黒き魔王と登る川
うん。ビアンカを選ぶのは執着か?
居間には、再び女子三人と黒木万桜が残された。番長が場を離れたことで、再び空気は微かな緊張感を帯びる。それは、まるで嵐の前の静けさのようであった。万桜は、自身のアイデアについてなにかを考え込んでいる様子で、再び上の空になっている。その表情は、遠い宇宙の彼方を見つめる哲学者のようだ。茅野舞桜は、そんな万桜を静かに見つめ、その隣で白井勇希と福元莉那が、互いに視線を交わし合っていた。その視線には、言語化されない様々な感情が込められていた。
その時、厨房から調理の活気ある音が聞こえ始めた。ジュージューと油が跳ねる音、香ばしいソースの匂い、そして肉が焼ける匂いが混じり合い、居間に漂ってくる。期待と、それに混じるかすかな不安が、三人の女性の間に漂う。
やがて、厨房の奥から、番長が姿を現した。彼の手に持たれた大きな大きな皿には、湯気を立てる何かが乗っている。その顔には、自信と、そして新しい獲物を披露する喜びが満ちていた。しかし、彼の視線は一瞬、居間の隅に座る舞桜を捉え、ふと、立ち止まった。彼はまだ、彼女のことを詳しく知らない。
「お、おい、そちらの……えっと、茅野さん、だったか?」
番長は、ぎこちないながらも、舞桜の方に顔を向けた。その強面には、珍しく戸惑いの色が浮かんでいる。普段の豪胆な彼からは想像もつかない、どこか初々しい表情だ。
「苦手な食べ物、あるか? 俺の自信作なんだが、人によっては、ちと強烈かもしれねぇからな。無理に食うこたぁねぇ。遠慮なく言ってくれ」
番長の言葉には、彼の料理が持つ「味の暴力」への自覚と、同時に客人を気遣う、不器用な優しさが滲んでいた。彼の視線は、舞桜の完璧な表情を読み取ろうと、わずかに揺れていた。
舞桜は、番長の問いかけに、静かに視線を合わせた。その瞳の奥には、番長の意外な気遣いに対する、ごくわずかな、しかし明確な興味の光が宿る。彼女の表情筋は、相変わらずほとんど動かない。しかし、その声は淀みなく、ほんの少しだけ、いつもより好奇心の色を帯びていた。
「いいえ。特に苦手なものはありません。どのようなものでも、美味しくいただきます」
舞桜の返答は、彼女らしい理路整然としたものだった。余計な情報は含まず、しかし、彼女の知的な好奇心と、未知の味覚体験へのわずかな期待が込められているようにも聞こえた。
番長は、その舞桜の言葉に、一瞬呆けたような顔をした後、破顔した。
「ハハッ、そいつは気が利くぜ、茅野さん! 気に入ると良いんだがな!」
番長はそう言うと、厨房に向かった。ジュージューというけたたましい音と、ゴォォという強い火の音が響き渡り始めた。先ほどまで居間に漂っていた香りが、さらに濃厚に、そして攻撃的になっていく。その音と香りは、まるで彼らが目撃したばかりの「味の暴力」の予告編のようだった。
「…な、なんだ、あの音…?」
莉那が、思わずごくりと唾を飲み込んだ。彼女の瞳は、好奇心と食欲で輝いている。勇希もまた、その香りに抗うことができず、鼻腔をくすぐられる。万桜は、もはや思考の海に沈んでいるのか、恍惚とした表情で虚空を見つめている。
「あの音と香りから察するに、相当なカロリーと旨味の暴力が、これから我々を襲うでしょう」
舞桜が、普段の冷静な分析口調でそう言ったが、その瞳の奥には、わずかながら、未知の味覚体験への期待の色が宿っているように見えた。
耐えきれなくなったのは、莉那だった。彼女は椅子を蹴るように立ち上がると、厨房の方向へと歩き出す。
「ちょっと! これ、見に行かなきゃ損でしょ!?」
その言葉に、勇希も続く。
「う、うるさいわね、サブリナ! しかし、確かに、あれほどの音がするとなれば、ただ事ではない…!」
勇希は、食欲という本能に抗いつつも、興味に抗えず、莉那の背中を追う。万桜は、未だ虚空を見つめたままだったが、莉那が「なんだ、あの音?」と言った瞬間、まるで何かを察したかのように、ふと顔を上げた。
「ん? あ、やべ、飯だ飯だ!」
彼の脳内では、未完成の「ロープウェイで曳き舟」のビジョンと、目の前の「味の暴力」が、奇妙な形で結びつき始めていた。彼は、子供のように無邪気な笑顔を浮かべると、よろよろと立ち上がり、3人の後を追って厨房へと向かった。
番長の家の厨房は、社務所の簡素な外見からは想像もつかないほど、プロ仕様の設備が整っていた。中央には、業務用のガスコンロが3口並び、その奥には、ピカピカに磨き上げられた巨大な鉄板が鎮座している。その鉄板からは、熱い湯気が立ち上り、まさに調理の舞台といった様相だ。様々な種類の鍋やフライパンが壁に吊るされ、使い込まれた包丁が綺麗に並べられている。そして、厨房の隅には、どっしりとした石窯が鎮座し、その奥からは熾火の赤い光が漏れていた。
4人が厨房の入口に立つと、番長が鉄板の前で一心不乱に調理している姿が目に入った。
彼は、大きなヘラを両手に持ち、焼きラーメンを熟練の動きで鉄板の上で炒め、焼き上げている。ジュワァァア!という脂の焼ける音、シャカシャカとヘラが鉄板を擦る音、そして香ばしいガーリックの香りが、四人の鼻腔を容赦なく襲う。彼の額には、汗が光っていたが、その表情は真剣そのもの。まるで武道家が型を演じるかのように、無駄のない動きで麺をほぐし、肉と野菜を混ぜ合わせ、ソースを絡めていく。彼の腕の筋肉は隆起し、その手さばきは芸術的ですらあった。
そして、その傍らでは、番長が米粉生地を手に取り、軽やかな身のこなしで宙に放り投げた。生地は、まるで生き物のように番長の指先でくるくると回り、見る見るうちに薄く、そして均一に広がっていく。その流れるような動きは、まるで熟練のイタリア人職人のようだ。伸ばされた生地に、番長は手早くトッピングのチーズを散らしている。そして、その生地を勢いよく熱い石窯へと投入した。
石窯の炎は、あっという間にピッツァを焼き上げる。数分も経たないうちに、香ばしい焼き色がつき、チーズがとろけて生地の端がふっくらと膨らむ。番長は、焼き上がったアツアツのピッツァを専用のピールで取り出すと、手早く人数分に切り分けた。
その後、切り分けられたピッツァ一切れ一切れの上に、鉄板で炒められたばかりの熱々の焼きラーメンが惜しげもなく乗せられ、さらにその上には、とろりとした半熟玉子の目玉焼きが慎重にトッピングされていく。最後に、鮮やかな緑のバジルが散らされると、番長の「味の暴力」は、ついにその完成形を現した。
それは、ただのB級グルメではなく、番長の料理への情熱と「構造解析的思考」が凝縮された、視覚的にも、嗅覚的にも、そして聴覚的にも、あらゆる感覚に訴えかける、圧巻の調理ショーだった。
番長は、焼き上がったばかりの「焼きラーメン、オンザピッツァ」を人数分の皿に盛り付けると、それを座卓へと運んだ。湯気を立てる皿からは、背脂とラードの濃厚な香りが立ち上り、ガーリックの香ばしさと溶けたチーズの甘い香りが、四人の食欲を極限まで刺激する。
「さあ、食え! これが俺の自信作、『御井神神社、味の暴力! 焼きラーメン、オンザピッツァ』だ!」
番長が自信満々にそう告げると、莉那と勇希は、待ってましたとばかりに箸を手に取った。万桜は、まだどこか上の空だが、目の前の料理の魅力に抗えず、無意識のうちに手を伸ばしている。
そして、舞桜が、一切れの「焼きラーメン、オンザピッツァ」を手に取った。彼女の完璧な顔は、いつも通り感情の動きをほとんど見せない。しかし、その瞳だけは、目の前の未知なる物体を分析するように、じっと見つめていた。
舞桜は、ゆっくりとそれを口へと運んだ。一口。
その瞬間、彼女の瞳が、わずかに、しかし確かに見開かれた。咀嚼するたびに、豚骨の濃厚な旨味が、香ばしい焼きラーメンと、モチモチとした米粉ピッツァ生地、そしてとろけるチーズと渾然一体となり、口の中で爆発する。ラードと背脂の甘く芳醇な脂が舌を覆い、ガーリックの香りが脳髄を脳髄を直接揺さぶる。半熟の黄身が全てをまろやかに包み込み、最後にバジルの爽やかさが駆け抜ける。
それは、彼女のこれまでの人生において、経験したことのない「情報」の奔流だった。理屈を超えた「快楽」が、彼女の冷静な思考回路をショートさせる。
舞桜は、次の瞬間、箸をゆっくりと置き、番長へと向き直った。その完璧な顔には、感情がほとんど浮かんでいないはずなのに、そこに浮かんだ微かな、しかし決定的な光は、莉那や勇希、そして万桜でさえ、息を飲むほどだった。
彼女の口から紡ぎ出された言葉は、社務所の空気を凍りつかせるには十分すぎるほど、静かで、そして重かった。
「結婚してください」
莉奈の呟きに、
「拓矢一筋どこ行った?」
「斧乃木に殺されるわ」
ツッコむ万桜。慄く番長。
「この我のものとなれ! 僧侶よ!」
求める勇希に、
「神主なー? どーした白井ー? 東京暮らしで忘れたかー?」
ツッコむ番長。
「まさかの魔王遷移?」
呆れる万桜。
「名前を変えなさい。祭谷結。茅野結に…」
社務所の空気が、完全に静まり返った。莉那は目を丸くし、勇希は口をあんぐりと開けている。万桜は、口を開けたまま固まっている。誰もが、目の前で起こったまさかの展開に、思考が追いつかないでいた。
しかし、そんな凍り付いた空気の中、番長だけは、普段と変わらない豪快な、しかしどこか呆れたような笑顔を浮かべていた。彼は、リーゼントの頭を軽く掻くと、アッサリとした口調で、衝撃の一言を返した。
「あ、自分、婚約者いますんで」
番長の言葉は、舞桜のプロポーズを、まるで打ち消し線のようになぞって消し去った。莉那と勇希は、ガックリと肩を落とし、万桜は「そ、そっかー!」と間の抜けた声を上げた。舞桜の完璧な顔に、初めて、ごくわずかな、しかし明確な「ポカン」とした表情が浮かんだ。
「おまえら、胃袋掴まれすぎー。美味いけど…」
万桜は、そう言いながら、呆然としている三人に向かって軽口を叩いた。彼の目の前には、まだ湯気を立てる「焼きラーメン、オンザピッツァ」が置かれている。莉那と勇希は、呆然とした表情のまま、それぞれの一切れを無言で口へと運び、その「味の暴力」に再び支配されつつあった。舞桜もまた、その完璧な分析脳が、この未知の美食の構造を解明しようと、再び真剣な眼差しで咀嚼を繰り返している。
万桜もまた、一切れの「焼きラーメン、オンザピッツァ」を手に取った。彼の表情には、いつもの飄々とした笑みの中に、生産者としての探求心と、目の前の料理への純粋な興味が宿っている。大きく一口頬張ると、豚骨の濃厚な旨味とガーリックの香りが彼の口腔を支配し、モチモチとした麺と米粉ピッツァ生地の食感が、彼を至福の渦へと誘った。彼はその「味の暴力」を、一滴残らず味わい尽くすかのように、夢中になって食べ進めた。
そして、最後の一口を飲み込み、大きく息を吐いた時だった。
彼は満足げに口元を拭うと、皿に残った香ばしい油の膜と、ラーメンの麺の残りを見ていた。豚骨スープの旨味を吸い込み、ラードと背脂で光を放つその一本一本の麺が、まるで生き物のように絡み合い、しかしそれぞれが独立している。油分をまとった麺の表面は、なめらかに輝いている。
その時だった。
彼の脳裏に、何かが見えた。麺のしなやかな形状、互いに絡み合いながらもスムーズに動く様子、そして油分による独特の滑らかさ。それらが、彼の未完成なアイデアと、突如として強烈な形で結びついた。
万桜の表情が、一瞬にして、いつもの能天気なものから、鋭いひらめきに満ちたものへと変わる。彼の目が、焼きラーメンの麺に釘付けになったまま、ピクリと反応した。
「番長!」
万桜は、食後の満足感に浸りながらも、その声は、社務所に響き渡る番長の調理音にも負けない、確信に満ちたものだった。
「ブラシあるか?」
彼は、番長の「味の暴力」を体現する料理を余すところなく堪能した後、次の遊び道具を求める子供のように、真剣な眼差しで番長に頼み込んだ。番長は、突然の問いかけに、調理の手を止め、怪訝な顔で万桜を振り返った。
★★★★★★★
番長から差し出されたのは、使い古された、しかし毛並みの良いブラシだった。番長は相変わらず怪訝な顔をしているが、万桜の目が真剣であることは理解しているようだった。万桜は、そのブラシを受け取ると、まるで宝物でも見つけたかのように、目を輝かせた。
「なあ、番長。このブラシ、貸してくれ! ちょっと、いいこと思いついちゃってさ!」
番長は腕組みをしたまま、そのリーゼント頭を軽く傾げた。
「ブラシ? なんに使うんだよ、黒幕。あんま変なことすんなよ?」
万桜は番長の言葉に答えず、ニヤリと笑った。彼の思考は、既に目の前の「現実」をはるかに飛び越え、脳内の広大な仮想空間で、新たな実験に取り掛かっているかのようだった。
「いいから見てろって! これはな、究極の摩擦低減システムなんだよ!」
万桜は、そう言い放つと、社務所の床に水を少し撒き、その上にブラシを斜めに立てて滑らせ始めた。その動きはぎこちなく、ブラシは水の上で不規則に滑っては止まる。
その様子を、舞桜が静かに見つめていた。彼女の瞳は、万桜の行動をデータとして分析するように鋭く光る。勇希もまた、万桜の突拍子もない行動に眉をひそめつつも、その行方を見守っている。
「これさ、水嚢の形を指の太さほどの形にして、中にブラシのような芯を入れて、坂の上を向かせるイメージなんだよ。言ってみれば、水流が慣性の法則を無視するようにさ。水嚢をブラシのように川底に埋めれば、この技術、実用に足ると思わないか?」
万桜は、子供が遊びに夢中になるかのように、目を輝かせて二人に問いかけた。彼の言葉には、彼の頭の中で繰り広げられている壮大なビジョンが、ありありと見えているかのようだった。
舞桜が、一歩前に踏み出た。その動きは淀みなく、寸分の迷いもなく、まるで計算され尽くしたかのような正確さで、万桜の隣に立つ。彼女の顔には相変わらず感情の機微は読み取れないが、そのやや高音で冷たい声には、微かな、しかし明確な「知的好奇心」の響きが混じっていた。
「黒木。あなたの発想は、やはり興味をそそりますね。水嚢を指ほどの太さにし、ブラシ状の芯を入れて坂を上向きに配置する。それを川底に埋め込む…これは、水の粘性抵抗を利用した、一方向性移動の可能性を探るもの、と見えます」
舞桜の言葉は、万桜の直感的なひらめきを、的確に物理学の領域へと引き上げた。彼女の思考は、既にそのアイデアの応用可能性と課題を分析し始めているかのようだった。
「慣性の法則を無視する、とは極端な言い回しですが、このアイデアには複数の物理原理が働くでしょう。水嚢は地面との直接摩擦を軽減し、ブラシ状の芯は進行方向の抵抗を減らし、逆方向には力を生む可能性がある。魚の鱗のような、一方向の構造を思わせますね」
舞桜は、まるで教授が講義をするかのように、淀みなく語った。彼女の瞳の奥には、新たな「データ」を得る喜びが宿っている。
「加えて、水流や水嚢内部の水の動きが、ブラシ状の芯と相互作用し、物体を坂で上らせる推進力、あるいは下らせる抵抗力を生む可能性もあります。川底に埋めるならば、水流そのものよりは、水嚢と芯が移動のための『経路』として機能する、ということになりますね」
勇希は、二人の言葉に、思わず感心したような顔で頷いた。しかし、彼女の「白い勇者」としての理性は、現実的な課題を見据えていた。
「万桜。その発想は、確かに奇抜だ。しかし、そのような技術が真に実用に足るのか? その根底には、克服すべき現実的な課題が山積しているはずだ!」
勇希は、すかさずオスカル的な口調で現実的な課題を提示する。彼女の視線は、既にそのアイデアの実現可能性にまで及んでいた。
「例えば、エネルギー効率の問題だ! 慣性の法則に逆らうならば、その上向きの力をどこから得るのか? 水流のみで坂を上る推進力を確保するなど、容易なことではないだろう!」
そして、彼女はさらに続けた。
「そして、構造の耐久性だ! 指ほどの水嚢が、どれほどの重量に耐え、長期間機能し続けるのか? 川底のような過酷な環境で、その維持は困難を極めるだろう! メンテナンスの手間とコストも、決して無視できるものではない!」
万桜は、二人の言葉に、うんうんと頷きながらも、その表情は全く曇っていない。むしろ、新たな課題が提示されたことに、喜びを感じているかのようだった。
「そうなんだよな! でもさ、このアイデア、吸水ポリマーで水嚢を加工するんだよ。ブラシのように無数に埋められた水嚢が、浮力の代わりを担うイメージなんだ! まるで、坂を逆上る川に見立てるんだよ。そこに舟を浮かべて曳けば、少ない力で坂での輸送が可能になるはずだ!」
万桜の言葉は、まるで熱を持った岩が、新たな鉱脈を掘り当てるかのように、次々と新たな要素を付け加えていく。
舞桜の瞳が、再び僅かに見開かれた。万桜の言葉が、彼女の知的な好奇心をさらに刺激する。
「なるほど、黒木。吸水ポリマーを応用した水嚢と、『逆上る川』という比喩。構想は、より具体性を示しましたね。吸水ポリマー加工の水嚢を『ブラシのように無数に埋め込む』。この点こそが、本アイデアの核心となるでしょう」
舞桜は、万桜の言葉を反芻するように繰り返した。
「物理的に解釈するならば、吸水ポリマー水嚢は水を吸収し、膨張することで、舟底と坂道の直接摩擦を極力排除する『低摩擦表面』を形成します。また、無数の水嚢が舟の重量を分散させ、部分的な浮力補助をもたらすでしょう」
舞桜の分析は続く。その声は、万桜の熱量を、さらに精密な理論で裏付けていくかのようだ。
「その機能は、湿地を渡るかんじきや、エアホッケー盤の原理にも通じます。微細な水分の層が、あたかも上向きの流れを錯覚させ、抵抗の少ない移動を可能にする、という比喩も理解できます」
勇希は、二人のやり取りを黙って聞いていたが、ここである重要な要素に気づいた。
「待て、万桜。このアイデア、舟の水への接地面に、何か工夫は考えているのか? 水嚢の滑らかさだけでは、まだ摩擦が残るのではないか?」
勇希の問いは、万桜のアイデアをさらに完璧に近づけるための、建設的な疑問だった。
「おお、勇希! さすがだな! その通りだよ! 舟の接地面には、ローラーを配置するんだ! そうすることで、摩擦係数を極限まで削ぐことができる!」
万桜は、勇希の言葉に、嬉しそうに頷いた。まるで自分の思考を正確に読み取ってくれたかのように。
舞桜の瞳が、再び僅かに見開かれた。
「なるほど。舟の接地面へのローラー配置。これもまた、摩擦係数を極限まで排除するための、極めて有効なアプローチと評価できます」
舞桜の言葉は、万桜のアイデアが、さらに確固たるものになったことを示していた。
「前述の吸水ポリマー水嚢による低摩擦路面と組み合わせることで、まさに『水嚢で構成された低摩擦の地面』上を、『ローラー付きの舟』が滑らかに進む革新的なシステムが構築されるでしょう。物理原理としては、水嚢が舟の重量を支え、ローラーがその衝撃を緩和しつつ均一な接地圧を保つ。これにより、滑り摩擦が転がり摩擦に変換され、曳引に必要な力が格段に減少します」
舞桜は、腕組みをしながら、万桜のアイデアをさらに理論的に補強していく。
「この組み合わせは、理論上、極めて抵抗の少ない移動を可能とします。あたかも、ローラー敷きのベルトコンベア上を、さらにローラーを持つ物体が滑るようなイメージです。摩擦係数の削減において、このローラーのアイデアは強力な効果をもたらすでしょう」
万桜は、舞桜の解説に、満足げな笑顔を浮かべた。
「だろ? このアイデアなら、水の反発から生まれる浮力に極力近いんだ。無数の水嚢が舟を浮かべるイメージなんだよ!」
万桜の言葉は、彼の脳内に広がる壮大なビジョンを、より具体的に示していた。舞桜は、その言葉に静かに頷き、その瞳の奥には、深遠な知的な光が宿っていた。勇希もまた、その革新的なアイデアに、ただただ感嘆するばかりだった。
★★★★★★
万桜は、満足げにブラシを置くと、まだ怪訝な顔をしている番長の方を向いた。
「どうだ、番長! すげぇアイデアだろ?」
番長は、腕組みをしたまま、眉間のシワを深くする。彼の強面には、理解と困惑が複雑に混じり合っていた。
「で、結局、なんの話だ? そのブラシがどうしたって?」
万桜は、番長の鈍さに苦笑いを浮かべた。目の前に広がる壮大なビジョンを、どうすればこの男に、一瞬で理解させられるか。彼は、先ほど食べたばかりの、番長の「味の暴力」を思い出した。
「勿体ねえからやらねえけど、さっきの焼きラーメンが、ブラシの一本一本に刺さって、坂のてっぺん向いてる感じ!」
万桜は、そう言って、番長に最も分かりやすいであろう「食べ物」に例えて説明した。その言葉を聞いた番長の顔に、ゆっくりと、しかし確実に「ああ、なるほど」という納得の色が浮かんでいくのが見えた。彼の脳裏には、香ばしい焼きラーメンの麺が、ブラシの毛一本一本に刺さり、坂を滑らかに昇っていく、奇妙で、しかし鮮明な光景が広がったかのようだった。
★★★★★★
「茅野。話がある」
勇希は、ややぶっきらぼうな口調で舞桜に切り出した。その視線は、羞恥を押し殺し、明確な目的を宿していた。
「さん。くらい付けられないの卵丼」
舞桜は、感情の読めない表情のまま、彼女らしい簡潔さで返した。その言葉には、勇希が先ほど自ら語った「プリン体の殿堂」の記憶が、鮮やかに呼び起こされたかのようだった。
「せ、せめて名前で呼んでよぉ〜」
勇希は、たまらず涙目になった。先ほどの羞恥が再燃し、彼女の自尊心は再び地面を這う。この女性は、どうしてこうも無慈悲に、そして的確に、人の心の琴線に触れてくるのか。
莉那は、そんな二人のやり取りを、頬杖をついて楽しそうに見守っていた。彼女の瞳の奥には、友人の困惑と、それに拍車をかける舞桜のストレートな言動への、純粋な好奇心が混じり合っていた。
「特許は取る。法人名義で」
勇希の苦言を、舞桜は意に介さず、淡々と本題に入った。彼女の思考は、既に感情的なやり取りの先、具体的な実務へと移行しているかのようだった。その声は、まるで精密なコンピューターが演算結果を告げるかのように淀みない。
勇希は、その言葉に思わず息を呑んだ。この完璧な女性は、自分と同様に、万桜のアイデアの持つ価値を瞬時に見抜き、既にその実用化と権利化のステップまで見据えているのだと。そして、それが「法人名義」であるという点に、彼女の冷静なビジネスセンスが垣間見えた。
「ああ、東京で必要な手続きはあたしがやる」
勇希は、一瞬の躊躇もなく、即座に返答した。彼女のプライドと、「白い勇者」としての使命感が、この提案に呼応した。自分の手の届かない部分を補い、万桜の「暴走」から生まれる産物を、きちんと形にする。それが、彼女に与えられた役割だと直感したのだ。
そう言って、勇希はスマートデバイスを取り出して、舞桜に差し出した。その手つきは、まるで機密文書を手渡すスパイのようであった。
「スマホ? 持ってるわ」
舞桜は、差し出されたデバイスを一瞥し、冷静に答えた。彼女の反応は、勇希の思惑とは異なる、どこか拍子抜けするほど淡々としたものだった。
「世界に繋がらない、あたしらだけの電話だ。魔王さまのお手製だ。要らないならいい」
勇希は、やや語気を強めて説明した。その言葉には、デバイスの特殊性と、万桜という「魔王さま」の存在が、秘密裏に共有される情報であるというニュアンスが込められていた。
舞桜の完璧な顔に、微かな、しかし明確な「興味」の光が宿った。彼女の知的な好奇心が、未知の技術、そして「世界に繋がらない」という、通常とは異なるその機能に反応したのだ。彼女の目は、そのデバイスの内部構造を解析しようとするかのように、細められた。
「要らないなんて言ってないでしょ?」
舞桜は、ごくわずかに口角を上げ、そう答えた。その声には、冷徹な分析と、未知への探究心が混じり合っていた。
手を伸ばす舞桜から、勇希は端末を遠ざけた。その動きは、まるで訓練された獣使いが、獲物を前にした猛獣の反応を試すかのようであった。
「あたしの名は?」
勇希は、意地悪く問い詰めた。この完璧な女性が、自分の名前をどう呼ぶのか。そして、自分の領域にどこまで踏み込んでくるのか。彼女は、この駆け引きを通じて、舞桜の真の意図を探ろうとしていた。
舞桜は、ぐぬに〜、とわずかに眉をひそめた。彼女の思考回路が、瞬時に適切な返答を探る。感情的な揺さぶりは、彼女にとって不必要なノイズに過ぎない。
「白井」
彼女は、正確な姓を口にした。
「さんは?」
勇希は、さらに畳みかける。その問いには、彼女の頑ななプライドと、舞桜を「教育」しようとする意図が透けて見えた。
また、ぐぬぬぬ、と舞桜は困ったように唇を引き結んだ。彼女の脳内では、最適な回答を導き出すための計算が高速で繰り広げられている。
「し、卵丼さん」
舞桜の口から、やや不本意そうに、しかし「正解」を導き出したかのように、その言葉が絞り出された。その響きは、普段の彼女からは想像もつかない、どこか可愛らしい音を伴っていた。
「そっか~。要らないか〜」
勇希は、わざとらしくそう言って、再び端末を遠ざけた。彼女の顔には、勝利を確信したかのような、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「白井さ〜ん。これでいい?」
舞桜は、ため息を一つ吐くと、観念したように、しかし明確な発音でそう言った。その声には、普段の冷静さとは異なる、わずかな疲労の色が滲んでいた。この一連のやり取りが、彼女の論理的な思考回路に、いかに想定外の負荷をかけたかを物語っていた。
こんなやりとりを経て、二人の間には、奇妙な、しかし強固な「結託」が生まれた。それは、万桜という予測不能な「魔王」を巡る、知的で、時にコミカルな、新たな冒険の始まりを予感させるものであった。
不意に舞桜、意趣返しを仕掛ける。
「白井さん…ビアンカとフローラどっちを選んだ?」
舞桜が、静かに、しかし有無を言わせぬ調子で、勇希に問いかけた。その完璧な表情には、一切の感情の揺らぎがない。
勇希は、迷うことなく、真っ直ぐに舞桜の視線を受け止めた。その瞳には、揺るぎない信念が宿る。
「ビアンカに決まっている! ビアンカ以外って、サイコパスか?」
勇希の言葉に、舞桜と莉那は、まるで打ち合わせでもしたかのように、同時に大きく息を吐き出した。その表情には、呆れと、そして「いつものこと」という諦めが混じり合っている。
「「ふぅ~ヤレヤレだぜ~」」
二人は、そう言いながら、両手を軽く広げて肩をすくめる、お決まりの「ヤレヤレ」の仕草を見せた。その動きには、深いため息が伴っていた。
「な、なんだと?」
勇希は、二人の反応に、心底怪訝そうな顔をした。なぜ、自分が当然の選択をしたはずなのに、こんな反応をされるのか、理解できないといった表情だ。
「白井さんのそれは、単なる過去への執着と、感情論に基づく選択ですね。客観的なデータに基づけば、デボラの性能は…」
舞桜が、冷静に勇希の意見を「分析」しようとする。彼女にとっては、ヒロイン選びもまた、最適な「スペック」を考慮する論理的な問題なのだ。
「うるさい! データだけが全てじゃない! あたしは、苦楽を共にしてきたビアンカの心の強さを信じる!」
勇希は、舞桜の言葉を遮るように声を荒げた。彼女の感情が、一気に高まっている。
「そうだよ、舞桜! あたしだって、デボラのあの『私が選んでやったんだから感謝しなさい』的な上から目線がたまらないのよ! それに比べて、ビアンカは…うーん、ちょっとお人好しすぎじゃない? もっと強引でも良くない?」
莉那が、舞桜に同調しつつも、自身の好みを率直に述べた。彼女の言葉は、デボラの持つ圧倒的な「強さ」と、それを求める自身の本能を代弁しているかのようだった。
「デボラはツンデレの極致よ! あの言葉の端々に隠された優しさが、たまらないのよ! それを理解できないなんて、あんたたちには人間の心が足りないわ!」
勇希は、まるで核心を突かれたかのように、唇を噛みしめながら反論した。彼女の論は、もはや理屈ではなく、純粋な「愛」に基づいている。
三人の間で、ヒロイン論争が激化する。それぞれの主張がぶつかり合い、社務所の居間は、まるで白熱した討論会の様相を呈していた。
そんな喧騒の中、万桜と番長が、ほぼ異口同音に、だがどこか呆れたような声でツッコミを入れた。
「「結局、みんなデボラじゃん」」
その言葉に、三人の女性は一瞬動きを止め、それぞれの顔を見合わせた。確かに、激論を交わしていたものの、舞桜と莉那はデボラ推し、そして勇希はビアンカを推しつつも、デボラのツンデレの魅力について熱弁していたのだ。
「番長、おまえ誰派〜?」
万桜が、面白そうに番長に問いかけた。
番長は、遠い目をして、哀愁漂う視線を虚空に向けた。
「フローラ。ゲームくれー、お淑やかな黒髪プリ〜ズ」
彼の周りにいる女性陣は、誰も黒髪ではない。淑女でもない。その言葉には、彼のささやかな、しかし切実な願望が込められていた。
「おまえは、ビアンカ派だな〜」
万桜は、番長の答えを聞いて、ニヤリと笑いながらそう締めくくった。
うん。デボラもいいよね?