黒き魔王の海中交通構想
前書き:文明シフトと非合理のノイズ
これは、究極の合理性を追求する天才集団が、最も非合理な人間の感情、すなわち「ノイズ」に直面する物語である。
西暦二〇一九年夏、世界的な危機が目前に迫る中、甲斐の国大学旧休憩室に集結したセイタンシステムズのメンバーたちは、社会の根幹を再構築する「文明シフト」という壮大な使命に身を投じていた。技術、経済、法、全てが論理の暴力によって再構築される。しかし、その過程で、彼らは「論理的な正しさ」だけでは世界を救えないことを悟る。
必要なのは、来るべき集団ヒステリーのノイズを無効化するための、「非合理なほどのポジティブな感情」だった。
急遽強行された房総半島への社員旅行は、彼らの冷徹なミッションの論理と、水着、アジフライ、そして愛という名の私的なノイズが激しく交錯する、ひと夏の戦場となる。このノイズこそが、未来を救う鍵となるのだろうか。
2019年7月中旬、甲斐の国大学旧休憩室セイタンシステムズの心臓部にて。
黒木万桜は葛藤していた。
(それはさておき、海行こうぜ? とは、言えねえよな…)
この場の空気は、極度の熱量に満ちていた。誰もが、目の前の課題、すなわち「文明シフト」という壮大な目標に一丸になっている。万桜は、その熱意を乱すことができず、己の非合理的な願望を胸に押し込めた。
旧休憩室の隅、香織が、白いボードに向かって鋭い視線を送っていた。
「甲斐の国市の用地買収は、戦略的優位を確保する上で不可欠です」
香織の声は、戦術を練る将校のように明瞭だ。彼女の指し示す地図には、市内の遊休地や再開発予定地が、まるでチェス盤のコマのように色分けされている。
その指示を受け、拓矢と佐伯の二人は、ほとんど無言で動いていた。
拓矢は、地元建設業者との過去の取引データを瞬時にまとめ、必要資金の調達シミュレーションを叩き出す。彼の指の動きは、まるで戦場の指揮官が繰り出す手際の良い信号のようだ。
佐伯は、行政手続きに必要な書類のテンプレートを、過去の成功事例から抽出していた。幹部自衛官候補生としての訓練で培った、「無駄を許さない精確さ」が、そのタイピングの一打一打に宿っている。
その奥では、福元莉那が、三つの大型モニターに囲まれ、一人熱狂的な闘志を燃やしていた。
「ネット上のコミュニティのすべてに、ブロックチェーンを掛ける!」
莉那の宣言は、まるでデジタル世界を統べる魔女の呪文のようだ。
彼女の指先が高速でキーボードを叩き、分散型ネットワークの基本プロトコルを次々と生成していく。その目的は、「情報の透明性と不可逆性」を確保し、「非合理的な情報操作ノイズ」を排除することだ。
莉那の隣では、藤枝がその作業を献身的にサポートしていた。
藤枝は、莉那が吐き出す無数のコードの中から、特に処理負荷が高い部分を識別し、それを最適化するための並列処理アルゴリズムを迅速に組み上げていく。彼の額には、流れる汗ではなく、「究極のサポート」という名の静かな情熱が浮かんでいた。
その時、藤枝が莉那に、一つの具体的な提案を投げ掛けた。
「サブリナくん、そのブロックチェーンを、我々が提供するサービスプロバイダに付与するというのはどうだろうか?」
藤枝の視線は真剣だ。
「つまり、ユーザーがサービスを利用する際、最初からコミュニティ情報に『ブロックチェーン付きの機能』が付与される形にする。これにより、ユーザーは自分のデータの帰属を完全にコントロールできる」
莉那は、一瞬手を止め、目を輝かせた。
「いいね! それ、絶対必要!」
彼女は、まるでそのアイデアを飲み込むかのように、さらに一歩踏み込んだ構想を提案した。
「ってことは、コミュニティの相手を明示的に設定できる、限定ネットワーク構想が可能じゃん!」
莉那の瞳が、新たな可能性に燃える。
「友人、家族、研究者…それぞれと繋がれる相手を明確に定義し、『情報ノイズの混入』を構造的に防ぐことができる。これこそが、あたしたちが求める、究極の合理性を追求した『社会システムの安定化』だよ!」
その熱狂的な議論から少し離れた場所では、白井勇希と倉田琴葉が、まるで秒針を睨むように、法的な手続きを急いでいた。
勇希は、魔王の提示した「三位一体の愛の構造体」という、前例のない「倫理的レシピ」を社会的に承認させるための、法律の隙間を探っている。彼女の指先は、膨大な判例集を高速でスクロールし、その合理的解決策を支える「法的なロジック」を構築しようと努めていた。
琴葉は、その法的な枠組みの承認プロセスと、将来的な「国防への応用」という観点から、文書のセキュリティと機密性を徹底的にチェックしている。彼女の軍人としての規律と、友人としての情熱が、この「人類の理を超えた愛の工学的レシピ」を、現実の社会構造に組み込むという、冷徹なミッションを遂行させていた。
旧休憩室には、キーボードを叩く音、香織の指示、莉那の熱狂的な声、そして法典をめくる紙の音だけが響き渡っている。それは、「究極の合理性」という一つの思想によって、「技術」「経済」「法」「社会」という全ての領域が、同時に再構築されつつある瞬間の、戦場のような静けさだった。
舞桜は、ソワソワと落ち着きのない万桜に、吐息をひとつ。CEOとして、論理の緊張を、集団のポジティブな感情へと変換する必要がある。
「明後日から社員旅行を強行します。保養地を千葉に確保しています。なお、社員の皆さまは強制参加していただきます」
急な通達を発表する。忽ち万桜の瞳が子供のように輝く。
「み、水着? 水着って着ますでしょうか、社長殿?」
万桜にとっての最重要項目はそれだった。
「はいはい。水着ね」
舞桜はジト目を貼り付け承諾する。
その瞬間、経理の計算をしていた香織が、ガシャンと電卓を机に落とす。
「え、水着ッ!? マジすか社長! ウチ、超可愛いヤツを先週ゲットしたんですよ! え、いつ? いつから行くんですか!」
香織は、社員旅行という非日常のイベントに食いつく。
拓矢と佐伯の瞳が輝き、藤枝は眼鏡をクイッと上げながら口元を緩める。男子たちの間には、一斉に歓喜のどよめきが走った。
「「よっしゃあ! 待ってました、社長!」」
しかし、その中でひとり、番長こと祭谷結だけは、寂しそうに頭を掻く。
「わりい、黒幕、茅野。俺はパスだ。まだ、ガキが小さくてなぁ。カミさんに申し訳ねえ」
子育てという尊い、しかし非合理的な責務が、番長を旅行という誘惑から引き留める。
「来年があるじゃねえか? 来年一緒に行こうぜ?」
万桜は、番長を慰めながら、改めて誓う。未来の記憶は残っていない。だが、来年の夏を台無しにさせない。そして、その先の全ての夏を、集団のポジティブなノイズで満たす。それを決意する。
★ ◆ ★ ◆ ★
東京湾。
セイタンシステムズの社員旅行は、急遽強行された。保養地である千葉の金谷港を目指し、彼らを乗せたフェリーは、紺碧の海原を静かに滑っていく。
潮風が吹き抜けるデッキの最上階。万桜は、どこからともなく取り出した煎餅を掲げ、群がるカモメたちと戯れていた。彼は童心に返ったように高笑いしながら、その奇妙なランデブーを楽しんでいた。カモメたちは、万桜の非合理なまでの優しさに、論理的な警戒心を忘れ、万桜の手元を旋回する。
その光景を、舞桜と勇希が見つめる。
舞桜は、純白のノースリーブワンピースに身を包んでいた。風に揺れる薄い生地と、彼女の白皙の肌が、フェリーの青い背景によく映える。その足元は、白いサンダル。清楚でありながらも、視線を集める圧倒的な存在感だ。
対する勇希は、鮮やかなターコイズブルーのサマーニットワンピースを選んでいた。舞桜とは対照的な、快活で健康的な色合いだ。髪はポニーテールにまとめられ、揺れる度に光を反射する。彼女のファッションは、舞桜の『白』の支配に対抗する、明確な『青』の主張であった。ふたりの間の無言のファッション対決は、この夏の社員旅行の隠れた見どころだ。
莉那は麦わら帽子を被り、涼しげなアロハシャツ姿で船縁にもたれていた。琴葉は、日傘を差し、その優雅な振る舞いはまるで避暑地の令嬢のようだ。
「変わらねえなぁ、あいつは…」
拓矢はそう言いながら、カモメと戯れる万桜の姿に、微笑みを零した。
万桜はふと、カモメたちから視線を外し、思考のスイッチを切り替える。
「なあ、舞桜。思いついちゃったんだけどよ」
彼の脳内では、既にミッションの論理が再起動している。
「ミストに殺菌作用がある薬品を混ぜて散布すれば、ウィルスって不活性化するよな? 集団ヒステリーのノイズを、物理的に発生源から叩き潰すための、最初の策だ」
万桜の提案は、コロナ禍という未来のノイズを無効化するための、物理的な『論理の暴力』だ。
舞桜は、思わず白いワンピースの胸元に手を当てる。
「正論だわ。論理的には、環境全体を消毒するのが最も効果的ね」
しかし、彼女はCEOとして、また女性としての視点から、その非合理な副作用を指摘した。
「でも、肌荒れするわよ万桜。それに、人体に無害な薬品でも、長期間の散布は、環境ノイズになるわ」
舞桜の指摘は、論理的な正しさと、繊細な感情のケアを両立させた、CEOらしい判断だ。
万桜は、即座に懐から、チューブ状の物体を取り出した。
「対策済みだ!」
それは、香織から拝借したらしい、持ち運び用の『プレミアム保湿クリーム』だ。ラベンダーの香りが鼻腔をくすぐる。
「ほら、これ塗れば問題ねえだろ? それに、散布する殺菌剤の成分を、この保湿クリームの成分と論理的に連結させれば、肌荒れのノイズは打ち消せる!」
万桜の対抗意見は、あくまで論理的であり、感情的な配慮は微塵もない。彼は、肌荒れという非合理な感情のノイズさえも、論理的に無効化できると主張したのだ。
舞桜は、その徹底的な合理性に、思わず口元を緩めた。
「…ばかね。そんなことしたら、化粧品の認可が新たに必要になるでしょ。論理が飛躍しすぎよ、万桜」
勇希は、そんなふたりのやり取りを見て、ふっと笑う。
「てか、女のよそ行きは褒めるもんだぞ万桜」
青いワンピースの勇希の言葉は、万桜の論理を、純粋な感情へと変換する。
「…そのあれだ…綺麗、です…ね…」
万桜は顔を赤くし小声で呟いた。
白いワンピースと青いワンピース。ふたりの天才美女に囲まれた万桜は、海風を浴びながら、ミッションの遂行と、私的な感情のノイズに揺れていた。
フェリーは、金谷港へとゆっくりと近づいていく。
船のエンジン音が、静かに潮風に溶けていく。
「赤い社長から聞いたよ。世界じゃ上下水道が死んでいて、衛生が保てていない…そら風邪ひいたら大ダメージだわ…」
万桜は、海原を眺めながら呆れたように嘆いた。彼の脳内にある『未来のノイズ』は消えても、世界の衛生環境の悪化という『論理的な事実』は、茅野淳二から得た情報として残っていた。
「うん。だから、さっきのミストの件なんだけどよ」
万桜は、煎餅の最後の一枚を砕き、波間に散らす。
「さっきのミストは、対策じゃねえ。対策してますって発信をして、この国の集団ヒステリーの怯えを取り除くための、非合理なほどのポジティブな発信だ」
彼は、理屈を超えた、感情的な防御こそが、来るべき危機を乗り越えるための最優先事項だと悟っていた。論理の暴力よりも、群衆の感情への介入を選んだのだ。
舞桜は、白いワンピースの袖を翻し、万桜の隣に並んだ。彼女もまた、非合理なポジティブが、この世界には必要だと理解している。
万桜は、舞桜から視線を外し、青いワンピースの勇希を一瞥する。
「…勇希。その服、似合ってる」
普段、他人を褒めることなどない万桜からの、突然の私的なノイズ。
「きゅ、急に褒めるな、万桜!」
勇希は一瞬、顔を赤くし、照れ隠しで万桜の肩をポカポカと叩いた。彼女たちの間の、感情的な距離が縮まる。
「じゃれるな…でも、それが大事よね…」
舞桜も万桜の提案を肯定した。それは、物理的な防御より、心の防御こそが、集団ヒステリーのノイズを無効化するための最善の策だという、三人の暗黙の了解であった。
「思い浮かぶ限りを、甲斐の国市に散りばめる。それを発信する」
万桜の決意は固い。それは、未来の悲劇を回避するという、彼らに残された唯一の絶対的な使命感だ。
その時、フェリーの船窓から、金谷港の岸壁が見えてきた。
「お、勇希! あれ見ろ!」
万桜が、子供のように無邪気な声を上げる。
「なに? 漁船でも見えたのか、万桜?」
勇希が目を凝らすと、そこには。
『黄金のアジフライ定食』と、大書きされた、食欲をそそる巨大なのぼりが立っていた。
「アジフライだ! アジフライが俺を呼んでいる!」
「万桜、落ち着け! あそこまで行けば食べられる!」
二人の天才の頭脳は、ミッションの論理を一時停止し、『アジフライ』という究極の非合理的な美味しさに、食いついた。
その光景を、他のメンバーは微笑ましく眺めていたが、あるカップルは違った。
西郷輝人と柳寧々は、船首の陰で、まるで周囲を拒絶するかのように、密着してイチャついていた。彼女の肩に手を回し、寧々もまた、彼に寄り添う。彼らの間には、他者が立ち入れない濃密な空気感が漂っていた。
「…なんかー、イラっとくるっスー。福元先輩」
香織は、指先で西郷輝人と柳寧々の二人を指さし、不満を露わにする。彼女の隣にいる莉那は、静かに頷くだけだ。
「ねえ、佐伯くん!」
香織は、無難な選択として、防大組の佐伯一に声を掛けた。
「は、はい! 杉野さん!」
佐伯は、突然の指名に驚きながらも、すぐに戦闘態勢に入る。
「ウチらも、ちょっとロマンスを演出してみる? 寧々ちゃんと西郷に負けたくないの!」
香織の言葉は、あくまで『対抗心』という非合理な感情が動機であった。
佐伯は、そのギャル特有の論理に苦笑しながらも、真面目に応じる。
「承知いたしました! わ、私でよろしければ、いくらでも協力します!」
香織は、その真面目さに満足し、小さくガッツポーズをした。
「よし。じゃあ、まずはアジフライ食べに行こ!」
ロマンスよりも、食欲という究極の非合理が、香織の行動原理を支配した瞬間であった。
★ ◆ ★ ◆ ★
先を歩く万桜と勇希は、既にアジフライの論理に支配されており、その他のメンバーはその後を緩やかな隊列で進んでいた。
防大組の藤枝誠は、少し遠慮がちに、しかし心地よさそうに、柏葉弥生と肩が触れ合うか触れないかの距離で歩いていた。この絶妙な距離感は、彼らの間に私的な感情のノイズが流れ始めていることを示していた。
藤枝は、照れを隠すように、カモメの鳴き声が聞こえなくなった港の景色に目を向けた、その瞬間。
目に映る光景に、彼は論理を停止させる。
「さ、西園寺? な、なんでここに?」
制服姿ではないものの、その一糸乱れぬ姿勢と、凍えるような冷たさを持つ瞳は、彼がよく知る防衛大学校2回生の西園寺麗菜その人であった。彼女は、夏の強い日差しすらも寄せ付けない、絶対的な白のブラウスを着て、港の入口に仁王立ちしていた。
藤枝は、その予期せぬ遭遇に、思わず背筋を伸ばす。
「オッス、エスレナ、久しぶり!」
莉那は、懐かしさと親愛の情を込めて、カジュアルに挨拶を交わす。
麗菜は、莉那へ向けていた視線を、即座に藤枝へと向けた。
「久しぶりでありますサブリナ! 藤枝、おまえたちの保養地が、あたしの実家であります。サブリナは、あたしの従姉妹であります」
麗菜の言葉に、周囲のメンバーは驚きの声を上げる。まさか社員旅行の地に、莉那の縁者がいるとは誰も予想していなかった。
しかし、麗菜の瞳は、すぐに藤枝の隣にいる弥生との間に流れる『私的なノイズ』を捉えた。彼女は、一切の感情を排したジト目を藤枝に貼り付けて、冷徹に異議を申し立てる。
「近い。で、あります」
麗菜は、そう言い放つと、藤枝の脛めがけて正確に蹴りを振り抜いた。その爪先は、防衛大学校で鍛え抜かれた、寸分の狂いもない一撃であった。
「……っ!」
藤枝は、声無き悲鳴を上げ、痛みに顔を歪ませながら、反射的に弥生から一歩、距離を取った。彼の冷徹な論理は、ドSな暴力という非合理な事象には対応できなかった。
「ドSだねえ。相変わらず」
莉那は、従姉妹の非合理な性格に、呆れたようにツッコミを入れる。
その光景を見ていた弥生の瞳が、ふと、深く妖しく光った。彼女の脳内では、新たな論理の回路が接続された。
「童顔ドM属性!」
弥生が覚醒する。彼女の口から零れた言葉は、藤枝の特性と、麗菜の暴力的な干渉が、完璧に噛み合った論理の定義であった。彼女の心に芽生えた、新たな性癖という非合理なノイズは、今後の藤枝との関係に、決定的な影響を及ぼすであろう。
★ ◆ ★ ◆ ★
金谷港から舘山までは、バスで移動した。万桜はボンヤリと、窓から、この土地の不便を眺めていた。電車が少ない。理由は過疎、と言うよりは乗用車の普及だろう。
「西園寺さん。ここらって車がねえと暮らせない感じか?」
万桜の問い掛けに、麗菜は、
「地方あるあるであります、黒木くん」
肩を竦めて肯定する。
目の前の広い海をインフラに変えれば、交通の便が劇的に改善される。
「リニアじゃなくて、電車くらいなら許容されるよな…」
万桜の頭の中では、海中高速交通構想が練り上がりつつある。
「人が動き、物が動けば、ここは変わる」
窓から見える昭和のホテル群は、かつての繁栄の証であって夏草だ。ツワモノたちの夢のあとばかりである。
観光地のネックは、交通の便の不便だ。交通の便が止まるから色褪せた景色が更新されないで褪せてゆく。
「海の家か…」
夏場限定の休憩所。目に映る景色に構想が広がってゆく。
「クラフトゲーム工法を刷新して…蒟蒻繊維土ブロック生成機をここに特化させて…」
ブツブツと呟き、思考の海に沈む万桜は、
「そう言えば来年ってオリンピックだっけ?」
その言葉に、車内の空気は一瞬にして重くなる。
「その話は負の感情の渦よ、万桜」
舞桜が、鋭い眼差しを向けた。
「ニュースは、連日『猛暑による地獄の祭典』だとか、『予算が青天井』だとか、ネガティブな情報で溢れ返っているわ」
勇希も、官僚予備軍としての視点から付け加える。
「論理的だとか、合理性だとか言っているが、結局は『利権構造』や『税金の無駄遣い』といった、感情的な憎悪を煽る負の感情の渦が、インターネットで拡大している」
万桜は、このオリンピックに対する現在の『集合的な批判意識』が、『来るべき集団ヒステリー』と同じ構造であることを理解した。
「ああ。論理的な批判に見せかけた、『集合的な負の感情のガス抜き』だ。世の中は、常に負の意識を求めている」
万桜は、『集団ヒステリーのメカニズム』を、この負の意識から逆算していた。
「だからこそ、陽気さで世界を黙らせる」
万桜は獰猛な笑みを浮かべ、海中高速交通構想の草案を握りつぶした。今優先すべきは、インフラの改良ではなく、眼前の享楽である。
万桜は、小さく笑った。
「舞桜。海水浴場の件だが、水着はセパレートタイプですか?」
「は? 万桜、なにを言い出すのよ…」
「いや。大事なことです」
万桜の論理は直球だった。
「…そ、そうよ…」
舞桜は、万桜に押し負けた。
★ ◆ ★ ◆ ★
一歩遅れた集団の中で、香織は佐伯と腕を組んで歩いていた。彼女は、ふと西郷と寧々の濃密な空気に触発され、ついノリで佐伯にサービスし過ぎたことにハッとする。
香織の腕に力を込める佐伯は、その顔に軍人らしい精悍さと、一人の男子としての欲望が混在した、複雑な表情を浮かべていた。彼の胸の鼓動は、戦闘訓練時よりも高速に脈打っている。
「ウチ、これ金取っていいと思う」
香織が、半分冗談、半分本気で不穏な言葉を吐くと、佐伯の瞳は一切の迷いなく、その非合理な取引を肯定した。
「ウッス! 払います! 全財産を賭けても、この一瞬のロマンスのプライオリティは最高位です!」
彼の論理は、「ロマンス」という非合理な感情が、軍事訓練で培われた「全力を尽くす」という合理的な行動様式に接続されてしまっているようだった。彼は、ロマンスもミッションとして遂行しようとしていた。
その光景に、倉田琴葉は、冷徹な法と倫理の剣を突きつける。彼女は隣にいる山縣政義の肩に頭を乗せ、まるで自らの行動が最も「合理的」であるかのように振る舞っていた。
「佐伯、未成年者に手を出すのは犯罪だぞ…あと、杉野くん。それ援助交際です…陸将に密告します」
琴葉の声は、絶対的な規律を体現しており、その法的な牽制は強烈だった。しかし、彼女自身が山縣政義にべったりと密着しているという、最も私的で非合理な「ノイズ」を発している。
「ここでパパ出すのズルいと思うよ琴葉ちゃん先輩」
香織は、正論に抗議の声をあげる。彼女の心臓は高鳴り、この非合理なやり取り自体が、一種の興奮剤になっているようだった。
琴葉はもちろん香織の抗議にはとりあわず、逆に山縣政義の首元に、さらに深く顔を埋めた。
山縣政義は、ただ静かに微笑んでいる。彼の存在こそが、琴葉の持つ法的な厳格さを、甘い私的な感情のノイズで無効化する、唯一の「例外の論理」なのかもしれない。
莉那は、この騒動を一歩引いた場所から眺め、その人間的な振る舞いのすべてを、データ解析の対象として捉えていた。
「これが、コミュニティにおける『情報の透明性と不可逆性』では排除できない、究極の非合理ノイズの可視化だよ…」
彼女は、麦わら帽子の下で満足そうに呟いた。そして、その隣で柏葉弥生が、目を細めながら藤枝の反応を観察していた。
(佐伯くんは、究極のドM属性の気がある。藤枝くんとは種類が違う。…なるほど、これはデータの多様性が確保されているってことね)
弥生の脳内では、人間の性癖という、最も非合理な領域が、分類と定義という「論理」によって、次々とシステム化されていくのであった。
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!
皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!
引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!




