『黄泉がえり』(梶尾真治)を読んで
16年ぶりに再読。
出版されたのはもっと前ですが、手持ちの文庫の奥付は「平成十五年一月二十日 四刷」となっています。
なぜ今頃再読かといいますと、続編が出たからです。
ただでさえ本を閉じると同時に驚くべき早さで内容を忘れてしまう私ですから、16年前に読んだ小説はほとんど覚えていませんでした。死者が蘇ってまた還っていく、ってことしか記憶にありませんでした。読んでも「ああ、そうだった」なんて一度も思いませんでした。すごいな、私の忘却力。
内容は今更紹介するまでもない気もしますが、また私が忘れてしまった時のために軽く記録しておきます。
舞台は作者の地元、熊本。ある時から次々と死者が蘇ります。かといって、ゾンビでも幽霊でもなく、亡くなる直前の年齢で元気な姿なんですね。本人もよくわからないまま、いきなりゆかりのある場所に立っていた、って状態。あまりに生前のままであることも手伝って、家族や関係者は意外と普通に受け入れます。よくわからないけど、また会えて嬉しい!って気持ちが上回るんですね。混乱するのは行政。現象は熊本に限られてることもあって、国は傍観していますが、熊本市は戸惑いながらも真摯で賢明な対処をしていきます。この辺が特徴的だと思いました。パニックに陥る話は、えてして頼りにならない行政(市民より組織を優先するとかね)というのが定番なのに、そうでないのがかなり好感度が高いです。
群像劇となっているので、登場人物について語るにはどこに焦点を当てればいいのかわからないので割愛します。個人的には、万盛堂の先代社長の去るシーンがグッときました。黄泉がえりの人の中でもかなり出番の少ない人物なんですけどね。ああ……今思い出しても泣いてしまいます。
私の記憶は本当に頼りなくて、ぼんやりとファンタジーっぽい印象を持っていたんですね。でも再読してみたらSFでした。もう出だしが謎のエネルギー体 “彼” ですからね。宇宙を彷徨っていて、地球にはいわば充電のために立ち寄るわけですが、 “彼” は生命でもないため、意識のようなものも持ちません。けれどもその充電中に “彼” も変化していきます。これも胸を突かれます。
この小説のなにがいいって、距離感ですね。感傷的なヒューマンドラマにならず、硬派なSFにならず。さまざまなジャンルが絶妙に混じり合っている感じです。
続編前のただの復習にと再読したつもりが、すっかり楽しんでしまいました。
さて。続編を読みたいと思います。




