ボッチの魔王のミストバリア
エピソード前書き:影の陸将の恨み節
「なにゆえ俺だけ、こんな面倒な、正規の指揮系統から外れたことをやらされているのか」
このエピソードは、陸上自衛隊・佐々蔵之介陸将の強烈な恨み節から始まる。
彼は、自ら「2等陸将」という自作の異端システムを身に纏い、総理と直結する「影のフィクサー」としての道を選んだ。しかし、それは「組織に飼い慣らされない大物」という自己イメージを保つ代償として、誰にも理解されない最前線での火消しを強いられることを意味する。
総理官邸の重厚なマホガニーの机に置かれた「風熱ポット」は、文明の終焉を告げる冷徹な理屈だ。そして、総理大臣の「聞きたくない!」という駄々っ子は、最高権力者でさえ理不尽な現実から逃避したいという感情的な理屈を示している。
蔵之介の怒りは、この二つの理不尽――世界の崩壊と、上層部の保身――に挟まれ、自分のシステムだけが機能しているという孤独感から生まれている。
この緊迫した官邸のシーンから、一転して舞台は草津の湯畑へ。警護を巡る蔵之介の配下と、黒木万桜たち若き天才の「理屈の戦い」が展開される。
なぜ蔵之介が、通常の「陸将」ではなく「影のフィクサー」という道を選び、その結果として最も面倒な役目を負わされているのか。彼の「我儘」と「正義」が激突するシーンを、どうぞお楽しみあれ。
2019年5月上旬、ゴールデンウィーク明け。
この国の最高意思決定機関たる総理大臣官邸の、重厚な絨毯が敷かれた一室に、佐々蔵之介陸将がいた。
陸上自衛隊・元特殊作戦群の実務出身。彼の正式な階級は「陸将」だが、「2等陸将」という階級は蔵之介自身の我儘によって定着した俗称だった。総理と直結する「影のフィクサー」として、彼は自衛隊の正規の指揮系統からあえて逸脱する道を選び、国民的海賊マンガの主人公の祖父と同じ、「組織に飼い慣らされない大物」のイメージを自らに課したのだ。いいオッサンだった歳の時にである。
「イヤだ! 聞きたくない! 聞きたくない!」
日本のトップである総理大臣は、国家の最重要機密の報告を前に、まるで駄々っ子のように耳を塞ぎ、首を振り回していた。
その状況は、理不尽な現実が、最高権力者の感情的な拒絶反応すら引き起こしていることを示している。
蔵之介は、総理の反応を一瞥し、淡々と報告を続けた。
「ノイマン方式がブレイクしました。世界のコンピューティングの根幹が揺らいだということです。そして、希少土類の価値が低下します」
報告は、文明の枠組みが不可逆的に破壊されたという通告に等しい。総理は顔面を蒼白にしていた。
蔵之介は、持参した「風熱ポット」を重厚なマホガニーの天板の上に置いた。それはステンレスポットに48本のシリンダが付いた、工業的に異様なフォルムの代物である。
彼はそのポットの天板を、体重を乗せてグッと押し込んだ。
シリンダ内の空気が一瞬で圧縮され、断熱圧縮によって熱を発生させる。
「石油は燃える特性を持った水。そのように定義されるでしょう」
蔵之介は、石油という資源の価値が、断熱圧縮による熱という、どこでも手に入る普遍的な原理によって無力化される未来を、インスタントコーヒーを淹れるという日常の行為で示してみせた。
湯気が立ち昇るコーヒーカップを自ら一息で飲み干し、総理の抗議を完全に無視した。
「くれないのかよ?」
ようやく我に返った総理が、恐る恐る尋ねる。
「自分で淹れなさいよ。これくらい!」
最高権力者に対し、2等陸将は逆ギレする。その声は、官邸の静寂に響き渡った。
「あんなもんね。制御不能なんですよ! わかってます? 黒木くんたちを怒らせるんなら、俺たち反旗翻して、向こうにつきますからね」
蔵之介は怒っていた。東京ラボ襲撃事件の黒幕に、総理が一枚噛んだ痕跡を残したからだ。彼は総理が自衛隊の正規の理屈から外れて行動したことを許さない。
「茅野建設も敵に回すし、参加しているキャンパスの学者が全員政府の敵です。わかってます? 彼は雷でさえ消すんです!」
蔵之介の剣幕は、階級の壁を遥かに超越する。自衛隊のトップであるはずの総理大臣は、その異端の実務家の絶対的な怒りに縮こまる。
総理は観念したように、恐る恐る蔵之介の肩に右手を乗せ、
「総理、ハンセー。怒っちゃやーよ?」
その声は、最高権力者の威厳よりも、保身の感情に満ちていた。
反省を表明する総理に、蔵之介は、再びポットで沸かした熱湯で淹れたコーヒーカップを突きつける。
「はいコーヒー」
「あっちいな! この野郎!」
総理の唇を熱するコーヒーは、「裏切り」に対する、容赦のない制裁だ。
総理は顔を顰めながらも、その熱さを甘受する。
「わかった。わかりましたよ! 怒んなよ。そんなに」
こうして、総理は現実の理不尽さを恐れる蔵之介の要求を、全て受け入れた。
★★★★★★
草津の町。湯畑から立ち昇る硫黄の匂いと、観光客の喧騒が混じり合う平和な日常の中。
突如として、黒木万桜は、その日常の平穏を打ち破る言葉を投げ掛けた。
「ちょっと、お土産買ってくるわぁ、先行ってて勇希に舞桜」
その陽気すぎる言葉に、隣を歩いていた白井勇希の顔は、瞬時に歪む。彼女の鋭い直感が、この言葉が偽装された逃走への合図であることを即座に理解したからだ。
「そうか…舞桜、行こう…」
勇希は、舞桜に状況を悟らせまいと、彼女の腕を強く引いた。これは、危険を避けるための、感情的な勢いによる強制的な行動だった。
状況がわからないのは舞桜だけである。彼女の理知的な思考は、行動の根拠となる情報不足に抵抗する。
「え、お土産? ちょっと万桜…なにがあったの?」
疑義を呈する舞桜に、理屈の天才である万桜たちは、自らの理屈を捨てて、切実な懇願という最後の手段に訴える。
「「舞桜ッ!」」
万桜と勇希は、湯畑の熱気の中で、異口同音に叫ぶ。
「「お願い…」」
この懇願が、二人が冷静な制御を放棄せざるを得ないほどの異常事態であることを、舞桜は察知した。しかし、彼女の口からは、とっさに法的な制約を意味する言葉が漏れる。
「法的…」
その言葉を最後まで言わせる前に、万桜は勇希に、強制離脱という非情な命令を投げ掛ける。
「勇希ッ!」
「ちょっと勇希? 万桜!」
混乱する舞桜の叫びは、勇希の疾走に霞み、二人は湯畑の階段を駆け下りていった。
黒木万桜は、湯煙の中で足を止め、戦場に立つことを選んだ。彼は、迫りくる脅威と対峙すべく、不敵な笑みを浮かべるのであった。
黒木万桜は、背後から突き刺さる純粋な殺気を、観光地の喧騒の中から即座に切り分けた。
勇希と舞桜を強制離脱させた直後、彼は最初の刺客と対峙する。
「よう。なにを企んでるか知らねえが、出てこいよ」
万桜は振り返ることなく、その殺意の源を捉えようと、全感覚を研ぎ澄ませる。それは、感情を一切含まない、機械的な練度のみが混じり合った、異様な気配だった。
「まあ、大きくなっちゃって。でも相変わらず隙だらけだね、万桜ちゃん?」
その声が途切れるよりも速く、影の速度を持った人影が、瞬時に万桜の背後へと回り込んでいた。湯畑から立ち昇る硫黄の匂いすら無力化する、その熟練の技が、万桜の首筋に刃のような殺意をあてがう。その動作には、一切の逡巡がない。
「舐めんな? 名乗らない匿名希望さんよ」
万桜の口調は、純粋な戦闘へと切り替わる。
相手の右腕が首筋に触れた、わずかコンマ数秒の均衡を、万桜は見逃さない。彼はその手首を、非合理なほど正確な角度で掴み、自身の身体を沈ませた。
熟練の身体の練度を、万桜の物理演算が完全に凌駕する。
観光客の「わぁ!」という驚きの声が上がる一瞬前、その正体不明の身体は、万桜の身体を支点に、勢いよく宙を舞った。
「甘いね万桜ちゃん」
石畳に叩きつけられるはずだった決着は、熟練の身体によって寸前で回避される。
宙を舞った身体は、重力に従う直前、ブリッジで着地するという非合理な体術を瞬時に披露した。彼女はそのまま一本背負いの体勢に入った万桜の腕を、テコの原理で前に引き込む。
完璧な理屈が崩壊した万桜の身体は、重力という絶対的な理屈に従い、前のめりにつんのめった。
そして、その顔を向けた襲撃者の正体が、湯煙の合間から露わになる。
「いよぉ、拓矢の母ちゃん。久しぶりじゃねえか?」
万桜は、倒れながらも、その殺気の主が幼馴染である斧乃木拓矢の母親、斧乃木清子であると判断し、一転して親しみを込めた言葉を投げ掛ける。
「痛ぇ…」
倒れ込んだ万桜の腰を、清子が完全に占領し、柔道の抑え込みの体勢で封殺する。清子は優位性を満喫するように勝鬨をあげた。
「はい。オバさんの勝ちぃ」
幼馴染の母親に抑え込まれるという、想定外の状況に、万桜は苦情を述べる。
「つか、いきなり、なんなん? 拓矢の母ちゃん?」
清子は、まるで反抗期の息子を諭すかのように、呆れた様子で返した。
「えぇー? 久々に会った息子の友達がハーレムなんかキメてるから、教育的指導をしようと思って」
この個人的な冗談に、理屈の天才はぐうの音も出ず、押し黙る。清子は、溜め息をひとつつき、真実の状況を告げた。
「この国のトップが、万桜ちゃんたちの警護をオバさんに依頼したのさ」
そう言って、清子は万桜の腰から、すっと立ち上がった。彼女の殺意は、完全に収束している。
清子は、倒れたままの万桜を力強く引き起こすと、幼馴染の母親としての親愛の情を纏った笑顔を見せた。
「大きくなったね。万桜ちゃん!」
立ち上がった万桜は、周囲の景色の不自然な静けさに、ようやく気づいた。
湯畑の周囲で談笑している通行人は、全員が成人であり、本来どこにでもいるはずの子供の姿が、一人も見当たらない。
「え、なに、この人たち、みんな拓矢の母ちゃんの友達?」
偽装された日常という仕掛けに、彼はわずかに顔を顰めた。
「そりゃあ身辺警護を、オバさんひとりでやらないよ」
清子は豪快に笑う。この空間全体が、総理直属の警護によって支配されていることを証明していた。
万桜は、目の前の問題とは全く関係のない、個人的な懸念へと思考を飛ばした。
「拓矢とは」
清子の回答は、あまりにもあっさりとしていた。
「絶交中」
「そっか」
万桜は、その個人的な事実を情報として受け止め、流した。
「流すな! 仲裁しろ!」
清子は、まるで任務を離れた一人の母親のように、万桜に縋り付く。
「ヤダよ! めんどくせぇ!」
人間関係の仲裁という、最も非合理な作業を、万桜は一蹴し、清子をスルーした。
湯畑の石畳を駆け上がって合流した白井勇希は、眼前に立つ斧乃木清子の姿を認めるや、張り詰めていた緊張を一気に解除した。
「なんだ拓矢の母ちゃんだったのか」
ホッと安堵の吐息をした。脅威の正体が、幼馴染の母親という身近な人物に過ぎなかったことに、心底安心したのだ。
「勇希ぃ、久しぶりじゃん。綺麗になっちゃってまあ」
清子は、万桜の両親の葬儀以来、実に5年は姿を見掛けていない勇希の変化を褒める。
「勇希ぃ、オバさん拓矢と絶交中。仲裁して?」
縋り付く清子に、勇希は感情の介入を完全に拒絶する。
「断る! だってめんどくさいもん!」
清々しいまでの拒絶は、勇希の合理性そのものだった。
その直後、湯畑の階段を上りきった茅野舞桜が、二人の間に割って入る。彼女の全身から放たれるのは、感情的な熱ではなく、理屈が通らない状況に対する絶対零度の怒りだった。
「失礼します。私はセイタンシステムズCEOの茅野舞桜と申します。この騒動の説明を求めます」
舞桜は、最高機密の警護という公的な状況において、情報共有と説明責任が破綻したことに、最も怒っていた。
「あ、あれ~…勇希ぃ、ま万桜ちゃん…」
公的な任務にあるはずの清子は、舞桜の放つ理詰めの怒りにおののき、幼馴染たちに縋り付くが、その声は二人の戦略的な無視によってかき消される。
「勇希ぃ、温泉饅頭と温泉卵なら、どっちがいい?」
「山女魚の塩焼き」
万桜と勇希は、清子の個人的な依頼と舞桜の公的な怒りという、二つの対処すべき問題を同時にスルーし、間食という最も日常的な話題に意識を集中させた。
清子は、自身のスマホに映し出された万桜の発明の数々を、次々にスライドで提示し始めた。その一枚一枚が、世界の経済構造を根本から揺るがす技術革新の証拠だった。
「そりゃあ、国を揚げて警護するよね?」
清子は、まるで世紀の大事業ではなく、ただの家庭内の出来事を説明するかのように、呆れながら舞桜に経緯を説明した。
「特にこれ…」
清子は、太陽を背景にした美しいデザインのポットの画像でスライドを止めた。そこに映っていたのは、後に「風熱ポット」と呼ばれる、断熱圧縮を応用した熱源装置だった。
「化石燃料が否定されたからね…そりゃあね…」
そのポットが内包する驚異的な熱効率を理解した舞桜は、世界経済の崩壊という恐るべき帰結を瞬時に計算した。
乾いた吐息が、彼女の唇から漏れる。学生ベンチャーホールディングスのCEOである彼女にとって、この発明のインパクトは、警護の騒動など比較にならないほど巨大だった。
「な、なんかごめんなさい」
舞桜は、自身たちが生み出した世界の混乱に対して、自然に謝罪の言葉を口にした。
「じゃあ拓矢との仲裁してくれる?」
清子は、その理屈の天才が示した一瞬の心の隙を見逃さず、個人的な依頼を差し込んだ。
「それは無理」
しかし、舞桜の合理的な防壁はすぐに修復された。彼女は、公的な責任と私的な感情を明確に区別し、頑なに拒絶する。世界を動かす発明の責任は取れても、友人親子の人間関係の面倒は負えない、という冷徹な判断がそこにはあった。
「でもね万桜ちゃん。オバさん、前にも教えたよ? 勝てない相手からは逃げなさいって」
清子は、忽然と真顔になって万桜を叱った。その声には、感情は一切なく、実務経験の理屈が込められていた。
先ほど、万桜は勇希と舞桜を逃がすために、自ら殿軍を買って出た。それは、身体能力に劣る舞桜を逃がすための自己犠牲だった。
清子の理屈を受け入れた上で、万桜は、袖に仕込んだノイズ発生装置を起動した。
彼が指先をひねると同時に、イオンのミストが清子に向けて散布される。
「ダァーリンのバカぁー!」
万桜は、攻撃を隠蔽するための感情的な叫びを最大音量で上げると同時に、ミストに向けて高電圧の静電気を散りばめた。
清子は突然の電撃に一瞬怯み、その体勢が崩れる。一瞬の身体の隙の発生。
「ちゃんとに対策してるよ。拓矢の母ちゃん」
万桜は、不敵な笑みを浮かべる。技術的な理屈が、身体的な練度を凌駕した瞬間だった。
それを見ていた舞桜は、自身を安全な場所へ逃がしたボーイフレンドの優しさには目をくれず、万桜の手の内にあった静電気バリア発生護身具という技術の純粋性に、強い興味を示した。
彼女の目つきが、技術の奪取を求めるサイレンのように、強く光る。
その知性の欲求を前に、万桜は抗うことをやめた。
感情には屈しなかった彼が、知性の要求にはあっけなく陥落する。
彼は袖の装置を外し、最高の護身具を、舞桜の手に渡したのであった。
舞桜は目を輝かせて、迷いなくミストを散布する。これで自分も、あの国民的SFコメディの電撃鬼娘になれる。守られるだけの存在から、万桜の技術によって攻撃できる存在へ。彼女の理知的な瞳の奥に、強い戦闘意欲が宿る。
舞桜は、実験と称して、万桜の腕を徐ろに掴んだ。
「お、おい舞桜…やめ」
万桜の制止する言葉を無視し、舞桜は自身の内に秘めた情動を解き放つように叫んだ。
「ダァーリンのぉー、バカぁーッ!」
叫びながら放電を開始する。喪う可能性が怖かった。この技術の天才を、この理不尽な世界の暴力から守りたい。そんな純粋な感情で放った電撃だったが。
「く、黒木…これ、痛いよ?」
理屈を超えた現実の痛みに、舞桜は涙目で訴える。この場の四人――斧乃木清子、白井勇希、黒木万桜、そして舞桜自身――は、静電気をモロに浴びていた。
「「「ミスト撒いてんだからあたりめえだ! アホCEOッ!」」」
理不尽な痛みを共有した三人の叫びが、草津温泉郷の静寂を切り裂いて木霊した。
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!
皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!
引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!




