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黒き魔王の魂の叫び

AKIRAって、最初、主人公って思うよね?

 大学の敷地に入り、研究棟へと続く並木道を歩いていると、前から颯爽と歩いてくる人影が見えた。凛とした姿勢で、風になびく茶髪。その特徴的な立ち姿に、莉那リナが真っ先に気づいた。

勇希(ユウキ)〜!」

 莉那(リナ)は、無邪気に手を振った。勇希(ユウキ)は、万桜(マオ)たちに気づくと、眉を軽くひそめながらも、その足取りを速めた。

「…置いてくとか酷いと思う…」

 勇希(ユウキ)は、いつものオスカルめいた口調でなく拗ねたように咎めた。

「白井さんは、学外者なので研究室への立ち入りはできません」

 舞桜(マオ)が、感情の読めない表情のまま、淡々と、しかし決定的な一言を放った。その声には、一切の感情の揺らぎがない。

 勇希(ユウキ)は、その言葉に、ぐっと唇を噛みしめた。まさか、この場で学外者(イレギュラー)として切り捨てられるとは思わなかったのだろう。

「ごめん勇希(ユーキ)! このガッコ、三人乗りなんだ!」

 舞桜(マオ)は、まさかのスネ夫遷移(ムーヴ)。どこか優越感を滲ませているように見える。まるで、のび太を拒絶す(ハブ)るスネ夫のようだ。勇希(ユウキ)は、舞桜(マオ)の言葉に、悔しそうに目を細めると見せかけ、

「ふ、学生交流許可証(フリーパス)だとぉ?」

 許可証取得済みを突きつけ「どやぁ」とした。

 ぐぬぬとする舞桜(マオ)に、

「「三人乗りのガッコってなんだよ? ねえよそんな乗りもん」」

 突っ込む万桜(マオ)莉奈(リナ)

 そもそも、向かった先は、莉奈(リナ)が使っている、農業ヘルパー用の休憩室だ。許可もなにもない。斯くして模型造りが始まった。


★★★★★★


 研究室のテーブルには、使い古された保冷剤の山が積まれていた。その冷気を失った袋は、くたびれた表情で、これから始まる奇妙な実験を待ちわびているかのようだった。万桜(マオ)は、その中から一つを手に取ると、にんまりと笑みを浮かべた。彼の瞳には、新たな創造への純粋な喜びが宿っている。

 彼は、無造作にハサミを手にすると、保冷剤の袋に躊躇なく刃を入れた。シャク、と鈍い音がして、透明な袋の口が開く。中から現れたのは、半透明でとろりとしたゲル状の物質だ。それは、まるで宇宙の未知の生命体のような、不思議な光沢を放っていた。万桜(マオ)は、そのゲルを使い込んだバケツへと惜しげもなくあけていく。ペタリ、ペタリ、と粘性のある音が、静かな研究室に響き渡る。バケツの底に溜まっていくゲルは、やがて不気味な半透明の塊となり、小さな沼のようだった。

「これで、まずは水嚢の材料はオッケー!」

 万桜(マオ)は、満足げに手を叩いた。彼の顔には、子供が砂場で大きな山を築き上げたかのような、無邪気な達成感が浮かんでいる。その横で、莉奈(リナ)は好奇心いっぱいの目でゲルを覗き込んでいた。彼女にとっては、万桜(マオ)が引き起こすすべての出来事が、新たな発見と冒険なのだ。

「うわぁ、プルプルだねぇ。食べられそう」

「腹壊すぞ」

 万桜(マオ)がツッコミ、

「食うか」

 莉奈(リナ)は、無邪気に指でゲルをつついてみた。その指がゲルに触れると、ブルン、と小刻みに震え、まるで生きているかのように見えた。勇希(ユウキ)は、そんな莉奈(リナ)の行動に呆れたようにため息をついたが、その視線はゲルに釘付けになっていた。舞桜(マオ)は、ゲルの物理的な特性を分析するかのように、じっと見つめている。彼女の脳内では、この奇妙な物質が持つ可能性が、高速で演算されていることだろう。

 次に万桜(マオ)は、テーブルに広げられたラップを手に取った。彼は、ゲルの塊の中から、指ほどの太さになるようにゲルを慎重にすくい取り、ラップの上に置く。プルン、と柔らかな塊が、ラップの上でわずかに形を変えた。万桜(マオ)は、そのゲルを丁寧にラップで包んでいく。指の腹で空気を抜きながら、きゅっと細長い筒状に成形していく作業は、まるで繊細な菓子作りを見ているかのようだった。

「さてと、次は芯だな」

 万桜(マオ)は、そう呟くと、ゴチャゴチャと置かれた工具箱の中から、結束バンドを取り出した。プラスチック製のそれは、まるで無機質なヘビのようだった。彼は、その結束バンドを半分に切ると、その一片をラップで包まれたミニチュア水嚢の端に差し込んだ。カチリ、と硬質な音がして、結束バンドがゲルの中に沈み込む。それは、水嚢の「骨」となる部分だ。細長いミニチュア水嚢の姿は、まるで、奇妙な生物の幼生のように見えた。

 彼はその作業を黙々と繰り返した。一本、また一本と、細長いミニチュア水嚢が作られていく。それぞれの水嚢は、不揃いながらも、万桜(マオ)の指の跡を宿し、彼の創造の痕跡を物語っていた。やがてテーブルの上には、数十本のミニチュア水嚢が、整然と、しかしどこかユーモラスに並べられた。まるで、小さな毛虫たちの行進のようだった。

 その光景を、舞桜(マオ)は静かに見つめていた。彼女の瞳は、万桜(マオ)の直感的な作業の裏に隠された、物理的な意味を読み取ろうとしているかのようだった。勇希(ユウキ)もまた、万桜(マオ)の集中した横顔を観察し、莉奈(リナ)は完成したミニチュア水嚢を面白そうに眺めていた。

「よし、これを板に植えるぞ!」

 万桜(マオ)は、そう宣言すると、作業台としていた板切れを手に取った。それは、使い込まれた木製で、表面には微かな傷が刻まれている。彼は、木工用ボンドの蓋を開け、ミニチュア水嚢の底に、惜しげもなくボンドを塗布していく。ねっとりとした白いボンドが、透明な水嚢の底に絡みつく。

 そして、万桜(マオ)は一本一本、丁寧にミニチュア水嚢を板に植え付けていった。板の表面に、規則的な間隔で水嚢が並んでいく。キュッ、キュッ、と、ボンドが板に吸着する音が、万桜(マオ)の集中力を物語っていた。それは、まるで小さな畑に作物を植え付けていく農夫のようであり、あるいは、精密な電子基板に部品を配置する職人のようでもあった。

 やがて、板の上には、結束バンドを芯にしたミニチュア水嚢の列が完成した。それは、まさに万桜(マオ)が構想する「水嚢の川」のミニチュア版だった。整然と並んだ透明な水嚢は、光を反射し、まるで小さな水の波紋がいくつも連なっているかのようにも見えた。

「どうだ、これなら、摩擦が極限まで減らせるはずだ!」

 万桜(マオ)は、満足げに完成した模型を掲げた。彼の顔には、成功への確信が満ち溢れている。その模型は、一見すると奇妙な代物だが、万桜(マオ)の頭の中では、すでにこの小さな板の上を、巨大な舟が滑らかに進んでいく壮大なビジョンが描かれていることだろう。

 しかし、万桜(マオ)の脳裏に、一つの懸念がよぎった。それは、この計画が抱える、意外な「盲点」だった。

「待てよ…このシステム、獣害の危険があるな」

 彼は、独りごとのように呟いた。山の中腹という立地を考えると、当然の懸念だ。吸水ポリマーの水嚢は、動物たちにとって、何らかの興味の対象となり、あるいは食料と誤認される可能性も否定できない。鋭い爪や牙で食い千切られれば、システムはあっという間に機能不全に陥るだろう。

「シートで覆えばいいのか」

 万桜(マオ)は、すぐにその対策案を思いついた。耐久性のある素材で水嚢の敷設面を覆い、動物たちからの直接的な接触を防ぐ。これならば、獣害のリスクを大幅に低減できる。

 そうと決まれば、実験あるのみだ。万桜(マオ)は、近くにあった簡易的な模型用の川に、小さな舟を浮かべた。水嚢のイメージを再現するように、底にはブラシを模したものが取り付けられている。彼は、その舟をゆっくりと進ませ、その軌跡を注意深く観察した。舟が滑らかに進むにつれて、ブラシの「毛」の間を水が押し分けられ、微細な水の筋が残る。

 その様子を覗き込んでいた莉奈(リナ)が、無邪気な声で呟いた。

「ワレメだね」

 莉奈(リナ)の言葉に、万桜(マオ)は思わずずっこけた。彼の頭の中では壮大な摩擦低減システムのイメージが広がっていたというのに、出てきた言葉がそれとは!

「せめて裂け目と言え! 乙女!」

 万桜(マオ)は、顔を赤くしてツッコミを入れた。しかし、そのツッコミも虚しく、舞桜(マオ)勇希(ユウキ)の瞳が、何かを捉えたかのようにきらりと光った。

「鞘ね」

 舞桜(マオ)が、感情の読めない声で淡々と呟いた。その言葉は、あくまで物理的な形状を客観的に表現しているかのようだった。

「鞘だな」

 勇希(ユウキ)もまた、それに同調するように続いた。その声には、どこか悪戯っぽい響きが混じっている。

 二人の言葉を聞いた万桜(マオ)は、全身の力が抜けるような脱力感を覚えた。まさか、物理的な構造から、そこまで連想を広げるとは! しかも二人揃って!

「てめえら、それラテン語にすんじゃねえぞ!?」

 万桜(マオ)は、半ば悲鳴のような声を上げた。これ以上、事態が悪化するのを防ぐため、最後の抵抗を試みる。しかし、乙女たちの思考は、すでに彼の想像の斜め上を行っていた。

「「「ヴァ」」」

 乙女たちは、万桜(マオ)のツッコミなど意に介さず、異口同音に、そしてどこか得意げな顔でそう唱えた。その響きは、まるで魔術の呪文のようだった。

「やめんか! 痴女ども!」

 万桜(マオ)は、もはやどうすることもできず、両手で頭を抱え込んだ。彼の完璧な摩擦低減システムのビジョンは、目の前の「乙女たちの暴走」によって、一時的にかき消されてしまったのだった。

 しかし、万桜(マオ)は、そんなことで諦める男ではない。むしろ、彼の「好天思考」は、この手の「障害」を新たなアイデアの源と捉える。

「くそっ、この猥褻物陳列は回避しないと…!」

 彼は、誰にともなく呟いた。模型の川に浮かべた舟の軌跡、そしてそこから連想される言葉の数々。このままでは、せっかくの革新的なシステムが、あらぬ誤解を生みかねない。

 万桜(マオ)の脳内で、解決策が高速で演算されていく。舟底の構造、水嚢との相互作用、そして「見え方」の問題。

「そうだ! 舟底を、いくつものソリの歯を履かせるように改良するんだ!」

 彼は、閃いた。舟の底に、平行に並んだ複数の細い板状の「ソリの歯」を取り付ける。これならば、水嚢の列を覆い隠すことができ、同時に接触面をさらに減らす効果も期待できる。

 模型の舟に、早速、薄い板を並べて貼り付けていく。見た目は、まるで複数の細長いキールが並んだようだ。

「これでどうだ!」

 万桜(マオ)は、満足げに模型を眺めた。見た目の問題は解決したはずだ。

 だが、万桜(マオ)の思考は、さらなる飛躍を見せる。

「ていうか、舟でなくてもいいじゃない?」

 その言葉は、まさに「魔王アントワネット」の再来だった。彼の頭の中では、もはや「舟」という概念すらも、このシステムの可能性を限定する枷でしかなかったのだ。ソリの歯状の底面を持つ、新たな運搬体が、彼の脳内に浮かび上がった。

 その瞬間、莉奈(リナ)が、再び模型の舟底を覗き込み、眉をひそめた。

「パンツのシワみたい」

 莉奈(リナ)の、あまりにも直球(ストレート)な感想に、万桜(マオ)はぐっと言葉を詰まらせた。せっかく猥褻物陳列を回避しようとしたのに、今度は別の方向から、思わぬ連想を呼び起こされてしまうとは!

「風呂上がりのな」

 勇希(ユウキ)が、すかさず冷静な声で追撃した。その表情は真面目そのものだ。

「風呂上がりのね」

 舞桜(マオ)も、いつもの調子でそれに続く。もはやお約束と化した三人の連携に、万桜(マオ)は頭を抱えた。

「恥じらい! 恥じらい置き忘れちゃダメ! 絶対!」

 万桜(マオ)は、半泣きになりながら叫んだ。彼の脳裏には、風呂上がりのパンツのシワが、なぜか鮮明に焼き付いてしまっていた。

 しかし、その「シワ」という言葉が、万桜(マオ)の天才的な思考回路に、新たな火を灯した。

「シワ…! そうか、シワだ!」

 彼は、目を輝かせた。シワ、つまり「たるみ」だ。舟が上り坂を進む際、もしその底面にたるみがあれば、後退する力に対して抵抗力を生むことができるのではないか?

 万桜(マオ)は、早速、舟の底面に、意図的にたるみを「作る」仕掛けを考え始めた。それは、普段は平滑だが、何らかの力が加わった際に、瞬間的にシワを作り出すようなメカニズムだ。

「よし! このシワを即座に張る仕掛けを設定するんだ! これが張力の役目を果たして、舟の後退を防ぐ役目を担う!」

 万桜(マオ)は、熱弁した。シワをぴんと張ることで、その張力が、坂を滑り落ちようとする力を食い止める。まるで、伸縮性のあるバネのように、たるんだ部分が引っ張られることで抵抗力を生むのだ。

 万桜(マオ)が、舟底のシワを即座に戻す動作を試した。すると、想像以上に、舟の後方がわずかに浮き上がる。

「おおっ!」

 彼は驚きの声を上げた。これならば、舟が坂を上る際の、次の動作への移行もスムーズになるだろう。ある程度進んだところでシワを張ることで、舟体全体が安定し、推進力を持続させる。

 そして、その舟の動きと、シワが戻る様子を見ていた莉奈(リナ)が、ハッと閃いたように声を上げた。

「わかった! これ、無数の水嚢の位置も戻すアイデアに繋がるんじゃない? 舟が進んだら、その下の水嚢も自動的に元の位置に戻るようにすればいいのよ! そうすれば、常に新しい水嚢の列の上を舟が滑っていくことになる!」

 莉奈(リナ)は、興奮したように捲し立てた。彼女の瞳は、純粋なひらめきに満ちて輝いている。彼女は、まさに自分の思考が、万桜(マオ)のアイデアの次なる段階を切り開いたのだと確信していた。

「あたし天才?」

 莉奈(リナ)は、満面の笑顔で、勇希(ユウキ)舞桜(マオ)の方を振り返った。その顔には、賞賛を求める期待がにじんでいた。

 しかし、勇希(ユウキ)舞桜(マオ)の二人は、顔色一つ変えずに、無表情で莉奈(リナ)を見つめ返した。そして、ほとんど同時に、冷徹な一言を放った。

「「痴女だけどな」」

 まさかの切り捨て。莉奈(リナ)の顔から、一瞬にして笑顔が消え失せた。天才だと褒められることを期待していたのに、返ってきたのは容赦ない、しかも「痴女」という言葉だった。

「いや、おまえら全員そこへなおれ!」

 万桜(マオ)は、ついにキレた。彼の顔は真っ赤になり、普段の飄々とした表情は影を潜め、怒りに震えている。まるで、今までさんざん振り回されてきた鬱憤が一気に爆発したかのようだった。


★★★★★★


 研究室(休憩室)のテーブルには、万桜(マオ)お手製の「水嚢の川」の模型が置かれていた。板切れの上に、結束バンドを芯にした細長いミニチュア水嚢が、整然と、しかしどこかユーモラスに並んでいる。それぞれの水嚢は、半透明のゲルが光を反射し、まるで小さな水の波紋が連なっているかのようだった。その手前には、重りを乗せた紙製のボートが佇み、その先には太めの輪ゴムがピンと張られている。

 万桜(マオ)は、重りを載せた紙ボートを「水嚢の川」の始点に置くと、太い輪ゴムの先端をボートに引っ掛けた。ピン、とゴムが張る。彼の目は、そのゴムのわずかな伸縮と、ボートの動きに集中していた。隣では、舞桜(マオ)が食い入るようにボートを見つめ、莉奈(リナ)は腕を組んで興味津々にその様子を眺めている。勇希(ユウキ)もまた、その表情は真剣そのものだ。

「よし、いくぞ!」

 万桜(マオ)が合図すると、莉奈(リナ)がゴムをゆっくりと引き始めた。ゴムが伸びる。ボートは、水嚢の上を滑るように、まるで水面を漂う木の葉のようにするすると進んだ。ゴムの伸びは、普段の地面で引いた時の半分以下にまで抑えられているように見えた。

「おおっ!」

 万桜(マオ)が歓声を上げた。彼の脳内では、すでにこの小さな現象が、山を駆け上がる巨大な舟の姿へと変換されている。莉奈(リナ)は、ゴムの伸びを目視で注意深く確認し、舞桜(マオ)はわずかに目を見開いた。勇希(ユウキ)もまた、その目に見える効果に驚きの表情を浮かべた。事前の調査で、通常の地面と「川のあるなし」でゴムの伸びに明確な違いが生じることは想定通りだったが、ここまでの手応えがあるとは、彼女たちの予想をも上回っていたのだ。

「だろ? このアイデア、いけるぜ!」

 万桜(マオ)は、得意げに胸を張った。彼の言葉は、彼自身の確信と、このアイデアへの絶対的な自信を物語っていた。

 その時だった。

 休憩室の扉が、ゆっくりと開いた。ヒヤリとした冷気が、熱気を帯びた実験の場へと流れ込む。現れたのは、北野(キタノ)学長だった。彼は、いつもの穏やかな笑顔を湛え、手に大きな袋を提げていた。袋からは、ひんやりとした冷気が漂い、微かな涼が部屋に広がった。

「やあ、君たち。ずいぶん熱心だね」

 北野(キタノ)学長は、そう言いながら、柔らかな視線で五人を見渡した。彼の瞳の奥には、好奇心と、そして彼らの活気ある研究への温かい眼差しが宿っていた。彼は、袋からひょいと、色とりどりのアイスを取り出した。

「頑張っている君たちに、差し入れだよ。冷たいものでも食べて、水分補給しないと熱中症になるからね」

 北野(キタノ)学長は、そう言ってにこやかにアイスを差し出した。彼の言葉には、学生たちへの深い配慮と、彼らへの期待が込められているようだった。熱のこもった実験の空気が、涼やかなものへと変わった。万桜(マオ)たちは、目の前のアイスと学長の笑顔に、一瞬、呆然と立ち尽くした。

北野(キタノ)学長? 大学の先生って夏休み中は、学校こなくていいんじゃ…」

 失礼を言いかける万桜(マオ)に、

「そんなわけないだろう万桜(マオ)

 呆れる勇希(ユウキ)

「差し入れ、ありがとうございます。爽大(ソウダイ)さん」

 ペコリとお辞儀し、北野(キタノ)学長こと北野(キタノ)爽大(ソウダイ)にお礼を言う。勇希(ユウキ)の父、泰造(タイゾウ)の従兄弟が学長なのだ。地方ではよくあることだが、こうして聞くと、ケッコーみんな親類縁者だと改めて気づかされる。

 そこに舞桜(マオ)が、すっと前に出る。

「黒木、学長は夏休みでもお仕事があるわ。研究とか、論文の執筆、学会の準備もあるし、大学の運営に関する会議なんかも。特に学長ともなれば、一年中ずっと忙しいものよ。私たちの夏休みとは、ちょっと違うわ」

 舞桜(マオ)は、努めて冷静に、しかし以前よりは柔らかい口調で説明した。その言葉には、学長の仕事への理解と、万桜(マオ)の無神経さをたしなめるようなニュアンスが混じっていた。万桜(マオ)は、舞桜(マオ)の言葉に、口を半開きにして立ち尽くした。

 その意味を理解した万桜(マオ)莉奈(リナ)は、顔を見合わせ、

「「あざ~す!」」

 彼らなりの最敬礼で、学長に感謝の意を表した。

「軽いな〜、君らの感謝〜。ま、いいけどさ〜」

 北野(キタノ)学長は鷹揚に流すと、舞桜(マオ)へと視線を向けた。

茅野(チノ)さん、君も随分と変わったね。以前はもっと、こう……鉄壁のようだったが、今は随分と柔らかい表情をするようになった。それは、とても良い変化だよ」

 学長の温かい言葉に、舞桜(マオ)の完璧な顔に、ほんのわずかだが、柔らかな色が差したように見えた。

 北野(キタノ)学長は、再びテーブルの上の模型に目を向けた。彼の瞳が、ミニチュアの「水嚢の川」とボートを詳細に捉える。

泰造(タイゾウ)が言ってた『魔王案件』ってそれだね?」

 北野(キタノ)学長は、興味深そうに、そしてどこか楽しげに勇希(ユウキ)に尋ねた。そして、模型に手を伸ばし、指でそっと水嚢に触れた。

「これは……なるほど。黒木くん、君はこれを滑落しない雪の道と見立てているのかい?」

 学長の言葉は、万桜(マオ)のアイデアの核心を、瞬時に言い当てていた。彼の言葉は、万桜(マオ)が目指す「水の反発から生まれる浮力に極力近い。無数の水嚢が舟を浮かべるイメージ」という概念を、より詩的かつ具体的に表現していた。万桜(マオ)は、その的確な看破に、目を輝かせた。

「そうですね。そのイメージです。(ソリ)なら雪の道を少ない力で滑れます。雪の道と違って解けることはありません」

 万桜(マオ)は、北野(キタノ)学長の的確な看破に、澱みなく解説を続けた。彼の言葉には、アイデアが認められたことへの純粋な喜びと、その実用性への確信がにじんでいた。

「ん? 魔王案件?」

 万桜(マオ)は、そこでようやく、学長が言っていた「魔王案件」が、自分のアイデアのことだと気づいた。

「十年前だったかなー。降雪量の少ない信源郷(しんげんきょう)町で、北海道もびっくりな雪祭が開祭されたのは〜」

 北野(キタノ)学長は遠い目を虚空に向けた。

「い、いや、あれは、俺、校庭でカマクラ作っただけだし」

 心当たりがあるのか、万桜(マオ)はしどろもどろ。

「持ってくりゃいいじゃん――子供って無邪気で残酷だよね~」

 北野(キタノ)学長は、なぜか万桜(マオ)に恨み節。万桜(マオ)は学長に恨まれる覚えはない。

「き、北野(キタノ)学長?」

信源郷(しんげんきょう)町町立小学校校長の名前、覚えてる? 担任教師の名前は?」

 恨み節が加速度的にじとつく。

「えっ、えっとぉ、鳥インフルの影響や、土壌の調査をした偉い学者さんって…」

「はい。私です。奥さんと娘からのお願いを突っぱねる、お父さんは、おりません」


◆◆◆◆◆◆


 2008年冬。

 信源郷(しんげんきょう)町に、珍しく大量の雪が降った日だった。積雪量は決して多くはないこの町で、校庭は一面の銀世界と化していた。その日、黒木万桜(マオ)は、何かを閃いたように校庭へと飛び出した。

 彼は、誰に指示されるわけでもなく、ただ思いつくままに、校庭の雪をせっせとかき集め始めた。そして、あっという間に、小さな雪の塊を積み上げ、カマクラの形を作り始めたのだった。

 万桜(マオ)の突飛な行動に、最初は戸惑っていた全校生徒たちも、次第に彼の楽しそうな姿に引き寄せられていった。一人、また一人と校庭に出て、万桜(マオ)の作業を手伝い始める。やがて、校庭には雪玉を転がす生徒たちの歓声が響き渡り、最初は小さな塊だったカマクラは、あっという間に子供たちが中に入れるほどの大きさにまで成長していった。

 徐々に形になっていくカマクラを見て、生徒たちの間からは「もっと雪があれば、もっと大きいのが作れるのに!」という声が上がった。その会話を耳にしたのか、騒ぎの収拾に乗り出した校長先生こと学長の奥さんと、学長の娘さんこと担任の先生は、もういっそ清々しいまでに諦めた。

 その様子を微笑ましく見守って、その輪に入ることにした。他の先生たちも諦めたように合流する。その傍らで、万桜(マオ)がポソリと呟いた。

「持ってくりゃいいじゃん」

 奥さんと娘さんは、ふと万桜(マオ)に目を向けたが、彼はカマクラに夢中で、特に気にする様子はない。だが、再びポソリと、万桜(マオ)の口から言葉が漏れた。

「だって山の向こうじゃ、ここより、いっぱい降って困ってんだろ? 貰ってくればいいじゃん」

 その言葉は、まるで子供の純粋な思いつきのように、あっけらかんと響いた。

 さらに、万桜(マオ)は無邪気な一言を付け加えた。

「だって、災害じゃん。自衛隊のトラック借りりゃいいじゃん」

 その万桜(マオ)の無邪気な一言が、思わぬ波紋を広げた。

 北野(キタノ)学長の奥さんと娘さんは、その言葉を聞いて顔を見合わせた。そして、彼女たちの瞳に、ある種の輝きが宿る。子供たちの無垢な願いと、万桜(マオ)の天才的な(そして無責任な)発想が、大人たちの心を揺さぶったのだ。

 すでに町中では、珍しい大雪に沸き立ち、「せっかくだから雪祭りを開催しよう!」と大人たちが盛り上がっていた。そんな中、万桜(マオ)の発言が、学長の奥さんと娘さんの背中を強く押したのだ。


 家に帰ったふたりは、

「お父さん、影響調査! もうみんな止められない…大地がお怒り(怒ってないけど)なのよ」

「無駄じゃよ…単細胞たち(王蟲の群れ)は止められない…」

 自宅で、二人は北野(キタノ)学長に拝み倒すように懇願した。奥さんと娘の、普段見せることのない切実な眼差しに、学長はタジタジとなる。

「いや、どこの谷の姫ねえさま?」

 学長は、現実的な懸念を口にするが、二人の攻勢は止まらない。

「あなたぁ〜、来たわよぉ〜王蟲の群れ(大地の怒り)

 奥さんの言葉に、学長はぐっと詰まった。

「「「(ソウ)さん! お願いしゃっす!」」」「「「シャッス!」」」

 理屈が通らないわけではない。強迫にも近き調査依頼。当時の学長は、

「誰か〜、姫ねえさま呼んできてー!」

 信源郷(しんげんきょう)町の中心で救援要請(シャウト)。無論、姫ねえさまは助けに来ない。

 こうして、学長は奥さんと娘に文字通り拝み倒される形で、この「雪輸送計画」の実現に向けて動き出すことになった。まずは、山の向こうの自治体への影響調査と、自衛隊への非公式な打診。彼の多忙な日常に、新たな「魔王案件」が加わった瞬間だった。信源郷(しんげんきょう)町は、子供たちの無邪気な願いと、一人の少年の奔放な発想、そして町の人々の熱気によって、冬の静けさを破るような、奇妙な活気に包まれ始めたのだった。


★★★★★★


「おい、茅野(チノ)。ここいらは、雪がそれほど降らない、でも、雪室が多い。なぜだと思う?」

 勇希(ユウキ)の問い掛けに、

「『さん(・・)』をつけろよ、『卵丼(ランドン)』ヤローッ!」

 舞桜(マオ)、まさかのAKIRAの金田遷移(ムーヴ)で叫ぶ。

ヤロー(・・・)は、やめてよぉ? 乙女だよぉ?」

 勇希(ユウキ)涙目(オヨヨ)とすがる。

「「砕けたなー」」

 万桜(マオ)北野(キタノ)学長の声が、唱和(ユニゾン)で響いた。

「黒木の影響でしょ? 白井さん」

 舞桜(マオ)はシレッと、言い当てる。

「ああ、その通りだ。茅野(チノ)、さん」

 勇希(ユウキ)は、体裁を繕った。

主人公って金田? テツオ? あるいはケイ?

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