ボッチの魔王と不可解な集団
うん。マリー・アントワネットじゃなくて別の人の言葉らしい
社務所での白熱した議論と、奇妙な結託が成立した居間を後に、五人は麓へと続く石段を降り始めた。山の空気は、わずかではあるが、先ほどよりも生ぬるく、そして賑やかな音を帯びていた。鳥の声は遠ざかり、代わりに聞こえてくるのは、ざわめく人々の声や、祭りの屋台から漂う香ばしい匂いだ。石段の苔むした緑は次第に減り、アスファルトの道が見え隠れするようになる。まるで、神聖な領域から、一気に俗世へと引き戻されるかのようだった。
麓に辿り着くと、そこはすでに祭りの熱気に包まれていた。色とりどりの提灯が軒先に揺れ、金魚すくいの水槽が光を反射し、かき氷の冷気が一帯に漂う。子供たちの歓声と、大人たちの談笑が混じり合い、祭りの活気が五感を刺激する。彼らは、喧騒の渦の中にある、番長の本家の門前へと差しかかった。
その門が、ゆっくりと内側から開く。そして、その開いた空間から現れたのは、一際異彩を放つ男たちだった。彼らは、祭りの賑わいとは一線を画す、どこか厳かで、しかし活気に満ちた空気を纏っている。顔つきは精悍で、眼光は鋭い。がっしりとした体躯に、使い込まれた作務衣のような素朴な着こなしが多い。彼らはこの祭りの伝統を支える、歴戦の的屋たちだった。彼らの周囲だけが、まるで時間が凝縮されたかのように、張り詰めた空気を醸し出していた。
彼らは、五人組の姿を認めると、一斉に視線を向けた。その眼差しは、番長の存在を核として、その連れである若者たちを、まるで品定めするかのように、しかしどこか歓迎の色を含んで、捉えていた。
「おお、若。ご到着か」
低い声が、響いた。それは、決して威圧的ではないが、確かな重みと敬意を含んでいた。番長は、腕組みを解き、自然と会釈を返す。彼の顔には、この場の空気に馴染んだ者だけが持つ、僅かな緊張と、相手への親愛が混じり合っていた。
「ああ、親方たち、今年も世話になる」
親方と呼ばれた男の視線が、番長の隣に立つ勇希を捉えた。その強面の表情が、わずかに緩む。
「おや、勇希ちゃんでございますか。ようこそ、いらっしゃいました」
恭しく、そしてどこか慈しむような響きを持つその言葉に、勇希はやや眉を寄せた。彼女の政治家の娘としての「顔」は、この場では完璧に機能するが、特定の呼称にはこだわりがあった。
「勇希ちゃんはやめろ。お嬢でいい。白き姫ねえさまでも可だ」
勇希は、きっぱりとした口調で訂正した。その声音には、無用な親しみを拒み、自身の立ち位置を明確にしようとする、一種のプライドが宿っている。的屋たちも、その言葉に小さく頷いた。彼女の「白い勇者」としての警戒心はわずかに存在するものの、こういう状況における「特別扱い」には慣れているようだった。彼女には、この場所が持つ独特の「場」に対する、確かな免疫がある。
そんな勇希の反応を、舞桜は静かに見つめていた。彼女の完璧な顔に、微かな困惑の表情が浮かぶ。普段の彼女であれば、あらゆる情報を瞬時に分析し、最適な対応を導き出すはずだ。しかし、目の前の「的屋」という存在は、彼女の論理回路にとっては、まさに想定外のイレギュラーだった。
「ヤダ、恐い。目が恐い。声が恐い。ヤダ、恐い。目が恐い。声が恐い。ヤダ、恐い……」
舞桜は、まるで壊れた人形のように、小声で同じ言葉を繰り返していた。その瞳は、的屋たちに向けられたまま微かに震え、完璧な顔には、ごくわずかな、しかし明確な「ポカン」とした表情が浮かんでいる。彼女の脳内では、高速で情報の照合が行われているはずだった。しかし、その結果は常に「エラー」を返す。彼女は、これまでの人生で遭遇したことのない種類の「人間」に直面し、その防御機構が一時的に機能不全に陥っていた。それは、予期せぬソフトウェアのバグに遭遇した精密機械のようだった。彼女の知性は、この「野性」を前にして、文字通り「免疫」がなかった。彼らの強面は、決して威圧するためではなく、彼らの生き様から来る、一種の「場の力」なのだと、彼女はまだ理解できない。
そんな舞桜の隣で、万桜は天真爛漫な笑顔を浮かべていた。彼は、この的屋たちの「濃さ」を、すでに何度も経験している。
「濃いなぁ〜、相変わらず」
万桜は、感心したように呟いた。彼にとっては、この光景もまた、日常の一部であり、新しい「データ」の宝庫なのだ。彼の鋼鉄の好天思考は、どんな状況もポジティブに変換してしまう。的屋の親方らしき男は、万桜の言葉に一瞬目を丸くしたが、すぐにニヤリと口の端を上げた。彼らにとって、万桜のような人間は、ある意味で最も厄介で、そして最も面白い存在なのだろう。彼らの長年の経験をもってしても、万桜という「特異点」は、理解を超えた存在だった。
そんな万桜の背後で、莉奈が舞桜の様子に気づいた。舞桜は、まるで石像のように微動だにせず、ただ的屋たちを見つめている。彼女の顔には、普段の冷静な表情とは異なる、純粋な混乱が浮かんでいた。
「ちょっ、魔王! あんたの彼女が硬直してんじゃんか! ねぇ、舞桜、大丈夫! 的屋の顔が怖くても、あれは演技なんだからさ。ほら、あたしの顔見なよ。あたしは可愛いでしょ?」
莉奈は、全く臆することなく、的屋たちに満面の笑顔を向けつつ、しかし口調は強気でそう言い放った。その声は、祭りの喧騒にも負けないほど大きく、そして明るい。彼女の奔放さは、どんな状況にも自然と適応してしまう。彼女のその存在感は、見る者すべてに強いインパクトを与える。もしこの場に男性の視点があったなら、その屈託のない笑顔と、どこか挑発的な雰囲気に、本能的な魅力を感じたことだろう。彼女の言葉は、まるで周囲の警戒心を溶かす魔法のようだった。的屋の男たちは、莉奈の堂々とした態度に、思わず顔を見合わせた。彼らにとって、ここまで真っ直ぐに、そして屈託なく接してくる女性は、おそらく珍しいのだろう。
莉奈の、顔面への直球な物言いに、的屋の男たちが一瞬、静止した。そして、親方を筆頭に、三人の男が、ほぼ同時に、しかしどこか困惑したような声を上げた。
「「「辛辣?」」」
彼らの言葉には、自分たちの顔が「恐い」と言われたことへの、戸惑いと、わずかな反論が混じり合っていた。彼らは、その顔つきが職業柄、ある種の「迫力」を持つことは自覚しているが、それを「恐い顔」と直球に指摘されるのは、想定外だったのだろう。
番長は、そんな騒がしい友人たちに深くため息をつくと、リーゼント頭を軽く揺らした。
「ったく、おまえら…。特に福元。おまえは直球すぎんだよ。もう少し、オブラートに包んでやれ」
彼は、呆れと親愛を込めた視線を友人たちに向けると、すぐに顔を的屋の親方へと向けた。彼の表情は一転して真剣になり、その目には、この祭りを円滑に進める「若」としての責任感が宿っている。
「親方、少し、尋ねたいことがあるんだが」
番長は、あくまで丁寧な口調で切り出した。的屋の親方は、その言葉に小さく頷く。彼らの間には、長年の付き合いと、互いの立場を理解し合う、一種の阿吽の呼吸が流れている。
「なんだ、若。言ってみな」
親方の言葉に、番長は少し躊躇いを見せた。彼の質問は、この場の雰囲気とはかけ離れた、唐突なものだったからだ。しかし、彼の後ろには、万桜という「魔王」が、そのアイデアの実現を静かに待っている。
「あの…大量の吸水ポリマーの、在庫処分に困っている町工場や、その流通に詳しい者に、心当たりはないだろうか? あと、大量の塩化マグネシウムとか、天然ゴムの廃棄物も探してるんだが」
番長の言葉に、親方は顎を撫で、すぐに合点がいったような顔をした。的屋のネットワークは、祭りの運営だけでなく、そうした裏の「流通」にも精通しているのだ。町工場との連携は、彼らの得意分野の一つだった。
「吸水ポリマー、ねぇ…。塩化マグネシウムに、天然ゴムの廃棄物だと? 一体、何に使うんだ? まさか、あの黒き魔王さまが、また奇妙なもんでも思いついたのか?」
親方は、懐から使い込まれた扇子を取り出すと、それを広げながら、ニヤリと笑った。その目には、すべてを見通すかのような、鋭い光が宿っている。
「氷嚢でも作るんか?」
親方の言葉に、万桜は目を輝かせた。的屋の親方が、自分たちのアイデアの核心の一部を、一瞬で見抜いたことに驚きと興奮を覚えたのだ。彼の好天思考は、新たな協力者の可能性に歓喜している。
「えっ、親方、なんでわかったの? 伊達に長く生きてねえな」
万桜は、尊敬の眼差しで親方を見つめた。その純粋な驚きと褒め言葉に、親方は照れくさそうに頭を掻いた。万桜のこの反応は、彼らの「いじり」のベクトルを完全に狂わせる。
親方を含め、的屋の男たちは、番長の顔をまじまじと見つめる。彼らの間では、番長の老け顔は、昔からの格好のいじりネタだった。
「しかしよ、若。お前さんも、随分と貫禄がついてきたじゃねぇか。パッと見、俺たちとタメか、それより上に見えるぜ」
男の言葉に、周囲の的屋たちも、ドッと笑いを漏らした。彼らの笑い声は、祭り慣れした者特有の、腹の底から響くような、豪快なものだった。番長は、その言葉に、苦虫を噛み潰したような顔をした。彼の老け顔は、昔からのコンプレックスの一つだった。
「うるせえ、オッサン! とっくにタメにしか見えねえくせに!」
番長は、悔しそうに言い返した。しかし、彼の反論は、的屋たちの笑いをさらに大きくする燃料にしかならなかった。彼らは、番長が昔から、その老け顔をいじられてきたことをよく知っているのだ。それは、彼らと番長との間に流れる、古くからの親愛の証でもあった。
そのやり取りを、舞桜は、まるで精密な人間観察でもしているかのように、じっと見つめていた。彼女の脳内では、的屋たちの「強面」に加えて、この「老け顔」という新たなデータが、混乱を極めていた。彼女の論理回路は、番長が「オッサン」と呼んだ相手が年上であるという前提で稼働する。しかし、その「オッサン」たちが、番長を「タメ」と言い放ち、周囲がそれに同調して笑うのは、論理的に破綻している。つまり、番長は「オッサン」たちよりも、さらに見た目が老けている、ということになる。
「(…対象人物、祭谷結。推定年齢19歳。しかし、その外見から推測される年齢は、彼の言動から判断される対象人物たちと近接している……いや、むしろ、彼らが示す年齢よりも、対象人物の方が視覚的に上回っていると、私のデータは示唆している。この情報と、彼らが『タメ』であるという言動は、論理的に矛盾する。これは、どのような『場の論理』によって成立しているのか! 非合理的な現象を前に、私のアルゴリズムが機能不全に陥っている。)」
舞桜の瞳が、僅かに見開かれた。彼女の完璧な顔に、理解しがたい情報に直面した時特有の、ごくわずかな困惑が走る。彼女の頭の中で、論理が矛盾し始めたのだ。番長が「オッサン」と呼んだ的屋たちが、その言葉通り年上であるならば、その的屋が番長を「タメ」と言い放ち、周囲がそれに同調して笑うのは、論理的に破綻している。つまり、番長は「オッサン」たちよりも、さらに見た目が老けている、ということになる。
「…年齢データの整合性が、取れません。この言動は、論理的に矛盾しています」
舞桜の口から、まるで故障したコンピューターがエラーコードを吐き出すかのように、素朴な疑問が漏れ出た。その声には、知的な困惑が純粋に混じり合っていた。
「全部、声に出てるからな茅野さん。ったく、黒幕、この娘、心折りにくる〜」
番長が、深いため息と共に、呆れたように舞桜に言い放った。彼の言葉は、舞桜の完璧な分析が、時に周囲に丸聞こえであることを示している。舞桜は、その指摘にピクリと反応したが、その表情は相変わらず変わらない。彼女の「免疫がない」のは、単なる人柄だけでなく、このような、論理では割り切れない「人間臭さ」全般に対してだった。彼女は、目の前の番長が、見た目とは裏腹に、自分たちと同じ年代だという事実に、ただただデータ的な混乱を覚えているようだった。
的屋たちが、舞桜の素直な「…年齢データの整合性が、取れません」という問いかけに、そして番長の呆れたツッコミに、再び豪快な笑い声を上げた。彼らにとって、それは彼らが「若」をいじる際に起こる、お決まりの反応の一つであり、この場の空気を和ませる、愉快な「儀式」のようなものだった。
そんな喧騒の中、万桜が突如として、その大きな声を張り上げた。彼の顔には、新たな「儲け話」への、純粋な興奮が宿っている。
「聞けぇいオッサンたち! 儲け話だ! この吸水ポリマーってやつを使えば、祭りの客寄せと、的屋の売上も、全部まとめて爆上げできるぜ!」
番長は、その言葉にピクリと反応した。彼の老け顔の件でいじられている最中に、今度は万桜が的屋たちを「オッサンたち」と呼んだことに、納得がいかないようだった。
「おい、いま俺も『たち』に…」
番長の抗議の言葉は、しかし最後まで続かなかった。彼の隣にいた勇希と莉奈が、息を合わせたかのように、その言葉を遮ったからだ。
「「うっさいオッサン」」
勇希の毅然とした声と、莉奈の快活な声が、完璧な唱和となって響き渡る。その言葉は、番長の不満を、文字通り一刀両断に粉砕した。番長は、ぐぬぬと奥歯を噛み締めたが、二人の言葉には、もはや反論の余地がないことを悟った。
そんな番長に、舞桜は先ほどと同じ、淡々とした声で、しかし番長の肩を軽く叩きながら告げた。
「ドンマイ。これも、その…うん。慰める言葉が見当たらない。ごめん。なんかごめん」
その光景に、的屋の男たちは再び豪快な笑い声を上げた。彼らにとって、この若者たちのやり取りは、祭りの賑わいに花を添える、愉快な出し物の一つだった。
万桜は、そんな周囲の反応など気にも留めず、身を乗り出すようにして、親方へと続けた。
「でだ、その儲け話ってのが、祭のことなんだが」
万桜は、言葉を選びながら、しかしその表情には確信を滲ませて、計画の概要を話し始めた。
「山の中腹にさ、古びた寺があるだろ? かつて、この神社と習合してたって話の。あそこを使って、大規模な祭を打つ。ここ数十年で一番でかい、ってくらいにな。ただの祭りじゃねえ。人が集まる仕掛けも、いくつも考えてる」
万桜は、そう言いながら、的屋たちの顔を一人ひとり見回した。彼の言葉は、的屋たちの脳内で、即座に具体的な利益へと変換されていく。山の中腹で行う大規模な祭り。それは、例年とは比較にならないほどの人の流れと、莫大な消費を生み出すことを意味する。彼らは、この祭りの裏に、黒木万桜という「魔王」が仕切る、強烈な磁場のような商機が潜んでいることを、瞬時に察知した。彼らの顔は、もはや「強面」というよりは、狡猾な商人のそれに近い、ギラついた光を宿していた。
「ほう…」
親方は、興味深げに頷いた。彼の目は、万桜の言葉の奥にある、計り知れない可能性を探っている。
「で、そのかつての寺だが、今はどうなっている? 使える場所なのか? 周囲の状況は? 何か、知っていることがあれば教えてほしい」
万桜は、核心を突く質問を投げかけた。祭りの成功には、その場所の情報が不可欠だと考えているのだ。的屋たちは、互いに顔を見合わせた。彼らは、この地域の表も裏も知り尽くしている。もちろん、古くからある寺のことも、熟知していた。
「ああ、あの寺か。そりゃあ、詳しいさ」
親方の口元に、自信に満ちた笑みが浮かんだ。彼の言葉には、この「儲け話」に、自分たちも深く関われるという確かな予感と、そしてそれが「黒き魔王」の仕業であるがゆえの、大きな利益への確信が込められていた。親方は続ける。
「たしかに、昔ほど参拝客は多くねえが、墓があるからな。墓参りする者がいる限り、あそこが廃れることはねえんだよ。住職もちゃんといるし、手入れも行き届いてる。むしろ、静かで広いから、そういう祭りにはもってこいかもしれねえな」
的屋たちの間で、具体的な計画の匂いを嗅ぎ取ったかのように、ざわめきが広がった。彼らの目には、既に新しい商売のビジョンが映っているようだった。
「知り合いだってんなら口をきいてくれオッサンズ。神仏再習合のスーパー盆踊りを開祭する!」
その万桜のあまりにも突飛な発言に、その場にいた「オッサンズ」——熟練の的屋たちと、そして番長は、まるで時間が止まったかのように、全員がキョトンとした表情で固まった。彼らの目は、まるで目の前に宇宙人が現れたかのように、信じられないものを見るかのように大きく見開かれている。親方の口は半開きになり、その手に持った扇子さえ、開きかけのまま微動だにしなかった。番長に至っては、口元がピクピクと引き攣り、そのリーゼントがわずかに揺れている。彼らの脳内では、万桜の言葉が、ただの雑音として処理されているか、あるいは、理解不能な言語として認識されているかのようだった。
沈黙を破ったのは、的屋の若衆の一人だった。彼は、長年の経験からくる実務的な視点で、即座に最も大きな問題を指摘した。
「いや、あそこ車入れねえぜ?」
山の中腹にある、墓地を抱える古びた寺。そこへ大規模な祭りの資材や機材を運び込むとなれば、車両の乗り入れは必須だ。しかし、道の狭さや地形を考えれば、それは不可能に近かった。
しかし、万桜は、そんな現実的な反論など、全く意に介さなかった。彼の好天思考は、常に常識の遥か上空を飛んでいる。
「車が駄目なら、舟で曳けばいいじゃない?」
万桜は、涼しい顔で、まるでそれが当然の解決策であるかのように言い放った。その発言は、かの女王の言葉を彷彿とさせる、あまりにも現実離れした、突拍子もないものだった。
万桜の言葉を聞いた的屋の男たちは、再び、そして今度は深い納得と呆れが混じり合った唱和を響かせた。彼らは、万桜がもはや「人間」の枠には収まらない、一種の異次元の存在であることを確信したようだった。
「「「魔王アントワネット?」」」
その奇妙な二つ名が、彼らの間で瞬時に共有された。彼らは、万桜の常識外れの思考回路に、もはや笑うしかないといった表情を浮かべている。番長もまた、その「魔王アントワネット」という呼称に、ぐっと言葉を詰まらせた。
万桜は、そんな彼らの反応など気にする素振りも見せず、まるで軍を率いる将軍のように、次々と指示を飛ばし始めた。彼は、的屋たちの中の比較的若い若衆の一人に、ピシャリと指を向けた。彼の見た目は強面だが、実態は町の伝統を支える兼業農家だ。
「おい、そこの反社。そうおまえだ。おまえヒップホップを仕込めジジババに」
万桜の言葉に、指名された若衆は目を丸くした。反社という言葉は、もちろん万桜が彼の見た目からくるイメージを皮肉った、一種の冗談じみた呼称だが、その内容たるや、あまりにも破天荒だった。伝統的な盆踊りにヒップホップを融合させろというのだ。若衆は、戸惑いを隠せない表情で、親方を見上げた。
万桜は、さらに指示を続けた。彼の視線は、今度は的屋の中でも古参の、貫禄のある者たちへと向けられた。まるで、彼らをその筋の「ドン」とでも呼ぶかのように。
「おいそこの強面の顔役たち。近所の小中学校で伝統舞踊を仕込め」
万桜は、彼らの返事を待つこともなく、次から次へと指示を繰り出す。彼の頭の中では、すでに「神仏再習合のスーパー盆踊り」の全体像が、荒唐無稽ながらも確固たるビジョンとして完成しているようだった。的屋の男たちは、その突拍子もない指示の数々に、ただただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
そして、万桜の指示は、的屋たちだけに留まらなかった。彼の目が、隣に立つ勇希を捉える。
「勇希! オッサンズが投票してやるから手伝えって、おまえの父ちゃんに伝えてくれ。町を巻き込むぞ!」
勇希は、万桜の言葉に、思わず目を大きく見開いた。自分の父親である政治家を、的屋たちの票と引き換えに巻き込もうとする、そのあまりにも強引かつ無節操な発想に、彼女は戦慄を覚えた。しかし、万桜の目は、既にその先を見据えている。彼は、この祭りを通して、町全体を巻き込む壮大な計画を描いていた。
万桜は、さらにその場にいる全員へと視線を向けた。彼の指示は、もはや具体的というよりは、抽象的で、そして詩的とすら言えるほどだった。
「ボッチにサブリナ。大学行くぞ、川に山登らせんぞ」
彼の言葉は、舞桜と莉奈、そして彼らを取り巻くすべての人々へと向けられていた。万桜は、この祭りを通じて、大学という学術機関すらも巻き込み、さらには、物理法則さえも無視するかのような、途方もない奇跡を起こす気満々だった。その場にいた誰もが、彼の途方もない発想に、ただただ圧倒されるばかりだった。
「番長! 適正価格と衛生の徹底! 食中毒ダメ絶対! 美味いものは正義! だかんな!」
万桜の指示は、最後に番長へと飛んだ。彼の言葉には、祭りの実務的な成功と、提供されるものの品質への、万桜なりのこだわりが込められていた。番長は、その言葉に、呆れと、しかしどこか誇らしげな表情で頷いた。
万桜の言葉が終わると同時に、勇希は、まるで緊急事態が発生したかのように、腰に携えられた専用の小型端末を取り出した。それは、市販されているスマートフォンとは一線を画す、堅牢かつ洗練されたデザインの業務用デバイスだ。画面には、複数の通信履歴と、緊急を知らせる赤い文字が点滅していた。この「世界に繋がらない、あたしらだけの電話」が、今、最大の危機を告げていた。
「(父さん、善さん、番長、莉奈、拓矢。緊急連絡。万桜が、どうやら本気で『魔王』のスイッチを入れた模様。最大限の警戒と、可能な限りの協力体制を構築されたし。繰り返す。魔王が、本格稼働を開始した)」
勇希のメッセージは、簡潔ながらも、その緊急性を十分に伝えるものだった。彼女の言葉遣いは、普段の冷静な口調を保ちつつも、その内容は、事態の異常さを明確に示している。彼女は、この状況を、単なる突飛な思いつきではなく、町全体を巻き込む、文字通り「魔王」の所業として捉えているのだ。
勇希のメッセージを受け取った関係者たちは、それぞれ異なる反応を示しただろう。彼女の父親である泰造は、娘のただならぬ様子に、事態の深刻さを悟り、すぐに情報収集と対策に乗り出すだろう。善さんは、いつもの飄々とした態度を崩さずとも、その瞳の奥には、わずかな警戒の光を宿すかもしれない。番長は、万桜の突拍子もない計画に、呆れながらも、その実現のために奔走するだろう。そして、莉奈は、この状況を、新たな「面白いこと」の始まりだと捉え、積極的に協力するだろう。
勇希の行動は、万桜の計画が、単なる思いつきではなく、現実のものとなる可能性を示唆していた。彼女の緊急連絡は、関係者たちに、この祭りが、単なる地域イベントの枠を超え、町全体を揺るがす一大事件となることを予感させた。そして、その中心にいるのは、紛れもなく、黒木万桜という、常識を超越した「魔王」だった。