第5話 前進と後退、そして前進
「はあ…。」
溜め息を吐く。一体、今日で何回目だろう、と無意識に零れ出たそれを思い、エルは唇に触れた。視界の隅に映る空は、今日も今日とて雨模様。休日の雨、それはローラントと会えないことを意味する。
ローラントが魔法の訓練の際に利用するあの場所は滅多に人が寄らず、家柄、容貌、魔力など様々な面で大目立ちの彼を他人の目から隠してくれる絶好の空間である、が、如何せん、元々、闘技場と学校の塀で出来た只の隙間であるそこは、屋根などというものは勿論付いておらず、雨の日の利用は火を扱うローラントにとって以ての外である。よって、約束もなく始まった二人の密会は、ローラントが恙なく魔法を行使することが出来る、晴れの日にだけ行われた。
跳ね返った雨の雫によって濡れた肌寒い廊下を1人、ゆっくり歩いて書の館へと向かう。チュチュはいない。人よりも密接にこの世界と繋がっている彼らは、人よりも大きく世界の影響を受ける。その為か、チュチュもカルメの使い魔であるナナも最近はひどく活動的で、朝起きたら既にその姿は見えず、夜になっても帰って来ないことが多い。
のろのろと歩いていても目的地にはちゃんと着くようで、気が付けば所々を鉄の金具で留められた頑丈そうな木の扉が目前に迫っていた。取っ手を掴み、人によっては圧迫感すら覚えそうなその扉を押そう、としたところで後ろから声が掛けられた。
「今日は閉まってるみたいだぞ。」
まだ出会って少ししか経っていないのに、とても耳に馴染んだ声が聞こえてくる。振り向くと、やはり、そこにいたのはローラントだった。
「ローラント様!」
「久しぶりだな、エル。」
片手を軽く上げ、近づいて来る。エルも会釈を返した。
「珍しいですね、書の館に用事ですか?」
「ああ、試験の参考にな。」
そう言って、ローラントは首を傾げた。何か違和感があるような気がしたのだ。つられてエルの首も傾く。
「…何だか、変な気分だな。そういえば、あそこ以外の場所で会うのは初めてか。」
言われてみれば、とエルは目を瞬かせる。火と植物の要素という間柄、彼らは授業はおろか移動教室の際でさえも顔を合わすことはない。
じっとこちらを見てくるローラントを、エルは見つめ返した。チコの木が太陽の光を浴び活き活きと立つあの特別な場所ではく、エルの日常の一部を占める身近なこの場所にローラントがいる。それは、何だかとても
(ローラント様が近くにいる。)
とても、ローラントを近くに感じることだった。
(どうしてだろう?嬉しいのに、少し、恥ずかしい。)
頬が熱い。たまらなくなって、目を伏せてしまう。それはローラントも同じだった。口元を手で覆い、エルから目を逸らしている。
二人の間に流れるのは沈黙。しかし、気まずいわけではない。もう少しこの空気に浸っていたいような、早く紛らわしてしまいたいような、不思議な時間だった。
だが、そんな時間は不意に終わりを告げる。カサリ、吹き抜けの廊下の周りに生える植物たちの揺れる音がした。風はない。次いで、しゅるしゅると今までピクリとも動かなかった草たちが束となってエルに向かって伸びてくる。咄嗟に、ローラントはエルを自分の傍に引き寄せた。尚も、追いかけるように草はエルに向かってくる。しっかりとエルを抱き、不審な草を焼き払おうと手を挙げたローラントをエルは慌てて制した。そして、小走りで草の束に近付く。束はゆっくりとエルの左肩まで伸び、その葉を落ち着けた。草の根元から小さい影が、橋のようになった草の上を渡り駆けてくる。
「お帰り、チュチュ。」
「チュ!」
肩にのり寛ぐチュチュの頭を、エルは人差し指で優しく撫でた。まるで、ただいま、とでもいうようにチュチュが一つ鳴く。そんな1人と一匹との様子を見て、ようやっとローラントも体の力を抜いた。すると気が緩んだのか、今まで何処か遠くに感じていた外の寒さが徐々に戻ってきた。気が付くと、すっかり体は冷えてしまっている。幾ら屋根があるとは言え、雨の中、吹きさらしの廊下に長時間いるのだ、当然のことではあろう。目の前で、エルが軽く身震いをした。
「やっぱり、ここは少し寒いですね。中に入りましょうか。」
「だが、閉まっているぞ。」
「大丈夫です!」
ローブの下をエルは探る。彼女が取り出したのは、長い年月を感じさせる錆を身に纏った質素な鍵だった。
「!…それは、ここの鍵か?」
「はい、そうです。」
驚いて聞いてくるローラントに頷き、エルは手に持った鍵を鍵穴に差し、ぐるりと右回りに半回転させた。カチャッと小さな音が廊下に響く。力を込めて押すと、扉は軋みながらも小さな抵抗とともに開いた。
「真っ暗だな。」
ローラントの言葉通り、雨雲が部屋に射す陽の光を遮ってしまっているのか、書の館の内部は暗い。魔法でローラントに火を灯してもらい、エルは入口のすぐ近くにある、貸出などの事務を行う机の上に置いてあるランプを手に取った。ランプの中に火を移し、二人並んで其々お目当ての本を探す。書の館の随所には、ちゃんと部屋を照らすための蝋燭が設置されているのだが、二人なのでランプの灯りでで十分だろう。幸い、エルの探す本はすぐに見つけることが出来た。
そういえば、とエルが口を開く。
「ローラント様は、どのような内容の本をお捜しなのですか?」
「これ、という明確な物があるわけじゃなくてな。取り敢えず、何か良い発想を与えてくれそうな本を探してる。」
苦笑いで、どこか照れ臭そうに答えるローラント。そんな彼にエルは、それは難しい探し物ですね、とこちらも苦笑交じりに返した。久々の穏やかな時間だ。
「試験の参考にするということは、組む人が見つかったんですね。」
「ああ、ようやくな。」
エルも知ってるんじゃないか、とローラントが教えてくれた名は、今世の自分にも前世の彼女にも、とても聞き覚えのあるもので、エルは、目の前のローラントの隣に、そうあることが当然のように並び立つその人の姿が見えた気がした。
彼の隣にごく自然と佇む彼女、自分もそこに立ちたい、強くそう思った。
少し、急ぎ足かもしれません。