなってくるわね」

 格子の外には真っ青な空と入道雲が見えた。蝉の音があちこちから響き、扇風機が親父さんと向き合っていた。

 傘を閉じ、刷毛を使って紙に渋を塗り、店先で乾燥させ、傘としての機能を果たすために油引きという、油を温めくず布に染み込ませ傘全体にむらなく油を塗っていく。夏の日差しの中に真赤に映える蛇の目傘。蛇の目のような白輪が赤の傘と上手く解け合っているようで、レンズ越しに見ると、これまで親父さんが作り上げてきた軌跡が感じられる。

「これで完成ですか?」

「いいえ。骨の間に漆が染み込まないように親骨の上に漆を塗るの。それと傘の手元にもね。そして、飾りをつけて完成よ」

 作業場に、嗅ぎなれない匂いがする。油じゃない、漆だ。親父さんは体が悲鳴を上げていようが、残された時間を、和傘に捧げているようで、自分に出来る最高の一本を作ろうとしていた。いくつかあった作りかけの和傘は既に完成品として、店先に並べられている。今親父さんが漆を塗り、後は柄の部分に本藤を巻きつけ、固定するとそれで、最期の一本が仕上がった。

「完成ですか?」

「・・・・・・終わりだ」

 俺が問いかけてからしばらくして、親父さんがそう言った。俺にはこの和傘を作る作業が終わったのか、百二十年と言う長い歴史を歩んできた和傘作りが終わったのかは分からなかった。

 唯一つ分かったのは、もうここに、和傘を作るための材料がなくなったことだ。決して満足げな表情ではない親父さん。むしろ、やり遂げた達成感よりも、終わらせてしまったことを、これまで歴史を紡いできた先代にどう顔向けすれば良いのだろうか、を悩んでいるような顔だった。その顔を一枚だけ写真に残した。深く刻まれた顔の皺。赤みを失った唇。無精髭。やつれている頬。正直、カラー写真として残したくはなかったが、これも立派な職人の表情だ。恐らく最期の職人顔になるかもしれない。そう思うと、撮らずにはいられなかった。

「お疲れ様でした」

「・・・・・ああ」

 紗美さんの言葉。それに二文字で応える親父さん。どうしてか、俺は儚さを覚えた。

「あの写真はいつ撮るんだ?」

「出来れば、雨の日が良いので、まだ分からないです」

「その時になったら呼べ」

「はい。お願いします」

 大きく咳を漏らしながら、親父さんは紗美さんに付き添われて自宅へと戻っていった。

「静かだな」

 誰もいない作業場。片付けられていない道具たち。そこに未完成の傘はない。職人の意地と愛情が最期の傘にまできちんと注がれた証だ。ここで何人の職人たちが人々が当たり前に使う和傘をかつては作り上げていたのだろうか。目を閉じてみると、そのかつての活気や職人たちの伊吹が感じられる気がした。

「終わりは必ずあるんだろうか?」

 カメラを誰もいない作業場に向ける。何かを映し出すこともない。在るのは雑然とした作業場。静かだ。稼働率がゼロになったここは、もう役目を終えたのだろうか。

「これで良かったのか?」

 問いばかりが生まれる。親父さんが自分で決めたことだ。未練は果てようがないだろうが、肉体の衰えには限界がある。それを見極めたからこその幕下ろし。きっと俺のほうが心残りに燻っているのかもしれない。

「どうしたの?」

「あ、いえ。何でもないです」

 戻ってきた紗美さんが不思議そうに首を傾げていた。

「親父さんは?」

「無理のしすぎよ。横にさせたわ」

 返す言葉が浮かばなかった。

「お茶でもいかが?」

 そんな俺を見透かして、紗美さんが口を開いた。

「いただきます」

 店先の椅子に腰を下ろして、紗美さんとお茶をする。ゆったりとした時間の流れが、都会の喧騒の中にもあるのだと、落ち着く。

「ねぇ、海藤君はどうして撮ろうと思ったの?」

 いつかも聞いたような問いかけに思えた。

「一目惚れしたからって言ってたけど」

「そうですね、初めはただの一目惚れでした」

 傘を差す貴女に。何てこっぱずかしいことは死んでも言えない。笑われるだけだ。

「それじゃあ、海藤君はどんな写真を撮りたいの?」

 団扇で扇ぐと、紗美さんの髪が靡く。写真に収めたい一枚だった。

「今日まで色々な写真を撮って見て、一枚だけどうしても撮りたいものが出来ました」

 今まで撮った写真は、パソコンに全て入れてある。今日撮った写真を見返して、やっと漠然としていたイメージが、はっきりと俺の目に映った。

俺の中にある親父さんのイメージは、頑固で大きくて、照れ屋。でも仕事には誇りを持って最後まで職人で居続けた男。だが、一人で居続けたわけじゃない。支えが在ったから、守るべきものがあったから、親父さんは和傘を作り続けることが出来た。父の作る傘を誰よりも丁寧に扱いこなせるのは、紗美さんだけだろう。その二人を一緒に収めたい。俺の中にあるイメージがはっきりと目の前に広がっている。

「紗美さんにも一緒に撮ってもらいたいんです。親父さんと」

「父と?」

 意外そうな顔に頷く。

「はい。この傘を差してる紗美さんは、本当に綺麗でした。だから俺、惹かれたんです」

 遠まわしに告白してる気分だ。いや、そうかもしれない。一目惚れしたことに違いないんだ。

「それじゃ、傘を差してない私は魅力ないみたいね?」

 悪戯な笑みを浮かべる紗美。

「そ、そんなことないですっ。紗美さんは美人です。彼女にしたいくらいですよ」

 俺の言葉に紗美さんが噴出す。分かっていたこととは言え、つい動揺して恥ずかしくなる。

「ありがと。嬉しいわ、この年になって年下の男の子に言われるなんて思ってなかったわ」

 その笑みは、一時を忘れさせるものだった。

「今度、夏祭りがあるから、その時に写真を撮ったら? 私も浴衣着るから」

「でも、出来れば雨の方が良いんですけどね」

「祭り提燈の和傘ってのも粋なものなのよ?」

 和傘屋の娘だから、俺以上に和傘の映える場を知っている。俺に反論する気はない。一目惚れした姿なら、お勧めする場でさらに映えるはずだ。どっちも撮ってみたい。そんな気しかしなかった。

「当日に考えてみます」

「父にも言っておくわね」

 それからしばらくして、仕事やらであまり通えることもなく、久しぶりに店を訪れた。商店街には赤い提燈が飾られ、近くの神社からは、人の声や囃子が聞こえた。

「ご無沙汰してます」

「いらっしゃい」

「おぉ、浴衣ですか。綺麗ですね。やっぱり紗美さんは和装が似合いますね」

「ふふっ、ありがと」

 店の扉を開けると、そこに浴衣姿の紗美さんがいた。結い上げた髪の下に見えるうなじの色っぽさ。俺よりも少し背丈が小さい分、年齢から来る美しさと、愛らしさがあった。

「何、鼻の下伸ばしとる」

 掠れた声で、仕事をしている時以上の険しい目つきで親父さんが俺を見ていた。

「親父さんも浴衣似合ってますよ」

 ふん、と久々に鼻で一蹴される。前よりも随分と小さく見えるが、祭り好きなのか、顔色は良かった。

「今日は晴れだが良いのか?」

「そうですね、正直惜しい気はありますが、大丈夫です」

 アングルも決まってる。後は二人が傘を手にとってくれれば、それで良い。そう思うことにした。

「それじゃ、行きましょうか」

 今まで使っていなかった杖を支えに、紗美さんは父の作り上げた蛇の目傘を手に、店を出た。

「あ、ここで一枚撮りましょうか?」

 作品じゃない思い出を。二人を店の前に並ばせ、看板をバックに一枚取った。少々仏頂面の親父さんだったが、紗美さんが楽しそうに微笑んでいたから、良いだろう。

「海藤君。どこで撮ろっか?」

 ゆっくりと親父さんに合わせて祭りの賑わいの中を歩く。浴衣姿の可愛らしい子供たちや、腕を組んで歩く恋人たち、家族や友人、様々な人手溢れている。不思議とテンションも上がる。

「その通りを傘を差して歩いてもらえますか? 後姿を撮りたいので」

「傘なんか差すのか?」

 親父さんが嫌そうに眉間に皺を寄せる。それもそうだろう。誰一人として傘を差している人なんていない。空は茜色に染まる快晴だ。

「嫌、ですか?」

 親父さんは応える代わりに杖をつきながらゆっくりと先へ歩き出した。

「もう、ほんと頑固なんだから。海藤君。私一人でも良いかしら?」

 しょうがないといった顔で、父を見る紗美さん。

「本当はお二人が良いですが、我慢します」

 周囲の人に気を使いながら、紗美さんが和傘を開いた。何事かと見る人もいるが、紗美産は気にすることなく、俺にこのまま歩けば良い? と見てくる。

「はい。そのまま歩いてもらって結構です」

 紗美さんの言う通り、雨じゃなくとも、赤い蛇の目傘は祭りの雰囲気にとけこみ、風情すら醸し出していた。その分、周囲からは奇異の目が移りこんできたけど、もはやそんなものに気を張る必要はなかった。

「やっぱり、和服姿が一番和傘には似合うな」

 カメラを構え、これまで親父さんが紡ぎ続けた職人の最高の一枚を撮れる瞬間を待った。そこに俺が込めたいストーリーも、思いも現れるはず。人の波に消えてしまわないように、距離を保ちながら、レンズを向ける。

「これが今の俺の全てだ」

 ほんの一瞬に見出した現実を永遠に切り取るために、深く息を吸い込み、シャッターボタンに指を乗せた。


「やっぱり、現実は甘くないか」

 あの日から季節はもう随分と流れた。ようやく発表された大賞は、プロのカメラマンの撮った、祖父と孫の笑い顔だった。楽しそうな雰囲気が見ているこちらにも伝わる良い写真だと思った。プロアマ問わずの作品コンクール。現実と言うものを改めて突きつけられた。自意識過剰になっていたのかもしれない。佳作にすらかすりもしない、落選。

「俺の方がいい写真だと思ったんだけどなぁ」

 そんなことを言ったところで恥の上塗りになるだけだと言うことは分かっていても、府に落ちないものと落選のショックに気が重かった。

 報告しに、通い慣れた道を歩き、一軒の店の扉を開けた。そこにはもう、傘はなかった。奥から竹を削る音も、轆轤を繰み込む機械音も何もない、静かな少し冷たい空気が漂っていた。

「あら、いらっしゃい。今日だったの?」

「ええ。見事に玉砕でしたけど」

 すっかりやる気を削がれたが、それでも紗美さんは微笑んでいた。

「挫折をするから、次が良いものになっていくのよ。写真も傘も同じよ。職人が作り上げるものなんだから、ねっ?」

「そう、ですね。はい、俺も親父さんみたく一人前を目指します」

 不思議だ。紗美さんに言われると、その気になるから。

「でも、私はあの写真。好きよ。父も言ってたでしょ?」

 紗美さんの言葉に、親父さんの言葉が浮かぶ。

《ふん、お前にしてはなかなかじゃないか》

 かすれた声で、印刷の仕上がった写真を見る親父さんの目は、微かに優しかった。

「きっと、父も海藤君に撮ってもらえて喜んでたわよ」

「そうだと、嬉しいですね」

 二枚印刷して、一枚は出品し、もう一枚は、今では静かに眠る仏前の隣にかけられている、題名『アメ、サラサノカサ』の写真。雨は降っていなくとも、人ごみの中を軽やかに雨を弾くその蛇の目傘には、悠久の時代を水のようにサラサラと流れる優雅な華やかさがあったから、そう名づけた。

 周囲の人ごみが真白の色に染まり、小さな体の大きな職人の背中と、その集大成を和服美人が飾った瞬間を収めた作品。白の蛇の目と赤い和紙と提燈が二人の浴衣姿を映えさせ、周囲の人間を背景の一部に変えるセンターフォーカスに捉えた俺の中では渾身の一枚だった。それでもその写真に付加出来る賞を取れなかった悔しさは消えない。けれど、一人前を目指す以上、そんな愚痴は甘えでしかないのだと、最近親父さんの背中を見てきて学んだ一つだ。

「今日は傘が映える日ね」

「そうですね。もうすぐ雪の中の赤い蛇の目傘も撮れるかもしれないですね」

 今日の雨はいつもの何倍も冷える寒さを含んでいる。悲しみすらも溶かし落としてくれそうだ。

「その時は、またモデルは私かしら?」

「ぜひお願いします。紗美さんは和傘を持たせたら右に出る人はいないですから」

「父の傘だけよ」

「当然です。俺も親父さんの傘しか撮りませんから」

 俺の前では決して弱音を見せることのなかった親父さん。最期に作り上げたあの傘は、今も大事に親父さんの血を受け継いだ紗美さんの手に抱かれ、雨の中を踊っている。軽やかに雨を弾き、幾星霜の時を、受け継がれてきた伝統法で磨き上げられた竹の質感の残る骨から透ける赤い和紙とのコントラストの美しさ、手に馴染む漆と本藤の質感、薄れかける油の匂い。この店で生まれた和傘を手にする人にしか分からない親父さんの職人として生きた情熱。最期まできちんとそれを撮り続けられたのかは分からない。それでも、俺の中には傘を差すたびに甦る日々と思い。これを残そうと思っていたのに、これは残すことの出来ないものだったようだ。写真だけでは伝わらないものの大きさを、この目でしかと見届けることが出来た満足感が、賞に落選し憔悴する雨に打たれる俺の心を、一本の蛇の目傘が守ってくれたのかもしれない。

「紗美さん、少し歩きませんか?」

「デートのお誘いかしら?」

 相変わらずの悪戯な笑み。親父さんが職人として生きてきて頑固だったように、紗美さんも、その血を受け継ぐ照れ屋のように見えて、俺の頬も緩んだ。

「親父さんもいますけど」

「・・・・・・そうね。じゃあ、三人で行きましょうか」

 微かに紗美さんの表情が思いを馳せた。二人して奥の作業場に無意識に視線が行く。

《好きにしろ》

 そんな声が聞こえてきそうだった。

「紗美さん、行きましょう」

「ええ、相々傘なんて何年振りかしら」

「俺は、初めてですよ」

 ここまで差してきた傘を手に取り、二人して笑って、もう一度振り返り、店だった扉から霧雨のように柔らかに降る雨の中に繰り出した。傘に打ち付ける洋傘にはない乾いた雨音。サラサラと傘を流れ、地に落ちていく。不思議と気分が高揚する。きっと、この雨だけじゃないのだろう。隣を見てふと思った。

「カメラ、持って来ればよかったかも」

「私で良ければいつでも撮らせてあげるわよ」

 一本の職人の思いを継ぎ込まれた蛇の目傘を開くと、雨の中に洋傘に負けない存在感を示す日本の伝統の心が雨の中で雨と共に悠久の時を舞っていた。


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