黒き魔王とソメイヨシノと鮫肌
前書き
二〇一九年四月上旬。東京、本郷の地。
満開の桜の下、魔王対策委員会セイタンシステムズの精鋭たちは、あるハイリスクな技術の「御披露目」のために集結した。
それは、究極の人工皮膚と人工筋肉システム「マカロニ・テンダー・アンドロイド」。
このシステムの開発は、東京本郷大学の天才肌の学生西郷輝人に委ねられていた。彼の純粋な技術への追求は、「エロの理想」という形で具現化し、倫理とコストの限界を突き破ろうとする。
高性能と引き換えに、常軌を逸した高コストを計上するそのアンドロイドは、果たして「軍事兵器」となるのか、「変態的理想」として終わるのか。誰もがそう懸念していた。
しかし、リーダーである万桜は、その技術の最も汚れた部分にこそ、最大の希望を見出す。彼の掲げる目標は、超高齢社会が抱える「労働力不足」と「高齢者の孤立」という二大問題を、一挙に解決する壮大なビジョンだった。
「日本中の介護施設を労働資源に変える」
これは、人間の身体的限界を超越し、「老い」を「経験の貯蔵」へと再定義する、革命的な物語の序章である。一人の天才技術者と、一人の戦略家が交差した時、アンドロイドは「偽オッパイ」から「人類の福音」へと、その存在意義を劇的に変貌させる。
2019年4月上旬。東京本郷大学近くの根津神社の境内にて。
万桜たちは、満開の桜を眺めていた。
今日は、魔王対策委員会セイタンシステムズが、総出で出張だ。
番長だけは、妻である早苗の出産が間近に控えていたので、甲斐の国市に留まっている。
「へえー、東京の桜って、こんな感じなんだなー」
万桜の育った甲斐の国市のソメイヨシノは、背後に南アルプスの残雪がそびえていて、咲きっぷりが豪快だ。
「山肌に広がる桜の豪傑さ、自然の雄大さとは、やっぱり違うな」
だけど、根津神社の桜は、朱塗りの社殿に映えて、やけに白く見える。
ソメイヨシノだけじゃなくて、山桜がそれに寄り添うように咲いていて、種類も多い。
「なんていうか、生活の真ん中で咲き誇っている感じが、新鮮なんだ」
万桜が染み入るようにそう言い、満開の枝を見上げた。
舞桜もまた、万桜の言葉に頷きつつ、自身の記憶にある桜を対比させていた。
舞桜の「見慣れた桜」といえば、増上寺の広大な敷地を縁取るように、整然と植えられたソメイヨシノだ。
背後には東京タワーや六本木のガラス張りの高層ビルが控え、芝公園の緑と、その人工的な美が調和していた。
あそこにあるのは、港区の選ばれた場所にある、計算された美だ。
一方、目の前の根津神社の桜は、石畳を這うように枝を伸ばし、古い木造の塀を背にして、どこか野暮ったいが、強い生命力を感じさせた。
それは、舞桜が今まで住んできた界隈の洗練された桜とは違い、庶民の日常に根ざした、活きた桜の姿だった。
出張の目的は、マカロニ・テンダー・アンドロイド。究極の人工皮膚と人工筋肉システムの御披露目だった。
万桜たちは、このアンドロイド研究を、国防の要である防衛大学校と、最高学府である東京本郷大学に丸投げしていた。
防衛大学校では、戦場での応用を見据え、主に巨人化と小人化の研究が進められている。
一方、東京本郷大学では、義肢にも転用できるような人間に近い素材、すなわちマカロニ・テンダー。人工筋肉と人工皮膚の研究が優先されていた。
「西郷のやつ、ゼッテー女性型ぶっ込んでくると思うぜ?」
万桜はそうタカを括っていた。
西郷輝人は東京本郷大学の2回生。法被と眼鏡と、アニメイラストがプリントされた紙袋がよく似合う、小太りな青年だ。
「えー、おまえ、それ偏見って言うんだぜ!?」
拓矢が万桜を嗜める。
が、内心、拓矢も西郷が女性型アンドロイドを発表すると確信している。
「「モデルにされてたら、どうしよう」」
舞桜と勇希が、自分たちもターゲットになり得ると、心の底からゲンナリと呟く。
「埋めれば、いいと思うよ…」
莉那が、感情の機微を削いだ冷徹な声音で呟いた。
「「……」」
舞桜と勇希は、思わず笑みを浮かべた。
「そっかー、来年の桜はキレーだろうなー」
万桜は乾いた笑いを浮かべる。
「西郷の養分でか? 枯れねえかな、ソメイヨシノ?」
拓矢が、嫌味を軽口に流した。
その時、香織が、前方の人影を見て、驚愕の悲鳴をあげた。
「あれ? なんか黒木先輩が、てか黒木先輩そのものじゃん!」
朱塗りの楼門の近くに、立つ人影は万桜の姿をしていた。
しかし、その服装は、あまりにも万桜本人とかけ離れていた。
万桜が普段から着る服は、無地かストライプのオックスフォードシャツか、ネイビーの薄手のニット。白、紺、グレーなどベーシックカラーで統一され、清潔感と誠実さを最優先した、無難だが完璧なコーディネートだ。どこで誰に見られても「優良物件」だと認識されるよう、嫁探しを意識したスタイルである。
だが、今立っている「万桜」は、原色の赤と緑のチェックシャツに、全面に巨大な二次元美少女キャラクターがプリントされた真っ白なTシャツを重ねていた。ボトムスは膝の抜けたカーキ色のチノパン。腰には重たそうな金属製のチェーンが揺れていた。西郷の趣味が100パーセント反映された、TPOを完全に無視した「オタク」スタイルだ。
『やあ黒木氏。某の研究成果はどうでござるか?』
万桜の姿で、西郷輝人のオタク特有の上ずった声で喋るアンドロイド万桜に、勇希と舞桜と莉那の脳が同時にバグる。
「埋めれば、いいと思うよ」
乾いた声音で香織が言うと、
「よくできてんじゃねえか? なんつーか、西郷の魂が入っちまってて、気色悪いけどな!」
拓矢が可笑しそうに吹き出し、佐伯と藤枝のふたりは、声を殺して笑っていた。
「凄いですね。ここまで精巧に再現できるものですか?」
琴葉は、アンドロイド万桜の皮膚に触れると、すぐに手を引っ込めた。
「これは……鮫皮ですか。人工皮膚として、強度と柔軟性を両立させていますね」
この場で、琴葉が一番冷静に、アンドロイドの表面素材に使われている鮫の皮をベースとした人工皮膚の技術的側面を分析していた。
アンドロイド万桜の腹部から、鈍い打撃音が響き渡る。
時折、西郷の悲鳴ともとれる「ぐぅっ」という短い呻き声が漏れ聞こえるが、魔王対策委員会セイタンシステムズの面々はスルーした。
この場に万桜本人の姿は無論ない。
しばらくして、アンドロイド万桜が、今度は万桜自身の声で釘を刺した。
『おう、おまえら、シメておいたから、ゼッテー殺すなよ? ゼッテー埋めるなよ?』
その意味を理解した舞桜、勇希、莉那の3人は、アンドロイド万桜を横目に、その場から駆け出した。
「黒木くん、あたしは東京本郷大学とは、接触していません」
倉田琴葉は、冷ややかな視線をアンドロイド万桜に向け、
『あ、ああ、そうだな倉田さん』
上ずった万桜の言葉に、倉田琴葉も、溜息をついてその場から駆け出した。
『おまえら、止めろよ!』
アンドロイド万桜が咎めると、
「「「無理ッス!」」」
拓矢たち幹部自衛官候補生たちは、この事態を止めるのは不可能であると、笑いを噛み殺しながら拒絶した。
『拓矢。そこの古着屋でジーンズ買ってくれ。俺の姿でこのナリは許せねえ』
アンドロイド万桜が頼むと、
「へいへい。女性陣は? どうせビキニアーマーだろ?」
アンドロイド万桜を通信端末に見立てて、莉那たちに尋ねる。
『『『『善きに計らえ!』』』』
女性陣からユニゾンで返される。
その言葉は「お洒落という名の地雷を踏むな」という無言の恫喝に等しかった。
拓矢は上着の内ポケットから、長財布を抜き出した。財布は万札が何枚も入っていた。セイタンシステムズでの報酬のおかげで、学生なのにお金持ちだ。
拓矢は、その膨らみを手のひらで軽く叩くと、近くの古着屋へと向かった。
拓矢は、アンドロイド万桜用に、薄いブルーのストレートジーンズを手に取った。
そして女性陣全員のために、柄のないネイビーのフード付きパーカーと、極めて無難な白Tシャツを色違いで5着ずつ、迷うことなく選び、カウンターに積んだ。
総額で数万円にも満たない会計を、拓矢は分厚い万札の束から適当な枚数を抜き取り、店員に渡した。これで女性陣の不興を買う可能性は最小限に抑えられた。
「領収書ください」
領収書を貰うのは、経費で計上するためだ。
『まあ、おまえらも早く来いよ。やっぱエロは世界を変えるぜ』
★★★
「調子に乗って申し訳ございませんでしたー」
西岡ゼミに入ると、西郷輝人がボコボコにされたうえで、正座させられていた。額と頬には青あざがあり、技術者としての絶頂期から一気に奈落に突き落とされたような痛々しさだった。
「しっかし、よく出来てんなー」
拓矢は、莉那型アンドロイドをマジマジと眺めた。
そのアンドロイドは、ビキニアーマーではなく、人気RPGのヒロインの衣装を着ている。衣装の下のボディラインは、生身の女性の肉体を完璧に再現していた。
拓矢がツンと頬を突くと、人肌の感触と変わらない、微かな弾力と温もりが感じられた。
「万桜の時のザラザラした冷たさが、まったくないな」
勇希がそう呟くと、西郷輝人が顔を上げ、興奮のあまり痛みを忘れたように早口で喋り始めた。
「そこが肝でござる、白井氏! これは、単なる人工皮膚ではござらん。鮫の薄皮を何層にも重ねて、それを極限までナノレベルで研磨、再構築した、新たなポリマー素材でござる!」
雄弁に語る西郷のそれは、エロへの情熱ではなく、生体工学を求道する学徒の熱弁だった。
「黒木型の皮膚は、対物理防御力を最大化するために楯鱗のザラつきをあえて残した『鎧』でござった。しかし、この莉那型は『人体の完全再現』がテーマ。肌の滑らかさ、柔軟性、そして触れたときの微細な復元力を追求した!」
西郷は指を一本立てて続けた。
「鮫皮を薄皮化し、それを十層重ねることで、通常の皮膚の二〇〇倍の引き裂き強度を維持しながら、表面の質感はスクワランを封入したコラーゲンポリマーで極限まで滑らかにした! 触覚センサーが人間の肌と誤認する奇跡の滑らかさと、絶対的な強度を両立させた、まさに芸術の域でござる!」
マカロニ・テンダーの腱の完全再現、乳房の張り方、そして重力による体型の微細な変化まで、すべてが人体を完全に模倣している、と西郷はまくし立てる。
「使ってないでしょうね?」
莉那がキツイ目をして問い質す。その眼差しは、一切の冗談を許さない氷のような圧力を含んでいた。
「モンテスキュー! サブリナくん。この機体は、私が厳正に管理しているからそっちの心配は無用だ」
西岡澄夫教授が、慌てて間の悪い保証を入れる。
「今回のテーマは人体の完全再現だ。有志によるMRIデータから、特に二十代前半の東洋人女性の標準的な体型を厳密に再現している。この機体のモデルはサブリナくんによく似た体型の女性だ。チッチョリーナ!」
完全再現と聞き、莉那は眉間に皺を寄せたまま、アンドロイドの股関節部分を「確認」する。肌に触れる指先は、まるで専門医の触診のようにシビアだった。そこは感触から、生殖器はない、ことが確認出来て、ようやく安堵の息を漏らした。
「サブリナ氏は、某をなんだと思っているんでござるか?」
正座したままの西郷が、涙目で質すと、4人の女子学生の声が、寸分の狂いもなく重なった。
「ど変態」
「オタク」
「ムッツリ」
「キモデブ」
4つの口は異口異音。罵詈雑言とも言う。その視線は、氷点下どころかコキュートスの底のように冷え切っていた。西郷輝人は、その罵倒を浴びながらも、自分の生み出した莉那型アンドロイドの「奇跡の滑らかさ」を愛おしそうに見つめていた。
「ハイ! ハイ! ハイ!」
ここで香織が元気よく挙手。
「なんでござるか?」
涙目の西郷輝人は、香織に目を向ける。
先ほどまでの罵詈雑言とは一転した、明るく能天気な声だった。
「ウチのを作ってよムッツリくん!」
香織の意外な献身に、西郷はきょとんとし、正座したまま目を丸くした。
「別に、いいよ。完全再現でも!」
香織は食いつくが、その言葉にはどこか、遊びを超えた、生々しい「覚悟」のようなものが含まれているように聞こえた。彼女は西郷の技術が、複製を超えた「究極の代行者」を生み出すことを知っていた。
「待て」
その先を遮ったのは、勇希のアイアンクローだった。
勇希は、香織の右耳を鷲掴みにし、そのままグイと後ろに引っ張る。
「ぎゃああ! 耳ちぎれる! 白井先輩、痛い!」
「黙ってろ」
勇希の顔は、先ほどアンドロイドの皮膚を触っていた時よりも、遥かに冷たく、厳しいものだった。
「なにを考えている。このムッツリが造る『完全再現』が、なにを意味するか、わかっているのか?」
勇希の脳裏に浮かんだのは、西郷輝人が持つ「マカロニ・テンダー」による「動きの完璧な模倣」と、莉那型で達成した「触覚を誤認させる滑らかさ」の組み合わせだった。
その二つが揃えば、そこに倫理的な線引きは存在しない。
もし香織の完全再現アンドロイドが世に出れば、それは「技術者が許容できるかたちで、身体を売る」究極のプラットフォームになりかねない。彼女がそう考えているか、無邪気に言っているか、勇希には判別がつかなかった。しかし、いずれにせよ、その危険な火種は摘まなければならない。
「西郷。おまえも、その涙目をとっとと元に戻せ」
勇希は、正座する西郷輝人を、耳を掴んだままの香織越しに睨みつけた。
「彼女は、遊びで言っている。おまえのその変態的な技術は、人体の尊厳を冒涜するために使うんじゃない」
勇希は香織の耳をさらに強く締め付けた。香織は痛みで悲鳴を上げる。
西岡澄夫教授は「う~む。倫理と科学の境界線は常に曖昧じゃが、これは物理的な痛みで解決する問題かな~?」と、遠い目をして壁のポスターを眺めていた。彼は、この泥沼に首を突っ込むことを本能的に避けていた。
「うぅ~、黒木先輩、ウチの耳取れてない?」
アイアンクローから解放された香織が、涙目で万桜に泣きつくと、勇希はフンと鼻を鳴らした。
「今のは、おまえが悪い」
万桜は冷たい声で一蹴する。彼の視線は、西郷輝人ではなく、献身という名の裏取引をちらつかせた香織に釘付けだった。
「アレだろ? モテないヤツを慰めてやるとか、そう言うあっせえ考えだろ?」
万桜の言葉は、氷点下の風のように香織の胸に突き刺さる。
「違うもん! 黒木先輩と…」
香織が、さらに言い訳を重ねようとした、その瞬間だった。
香織の両こめかみを、勇希と舞桜の拳が、ほとんど同時に、グリグリと挟んだ。
「学習しねえな…おまえ…」
万桜の声は酷く呆れていた。
「皮膚はともかくとして、腱の動きは防衛大学校のものより滑らかですね」
倉田琴葉は、目を輝かせ、莉那型アンドロイドの腕をゆっくりと動かしながら検証していた。その動作は、まるで生きている人間の筋肉が収縮するかのように、微細な振動もなく、スムーズだった。
彼女はブレザーの胸ポケットから、親指ほどのサイズの小さな人形を取り出した。それは、彼女が趣味で開発している小型アンドロイド、リアルRIKAちゃんだった。
端末のカメラと連動させ、リアルRIKAちゃんを起動する。莉那型と同じ動きを再現させようと試みるが、リアルRIKAちゃんの挙動は、西郷方式よりも明らかにぎこちない。関節の動き出しに、一瞬の「カクッ」という引っかかりが生じる。
「糸の数が少ないんでござる」
正座させられたままの西郷輝人が、不貞腐れたように、だが技術者としてのプライドを刺激され、すぐに口を開いた。
「防衛大学校方式、つまり倉田氏のRIKAちゃんが採用しているのは、パワー重視のアクチュエーターシステムでござる」
琴葉は頷き、西郷に解説の主導権を渡した。
「それは、太いワイヤーを、強力な糸巻モーターで引っ張り、瞬発的な力と強度を出す方式。大きな負荷に耐え、重い物を持ち上げるのには優れておる。ワイヤーが一本の『主筋』となり、そのワイヤーの強度と、糸巻の回転力が命でござる」
西郷は、悔し涙を拭うのも忘れ、熱っぽく続けた。
「しかし、拙者西郷のマカロニ・テンダーは違う! 腱の役割を担うのは、一本一本は弱いが、極めて数が多い糸でござる。この糸が、マカロニ型パイプビーズの側面の穴を通り、テコの原理を応用して力を伝達する」
彼の説明は、莉那型アンドロイドの指先の繊細な動きを指し示した。
「ワイヤーの力で動かす防衛大方式は、力は強くとも、動作の分解能はモーターのステップ数に依存してしまう。だが、我が西郷方式は、無数の糸の集合体による力の分散と協調によって、人間の筋繊維の収縮そのものを模倣している! 一本の強い糸で全てを制御するのではなく、無数の弱い糸で、滑らかさを補助し合う!」
琴葉は、莉那型の腕を静かに下ろし、西郷を評価する目を向けた。
「なるほど。防衛大方式が『戦車』の駆動系だとすれば、西郷方式は『バレリーナ』の筋肉。用途はまったく違うが、マカロニ・テンダーの『滑らかさ』が、単なる玩具ではない、生体兵器としての可能性を高めていますね」
西郷輝人は、その「生体兵器」という言葉に、再び顔を青ざめさせたが、技術者としては最高の賛辞として受け取った。
「防衛大学校と西郷方式をいいトコ取りすりゃあ、限りなく人体に近い義肢の生産が可能になる。あとはコストだ。おい西郷、おまえコスト掛けすぎだ」
万桜は、西郷輝人の前に立ち、その影で床に崩れ落ちた男の全身を覆い隠した。
「特に問題なのは、あの鮫皮ポリマーのナノレベル研磨だ」
万桜は、西郷の技術の核心を正確に指摘する。
「世界一硬い強度を誇りながら、莉那型は人間の肌と誤認するほどの滑らかさを実現した。それは素晴らしい。だが、その滑らかさを出すために、おまえは一〇〇時間もの研磨プロセスと、レアな溶剤を投入している」
万桜は西郷を射抜くように睨みつけた。
「技術者の変態的理想を満たすための『仕上げ』に、システムのコストの八〇パーセントが食われている。ふざけんな」
万桜の言葉は、西郷の純粋な技術への追求を、冷徹なコスト計算で打ち砕いた。
「いいか、西郷」
万桜の声は、一段と厳しく、しかし感情を揺さぶるものだった。
「おまえは偽オッパイを作った。だが、これは乳癌で乳房の切除を余儀なくされた女性たちにとっては希望に変わる。再建手術で、限りなく生身に近い感触と弾力を得られる。これは人類の福音だ」
万桜は、西郷の「エロの理想」を、一気に「医療の現実」へと昇華させた。
「だが、その技術は、一握りのお金持ちしか救わねえのか?」
万桜の問いは、西郷の魂の最も深い部分に突き刺さった。彼の技術は、最高の賛辞と同時に、最も重い倫理的責任を突きつけられたのだ。
「ぐっ……う……」
西郷輝人の全身が、わなないた。
彼の目から、先ほどの悔し涙は消えていた。そこに宿ったのは、真の学徒が初めて直面する、技術と社会の壁への葛藤だった。
「コスト……コストでござるか……」
西郷は、その場で正座し直すと、まるで神託を受けたかのように、真っ直ぐ万桜を見上げた。
「某は、『究極の機能美』を追及するために、『究極の滑らかさ』という『結果』に固執しすぎた! その『結果』を生み出す『プロセス』に、無駄なコストを注ぎ込み、多くの人間を救済する機会を見過ごしていた!」
彼は、変態的な理想主義者から、一気に社会的な技術者へと意識を変貌させた。
「そうだ! ナノレベルの研磨など、単なるオナニーでござる! 八〇パーセントの滑らかさがあれば、医療現場の要求は十分に満たせる! その研磨プロセスを機械化するか、あるいは全く別の低コストな後処理に置き換えることで、コストは十分の一にできる!」
西郷は立ち上がった。彼の背中には、もうキモデブの情けなさはなかった。そこにあったのは、人類を救う可能性を握った天才科学者の、まばゆいほどの学術的覚醒の光だった。
「黒木氏! この問題、すぐに着手する! コストこそが、機能性の最後の敵でござる! 拙者は、世界一安く、世界一滑らかな義肢を実現してみせる!」
その熱意と決意に、万桜は初めて、わずかに口角を上げた。
「上出来だ、西郷。そういう目つきで、研究に戻れ」
万桜は、感心したように、一連のやりとりを眺めていたメンバーに振り返った。西郷の覚醒は、彼自身の技術を社会的な価値へと昇華させる重要な一歩だった。
「いいか。俺の目標は、日本中の介護施設を労働資源に変えることだ」
万桜は、ゆっくりと、しかし確信に満ちた口調で、その壮大なビジョンを語り始めた。
「人と遜色ない見た目のアンドロイドなら、それは秘匿しているのも同義だ。介護施設の中で、高齢者がリモート操縦していると、誰も気づきゃあしねえ。その技術で、現場の人手不足は解消される」
彼の視線は、西郷型アンドロイドに向けられた。
「そして、高齢者が労働に携われない理由はシンプルだ。加齢により、姿勢制御に、脳のリソースが持っていかれるからだ。平衡感覚を保つ、筋肉に指令を送る、その無意識の作業が、脳の認知機能の多くを占有する」
万桜の洞察に、その場の誰もが息を飲む。
「だから、人は歳を取ると疲れる。集中力が続かねえ。だが、寝たままでも、カメラと人工知能だけで、アンドロイドを操縦することは可能だ」
万桜は、まるで未来の介護施設を指し示すかのように、手を広げた。
「ベッドに横になり、脳のリソースを『姿勢制御』から完全に解放する。その余った脳力、つまり『判断力』と『経験』だけをアンドロイドの遠隔操縦に使う」
みんなの目が真剣味を帯びたことに万桜は満足気に微笑う。
「『老いる』ことは、『経験の貯蔵』であり、『身体の限界』だ。俺たちは、その貯蔵された経験と判断力を、アンドロイドという第二の身体で、世の中に還元するんだ」
それは、超高齢社会に対する、既存の『福祉』や『介護』という概念を超越した、『労働機会の創出』という、革新的なアンサーだった。
「どうだ。悪くねえだろ?」
万桜は、問いかける。
「安心して年取りてぇだろ?」
その言葉は、ゼミの学生たちの心に、重く響いた。
莉那は、技術の進歩がもたらす社会変革の大きさに、思わず息を飲んだ。彼女の「体型」がそのシステムの『鍵』となっているという事実が、重く圧し掛かる。
勇希は、万桜の戦略的な視点に感銘を受けていた。高齢化という『弱点』を、『隠された戦力』に変えるその発想は、まさに彼女が求めていたものだ。
琴葉は、すぐに脳科学的な側面を分析し始めた。
「臥位で操縦することで、リソースの解放だけでなく、認知症の進行も遅らせる効果が見込めます。『役割』を持つことが、脳の活性化に繋がる……黒木くんのシステムは、医療革命でもあります」
そして、香織は、自分の祖父母の顔を思い浮かべ、目頭を熱くした。
「年取っても、誰かの役に立てるんだ……」
西郷輝人は、床にへたり込んだまま、興奮で体を震わせていた。彼の技術が、「偽オッパイ」から「人類の希望」へと変わる瞬間を、まざまざと体験していたのだ。
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!
皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!
引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!




