プロローグ
ふわりふわり、と掌の上で、幾つかの小さな光の玉が踊る。その、小さな小さな光の玉は、ふよふよと四方八方へ散らばりながら、それでも徐々に手の上のある一点に集まりだす。ただの光の粒だったものが段々と寄り集まり、いつしか大きな大きな薄桃色の珠へと形を変えた。
少女は、手の上のそれを凝視したまま、慎重に両掌を自らの頭上へと掲げた。その瞳は真剣で、唇は緊張の為か固く引き結ばれ、いつもは薄ら紅く色づいている頬も今は病人の様に白い。
そのまま長い時間が流れた。まあ、長いと言ってもそれは少女の体感時間であり、実際の時は少女が珠を掲げてから、さほど経ってはいないのだが。
くっと意を決した様に、少女が珠を支える手を離す。少女の額から、汗が一筋流れた。
少女の支えを失った珠はそのまま落ちるでもなく、ふわふわと部屋の天井に向け舞い上がる。ぴた、と天井にぶつかるその手前で珠が静止した。
ごくり、と少女が息を呑む音が、やけに大きく、この広いとも狭いとも言えない部屋に響き渡った。恐る恐ると言った風に先程まで珠を支えていた右手の、親指と中指を合わせる。
ぱちん、と張り詰めた空気を割くように、なんとも小気味のいい音が指から鳴った。その瞬間、宙に浮いたまま微動だにしなかった珠が、光を放ちその輪郭を崩す。ひらりひらりと少女の頭や肩、そして床に何かが降り積もった。それは花びらだ。瞬きひとつの間に、珠はその硬く堅固な姿を、部屋中に舞う柔らかな花びらへと変えたのだ。
ほっと少女の体から力が抜ける。
「素晴らしい!文句のつけようのない、見事な魔法でした。」
ぱちぱちと手を鳴らし、大股で部屋の隅から女性が寄ってくる。
「タリルせんせぇー。」
へたりこんでしまった少女に手を貸し、女性、タリル・マラスは滅多に見せない満面の笑みでこう言った。
「これであなたも来年からメノース魔法学校の生徒です、エル。」
その言葉に少女、エルラール・ボリューは目に涙を浮かべ、ひしっとタリル・マラスに抱きついた。
タッタッタッタ、と軽快な足音が廊下中に響く。エルの住むこの屋敷では、廊下を走る事は良しとはされていない。だが、今日は誰もそれを咎めない。それどころか、擦れ違う人々が彼女の姿を認めると、微笑み道をあけてくれる。彼女はそれに礼を言いながら、うなじあたりで2つに三つ編みした栗色の髪を揺らし、駆け足でその横を通り過ぎた。
ふいに足音が止んだ。目的地に着いたのだ。
エルは息を整え、目の前の扉を軽く叩いた。すぐに、扉の向こうから入室を許可する声が聞こえてくる。
「お父様、お母様!」
勢いよく部屋に飛び込んできた、年頃ながらもまだまだ幼い娘を目にし屋敷の主人とその妻は顔を綻ばせ、駆け寄ってくる娘の言葉を待った。
「行ってきます!」
とても幸せそうな笑顔でそう言う娘に、二人の笑みはますます深まる。
「行ってらっしゃい。より多くの人と出会い、よりたくさんのことを学んできなさい。」
年の割に小さい娘を抱きかかえ言うのは、エルと同じ栗色の髪を持つ父であるルードリッヒ・ボリュー子爵。
「いい人達と出会えるといいわね。」
顔の前で手を合わせおっとりと言うのは、艶やかな黒髪を肩より少し下まで伸ばした母であるアリシア・ボリュー夫人だ。
「うん!」
両親の言葉にエルは大きく頷き、一礼をして今度は玄関に向かって走り出した。たくさんの人が行ってらっしゃい、と声をかけてくれる。その一つ一つに行ってきます、と返し、彼女は馬車に飛び乗った。
馬車は待ちくたびれたとばかりに、エルが乗るとすぐさま出発した。ガタガタッと揺れる馬車の、出入り口とは反対側の窓から、どんどん通り過ぎていく見慣れた景色を眺める。これからしばらく、この景色が見られないのかと思うと、いつもは何と無く見過ごしていた物たちも特別な物のように瞳に飛び込んでくる。空は、まるでこの旅立ちを祝福するかのように見事な快晴だった。
ふとエルは、この今自分の中に満ちている大きな期待が、自分のものか彼女のものかどちらなのどろう、と思った。
エルが指す彼女、それは前の生、つまり前世の自分のことである。前世の自分は『ニッポン』の『トウキョウ』という都市で、『オーエル』という職業に就いていて、妹と二人暮らしをしていた。エルが彼女のことを思い出したのは6歳の時だ。夜、いつもどおり眠りに就いたエルは、『ビール』をちょびちょび飲みながら、妹が遊んでいる『オトメゲーム』をぼーと眺めている彼女の夢を見た。夢から覚めたエルはすぐに、彼女が自分であることを理解した。だが彼女と自分を同一視したりはせず、彼女は彼女、自分は自分、と区別し今までの自分を変える事は少しも無かった。幸運な事に彼女とエルは同じ魂を持ってはいたが様相は全くの別物で、おかげでエルは彼女を客観的に捉えることが出来た。
今、エルがいるこの世界は、彼女にとっては、ぼんやりと見ていた妹が遊ぶ『オトメゲーム』の世界である。そう、エルは彼女にとって想像上の産物でしかなかった世界で生を受けたのだ。
外の風景に向けていた視線を、エルはそっと自身の手に移す。次いで目を閉じ、自身の中の魔法の源となるものに呼びかけた。目を開けると、いつものように掌の上には小さな光の玉が浮かんでいた。エルは、ふよふよと漂う光の玉をじっと見詰める。その瞳に浮かんでいるのは、この世界の人々が魔法に対して決して向けることの無い感情、憧れである。そもそも、この世界の人々にとって魔法の存在もその行使も当たり前のことである。だから魔法に対して憧れと言ったような特別な感情を持つことは無い。
だが、エルの中の彼女にとっては違った。彼女はずっとずっと魔法というものに対して憧れを抱いていた。それも、彼女にとって物語でしかないこの世界を、そこに住む架空の存在でしかない人々を本気で羨む程に。そして、この憧れは、この憧れだけは、彼女は彼女、自分は自分と分けていたエルにも受け継がれた。そうしてエルは魔法に憧れを抱く、この世界では少し、いや、大分異質な人間へと成長した。
いよいよだよ、そうエルは彼女にささやきかける。
(いよいよ私達は、夢見た世界へと足を踏み入れる。)
ぎぎぎぎ、と馬車の外からは門を開く軋んだ音、その後には降りるよう促す声。
メノール魔法学校、そこはこの国に住まう16歳以上の子供達が魔法に関わる様々なことを学び、それを行使するために作られた大きな箱庭である。