トランストランスフォーム (上)
焼堂伶羅という一つ年上の女の子は良家の娘さんで、幼い頃から物腰や言葉遣いに、それは現れていた。
小学校からの知り合いで、家が近所だった事もあり、昔は姉が居なかった(過去形)僕は、姉の様に思い慕っていた。
当時は少女らしいワンピースに、髪型も前をヘアバンドで止め、後ろは三つ網にまとめた、委員長ライクな格好をしていた。
そんな伶ちゃんが中学校の頃突然、空手などを習い始めた。理由を聞いたが、教えてはもらえなかった。
ともあれ、真面目な性格と合致したのか、すぐに段位を取り、あっと言う間に色んな武道を極めていった。
図書室の窓際で本を読んでいる伶ちゃんを見て、クラスメイトが「『深窓の令嬢』って感じだよな」と言っていたのを、よく覚えている。――それが格闘技の本だとも知らずに。
閑話休題。そんな伶ちゃんの家には、何度も遊びに行った事がある。
お邪魔するに至った初めての理由は、お呼ばれした。……なんて事ではなく、伶ちゃんの父親に文句を言う為、というのだから本当に昔の僕はろくな事をしない。
きっかけは、習い事が毎日あるからあまり遊べない、と伶ちゃんが漏らした不満。
毎日は酷い! っとすぐさま勢い込んで焼堂家へ言った僕だが、その頃から大企業のお偉いさんであった伶ちゃん父に、丁寧かつ正確に論破され、悔しい思いをしながら帰る事となった。
しかし当時の僕が一度で諦めるはずが無く、それから何度も文句を言い行く事になる。
結局、最後まで言い負かされっぱなしだったが、向こうの方が大人の対応というのか、折れてくれたため、伶ちゃんの習い事は少し減った。
何だか勝ち逃げされた気分になりつつも、僕の主張は概ね通ったのでそれ以後、僕が文句を言いに行く事は無かった。
その代わり何を気に入られたのか、逆に伶ちゃん父から度々呼び出され、遊びに行く頻度はむしろ増えた。
子供相手とまともに話し合ってくれたという意味で、僕が尊敬している数少ない大人の一人である。
……とある部分を除けば、だが。
休みのある日、久しぶりに焼堂家へお呼ばれした。
焼堂家は古き良き木造家屋だ。門は車一台余裕で通れる程の幅で、普段使いのドアが横に付いている。
インターホンを押して暫く待っていると、そのドアが開いた。
「らっしゃいま、――正道!? なんで!?」
迎えてくれたのは、木刀を肩に担いだ制服の伶ちゃんだった。……普通に怖かった。
「いや、おじさんに呼ばれたから」
「あの父親……。珍しく迎え行かせたと思ったら、そういう事か」
「知らなかったんだ?」
「そりゃ知ってたらこんな服……。い、いや、その、なんでもねぇ!」
格好を気にしてるのか……? その場合、僕だからこそいいんであって、父親の客人を迎え入れるのにむしろその格好は……。
「ま、まぁ兎に角上がれよ、一人だろ?」
「多分」
「多分ってどういう意味だ?」
「沙紗が来てなければって意味だよ」
「あぁ……。彗なら、大丈夫だろ」
そう言って、伶ちゃんは親指で塀の方を挿した。視線を動かすと、見慣れた銀髪が塀を登ろうとして、黒いスーツの人達に捕まってるところだった。見なかった事にした。
「……じゃあ、お邪魔します」
「おぅ」
伶ちゃんの後ろに続いて玄関の戸を潜り、これまた広い大理石造りの土間で靴を脱ぐ。そのまま真っ直ぐ行って、通路の突き当たり左にあるのが、伶ちゃん父の部屋だ。
伶ちゃんは少し離れたところで、こちらを見ていた。
「あれ、伶ちゃんは来ないの?」
「あたしは、いい」
「何で?」
「あー……。す、素振りが残ってっから」
「そう? じゃあまた後で」
おぅっ、と気持ち上ずったような返事をして、伶ちゃんはまた外へ行ってしまった。
そういや、伶ちゃんは父親の事が苦手なんだったっけ。からかわれるから、とか何とか。
「さて、……そぉぉいっ!」
目の前の襖を、木がぶつかり合う音が響く程の勢いで開けた。
その先にいるのは、荘厳な表情で読んでいたエロ雑誌を隠そうと、素早く手を動かしている、伶ちゃんの父親こと、焼堂時代(51)。
サイドを白に染めたオールバックに、皺のさした目、顎に蓄えられた髭、恐らくうん十万するであろう灰色の着物と、ダンディズム溢れる様相をした人物だ。
但し、その見かけとは反して、趣味はエロ雑誌の収集である。
会社では物凄いお偉いさんのはずなんだが……。真面目な人間ほど、ストレスで変な方向に趣味を持ってしまうものなのかもしれない。
「相変わらずですね、おじさん」
「君は何故いつも、私の部屋を突然開けるのかな?」
「面白半分です」
「そうか、仕方ないな」
納得すんのか。
「変わらず元気そうで何よりだ、どうだった? 向こうは」
「特に、何もありませんでしたね」
「……そうか。何も無かったか。だが、少しは変わらずに居られたようだな」
「と言うと?」
「先日、どこぞのお宅のために一家言残した、とか」
なんで知ってんだこの人。ていうか、沙紗も親に話しちゃったのかよ。
「部下が家庭内で揉めてたんだ。一度相談に乗った時は、まだしばらくかかりそうだったというのに、ある日いきなり問題が片付いたというんでな、理由を聞いたら、『娘の友人のおかげです』とぶっきらぼうに言っておった」
「なるほど……」
世間ってのは狭いな……。
「何にしろ。お前がこのまま、変わらずに居てくれると嬉しいんだがな。未来の義父さんとして、――はっ!?」
おじさんが言い終えようとした瞬間、木刀が壁を突き破り、そのまま反対の壁へ突き刺さった。
「っ!?」
おじさんは声も出せず、震えながら穴の開いた壁を見て、驚愕の表情で固まった。
その反応に釣られて見ると、――獣の様な殺気を孕む瞳が、穴越しに見えた。
「こわっ!?」
どうしていいか分からず、二人して硬直していると、足音が近づいてきて、襖が丁寧なノックと共に開けられた。
大体想像はついていたが、入って来たのは伶ちゃんだった。
「ごめんなさいお父様、素振りをしていたら、木刀が手から抜けてしまって……」
言葉遣いが昔に戻ってる!?
「いや、いいんだ……。き、気をつけてやりなさい」
「はい、失礼を致しました」
言いながら引き抜かれた木刀が、勢いそのまま風切り音を立て、僕とおじさんの目前を通り過ぎた。
それを何事も無かったかの様に肩へ担ぎ、伶ちゃんは部屋から出て行った。
……いやいやいやいや超怖いよっ!! つーか壁突き破って、そのまま突き刺さる勢いってどんなだよ!!
「お、おじさん……、大丈夫ですか?」
「大丈夫ではない……」
「え?」
おじさんは椅子からゆっくり立ち上がると、ふらふらした足どりで木刀の突き刺さっていた壁へ歩み寄り、何かをした。
すると、機械音と共に壁が一部反転……、現れたのは、壁一面に飾られたエロ雑誌だった。その一部に、穴が開いている。
「無駄にハイテクだな!?」
こんだけ凝るんだったら、間に鉄板を挟むとかすればいいのに……。流石に想定外か。
「う、うぅ……。私の大事なコレクションに……、穴が……」
ストレスとか以前に、もっと別の病気かもしれない、この人。
「仕方ない。布教用を保存用に置いておくか、君に渡す分はなくなってしまったが……。許してくれ」
「いらねぇよ」
思わずため口。
「すまない、少し気持ちを落ち着ける時間が欲しい。今日はこの辺にしておこう……」
「はい……」
僕もこれ以上関わりたくないので、さっさと出る事にした。
「では」
「うむ。またいつでも来なさい、伶羅も喜ぶ」
「えぇ、是非」
それだけ言って、襖を閉めた。
「よっ」
声に顔を上げると、素振りを終えたのか、伶ちゃんが玄関から僕を見ていた。
そのまま靴を脱ぐとこちらへやってくる。
「話は終わったのか?」
「うん、終わったよ」
正確には謎の木刀が飛来した事により、話が断ち切られた訳だが。黙っておこう。
「そういえば伶ちゃん、これから時間ある?」
「へ? お、おぅ。けど汗かいたからな、先ちょっと風呂いってきてもいいか?」
「僕は全然いいんだけど、でもそれだと時間かかっちゃうでしょ? 急がせるのも悪いし、またにするよ」
「え、い、いや! すぐ、すぐだからっ! なっ! なんだ、あれだっ! 美味しい茶菓子あるから! 後なんかその、お勧めの本とかあるからさっ! それでも読んだり食べたり飲んだりして待ってろよ、な!?」
必死だ。後なんか混ぜこぜになってないか。
「落ち着いて、伶ちゃん。分かったから。待ってるから」
「よ、よし。じゃあ、あたしの部屋で待っててくれ。階段上がって奥から二つ目の部屋だ。あ、何も触んなよ?」
「了解」
「じゃ、じゃあな! ちゃんと待ってろよ!?」
「大丈夫だって。ゆっくり入って来て」
風呂場へ向かう伶ちゃんの背を押して、強引に風呂へと行かせる。
そして、言われたとおり階段を登り、部屋を数えて、
「二つ目。ここが伶ちゃんの部屋か、どんな感じかな? ……っ!」
――ピンク色だった。何がって、何もかもが。
そういえば何だかんだで、伶ちゃんの部屋に入るのは初めてだ。
三年前の伶ちゃんなら兎も角、今の伶ちゃんと比べると、物凄いギャップが……。
「そういや結局、お勧めの本とやらは渡されなかったな」
ふと、机の上に目をやると、分厚い本のような物が置かれていた。
お勧めの本ってのは、もしかしてこれかな?
やや重たいソレを手に取り、なんとなく真ん中辺りを開いた。
『今日三年ぶりに、せい君が帰ってきた。久しぶりにあったせい君は、三年前と変わらない。むしろもっと格好良くなってた。それに、ちゃんとあたしを覚えていてくれて、すごく嬉しかった! ……昔の私がだいす』
「あ、あぁぁぁぁぁ!?」
伶ちゃんの叫び声と共に、目の前から読んでいた本が消えた。
「なっ、よ、読んだのか!?」
「少しだけ……」
「なんで!?」
「いや、お勧めの本ってコレかなと思って」
「確かにある意味、あたしん中の、ベストオブセレクション的なもんだけどちげぇよ!! これあたしの日記!!」
「一行読んだ辺りで、分かってたんだけどね。つい」
「ついじゃねぇよ! 分かったなら辞めろよ!」
「人の秘密は蜜の味っていうだろ?」
「おしいよっ! 大体あってぇけど! そんな風にボケても流されないからなっ!?」
ちっ、昔の伶ちゃんなら、そのまま話をそらせたんだが。
「悪かったよ。というか伶ちゃん、その日記の事を思い出してすっとんできた?」
「あぁ、そうだけど?」
「なるほど。何ていうか、普段は絶対見れないであろう物が、見えそうで見えない状況っていうのは、やたらと目が引かれてしまうと思わない?」
本能という獣と戦いながら言った。恐ろしい敵である。
「へ? 何、……がっ!? わ、悪いっ!!」
自分の状況、――制服からスカートのみをパージした状態――に気づいた伶ちゃんは、来た時のようなスピードでまた戻っていく。
視線を机に戻すと、本は無くなっていた。持って行ってしまったのだろう。
仕方なく、難しそうな小説ばかり並んでいる本棚から適当に何冊か抜き取り、ピンク色のクッションに腰を下ろした。
「わ、悪い、待たせたな」
暫く立って戻ってきた伶ちゃんは制服のままだった。ちゃんと長いスカートも履いている。こだわりがあるんだろうか?
「いや、この少女マンガ読んでたから。大丈夫だよ?」
「なっなっなんでなんでっ!?」
猫科の動物を思わせる早業で、伶ちゃんに再び本を奪われた。
「か、隠してたのに!?」
「何でって言われると……、本棚の本が奥行きと比べて、やたら手前に置かれてて不自然だったから何冊か抜いたら、みつかったので」
中学生男子が、エロ本を隠すかのような隠し方だった。少女マンガぐらいで、そこまでしなくても良いと思うんだけど。
「隠したい、って意思を感じなかったのか!」
「人の秘密は――」
「やかましいっ!」
本で叩かれた。
「痛い……。ってか大丈夫だよ。少女マンガその奥の、男同士が絡み合ってたっぽい本は読んでないから」
「見てんじゃねぇかぁっ!? もうやだぁぁぁっ!」
伶ちゃんは本を僕に投げつけるとベッドに飛び込み、うつ伏せで布団を被ってしまった。やりすぎた。制服が皺になってしまう。そういう問題じゃないか。
「ごめんごめん。初めて伶ちゃんに部屋へ入れてもらったから、ついはしゃいじゃって」
「う、うぅぅ……」
伶ちゃんは布団から少しだけ顔を出し唸ると、こちらを非難の目で見てくる。可愛い。
「本当に悪かったよ。反省してる、もうしない。真面目に」
「……絶対だかんな。あたしが、ダメっていった物には、触らない。いい?」
「誓います。では、伶ちゃんよ。汝は病める時も健やかなる……」
「なる? なんだ、続けろよ」
布団から出てきた伶ちゃんは、いつのまにか木刀を構えていた。刃物でも突きつけられたような恐怖だった。冗談の度が過ぎたようだ。
「ま、まぁまぁ、座ろうよ。ね?」
慎重に木刀を取り上げ、伶ちゃんの背を押しクッションへ案内した。そのうなじが真っ赤になっていたが、指摘せずにおいた。自分の為に。
「で、話って何なんだ?」
さて、ピンチを逃れたのはいいが。実は何から聞くべきかまとめきれていなかった。
どれもこれもデリケートな話すぎるせいだ。しかし、まごついてても仕方ない。
「うん。結構大事な話だから、もし答えたくないなら、それでいいんだけど」
対面に腰を下ろし、話を切り出した。
「お、おぅ」
「まず、弥生由仁って子は、どういう知り合いなの?」
最初は軽いジャブで。
「あぁ、あいつか。あいつは、学園へ上がる前に知り合ってな」
という事は、僕が向こうへ行った後か。
「あたしを自分の憧れの存在だ、とかって言ってくれてな、何にもしてねぇんだけど慕われてる。……もしかして、弥生が何かしてきたか?」
「うん? 何で?」
「いや、あいつ、あたしに関わろうとする男子に何かしてる、って噂を聞いてな」
常習犯だったのか……。
「いや、何もされてないよ。ただどういう知り合いなのかなと思って」
今は誤魔化して置こう。後で弥生と話す時に嫌われてると面倒だ。
「ならいいけど……。そういえば弥生に、あたしとの関係を聞かれたんだろ?」
「え?」
「正道の家に来てた時、弥生そう言ってたぞ?」
「う、うん! そうそう、そうなんだよ」
あの後、なんでわざわざ弥生が家まで来てたのかと思ったら、屋上へ呼び出した理由を説明してたのか。抜け目のない奴だ。
「た、ただの昔の友達だ、って答えたのは、……本当、か?」
「あー、うん。何かやたら、伶ちゃんとの関係を気にしてるみたいだったから。何でもないって、そんな風に答えといたけど……」
「そう、か……」
……なんか、物凄い肩落としてるけど、大丈夫だろうか。
ともあれ、これ以上話を続けてボロを出したくないので、何か悪いけれど、さっさと話を終わらせよう。
「じゃあ、次の質問いいかな?」
「おう……。なんでも聞いてくれ。……ただの友達のあたしに、どれだけ答えられるか分からねぇけどさ……」
な、なんかやさぐれてない? 聞き辛い雰囲気になってるんだけど……。
「え、えーと。……何でスケバンなんて、やってるの?」
「あー……。あたしが空手とか、始めたのは知ってるよな?」
質問の内容が込み入った物だったからか、伶ちゃんのテンションが復活。
「中学の頃から、いきなり始めたよね」
「それでまぁ段位とかとってたんだけど、道場の先輩達に、帰り道で囲まれてな。何か気にくわねぇとかでさ。殴ってきたから、その度に返り討ちにしてたら、いつの間にか舎弟になってて、そんな事を繰り返してるうちに、気づいたら番長って呼ばれてた」
なんか、生きてる時代が違うな……。一つしか変わらないはずなのに。
「じゃあ、その格好とか喋り方は……?」
「いや、そいつらにさ、もっと強くなる為にどうしたらいいか聞いたら『力は十分だから、後は格好とか喋り方が大事だ』って参考書を渡されたんだよな」
立ち上がった伶ちゃんが、本棚から抜き出したのは……、短髪の少年が、釘バットを手に、威嚇の体制をとる様子を表紙にした漫画だった。絵もかなり古めだ。
「……なるほどね。じゃあ、時間もあんまり無いから最後に」
「おうっ」
座りなおした伶ちゃんが、ベッドの上に胡坐をかく。が、スカートが長いのでまったくどきどきしなかった。
「なんで、……同じ学年なの?」
「うん。……理由があったんだよ。病気みたいなもんだ。それで学校に行けなくなって、推薦も取り消された。高校浪人だ。何とか治して今は通えてる。それだけだ」
え? 終わり?
「ちょ、ちょっと。はしょりすぎだよ。何で教えてくれないのさ?」
「言えねぇもんは言えねぇんだよ」
目を背けて、伶ちゃんはそう告げる。だからこそ、
「それは、僕が関係してるから?」
理由が分かってしまった。
「……正直、違うと言えるし、そうとも言える。あたしにも、分かんねぇよ」
曖昧だな……、けど今はこれ以上聞き出すの、無理そうだな。方向を変えよう。
「最後って言ったけど、もう一つ。僕が関係してるとしたら、それはいつの僕?」
「悪い、それも言えねぇ」
駄目、か。
「そっか。……分かった。僕が聞きたい事は、それだけだよ」
「いいのか?」
まるで叱られた犬のように、伶ちゃんは顔を下げて上目遣いで言う。
「伶ちゃんは答えられる限り、答えてくれたんだろ? ならそれでいいよ」
「ごめんな」
「何で謝るのさ。謝るとしたら僕の方だ。答え難いと分かってて、聞いたんだし」
「ん、あんがとな」
「感謝される覚えもないけど。こっちこそ、ありがとう。答えてくれて」
「おう……」
少しの間、沈黙が続いた後、ふいに伶ちゃんが思い出したように口を開いた。
「……なぁ、あたしからも聞きたい事があんだけど、いいか?」
「うん? 勿論だよ。何?」
「向こうで、何があった?」
……同じ過ちを繰り返してました。なんて、とてもじゃないが、言えない。
「何も、なかったよ」
「そんな事無いだろ?」
「いや、本当に何もなかったんだ」
一応の答え。しかし、事実だ。僕が求めた物は何も無かった。
「そうか……」
「うん、まぁどんな生活だったとかなら……、ってごめん。そろそろ帰らないと」
いつのまにそんな時間が経っていたのか、窓の外はとっぷりと暗くなっていた。
「あ……、よかったら、夕飯食べてかねぇか? 親も喜ぶだろうし、さ」
「いや、ごめん。多分にい……、姉さんがもう、作ってくれてると思うから」
「そ、そっか。なら駄目だな……」
「うん、ごめんね。ありがとう」
まるで、付き合いたてのカップルのような会話だ。男女が逆だが。
「じゃ、そこまで見送るな」
そうして部屋を出ると、二人して階段を下りて、伶ちゃん父に軽く挨拶をし(まだ落ち込んでた)靴を履き替えて外に出る。
玲ちゃんは門の前で、足を止めた。
「んじゃ、今日はあんがとな。またいつでも、気軽に来てくれよ」
「うん、ありがとう。おじさんにもよろしく行っといて、それじゃまた
手を振り、背を向けて真っ暗な田舎道へ足を向けた。
暫く歩き、人影も街灯も無い田んぼ道で、独り言の様に尋ねた。
「なぁ。皆が変わり始めたのって、いつからだ?」
「……沙紗は詳しく知らないですよ。でも、予想は出来ます」
当然の如く返ってくる沙紗の声が、今はありがたい。
「先輩も分かってきてるでしょうけれど……」
「あぁ」
「先輩が居なくなってから、だと思います」
「そうか……」
その後会話はなく、最近はちゃんと家で夕飯を食べている沙紗は、いつの間にかいなくなっていた。