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白き勇者の献身

前書き:論理と細胞の再起動

 二〇一九年、夏。

 山梨県、信源郷町(シンゲンキョウマチ)

 かつて桃源郷と呼ばれたその場所は、今や「老化」という名の修復不可能なエラーが蓄積した、静かな停滞の地となっていた。

 だが、一人の少年の帰還が、その静寂を論理的に破壊する。

 黒木(クロキ)万桜(マオー)

 彼は、五年前の雨の日に両親を亡くし、止まってしまった実家の「黒木柔道整体」の時計を、最新の生体最適化理論――TPSトリプル・プレス・システムをもって再び動かし始める。

 「若返り」は、魔法ではない。

 それは、細胞を絞り、整え、冷却して固定するという、極めて物理的な工程の果てにある「全盛期の再定義」だ。

 トマト一切れの栄養素から、包帯一本による腱の加圧、さらには心に溜まった感情のノイズまで、すべては肉体というハードウェアを最適化するための部品に過ぎない。

 オスカルの如き気高き医学徒・勇希(ユウキ)

 戦略的リソースを操る令嬢・舞桜(マオ)

 そして、人並み外れた肉体を持つ親友・拓矢(タクヤ)と、その「若返り」の先駆者となった母・清子(セイコ)

 これは、魔王と他称される少年と、その仲間たちが、地方の医療過疎も、少子高齢化という生体エラーも、すべて自らの手で「自給自足」し、書き換えていく物語。

 信源郷町。そこは今、人類が老化を克服する最初の特異点へとアップデートされようとしていた。


 2019年10月上旬。甲斐の国大学併設カフェ・ジャカジャカ旧休憩室の窓から差し込む夏の光が、液晶画面に映し出された複雑な血管網のグラフを白く飛ばした。

 万桜(マオー)は、白井泰造が仕掛けた「名前のバグ」への不満を飲み込み、再び論理の海へと潜り込む。

「不妊治療や産後ケア……。確かに、少子化という巨大な生体エラーに対するパッチとしては、これ以上ないほど効率的だな」

 万桜(マオー)の指先が、空中で架空の数式をなぞる。

「だが、出力が上がりすぎるのも問題だ。拓矢(タクヤ)の母ちゃんのように、見た目が二十代まで戻っちまうと、戸籍や身分証との整合性が取れなくなる。社会的なノイズを消そうとして、逆に新しいノイズを生み出しているわけだ」

「それは、あたしがゼネコンのネットワークを使って、法務的なフロントエンドを構築するわよ」

 舞桜(マオ)が、淀みのない口調で即答した。

信源郷町(シンゲンキョウマチ)を『特区』として申請し、生体年齢と戸籍年齢の乖離を許容する新しい市民証を発行する。それくらいのロビー活動、万桜(マオー)くんが提供してくれる価値に比べれば安いものです」

 舞桜(マオ)の瞳には、すでに数千億円規模の市場価値と、それによって救われる無数の人々の姿が計算されていた。

「……本気かよ。相変わらず仕事が早えな」

 万桜(マオー)は苦笑しつつ、勇希(ユウキ)の方を向いた。

勇希(ユウキ)。おまえは医学的なプロトコルを固めてくれ。TPSによる全盛期の再定義が、一過性のブーストじゃなく、生体恒常性として定着するためのカリキュラムだ」

「分かっている。白井家の名に懸けて、この調和の理論を完璧な論文に仕上げてみせる」

 勇希(ユウキ)は、自身のタブレットに並ぶ膨大なバイタルデータを、慈しむように見つめた。

「単なる若返りじゃない。これは人間が、自分自身の肉体というハードウェアの性能を、最大限に引き出し続けるための『聖域』を作る試みなのだから」

 

 その時、休憩室の扉が勢いよく開いた。

万桜(マオー)! 大変だよぉ!」

 莉那(リナ)が、スマホを握りしめたまま飛び込んでくる。

「なにを騒いでんだよサブリナ?」

「これ見て! 善さんが、町内のゲートボール大会で三〇メートル離れたターゲットを全部一撃で仕留めたって動画がバズってる! 『信源郷町(シンゲンキョウマチ)に、全盛期の神農が降臨した』って、ネットが大騒ぎだよ!」

 万桜(マオー)は、画面に映る、まるで若者のように背筋を伸ばし、鋭い眼光を放つ祖父の姿を見て天を仰いだ。

「……じいちゃん。頼むから、少しは出力を抑えてくれ……」

「ふふ。万桜(マオー)くん。もう手遅れかもしれないわね?」

 舞桜(マオ)が、楽しげに微笑んだ。

 信源郷町(シンゲンキョウマチ)

 そこは、一人の少年の論理によって、人類が「老化」という概念を書き換え始めた、最初の特異点となろうとしていた。


 同日昼時、黒木家本家。

「これ冷やさねえと固定化しねえよ。あとトマトが足りてねえ」

 万桜(マオー)は、自身の思考を物理的な調理理論へと無理やり引き戻した。

 いくらTPSが細胞の形状記憶を再設定しようとも、その土台となる栄養素と熱交換のプロセスが不完全では意味がない。

 万桜(マオー)は立ち上がり、キッチンの冷蔵庫を荒々しく開けた。

拓矢(タクヤ)! ジュレの寒天濃度は完璧だが、冷却時間が数分足りねえ。麺の熱で構造が緩んでるぞ。これじゃあ食道を通る時の摩擦係数が計算とズレる」

「す、すまん! 善さんの若返りにビビって、タイマーの最終ラップを見落とした!」

 拓矢(タクヤ)は、鋼のような体躯を縮ませて、慌てて氷水を準備する。

 万桜(マオー)は、ボウルの中のトマトジュレを鋭い眼光でスキャンした。

勇希(ユウキ)舞桜(マオ)。おまえらもボサッとしてんじゃねえ。リコピンと胎座の旨味が不足してる。これじゃあ血流ブーストの持続力が持たねえぞ」

「あら、厳しいわね、万桜(マオー)くん。でも、確かにこの色彩の解像度では、視覚的な食欲充足感によるドーパミン放出が計算値に届かないわ」

 舞桜(マオ)は、すかさずスマホで多層構造農業の在庫システムを叩く。

「お手伝いで、子供たちに配送させます」

「あたしは、冷やし込みの間のバイタル変化を記録しておく」

 勇希(ユウキ)は、冷や麦を啜る善次郎の首筋に、非接触型のセンサーを向けた。

「善さん、そのまま食べて。喉越しによる副交感神経の刺激が、冷却されたジュレによってどう変化するか……。これが『固定化』の鍵になるはずよ」

「おう! なんだか知らねえが、冷たくて旨いのが一番だ!」

 善次郎は、孫たちの論理の嵐をどこ吹く風と受け流し、再び豪快に麺を啜る。

 

 万桜(マオー)は、追加で届いた真っ赤なトマトを手に取り、それを細胞レベルで粉砕するかのように精密に刻み始めた。

「いいか。産後の母親だろうが、若返ったじいちゃんだろうが、最後は『何』を食って『何』を血肉にするかだ。論理を肉体に定着させるには、このトマトの赤が足りねえんだよ」

 キッチンに、再び包丁の規則正しいリズムが響き渡る。

 それは、信源郷町(シンゲンキョウマチ)に蔓延り始めた「不老の魔王」たちが、その力を現実のものへと固定するための、最も泥臭く、そして最も論理的な朝の儀式であった。

「絞った細胞を冷やさねえと固定化しねえよ」

 万桜(マオー)は、冷や麦の話をしているのではない。

 TPSによって物理的に絞り出された老化という名の不純物。

 その隙間を埋めるように再構築された細胞の配列を、急速に冷却することで生体組織として「定着」させる。

 万桜(マオー)の言葉は、医学的な恒常性への介入を意味していた。

「……なるほど。鋳造と同じ理屈ね」

 勇希(ユウキ)は、瞬時に万桜(マオー)の意図を理解し、手元のデバイスで水嚢風呂の温度設定を書き換えた。

「加圧で静脈還流を促し、老廃物を流し去った直後の組織は、極めて流動的で不安定な状態にある。ここで最適なヒートショック・プロテインを誘導しつつ、深部体温を精密に制御して冷却を行わなければ、形状記憶はすぐに瓦解してしまうわ」

 勇希(ユウキ)の指が、清子(セイコ)や善次郎の生体データを次々と「冷却固定モード」へと移行させていく。

「だから、あの水嚢風呂は単なるリラックスのための風呂じゃないんだね」

 莉那(リナ)が、アボカドフライを咀嚼しながら目を丸くした。

「当たり前だ。膨らんだ細胞を絞り、整え、最後に冷やして固める。この工程を外せば、若返りは一時の幻影に過ぎねえ。トマトのリコピンで血管壁を補強しながら、物理的に温度を落として細胞を『ロック』するんだよ」

 万桜(マオー)は、氷水で極限まで冷やし込んだトマトジュレを、今度は清子(セイコ)へと差し出した。

「ほら、拓矢(タクヤ)の母ちゃん。これを食って、内側からも冷やしな。さっき絞り出したばかりの真皮層が、これで完璧に固定されるぜ」

「あら、ありがとう、万桜(マオー)ちゃん」

 二十代の輝きを放つ清子(セイコ)が、瑞々しい唇で冷や麦を啜る。

 喉を通る冷気が、食道から全身へと伝わり、TPSで整えられた肉体が、その最適値を「現在の自分」として上書きしていく。

 拓矢(タクヤ)は、その光景を呆然と眺めていた。

「俺たちが作ってるのは、昼飯じゃなくて、人類の再定義用パーツだったのかよ……」

「今更なに言ってやがる。冷や麦一本、トマト一切れまで、すべては論理の部品だ」

 万桜(マオー)は、真っ赤なトマトの海に沈む冷や麦を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。

 絞り、流し、冷やし、固める。

 万桜(マオー)が導き出した「黄金の巡り」は、今、信源郷町(シンゲンキョウマチ)の人々を、物理的に全盛期のまま固定しようとしていた。


「頭にテーピングすれば、視力だって戻る。黒木柔道整体を再開させてもいいかもな」

 万桜(マオー)が何気なく口にしたその屋号に、善次郎は啜っていた冷や麦の手を止めた。

 黒木柔道整体。

 それは、2014年のあの日、不慮の事故でこの世を去った万桜(マオー)の両親、大雅(タイガ)佳代(カヨ)が守り続けていた場所だ。

 両親が他界してから五年。

 主を失い、時間が止まっていたあの施術室には、今も二人が愛用していたテーピングの山や、使い込まれた整体枕が静かに眠っている。

「……万桜(マオー)。おまえ、本気で言ってるのかよ?」

 善次郎の声には、亡き息子夫婦への思慕と、孫がその遺志を継ごうとしていることへの驚きが混じっていた。

「ああ。父ちゃんと母ちゃんがやってたことは、経験則に基づいた『巡りの調整』だった。そこに俺の論理と勇希(ユウキ)の医学データをぶち込めば、あの場所は最新の生体アップデート・センターとして蘇る」

 万桜(マオー)は、大雅と佳代が遺した技術を、単なる思い出としてではなく、生きた論理として完成させることを決意していた。

「大雅さんと佳代さんの技術……。あたしたちが子供の頃、いつも優しく解してくれたあの手の感覚を、万桜(マオー)が理論で再現するのか」

 勇希(ユウキ)は、かつての黒木柔道整体の温かな記憶を辿りながら、切なそうに目を細めた。

「よっしゃ! そうと決まれば、まずはあの埃を被った施術室の掃除からだな。拓矢(タクヤ)、おまえのその筋肉、雑巾がけでウォームアップしとけよ」

「おう! 任せとけ! 大雅さんの診療室、俺がピカピカにしてやるよ!」

 拓矢(タクヤ)は、大雅の名前を耳にし、気合を入れ直して立ち上がった。

 

 万桜(マオー)は、キッチンの窓から見える、今は閉ざされたままの整体院の入り口を見つめる。

 大雅と佳代が他界したあの日から、万桜(マオー)の中で止まっていた「黒木柔道整体」の時計が、再び動き出そうとしていた。

 最新のTPS理論と、両親が遺した柔道整復術の融合。

 それは、失われた過去を嘆くためではなく、全盛期の輝きを現代に取り戻すための、魔王による「復活」の儀式であった。


「資格か。父ちゃんと母ちゃんは当然持っていたが、今の俺は持ってねえな」

 万桜(マオー)は、腕を組みながら現実的なハードルを冷静に分析した。

「だが、俺たちがやろうとしているのは『保険診療の枠組み』に収まる旧来の整体じゃねえ。自費診療、あるいは『生体コンディショニング・サロン』としての形態なら、民間資格や技術提供という形でもスタートは切れる」

「それなら、あたしの名前を使え万桜(マオー)

 勇希(ユウキ)が、淀みのない口調で提案する。

「医学的なエビデンスに基づいたリハビリテーションの一環、あるいはあたしの臨床研究のサポート施設として登録すれば、法的なノイズは最小限に抑えられる。それに、あたしが監修に就けば、医療的な信頼性も担保できる」

「ふふ、さすが勇希(ユウキ)。話が早いわね」

 舞桜(マオ)が、手帳に新たなスキームを書き込む。

「経営母体はウチの会社で行い、万桜(マオー)くんを『技術最高顧問』に据える。そこに柔道整復師の資格を持つ人間を雇用して現場を回せば、黒木柔道整体は『最新の生体最適化ステーション』として合法的にアップデート可能よ?」

「なに、資格の壁すら論理で突破するつもりかよ?」

 万桜(マオー)は苦笑しつつ、かつて大雅と佳代が大切にしていた施術所の鍵をポケットの中で握りしめた。


「あたし持ってるよ資格」

 清子(セイコ)が、二十代の輝きを取り戻した瑞々しい手を、いたずらっぽくスッと挙げた。

 その場の全員が、冷や麦を啜る手を止めて清子(セイコ)を凝視する。

「オフクロ……。そんなの持ってたのかよ?」

 拓矢(タクヤ)が呆気に取られて絶叫した。

「なに驚いてるのさ。大雅と佳代と一緒に勉強したんだよ。黒木柔道整体が忙しくなった時に、あたしも手伝えるようにね」

 清子(セイコ)は事も無げに続けた。

「柔道整復師の国家資格、ちゃんと更新もしてるし、実務経験もあの頃の黒木柔道整体で積んでるわ。管理責任者になれる要件だって満たしてるはずだよ」

 万桜(マオー)は、自身の論理回路に舞い込んだこの巨大な「ピース」を、瞬時にパズルの中心へと嵌め込んだ。

「……盲点だったな。灯台下暗しだ」

 万桜(マオー)の瞳が、計算の加速と共に鋭くなる。

拓矢(タクヤ)の母ちゃんが資格を持ってるなら、黒木柔道整体を『保健所公認の施術所』として、今すぐにでも再起動できる。拓矢(タクヤ)の母ちゃんの技術に、俺のTPS理論と勇希(ユウキ)のバイタルデータを上書きすれば、それはもはや接骨院の形をした未来の再生工場だ」

「あら、面白そうじゃない。大雅と佳代が遺したあの場所を、万桜(マオー)ちゃんがどうアップデートするのか、あたしも特等席で見てみたいわ」

 清子(セイコ)は、母親としての慈愛と、一人の技術者としての好奇心が混じった瞳で万桜(マオー)を見つめる。

「完璧な布陣ね、万桜(マオー)くん」

 舞桜(マオ)が、冷徹なビジネスの笑みを浮かべてタブレットを叩く。

清子(セイコ)さんの資格という『法的正当性』。万桜(マオー)くんの『論理』。勇希(ユウキ)の『医学的知見』。そして、あたしの『経営リソース』。これですべてのノイズが消えましたわ。信源郷町(シンゲンキョウマチ)の生体インフラを書き換える聖域、黒木柔道整体……いえ、『黒木TPS整体院』の爆誕するわよ」

「名前は後で考える。拓矢(タクヤ)、飯食ったら掃除だ。おまえの母ちゃんの資格が腐る前に、あの埃を全部叩き出すぞ」

 死蔵されていた両親の遺産が、清子(セイコ)という意外な協力者によって、再び血の通った「力」へと変貌しようとしていた。


拓矢(タクヤ)の母ちゃんが管理責任者なら、俺たちも研修員として実務経験を積めるわけだ」

 万桜(マオー)は、空になった冷や麦の器を見つめながら、その先の論理を組み上げた。

「法的な枠組みの中で、俺のTPS理論を『臨床データ』として積み上げることができる。拓矢(タクヤ)の母ちゃんの監督下なら、俺たちの介入はすべて正当な技術習得の一環になるからな」

 万桜(マオー)の言葉に、勇希(ユウキ)が鋭く反応した。

「そうだな。あたしも医学部での研究と並行して、現場での症例報告をまとめられる。拓矢(タクヤ)の母ちゃんのライセンスがあれば、あたしの知識を『助言』ではなく『施術の最適化』として直接反映できる」

 勇希(ユウキ)の指先が、空中で架空のカルテを整理するように動く。

「教科書通りの整体じゃない。解剖学的な正解を、拓矢(タクヤ)の母ちゃんの手を通じて具現化する……。これは、最高の実地研修になるわ」

「あらあら、あたしが教えられる側になっちゃうのかい?」

 清子(セイコ)は、若返った顔に茶目っ気のある笑みを浮かべた。

「大雅と佳代が、天国で目を丸くしてるだろうね。まさか自分の息子たちが、自分たちの看板をこんな形で使い倒すなんて思ってなかっただろうから」

「父ちゃんと母ちゃんが遺した看板だ。しゃぶり尽くして、世界一の価値に変えてやるのが最高の孝行だろ」

 万桜(マオー)は、一切の感傷を排除したような口調で言った。

 だが、その声には、両親が愛した場所を「過去の遺物」にしたくないという、不器用な情熱が混じっている。

「決まりね。清子(セイコ)さんの実務経験と資格を軸に、万桜(マオー)くんたちの『研修』という名の生体実験……いえ、技術開発を組み込む」

 舞桜(マオ)が、手帳を閉じてパチンと音を鳴らした。

信源郷町(シンゲンキョウマチ)の黒木柔道整体は、今日から『全盛期の再起動工場』として、法的なノイズを完全にクリアして再始動します」

拓矢(タクヤ)、掃除だ。まずはあの死んでる空間に、生体活動の熱を戻すぞ」

 万桜(マオー)は立ち上がり、キッチンの隅に置かれたままだった古い鍵を掴み取った。

 清子(セイコ)の資格という最強の「免状」を手に入れ、万桜(マオー)たちは自らの論理を社会へと接続する。

 五年前、止まったはずの時間が、真夏の陽光を浴びて、激しく加速を始めた。


「てか勇希(ユウキ)って医学部だったのか?」

 今更な暫定彼氏のボケた発言に、

「おまえな?」

 勇希(ユウキ)は、手に持っていたタブレットを落としそうになりながら呆れ返る。

「あたしが毎日、何枚の解剖図譜と格闘して、何のデータの整合性を取っていると思っていた? TPSの生体理論に医学的な裏付けを与えて、血管や神経の走行をナビゲートしているのは誰だと思っている?」

 勇希(ユウキ)の鋭い眼光が、オスカルのような凛々しさを伴って万桜(マオー)を射抜く。

万桜(マオー)くん、それは流石に、勇希(ユウキ)に対して失礼を通り越して、論理的な欠陥です」

 舞桜(マオ)が、冷ややかな、けれどどこか楽しげな視線を向ける。

勇希(ユウキ)は、将来の『黒木柔道整体』……いえ、あたしたちの生体最適化プラットフォームにおける、医療法務と臨床の最高責任者です。医学部という肩書きは、そのための最低限のライセンスに過ぎません」

「……いや、ほら。いつも白衣着てたから、てっきりコスプレかと」

 万桜(マオー)が本気でそう思っていた節がある発言を重ねると、勇希(ユウキ)の額に青筋が浮かぶ。

「コスプレなわけないでしょう! あたしの実家の白井家が、どれだけ厳格だと思っているんだ? 市議会議員の父さんが、遊びで娘を医学部に行かせるわけないじゃないか」

 勇希(ユウキ)は深呼吸をして、荒くなった呼吸を整える。

「……まあいい。資格の話に戻りましょう。あたしが医学部在籍のまま、拓矢(タクヤ)の母ちゃんの元で実務的な症例を積み上げる。これは将来、あたしが医師免許を取った後の『新しい医療の形』を作るための、何より貴重なデータになるはずだ」

「へっ。まあ、勇希(ユウキ)が医者の卵なら、俺の暴論も少しは上品な医学に見えるかもな」

 万桜(マオー)は、悪びれる様子もなくアボカドの種を弄びながら笑った。

「上品になんてならないな、万桜(マオー)。おまえのやることは、いつだって既存の医学を破壊する、魔王の所業なんだから」

 勇希(ユウキ)はそう言いながらも、自らの医学的知見が万桜(マオー)の論理と混ざり合い、誰も見たことのない未来を作り出す予感に、密かな高揚を感じていた。


「地方は医者のなり手がいない。じゃあ自給自足だ」

 勇希(ユウキ)は、まさにオスカル系天才女子と呼ぶにふさわしい漢前な発言を放った。

「他所から来るのを待つなんて非効率だ。この信源郷町(シンゲンキョウマチ)で、あたしたちが最高の医療リソースを自家発電すればいい。医者がいないなら、あたしがその概念を上書きする医者になればいいだけの話だよ」

 勇希(ユウキ)の凛とした宣言に、キッチンにいた全員が、その圧倒的な覚悟に息を呑んだ。

「……自給自足の医療か。いいぜ、最高に論理的だ」

 万桜(マオー)は、勇希(ユウキ)の不敵なまでの自信を歓迎するように笑った。

「既存の大学病院や巨大資本のシステムに依存せず、この町だけで完結する生体メンテナンスのサイクル。それが黒木柔道整体の再起動とTPSの融合で完成するわけだ」

「あら、勇希(ユウキ)。それならウチのグループが保有する医療機器のサプライチェーンも、この『自給自足』の輪に組み込みましょうよ」

 舞桜(マオ)もまた、勇希(ユウキ)の漢前な決意に呼応し、社長令嬢としての手腕を振るう準備を整える。

「地方の医療過疎を、最新技術と個人の論理で解決する……。これは、ゼネコンが描く未来の都市モデルとしても、極めて資産価値が高いプロジェクトになります」

「よし、話は決まった。勇希(ユウキ)がこの町の『神医・華佗』になるなら、俺はそのための道具を包帯一本から組み上げてやる」

 万桜(マオー)は、使い込まれた整体院の鍵を高く掲げた。

拓矢(タクヤ)、掃除だ! 拓矢(タクヤ)の母ちゃん、準備はいいか! 今日からここは、医者を待つ場所じゃねえ。医者を生み、細胞を再起動させる、信源郷町(シンゲンキョウマチ)の心臓部になるんだよ!」

「おう! やってやろうじゃねえか、万桜(マオー)!」

 拓矢(タクヤ)の威勢の良い返事と共に、五年間眠っていた黒木家の歴史が、新しい論理を纏って動き出す。

 勇希(ユウキ)の掲げた「医療の自給自足」という旗の下に、若き魔王たちは、自分たちの手で未来の設計図を書き換え始めた。


「てか、おまえ官僚目指してなかった?」

 万桜(マオー)が当然の疑問としてツッコミを入れると、

「医官だな……おまえと結婚したら、黒木柔道整体院で漢方薬を処方出来る……その為の医学部だ」

 勇希(ユウキ)は、澱みなく自身の人生設計を語る。

 万桜(マオー)との未来を前提としたそのあまりに重い告白に、キッチンの空気は一気に熱を帯びた。

「……結婚、とか。さらっと明るい家族計画を構築してんじゃねえよ」

 万桜(マオー)は、すぐに話題を逸らすように問いを重ねる。

「地盤と鞄は?」

 政治家の家系である白井家において、地盤と鞄、つまり後継者としての地位をどうするのか。

 勇希(ユウキ)は、万桜(マオー)の口調を真似て、不敵な笑みを浮かべて言いのける。

「医者が市議会議員でなにが(わり)い?」

 その漢前(オトコマエ)な発言に、拓矢(タクヤ)は「かっこいい……」と溜息を漏らし、清子(セイコ)は「やるねぇ、勇希(ユウキ)ぃ」と目を細めた。

「既存の政治家が法律の解釈で立ち止まっている間に、あたしは医学の論理で直接この町を治療する。白井家の地盤をそのまま『医療特区』の支持基盤にアップデートしてやる。文句があるなら、あたしの処方箋を受け取ってから言えって話さ」

「……政治と医療のハイブリッドか。おまえ、俺より魔王に向いてるんじゃねえか?」

 万桜(マオー)は、勇希(ユウキ)のあまりに合理的な、そして執念に近い人生設計に圧倒されつつも、心地よい高揚感を感じていた。

万桜(マオー)、おまえが作る『道具』を、社会的な『制度』として固定するのがあたしの仕事だ。そのためなら、官僚でも医者でも議員でも、使える肩書きは全部利用してあげる」

 勇希(ユウキ)は、オスカルのような凛とした瞳で万桜(マオー)を真っ直ぐに見つめた。


「終わったぞヤローども」

 勇希(ユウキ)の声が、掃除の完了した診療室に響く。

 万桜(マオー)は、渡されたCDラジカセを勇希(ユウキ)に託したまま、一歩も中に入ろうとはしなかった。

「いや、拓矢(タクヤ)の母ちゃんも気まずいだろ? 勇希(ユウキ)、ジェルでデトックスする時と、冷やす時に拓矢(タクヤ)の母ちゃんにこれを聴かせてやってくれ。たぶん、効果あるからよ?」

 幼馴染の母親がボディラインを強調する包帯ミイラ状態では、いくら論理の魔王でも目のやり場に困る。

 万桜(マオー)なりの、極めて真っ当な「配慮」であった。

「なんだよさっきの?」

 拓矢(タクヤ)が首を傾げて尋ねると、万桜(マオー)は無造作に楽曲のプレイリストを拓矢(タクヤ)の手に握らせた。

「ああ、なるほどな。リラックス効果で、細胞を安定させる……って、おい!」

 拓矢(タクヤ)の表情が凍りつく。

 九十年代のヒット曲が並ぶ中、そこには豪華客船が沈没する悲劇を描いた映画の主題歌が鎮座していた。

 次の瞬間、閉ざされた扉の向こうから、激しい嗚咽が漏れ聞こえてくる。

「ぅぅうッ! 力也……どうすんのよぉ、これからぁ……」

 それは、若返った清子(セイコ)の声とは思えないほど切実な、亡き夫・斧乃木力也氏への慟哭であった。

「力也ぁー!」

 激情の渦に飲み込まれた清子(セイコ)から逃れるように、勇希(ユウキ)莉那(リナ)舞桜(マオ)の女子たちが、一斉に室外へ退避してくる。

「え、おい、ちょっと……やめ……」

 抵抗する拓矢(タクヤ)を、女子たちは無慈悲に「人身御供」として室内へ押し込んだ。

「力也じゃない……。ガタイばっかデカくなって……?」

 清子(セイコ)は、目の前に現れた息子を夫の面影に重ねて詰る。

「一緒にされても困るわ」

 拓矢(タクヤ)は、呆れ果てた顔で言い返したが、逃げ場はない。

 それからしばらくの間、清子(セイコ)は夫との甘い惚気話を延々と息子に聞かせ続け、拓矢(タクヤ)は塩っぱい顔をしながら、母親の心のデトックスを黙って傾聴する羽目になった。

 廊下でその様子を察した万桜(マオー)は、壁に背を預けて小さく息を吐く。

「……感情という名の滞留ノイズを吐き出させれば、代謝効率はさらに20%は跳ね上がる。計算通りだ」

万桜(マオー)、おまえ……。本当に性格の悪い魔王だな?」

 勇希(ユウキ)が呆れたように、けれどどこか感心したような瞳で万桜(マオー)を見つめる。

 信源郷町(シンゲンキョウマチ)の空に、九十年代の切ないメロディが響き渡る。

 それは、黒木柔道整体院が「心」と「体」の両面から再起動を始めた、騒がしくも温かな始まりの音であった。


『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!

いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!

物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。

実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?

地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!

もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!

皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!

引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!

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