掛け軸の女
掛け軸の女
上方のある女の話だと言う。
ある時、名のある絵師がその女に随分と惚れ込み、狂ったようにその姿を描き上げたそうだ。
うだるように暑い夏の昼下がり。
普請中の現場で、頭領が休んでいる男たちを涼ませてやろうと、怪談話をしていた。
呉服商の三男坊の文七がその輪に加わったのは、そんな頃だった。
背の高い瓜実顔の赤い着物を着た女がふと立ち止まり、振り返った瞬間の絵だった。
品良く束ねられた黒髪、色白の顔に艶めく瞳。
紅を差した滴るような潤みを帯びた半開きの唇からは、甘い吐息すら感じられそうだった。
襟元からは女の生暖かい体臭までもが抜けてくるようでいて、決して品は失っていない。
その女は芸者でもなく、どこかの姫でもなく、と言って貴族でも武家の娘でもなく、ましてや商人、農家の女と言うこともなかった。
だが、どことなく品の漂う艶めかしさと絵から抜け出してきたような美しさは、女が振り向くだけでどんな男でもとろめかした。
この女、名が何で、どこに住んでいるのか、いや、名などその日毎にそして男の数だけ違い、住む所は食い物にしているその男次第と決まっていた。
男を食い物していると言う噂は広がっていたが、食い物されたという男が誰一人として現れないのは、まったく不思議なことであった。
「絵から抜け出してきたような女。男を食い物にしていたその女の絵があるという」
「そ、それがオチですかい?」
「ホントですかい?頭領」
「言ったって知るかい。聞いた話をまんま言っただけだ」
「でもよぉ、そんなにいい女なら、食われちまってもいいから一度拝ませてもらいてぇなぁ」
「お前ぇなんか、歯牙にもかけてもらえねぇよ」
「おっ、文七じゃねぇか」
まわりが騒ぐ中、頭領が文七に気がついて、手で合図した。
「頭、ごぶさたです」
文七は軽く頭を下げた。
「なかなか味のある怖い話でしたねぇ。ところで為は、いやすか?」
『為』とは『為三』の事で、文七とは幼なじみで共に悪所(遊郭)通いもした仲だった。
だった、というのはここ半年、為三が急に真面目に働くようになり、文七の誘いに乗ってこなくなったからだ。
文七としては残念ではあったが、真面目に働くことに何の文句があるわけではなく、久しぶりに為三に会って、冷やかしつつも「えれぇなぁ」と一言声をかけたいと思ってきたのであった。
「文七ぃ、また悪いトコに誘うなよ」
頭領が先を制した。
「頭ぁ、そんなつもりで来たんじゃないんですよ。為が真面目に働いているトコ見て、こっちも見習おうかって来たんですよ」
「そうかい。悪いこと言ったな。すまねぇ。それで為三だがー」
頭領はひとしきり為三を褒めた後、わずかに眉を寄せた。
「真面目になったのはいいんだが、これっぽっちも遊ばなくなってな、仕事が終わると付き合いもせずにさっさと帰っちまうんだ。と言ってな、一人でどっか行くわけでもなく、ただ長屋に帰ぇって好きな絵ぇ、見てるだけだ。そりゃ悪かねぇよ、悪かぁねぇけどなぁ」
「絵って何です」
そんな趣味があったかと文七は思った。
「女の絵じゃなかったか」
「頭ぁ」
と、横から若いのがひょいと口を出した。
「そろそろ」
「そうか、文七すまねぇ。仕事始めるわ。さぁ、みんなやるぞ」
頭領が立ち上がると、若いものが口々に
「百酒百日で、絵が出てくるって話、知ってるか?」
「絵でもいいから、女房が欲しいや」
「絵の女だって、お前ぇだけは嫌だって言うぜ」
などと言い合い、てんでに仕事を再開した。
「文七、今日為三は別ン所だ。今日も暮れには長屋に戻って絵でも見てるよ。その頃にでも顔を出してやってくれ」
「そうですか。分かりました。お邪魔さんでした」
日暮れになって長屋に行くと確かに為三がいた。狭い部屋の一番奥に座り込み、壁をじっーと見ている。
そばには徳利と湯のみがあり、壁を相手に酒を飲んでいるようだ。
その横顔は、何かに取り憑かれたように目ばかりがギラギラしているように見えた。
戸口の隙間から覗いていた文七だったが、少しばかり異様な雰囲気に遠慮がちに声をかけた。
「為ぇ、いいか?」
すると為三はくるっと振り向き、文七を認めると
「文七ィ」
と、明るい声で戸口まで出迎えた。
「久しぶりだなぁ。店の方は忙しいのか?」
「いやぁ、まぁぼちぼちよ。それよりもお前ぇが真面目に働いてるって聞いてな、人間変わるもんだなぁって思ってよ」
「へへへ。何、大したことねぇさ」
「ところでお前ぇ、今、壁向いて何見てたんだ?」
以前と変わらぬ為三に文七は安心して、ぽっと聞いた。
一瞬、為三の顔が険しくなったような気がしたが、へへへと笑うと何と照れ始めた。
「いやぁ、こんな事言うのは恥ずかしいんだがよ。骨董屋でいい絵、見つけてな。それ見てたんだ」
「へぇそうかい。どんな絵だい?ちよっと見せてくれるか?」
「ホントは見せたかねぇが、文七に頼まれちゃ見せねぇ訳にはいえねぇ。チョットだけだぞ」
「あぁいいぜ。そうだ、酒持ってきたんだ。お前ぇが真面目に働いてる祝いよ」
「へぇ、真面目に働くとそんな事があるのかい?ありがてぇ。ところでドコの酒だい?」
「ん、安モンじゃねぇぞ。三間町の菊屋の酒だ」
「…あそこはまだ。そうかい、そいつぁ何よりだ」
為三は徳利を受け取ると、文七を中に入れた。
奥に入ってみると、ボロボロの壁に似つかわしくない一幅の掛け軸が垂れ下がっていた。
暗くて色使いはハッキリしなかったが、赤い着物の立ち姿の女が一人、描かれていた。
「ほぅ、これかぁ」
文七は呆れたような、関心したような何とも言えない声を出した。
まさか本当に為三が、女の絵を見ているとは思ってもみなかった。
くるっと振り向いた瞬間の姿を捉えた絵で、確かに見事だったが、全く趣味が違っていた文七にはそれ程のものとは思われなかった。
「へへへ」
為三は再び照れたように笑い、「もういいかい?」と手早く掛け軸を巻き取ってしまった。
「どこで買ったんだ?」
文七が何気なく聞くと為三は現場近くの骨董屋で見つけたと言う。
それから文七は久しぶりに為三と話をしながら、酒を酌み交わした。
それから一ト月ほどの時が流れた。
その間、文七は為三の絵の事が、妙に気になってきた。
ほんの少し見ただけだったが、思い出すほどに女の生々しさが蘇ってくる。
為三が毎日見ているつもりで逆に、絵の女に見つめられているとしたら。
そう言えば、前に頭領が女の絵の話をしていた。
「バカバカしい、んな訳ゃねぇ」
バカバカしいとは思いつつ、文七の足は為三に聞いた骨董屋に向っていた。
「あぁ、あの絵ですか」
骨董屋の主人は絵のことを覚えていた。
「とある店の女将さんが持ってきましたね、買って下さいって言うんです。こっちは商売だから買いましたよ。でも見るからにいい女の絵でしょ、どうしてこんないい物売るんですってね、野暮を承知でつい聞いてしまったんですよ。そしたら女将さん話してくれましてね、何でも旦那さんがどこからかこの絵を買ってきて、一月もすると毎晩この掛け軸を相手に酒を飲むようになったそうですよ。それ程深酒する訳でもないんで放っておいたそうなんです。ところがそれから三ヶ月余りした時に旦那さんが突然雲隠れしたって言うんです。家の者も店の者も誰も出て行った姿を見てないんです。ついさっきまで掛け軸相手に飲んでたのにですよ。絵に怨みはないけれど絵を見ていると主人を思い出すし、悔しいけど自分よりいい女だから売りに来ましたってね」
文七の背中をどうにも嫌な感じが、ぞくぞくっと這いずった。
女の絵。酒。三ヶ月余り。
そう言えば、為三の所に行った時、珍しく「ドコの酒だ」と聞いた。
いや、それでも気のせいだ。
そうは思ったが、頭領の所に行った時の話が、急に思い出されてきた。
百酒百日で絵から出てくる。
男を食い物にしている女の絵がある。
まとわりつくような蒸し暑い風の吹く夜。
文七は寝苦しい夜を過ごした。
それから日もたたないうちに、文七の耳に妙な噂が流れてきた。
為三が酒浸りになりやたらと日にちを気にしていると言う。
ここ十日ばかりに暇をもらって休んでいる。
文七の胸に虫の這うようなぞわぞわした感覚が、そぞろ沸いた。
文七は店が終わると、為三の長屋に向った。
時は逢魔が時と呼ばれる、暮れ六ツに入っていた。
為三の長屋に着くと文七は物も言わず戸を力任せにえいっと開けると、返事も待たず部屋に上がった。
文七は見るなりぎょっと、後ずさった。
奥の横壁から二本の腕が出ていて、人の足を喰い物のようにつかんで食っているではないか。
文七は目をこすって、もう一度見直した。
だが、壁には例の掛け軸が、初めて見た時と同じようにかかっているだけだった。
「為ェッ」
呼んでみたが、答えはない。
ぐるっと狭い部屋を見回したが、為三の気配も何もない。
一瞬目の隅で、女の喉が動いたようにも見えた。
文七は掛け軸の女を見た。
女は初めて見た時と同じ姿である。
掛け軸の女は、とろけるような目つきで文七を見つめている。
男を喰い物にしているその女の絵があるという。