ストーキングトーキング
明朝。何となく人が居る様な気配を感じ、うっすら目を明けると、淡い日差しの反射に照らされた天井、そして、……人の顔が見えた。
「うおあぁっ!?」
「きゃっ!?」
「はぁ、はぁ……。あ、梓か!?」
すわ幽霊かと思い体を跳ね起こし、体と一緒に跳ねた心臓を一息入れて落ち着かせ、良く見てみれば、梓だった。
「おま、何してんだ……」
「びっくりしたぁ。ちょっと通りがかったから、何となく寝顔を見てただけだよ?」
「びっくりしたのはこっちだ。って待てっ!! 通りがかった!?」
僕の部屋、二階なんだが。
「うん、あれ? 言わなかったっけ、窓から来てるって」
聞いた、聞いたが……。
「アレ、僕の部屋の窓からだったのか!?」
「昨日は普通に一階の窓だよ。今日は正ちゃんが居るから、梯子使って来て見た」
窓へ視線をやると、梯子の先端が見えた。――かわいい顔して割とやるな、こいつ。
「……というか僕はちゃんと、窓の鍵かけたぞ?」
「壊れてるよ?」
「何で知ってんだ!?」
「開いたから」
……それはそうだな。開いたら、分かるな。
「そうか……。でも金輪際、窓から僕の部屋へ侵入するの禁止。危ないから。オッケ?」
「あはは、分かってるよ。今日はたまたま」
「ならいいけどさ、そういや今、何時だ?」
「五時ぐらい」
「早っ!?」
「お姉さんに、料理とか教えてもらってるの」
教えてるんじゃなくて、教えてもらってるのか……。何も言うまい。
「じゃあ僕はもう一眠りさせてもらうよ」
「はぁい。驚かしてごめんね」
「料理、頑張ってくれ」
「うん! 頑張るね!」
小さく拳を握り締め、返事をすると、梓は去っていった。念のために窓の鍵を確認すると、フックが少しずれてるだけだった。
直そうかと思ったが、眠気が無くなりそうだったので、もう一度寝てからにしようと決め、再び布団へ。
二度目の起床は目覚ましよりも早かった。
腰に何かが巻きつくような感覚があったのだ。とても嫌な予感がした。けれど、覚悟を決めてゆっくりと、布団を捲った。
……しかし、甘かったと言わざるを得ない。
この時、僕は『あぁ、どうせまた姉さんか』程度にしか思っていなかったのだ。
まず朝日に輝く銀の髪が目に入った。
次に、綺麗な銀髪の間から静かに吐息を漏らし、天使の寝顔を晒している沙紗を見て、言葉を発する、――前に。ドアの外から近づいてくる、可愛い鼻歌と足音に、死を覚悟した。
「おっはよーまーく……、ん?」
――瞬間、姉さんは飛び掛ってくると、僕の頭を華奢な手からは考えられない力でホールドした。
「ぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁ」
そしていっそ殺せとばかりに続く苦しみを、頭蓋へ送り込んでくれた。
死の方が楽なの事もあるのだと、今知った。大げさでなく、リアルに死を感じた。
「っあぁぁぁぁぁぁっ……。へこむ、へこむぅぅぅぅ……」
僕がもう一度、強制的な眠りへ誘われそうになっている横で、銀髪のストーカーは相変わらずすぅすぅと寝息をたてていた。
沙紗が目を覚まし、隣でアイアンクローを食らっている僕に発した最初の一言は「おはようございます、先輩方」だった。
その後、沙紗が勝手に布団に忍び込んだのだと、すぐに自白したので僕は開放された。
問答無用の攻撃について姉さんは謝ってくれたので、気にしてないと答えて、そのまま寝ぼけ眼でやり取りを見ていた沙紗に、出来うる限りの全霊をとしてデコピンを放った。
沙紗は暫く涙目で蹲っていた。
「う、うぅ……。痛かったですよぉ……」
「黙れ。僕はもっと痛かった……! いっそ死ぬ方が楽かと思ったんだからな!?」
言う間に、あの辛さが思い浮かび、思わずヒートアップ。
「ごめんね、お姉ちゃん、何だかついかっとなってやったわ。今は学生をやっています」
「何か最後ただの自己紹介になってたぞ!? 反省はしてくれよ!!」
ため息一つ。
「……ご飯は出来てるんだろ? 姉さん」
「えぇ、出来てるわよ。早く着替えてね?」
「そのつもりだから早く行ってくれ」
二人は同時に首をかしげた。
「いや、二人が居ると着替えれないだろ?」
「どうして? 手伝ってあげるわよ?」
「先輩、お手伝いします!」
「出てけ」
以上の問答から昨日の目標を思い出し、最初はあのストーカーをどうにかしよう、と着替えながら決めた。毎朝が危険すぎる。
そういえば、あいつどこから入ったんだろ?
部屋を見回すと、窓に掛かる梯子が目に入り、答えを理解した。
窓の鍵を直し、早々に着替えた後、部屋を出て、そのままリビングへ行き、朝食の並べられたテーブルを挟んで、沙紗と対話。
「第一に。人の家に梯子で進入してはいけない」
「だって、使えとばかりに梯子が置いてあって、窓も開いてたんですもん」
「モンいうな。そもそも僕は昨日、今日は来るなといったな?」
「昨日、今日は来るなといったのなら、昨日来るなという意味では」
「……昨日、明日は来るなといったな?」
「どっちなんですかもー」
畜生、日本語のばかやろうっ。
「祈願ですら来ていないと言うのに……」
「へ? 来てますわよ?」
ソファから、ひょっこりと顔を出した祈願が答えた。
「うおっ!? か、髪の毛しか見えてなかったから、子供110番の家の目印が置いてあるんだとばかり……」
「三角コーンですわ!? ……旦那様に会いたいと思ったら居ても立ってもいられず、早く来すぎまして。私としたことが、少しソファでうとうとしてましたわ」
「旦那様言うな。……うとうとじゃなくてさ、来るなって言ったろうが」
「前世では毎日来いと……」
「もし、僕が前世でそう言っていたとしても、言葉の優先順位は現世を上にもって来い」
「我侭ですのね……。でも、そういう強引な所も素敵ですわ」
ポジティブすぎる……。
「そんな事より、早くご飯食べないと時間ないよ、正ちゃん」
「そうだな……?」
びっくりするぐらい馴染んでる梓にも、何か違和感を覚えた。というか、遅くなった根本の原因は梓にあるんだが……。
「あれ? れいちゃ……、じゃなくて焼堂さん。どうしたの、こんなところで」
四人揃って家を出ると、何故か玄関門の前に伶ちゃんが立っていた。
「……な、なんで皆一緒? ……うん? 焼堂さん? 何で苗字……? え? え?」
まずい。伶ちゃんが沢山の疑問に対応できず、混乱している。
「皆は昨日みたいに、勝手に来ちゃったんだよ。それにしても伶ちゃん、外で待っててくれなくても、中に入ってくれて良かったのに」
「それは、起こしてって昨日、言ってたから、し、仕方なく来て見たんだけどよ、鍵がかかってっし、……寝てたら、悪いと思って……」
「先輩。起こす為に来たというのに、寝てたら悪いって、何かおかしくないですか?」
最もな疑問を持って沙紗が首をかしげ、制服の袖を引いてきたが、無視した。
「姉さんは起きてるだろうし、気にせずインターホン鳴らしてくれていいんだよ?」
「お、おぅ……、でも、そ、そんな事より、苗字なのは、……な、なんで?」
……素直に弥生に言われたから、何て言えないな。
「ほら、いつまでも子供の時の呼び方なんて、おかしいかなって。僕らももう高校生だし、先輩に対してちゃんづけっていうのもさ」
「え……。で、でも、だからこそ、今更変える必要なんか、ないだろ、な? 焼堂さんなんて、他人行儀はや、辞めろよ。……それとも、あ、あたし何かした?」
どんどん涙目になっていく伶ちゃんを可愛いと思った僕は、サド寄りかもしれない。
「うーん。ほら、時間も無いし、まずは学園に行こう?」
歩き出せば、忘れるかも、なんて犬を相手にするかのような希望的観測だったが……。
「馬鹿やろうっ。そんな事で話を進めようとするな! 重大な問題なんだっ!! あたしの事は名前で呼べ! ちゃんと伶ちゃんと呼べ!! 他人行儀は嫌だぁ!!」
ひ、必死だこの人!?
「いや、でも――」
「でもも何もないっ!! 伶ちゃんと呼べっ! じゃなきゃその……、伶羅、とか? よ、呼び捨てでも、いい、かも……。な、なんてな!」
「伶ちゃん、行こう」
若干トリップし始めた伶ちゃんから、とても危険な香りがしたので、今まで通りで行く事にした。
弥生の前で、名前を呼ばなければ良いだけだしな。
なぜか周囲の女子達から、冷たい視線を感じるが、軽くスルーした。
彗沙紗という少女はハーフで、長い銀の髪がとても特徴的な美少女だ。
因みに漢字表記の為サシャと読んでいるが、本来はサーシャと呼ぶんだとか。
小学校の時にこちらへ転校して来て、そのすぐの頃は、目立つ銀髪で顔を覆い隠し、さらに余り明るい性格ではなかった為、見た目と裏腹な様子が悪目立ちしてしまい、虐められていた。
その現場にたまたま通りがかった当時の僕は、勿論見逃さず。……結果的に、虐めは無くなり、沙紗とも友達になれた。
沙紗は最初こそ俯きがちで話し声も小さかったけれど、虐めが無くなり友達も出来始めてからは、人見知りはするものの、明るく人並みに喋る子になったので、中学へ上がる頃には、僕も余り気にかけない様になった。
といっても疎遠になった訳じゃなく、誘われて一緒に遊んだりはしていた。
遊びといえば、かくれんぼ的な要素を含む物を、妙に得意としていた覚えがある。気配を消したり、人の死角を取ったり。
今の沙紗が、ああも上手くストーキングしてくるのは、その才能を遺憾なく発揮している為なんだろう。方向性としては、かなり間違ってしまっているが。
閑話休題。帰国した時、三年間合わない内に暗くなってしまってたり、中学などでまた虐められていたらどうしようかと、気になっていた。
無論、僕が留学へ行く頃には、十分友達がいたので、大丈夫だとは踏んでいたけれど。
兎も角、問題はなかった様で、そこは喜ばしかった。
さて、そんな沙紗だが、帰って来てからストーキングとは別に一つ気になる事があった。
沙紗は休憩時間になる度に、いつの間にか教室に来ては僕の背後に控えている。
それはただの授業の間でもそうだし、昼休みなら弁当まで持参して来ていたりと、ありとあらゆる時間そうなのだ。
僕を慕ってくれている、にしたって少々行き過ぎである。となれば考えてしまうのは、沙紗が教室で上手くいっていないという可能性だ。
というわけで颯爽と僕はHRをさぼり、HRの終わっていない沙紗の教室まで来た。
到着してから数分後、教師がドアを開けて出てきたので、近くの男子トイレへ身を隠し、沙紗が出てくるのを待つ。
恐らく、僕を追いかける為に沙紗は……。
案の定、沙紗は教室から一番に飛び出し、トカゲもかくやという無音の疾走を見せて、僕の視界から消えた。
……どうやったら、あんな風に音を立てず走れるのだろう。
疑問はさておいて、沙紗の居なくなった教室へ向かった。
中にはまだけっこうな数の生徒が残っていた、話しかけやすそうな女子は居ないかと、出入り口から顔を出し、物色を開始。
「あの、先輩? 誰かに用事ですか?」
と、明らかに不審な物を見る目で、見知らぬ女の子が話しかけてきてくれた。好都合だ。
「さしゃ……、彗いるかな?」
「彗さん……?」
いぶかしげな表情をされた。なんだろう。
「あの、もしかして匠堂先輩……、ですか?」
「うん? そうだけど、なんで僕の名前を?」
「なんだ、早く行ってくださいよー!」
名前を言っただけで先程の表情はどこへやら、急に親しげな笑顔が向けられた。
これは……、沙紗が何か言っていたのか?
「沙紗ちゃんならついさっき、いつもみたいに先輩の教室行くから、って急いで走っていきましたよ。多分、教室か下駄箱で、待ってるんじゃないですか?」
体ごと首を傾げて、彼女はそう教えてくれた。
「あぁ、そっか。ありがとう」
「いえいえ、それでは、沙紗ちゃんの事お願いしますねー」
「……頑張るよ」
色々な物を含んだ笑みで、見送られた。
皆すぐ恋愛方面に持って行くので、話し安くはあるが、少し面倒だ。海外の学校ほどではないけれど……。
ともあれ、疑問の一つは解決。クラスでも問題なくやっているようだ。
後はまぁ、一応僕を待っているであろう沙紗に、直接悩みがないか聞いてみるか。
何もないのなら、それでいいしな。
先ほどの女の子の言うとおり、沙紗は下駄箱で待ってくれていた。
下駄箱に背を預け、片足のつま先で地面をこんこんと叩いて待つ、その様子はあたかも、彼氏を待つ彼女のようで、何だか青春ぽかった。
「あ、先輩! 遅かったですね? 祈願さんとかが、探してましたよ」
「ちょっとヤボ用だったんだ。わざわざ待っててくれたのか?」
「当たり前じゃないですか!」
ビシッと僕を指差して、沙紗はそう言った。
「うむ。じゃあ今日はこっそり二人で帰るか」
「あ、はいっ!」
ご機嫌に返事をする沙紗をつれて、校舎を出る。
「そういえば、沙紗と二人なんて帰ってきてから初めてだな」
「そうですねー。いつも邪魔な女……、いえ皆さんが居ますからね」
今この子からすごい不のオーラを感じたんだけど、気のせいだよね?
「……う、うん。じゃあせっかくだし、軽く散歩してから帰るか」
「おぉー! いいですね! いきましょういきましょう!」
「散歩ぐらいでテンション上げるとは、犬みたいだなお前」
「わんわん!」
わざわざ握った両手を口前にやって言う沙紗。
「……首輪つけるか?」
シュッとベルトを外して、沙紗に手渡した。
「セクハラです!?」
我ながら最低なジョークだとは思った。
「いや、あまりにもあざといからさ、ついかっとなって」
「それにしたって、もう少しましなやり方ありましたよね!?」
うーむ。沙紗からどうやって悩みを聞きだすか考えていたら、少々思考が雑になっていたようだ。
そんなバカな会話をしつつ、周辺の住宅街から少し外れた並木道を歩く。
暫くすると、雑木に囲まれた公園が見え始めた。
「沙紗、何か飲むか? おごるよ」
公園の入り口に着いたところで、自販機を見つけたので、先輩としての甲斐性を見せる。
「ありがとうございます! 沙紗はー……、紅茶で!」
「お前は見た目がお嬢っぽいし、紅茶が似合うな」
「いえ、祈願先輩には負けます」
「ありゃただのとんがりこーんのお化けだ。気にするな」
「先輩って、祈願先輩には妙に辛らつですよね……」
そうかな?
紅茶を買って、沙紗に渡し、自分の分はコーヒーを買った。
「ひっさしぶりにこの公園に来たけど、なんか狭く感じるな」
改めて公園に入ると、子供の姿は皆無だった。
「これでも広くなったんですよ? 地球儀とブランコ、撤去されちゃいましたから」
そういえば、そんなの合ったな。
「壊れたのか?」
「いえ、危ないからとかで」
「ふぅん。理由は分かるけど、滑り台しかない公園ってのも、寂しいな」
まだ明るいのに、誰も居ないのはそれが原因かもしれない。
「ですねー」
話しながら、なんとなくベンチへ腰を下ろした。沙紗も倣って横に座る。
「……」
「……先輩、心ここにあらずって感じですね?」
「じゃあ、どこにあるんだろう」
「え……、皆の、心の、中?」
「分散してしまっているのか……」
ドラゴン○ールじゃあるまいし。
「……お悩み事ですか?」
「沙紗に、聞きたい事があってな」
「はい?」
何をどう聞くべきか、ずっと考えていたのだが、結局答えは出ず。ぽんこつな頭が出したのは、
「お前、何かあるんじゃないか? 何かってその、辛い事、見たいなのがさ」
ストレートに聞く事だった。
「どうして、です?」
沙紗は、手の中の紅茶の缶を見つめたまま、言った。
「うーん。沙紗、この三日間、僕の家でご飯食べて帰ったよな? それがな、何かひっかかったんだよ。一日なら兎も角、そんなに毎日は変だなぁって」
「ご迷惑、でした?」
「んな事ねぇよ? 姉さんも喜んでたしな。でもさ、そういうのとか、毎日うちに来るのとか、今日だってわざわざ待っててくれたろ? そういうのがまるで」
そう、そうだ。話しながら考えて、やっともやもやの正体が分かった。
「まるで、家に帰るのを嫌がってるみたいだなって」
クラスに居るのがイヤだ、からの派生だ。
「……ふふ。先輩、覚えてます? 初めて会った時の事」
沙紗は僕の言葉に答えず、笑いながら僕の目を覗いた。
「忘れるわけ、ないだろ」
「何だか、あの頃を思い出しました。沙紗が困ってると、先輩はさっと現れて助けてくれるんです」
「……今日は、沙紗が僕を待ってたんだけどな」
「そうでしたね」
沙紗は僕から視線を外すと、まっすぐ、何にも無い、遠くを見つめる。
「……おじいちゃんが、亡くなったそうなんです」
やがて、沙紗はぽつぽつと、話し始めた。
「沙紗は一度も会ったことがないので、ショックじゃないんです。でも、お父さんが長男だから、戻らなきゃ行けないって」
なるほど……、どこの家も長男は面倒なんだな。うちの長男、……いや、今は忘れよう。
「でも、お母さんも沙紗もこの国しか知りませんから。そんな突然、海外で暮らそうなんて言われても……、困っちゃいますよね」
沙紗は眉を下げ、唇を軽く噛んで笑った。
「それ以来、お父さんとお母さんは話しません。口を開いたら、喧嘩になるから」
「でも、それじゃあ……」
「はい。お話も進展しないんです。だからずっと暗いままです」
「いつからだ」
「一週間前、ですね」
……僕が帰る前は、静かな家で一人、か。
その姿を想像すると、ひどく胸が痛んだ。
「ふむ……」
沙紗は、一人っ子だからな。
「……一つ昔の話をしよう。なぁ沙紗。初めて会った時、お前は僕になんて言ったか、覚えてるか?」
銀色の長い髪で、顔を覆い隠し、周りを悪意に囲まれて。
「お願いしました」
悪意を蹴散らし表れた、初対面の、ハサミを持ってるイカれた上級生に。
「助けて……、って」
そして沙紗は、引き換えに、長い長い前髪を、切り裂かれた。
「あれからずっと、前髪、切ってんだな」
「はい。そっちの方が可愛いって、先輩が言ってくれましたから」
その時の事を思い出したのか、沙紗が微笑んだ。
「そう、お前は明るくにこにこ笑ってるのが可愛いんだ。暗い顔すんな、また助けてやるからさ」
「……本当、ですか?」
「うん、また今度な」
「え? 今回の件は……」
「知らん」
「え」
沙紗さん、絶句。
「そんなお前、この歳になって、他人の家庭事情にほいほいと顔を突っ込めないだろ」
「えぇぇ……」
顎をガクーンと落とし、眉間にしわを寄せ、女の子にあるまじき表情をみせる沙紗。百年の恋も冷める、とはまさにこの瞬間だろう。お互い様かもしれないが。
じゃなくて、真面目に話さないと。
「いやだってさ」
「……なんですか」
「助けを求める相手が違うだろ」
「どういう、ことです?」
「お前の両親はきっと、どう動けばいいか分からなくて悩んでる。でも助けて、なんて言えないないんだ。大人だからさ」
きっと大変なのだ、大人も。
「だからな、お前が頼んでやれ。助けてって。そしたら、子供の為だ、なんて言い訳で動けるようになるさ。結果がどうなるかまでは分からんが、少なくとも、停滞した今よりはましになるはずだ」
沙紗は、缶の紅茶のロゴを睨んで、必死に考えているようだった。
その間、僕はのんびりと茜色に染まる空を見上げていた。
……しばらくしてから、沙紗が顔を挙げ、
「ありがとうございます」
僕を見て、にっこり笑った。
「決心ついたか? 進んだら、もう止まらないぞ」
「はい。でも、先輩の言うとおり、このままよりはましだと思います。だから沙紗、頑張りますね」
「おう、頑張れ。そして前へ進め。何かあったら、僕が助けてやるから」
沙紗の肩を抱いて引き寄せ、もう片方の手で、わしゃわしゃと沙紗の頭をなでた。
「わわっ。あへへ……」
「……あへへ、ってなんだ。えへへって可愛く笑えないのか」
「今すっごい良い雰囲気だったのにそういう事いいます!?」
僕が悪いんだろうか。
「なんかこう、珍しく先輩からスキンシップとってくれたし、えへへって照れた笑いと、ぐへへって欲望に満ちた笑いが同時に出てしまったんですよう……」
「うーむ。しまらんなぁ」
「変に湿っぽいより、いいですよ。ありがとうございます、先輩。元気でました」
沙紗はぴょんっと跳ねる様に立ち上がると、銀色の髪が地面に触れそうなほど深く、お辞儀した。
「沙紗、行って来ます」
「行って来い。逃げ帰ることは、許さんからな」
「了解しました、上官殿!」
おどけて敬礼をすると、沙紗は走り出した。そして公園の入り口で振り返ると、
「また明日です!」
そう告げて、沙紗は今度こそ戦地へと向かった。
「……そういや、結局あいつ紅茶飲まなかったな」
やはり缶の紅茶なんて嫌いだったんだろうか。
「どうでもいいか」
ベンチから立ち上がり、お尻を軽くはたいてから、僕も歩き出した。
公園で話した翌日から、沙紗のストーキング行為は止んだ。
休み時間も、背後からの視線に晒される事は無くなった。……少し寂しかった。
学園で会った時などに軽く会話すると、問題は少しずつ解決に向かってると、元気そうに陰りも無く言っていた。
ちょっと力強く背を押しすぎたかな、とは思っていたのだが、大丈夫な様で何よりだ。
僕は一人、腕を組んでうんうんと、満足に頷いた。
……そんなある日の朝の事。
「先輩! 奇跡ですよ!! 私待ってたんです!! ここで先輩に合えないかなって!」
「黙れ。僕の家の前で学校のある朝に待ってりゃ、会えるに決まってんだろうが」
奇跡も偶然もなければ、余りにも恣意的な必然だった。
「で?」
「先輩に、また助けてもらっちゃいました」
「そっか。ほれ、学校行こう。遅刻する」
背後に、相変わらず控えている三人の女子達――沙紗が来なくなった翌日から伶ちゃんが来たので結局、人数は減らなかった――はきょとんとしているが、まぁプライベートな話だ。そっとしておいてもらおう。
そしてその日の昼休み、沙紗から顛末を聞いた。
両親は別居する事になってしまったらしい。
すぐではないが、来月には一度、父親だけ故郷に帰るのだとか。
結局、結末を早くする事は出来たものの、解決は出来なかった。当然といえばそうなのだが、自分にもう少し力があれば、と思ってしまう。
そんな事を考え、暗くなった僕に、
「ありがとうございました!」
沙紗は満面の笑みでそう言った。
これで終わり、そう言う様に。
そんなこんなで、沙紗の問題はひとまず終わった。……のだけれど、一つ問題が残った。
「先輩先輩っ!」
「なんだよ近いよ、近すぎるよ、おぶさるなよ、っていうか何でいるんだ……」
放課後、帰ってきて以来初めて一人での買い物を満喫していた時だ。
「沙紗、お前今日は委員か何かの用事あったんじゃなかったのか?」
頼んでもいないのに、突然教室に現れて、『今日は委員の仕事があるので、一緒に帰れないんです。すいません先輩』などと言っておいてなんだこの子は。
「はい。でも先輩が今何をしているのか、気になって気になって仕方が無かったので、理由を説明して抜け出してきました」
完全にストーカー思考じゃねぇか。
「いやいや待て、そんな理由で開放されたのか」
「『頑張ってね』って、皆が送り出してくれました!」
脳裏に、沙紗の教室に行った時、話しかけてくれた女の子の顔が浮かんだ。
「さぁ、次はどこにお買い物行くんですか? 沙紗、少しぐらいなら荷物もてますよ! 鞄も持ちましょうか!?」
「そんな事されたら、周りの目が痛くてかなわん……。いいから大人しくしててくれ」
「はいっ! では、このままで居ますね」
「おぶさる事は許して無い! 少し離れろっ」
といった風に、結末を聞いた次の日から、沙紗がいつの間にか傍に居る、という現象が再開された。ストーキング再びである。
というか前より一層アグレッシブになってしまい、回りの視線が非常に痛い。
さすがに梓達には軽く説明しないとヤバそうだったので、事情を簡単に話すと、理解したが納得できない、と不思議な日本語が返ってきた。
そんな感じで、沙紗は何も代わらないままに、今回の件は幕を閉じてしまった。
さて、僕は何のために、問題を解決しよう、などと思い至ったんだっけ。
「先輩、これからもずぅっと沙紗の事、助けて下さいね!」
「……さてな」
思いつつも、嬉しそうに背中へしがみついてくる銀髪の少女の前では、何も言えなくなってしまうのだった。