ボッチの魔王と白い勇者
蜂は嫌い
2018年7月。
東京本郷大学での忙しい日々を終え、束の間の夏休みで山梨に帰省した白井勇希は、慣れ親しんだ故郷の空気を深く吸い込んだ。新緑は一段と深まり、梅雨明けを告げるかのような蝉の声が、降り注ぐ日差しの中で響き渡る。高層ビルがひしめく東京とは異なる、こののどかな風景が、彼女の心身の疲労をじんわりと癒やしていく。
実家で荷を解き、一息ついた勇希は、気分転換にと、学生時代からよく訪れていた地元の小さなカフェへと足を向けた。懐かしい木製の扉を開けると、コーヒー豆の香ばしい匂いと、優しいジャズの調べが彼女を包み込む。窓際の席が空いているのを見つけ、そこへ向かおうとした、その時だった。
視界の隅に、見慣れた、しかしどこか見慣れない二つの人影が飛び込んできた。
一つは、日焼けした顔に能天気な笑顔を浮かべる、まさしく黒木万桜。彼は小さなテーブルに広げられたノートと、カフェの紙ナプキンに描かれたラフな図面を指差しながら、身振り手振りで何かを熱弁している。そして、その向かい側。
勇希の瞳が、その女性の姿を捉えた。
肩までの内巻短髪をきっちり切り揃え、品の良い白いブラウスに細身のパンツを合わせた、まさに絵に描いたような知的美女。その端正な顔立ちは完璧な造形美を誇り、まるで無感情な人形のようにも見える。しかし、万桜の話に耳を傾けるその瞳の奥には、鋭い知性が宿っているのが見て取れた。
(誰だ、あの人…!?)
勇希の脳内で、瞬時に警報が鳴り響いた。万桜が甲斐の国大学に進学したことは知っていたが、彼がこれほどまでに親密そうに、しかもこんな場所で、見知らぬ女性といるとは全くの想定外だった。彼女の「白い勇者」としての直感――万桜を守り、正すという使命感が、この「異物」の登場に強く反応した。
勇希は平静を装い、何食わぬ顔で二人のテーブルに近づいた。
「万桜じゃない。こんな所で何を熱弁しているの?」
勇希は、努めて柔らかな、女子らしい口調で万桜に声をかけた。万桜は、顔を上げ、きょとんとした表情で勇希を見上げた。
「お、勇希。なんだよ、おまえ帰ってきてたのか! 連絡しろよ。そっちこそ何してんだ?」
万桜はいつもの調子で、周囲の空気など気にせず声を張り上げた。その能天気さに、勇希は内心で呆れつつも、まずは冷静に状況を把握することに努める。
「こちらは、大学で一緒の茅野舞桜だ。ボッチって呼んでるんだけどな」
万桜は、舞桜を指差して、そう紹介した。舞桜は、その呼び方に眉一つ動かさず、静かに勇希の方へ視線を向けた。その瞳は、まるで初対面の人間をデータとして読み込むかのように、一瞬にして勇希の容姿、服装、そして万桜との関係性を分析しているかのようだった。舞桜の口角が、ごくわずかに上がる。
「白井勇希さんですね。黒木さんからお話は伺っております」
舞桜の声は、少し高音と低音の中間やや上の冷たな高音で、淀みなく、しかしあくまで丁寧だった。その言葉には、勇希に対する何の敵意も感じさせない。だが、勇希は直感的に理解した。この女性は、自分を「想定済み」である、と。
(…万桜から、あたしの話を聞いているだと? どこまで? そして、この人…ただ者ではない…!)
その時、万桜の視線が、カフェに入ってきた福元莉那を捉えた。莉那は黒の短い髪にカーキ色のカーゴパンツ、そして明るいグレーのTシャツという、動きやすい服装だ。健康的に引き締まった体つきが、その軽装を通してかえって目に鮮やかだった。万桜の思考が、一瞬停止したかのように感じられた。彼の脳内で、彼女の服装、姿勢、そしてその中に垣間見えるしなやかな筋肉の動きが、理屈抜きに瞬時に解析され、無意識のうちに「データ」として取り込まれていく。
「おお、サブリナー!」
万桜は、莉那に手を振り、いつものように声をかける。莉那は、万桜の言葉に軽やかに応え、テーブルに歩み寄った。
「万桜、お疲れ。舞桜、先行っててごめんねー。ちょっと農家さんのところでトラブっちゃって。で、そっちの美人さんは? って勇希じゃん? 垢抜けちゃってまぁ? 東京マジック?」
莉那は、屈託のない笑顔で勇希に問いかけた。勇希は、莉那の言葉に安堵し、いつもの幼馴染の顔を見つける。
「うるさいサブリナ。あたしは、元からこんなんだ」
勇希は、やや呆れたような、しかし親愛の情を込めた口調で莉那に言った。
「へへ、ごめんごめん、勇希!」
莉那は、悪戯っぽく笑った。
ふたりが席に着き、コーヒーやジュースが運ばれてきた。万桜は相変わらず、最近の自分のアイデアについて能天気に語り始める。彼は、手元にあった紙ナプキンに描かれたラフな図面を広げ、その「アイデア」の片鱗を熱っぽく語った。
「なあ、これどうかな。山奥の村とかって、配送が大変な場所、あるだろ? 電柱の間をロープウェイみたいに繋いで、無人機で荷物を運ぶシステム。ドローンみたいにバッテリー気にしなくていいし、電柱使えばインフラもほとんど要らないんじゃないか? まだ全然アイデア段階なんだけど、ボッチも『面白い』って言ってくれてさ」
万桜の言葉は、まるで止まることのない思考の奔流だ。彼の頭の中では、紙ナプキンのラフな図面の先に、複雑なシステムと、それを実現する具体的な技術が、すでに明確な形として描かれているかのようだった。しかし、それはまだ「アイデア」と「構想」に過ぎず、具体的な「成果」とは程遠い。
隣でその様子を見ていた舞桜は、冷静な声でそれを補足する。
「ええ。彼の発想は、現状の技術や法規では極めて困難な部分も多いけれど、コンセプトとしては非常に興味深い。特に、過疎地域における物流の課題解決という点では、社会的な意義も大きいわ。現在は、その実現可能性について、基礎的な調査と、法的な制約の検討を行っている段階よ」
舞桜の言葉からは、彼らのプロジェクトがまだ「研鑽中」であり、具体的な実装には至っていないことがうかがえる。彼女の知的な好奇心と、万桜のアイデアを現実的な視点から分析しようとする姿勢がうかがえる。
勇希は、二人の会話から、彼らが単なる同級生という枠を超えた、「共犯者」のような関係性になっていることを肌で感じる。特に、舞桜が万桜の突飛な発言にも動じず、その本質を理解しているかのような態度に、内心穏やかではいられない。
「…いずれ、黒木さんと私は、この研究を通じて、より深く結びつくことになるでしょう。これは、私にとって、既に決定事項ですので」
舞桜の言葉は、表面的には研究の進展を語るものだった。しかし、その瞳の奥には、万桜を巡る揺るぎない決定事項、そして、勇希への静かなる宣戦布告が込められていた。彼女の表情筋は依然として乏しいが、その耳の先端がごくわずかに赤く染まっているのが、その言葉に込められた彼女の真意を物語っていた。
勇希は、舞桜の言葉の裏に隠された意味を瞬時に読み取った。
(…っ! この女…!)
内心の動揺が最高潮に達し、彼女の口調が思わず変わる。
「…なるほど。しかし、万桜は時として、予測不能な行動に出ることがあるだろう! その衝動性や、責任感の欠如が、時に周囲を巻き込むこともあるのだぞ! それを、貴様は制御できると!?」
勇希のオスカル口調が、カフェの穏やかな空気に、一瞬にして緊張感を走らせた。彼女は「白い勇者」として、万桜の自由奔放さを「正す」べきものと考えている。
莉那は、そんな二人の間で視線を忙しなく動かし、その場の緊張感を察していた。彼女の瞳は、このヒリヒリとした空気すら楽しんでいるかのようだった。
「あー、それなら大丈夫。万桜が暴走したら、あたしがちゃんと物理的にも、精神的にも止めるから。ね、舞桜?」
莉那は、舞桜に視線を向け、にこやかに頷く。舞桜もまた、わずかに口角を上げて応じた。莉那は、既に舞桜と万桜の協力体制に深く関わっていることを、その言葉で暗に示している。
「け、ケンカはやめて~。ヤッベ、こいつらなんかピキッてる…」
万桜は恐ろしいまでの小声で呟くと、その能天気な笑顔を浮かべたまま立ち上がった。
「墾田永年私財法のために俺は帰る!」
万桜は、そう言い残してカフェの奥へと音速で離脱していった。彼の足取りは軽く、女子たちの間で繰り広げられつつある、目に見えない女子の序列争いの雰囲気を本能的に察知したかのように。
万桜の姿が見えなくなると、カフェの一角には、舞桜、莉那、そして勇希の三人の女性だけが残された。先ほどまでの、万桜を交えた会話の賑やかさが嘘のように、空間には静かで、しかしどこか重い空気が漂う。莉那は、コーヒーを一口飲み、ふと、思い出したように勇希に声をかけた。
「ねぇ、勇希」
莉那の、普段の快活さとは異なる、少しだけ真剣な声のトーンに、勇希は内心で身構える。舞桜もまた、静かに二人の様子を見守っていた。
舞桜が、その会話に、スッと入ってきた。
「黒木から聞きました。プリン体の殿堂みたいな、丼メシを振る舞ったのだとか?」
「な、なぜそれを?」
慄く勇希に、
「魔王から聞いたって言ったじゃん?」
ツッコム莉那。
「「ないわー」」
舞桜と莉那は異口同音に、そして完璧な唱和で唱えた。その声には、呆れと、どこか楽しげな響きが混じり合っていた。
「う、うるさい! 万桜を…」
勇希の反論を、莉那は眉一つ動かさずにバッサリ切り捨てる。
「デキちゃったら、どうしてた?」
莉那の直球な問いに、勇希は言葉を詰まらせた。その瞬間、莉ナの手がスッと伸び、勇希の頬をムニィと掴む。決して痛めるような力ではないが、逃がさないという意思の表れのような掴み方だ。
「「ないわー」」
莉那と舞桜。まるで打ち合わせでもしたかのように、再び唱和がカフェに炸裂する。その声は、勇希の沈黙を、より一層際立たせていた。
莉那の指が勇希の頬から離れると、勇希は反射的に両手で顔を覆った。耳の先から首筋まで、見る見るうちに赤く染まっていく。その熱は、自身の記憶の奥底に封じ込めていた、あの夜の恥ずかしさと後悔が、今、白日の下に晒されたことへの、どうしようもない羞恥だった。
「ねぇ、勇希」
莉那の声が、再び響く。しかし、そのトーンは、先ほどよりも一層落ち着いていて、どこか楽しげな響きを帯びていた。まるで、獲物を見つけた狩人のような、そんな気配だ。
「どんなカッコして料理した? 裸エプロン?」
莉那は、頬杖をつき、興味津々といった様子で勇希を見つめる。その瞳の奥には、友人を気遣うそぶりと、純粋な好奇心が混じり合っていた。隣の舞桜もまた、表情筋は動かないものの、その視線は勇希に釘付けだ。彼女の論理的な思考は、あの「丼メシ」が持つ意味と、勇希の行動の背後にある感情を、精密に分析しようとしているかのようだった。
「そ、それは…! あ、あれは、その…! 万桜を…ノーブラにTシャツとホットパンツです…」
観念したように、勇希は尋問に応じた。その顔は、羞恥で真っ赤に染まっている。
舞桜と莉那は、互いに視線を交わした。その瞳の奥には、好奇心と、面白がる色が混じり合う。そして、二人の間には、ある種の悪だくみのような空気が流れ始めた。
まるで、精密に計画された作戦を遂行するかのように、舞桜と莉那のイジり尋問波状攻撃が、観念した勇希を容赦なく襲う。
「ふむ。つまり、白井さんは、黒木さんが視線をどこに集中させていたか、正確に把握していた、と?」
舞桜の問いは冷静だが、その言葉にはわずかな探りのような響きが込められていた。
「勇希、あんた、万桜の目が、あの卵丼を前にして、どんな顔してたか、ちゃんと見てたでしょ? 堪えてるって、分かってたでしょ?」
莉那の問いは、勇希の最も触れられたくない部分を、容赦なく抉った。勇希は、当事者として、その場にいた誰よりも、万桜の細やかな感情の機微を敏感に感じ取っていた。彼が「プリン体の殿堂」を前にして、内心でどれほど戸惑い、そしてしかし、目の前の自分に気を遣って、必死に平静を装っていたかを。そして、その視線の奥に、確かに彼女の誘いに堪えていることを。勇希は、それら全てを、正確に理解していたのだ。
その事実を改めて突きつけられ、勇希の顔から、完全に血の気が引いた。彼女は、目を閉じ、両手で顔を覆う。
「うぅぅもう許してください。お願いですからぁ~」
カフェのBGMが、勇希の沈黙を、より一層際立たせていた。
「やだ、この娘、乙女じゃん」
莉那が、思わずキュンとしたような声で呟く。
「元々、乙女だよぉあたしは~」
と、勇希が顔を覆ったまま、情けない声で反論する。
「「痴女だけどな」」
莉那と舞桜。完璧な唱和で、上げて落とすようなツッコミが炸裂する。その声は、カフェのBGMに紛れて、しかし勇希の耳にはしっかりと届いた。
★★★★★★
「おい、黒幕!」
音速で離脱しかけていた万桜の背中に、カフェの喧騒をものともしない、凛とした声が投げかけられた。声の主は、神父の衣装に烏帽子を被った番長、祭谷結だ。彼は祭壇の幟旗を背に、鋭い眼光で万桜を射抜いていた。
「番長ぉ? なにか用か?」
万桜は気まずそうに足を止め、振り向いた。彼の脳裏には、先の女子たちの「女子の序列争い」から逃れた安堵感が残っていたが、番長の真剣な顔を見て、新たな厄介事が始まったことを本能的に察した。
「用がねぇなら、こんな所で声かけっか、アホか。いや、アホだなおまえは…ちげぇよ、深刻な相談があんだ。ちょっとツラ貸せや、黒幕」
番長の語尾は乱暴だが、その声色にはいつもの軽快さがなく、どこか重苦しい響きが混じっていた。彼は腕組みをしながら、鋭い眼光で万桜を真っ直ぐに見つめる。
「神社のことで、ちょっと頭抱えててな。おまえさんなら、なにか面白いこと考えつくんじゃねぇかなと思ってよ」
番長はそう切り出すと、普段の豪快な笑みを引っ込め、真剣な表情になった。
「この辺のジジババもな、祭りは好きだけど、もう昔みてぇに大規模なことできねぇって、寂しがってんだ。うちの神社の土地も、使い道なくて荒れてる場所もあんのよ。それ、どうにかできねぇかなって」
彼の視線が、カフェの窓から見える、遠くの山へと向けられた。そこには、彼の実家である御井神社の社殿がかすかに見えている。
「特に、うちの御井神神社のこと、もっと多くの奴らに知ってもらいてぇんだ。ただの『番長神主の神社』じゃなくてな。おまえさんなら、この地の『水』の恵みと、俺の『自信作』の米や野菜、B級グルメを、もっと上手く宣伝したり、新しい形で提供したりする方法、思いつくかもしれねぇと思ってよ」
万桜はニヤリと笑う。番長の言葉を聞きながら、万桜の頭の中では、すでに様々な情報が高速で結びつき始めていた。御井神神社の立地は山の中腹。確かに、ちと不便だ。しかし、この「不便さ」こそが、彼の言う「空間の無駄」を解消し、新たな価値を生み出すための、最大のヒントになり得ると直感した。
「ふっふっふ……番長、いいこと思いついたぜ」
万桜の顔に、いつもの能天気な笑顔が戻る。いや、それ以上に、なにか面白い遊びを思いついた子供のような、無邪気な輝きを帯びていた。
「神社に人が来ねえ? 坂があるからさ。神社の不便さ? それ、ぜーんぶ解決できる最高のアイデアがあるぜ! 御井神神社でスーパー盆踊りをやるんだよ」
番長は眉をひそめた。万桜がこれほど自信満々な顔を見せる時は、大抵ろくでもないか、とんでもないか、どちらかだ。
「おい、黒幕。まさかとは思うが、とんでもねぇこと言い出してねえか? スーパー盆踊り? 寺じゃねえぜ?」
番長の言葉を、
「いいね。神仏再習合! いいじゃねえか?」
万桜はニヤリと笑ったまま、腕を組み、空を仰ぐように目を細めた。そして、まるでそこに、もう完成された光景が見えているかのように、高らかに宣言する。
「ロープウェイで曳き舟…いいね番長!」
カフェの喧騒が、一瞬遠ざかった気がした。番長は、その言葉の意味を理解するまで、数秒の時間を要した。そして、その強面の顔に、驚きと、どこか呆れたような、しかし微かな期待の入り混じった表情が浮かんだ。
「……はあ?」
万桜の口から放たれた唐突な言葉は、カフェの喧騒を突き破り、場の空気を一変させた。彼の瞳には、もはや目の前のカフェも、そこにいる人々も映っていないかのように、完成された未来の光景が広がっていた。その閃きが、熱を帯びた波動となって周囲に伝播する。
その瞬間だった。
テーブルに着いていた莉那と勇希は、万桜のその言葉を聞くや否や、まるで精密に訓練された黒き魔王(黒木万桜)の暴走を止める、白き勇者(白井勇希)と女魔法使いサブリナ(福元莉那)のように動き出した。思考の海に沈み込み、恍惚とした表情で空中を見つめていた万桜の、その頬を、二人の息の合ったハイキックが挟み込むように襲った。それは実際に当たることはなく、紙一重で躱されたか、あるいは寸前で止められたかのように見えたが、万桜の思考を現実へと引き戻すには十分だった。
「…ら、乱暴するのはよして?」
どうやら、紙一重で躱したようだ。万桜は弱々しく悲鳴。
万桜は、虚空を見つめたまま、呆然と口を開けた。彼の瞳にはまだ、ロープウェイの壮大なビジョンが残っているようだった。
この一連の出来事を、目の前で見ていた舞桜が、感情の乏しいその完璧な顔で、初めて素直な反応を見せた。彼女は、目をわずかに見開き、そして小さく口を開けて、
「……ポカン」
と呟いた。その様子は、まるで予期せぬエラーに遭遇した精密機械のようだった。
莉那と勇希にとって、万桜の突飛な閃きは日常茶飯事だった。しかし、その閃きが彼の口から飛び出し、具体的な「計画」として提示される時は、必ず「大ごとになる」という経験則があった。そして、なにかを万桜に持ち掛ける際、あるいは万桜がなにかを閃いた際は、必ず勇希か莉那を通すという、チーム内の不文律が存在し、勇希や莉那は動物的、あるいは女の直感で、それを察知する癖がついていた。
これは、彼の思いつき的な発想を、現実的なプロジェクトとして機能させるための、言わば「安全装置」だった。今回のハイキックは、その「安全装置」が、万桜が勝手に突っ走ろうとしたことに対する、条件反射的な起動だった。
その白き勇者と女魔法使いサブリナの動きは、次には、まさに暴走しかけた黒き魔王(黒木万桜)の企みの詳細を聞き出すかのように、依頼人たる番長へと向けられた。
莉那は素早く体勢を戻し、厳しい視線を番長へと向けた。勇希もまた、その背後から番長を射抜くような目で続いた。二人の声が、カフェの空気を震わせる。
「「話せ」」
番長は、二人のまるで鋼鉄の圧力に、ゴクリと唾を飲み込んだ。万桜を介してではなく、直接自分に、この黒き魔王の暴走を制御せんとする白き勇者と女魔法使いサブリナが要求していることに、彼は軽く気圧された。彼らの瞳は、明確な情報を求めている。この「ロープウェイ計画」を遂行するために、なにが必要で、どんな壁があるのか、全てを話せと。
「お、おっと……」
番長は、強面にも似合わず、しどろもどろになった。リーゼントの頭を軽く揺らし、鋭い眼光は泳ぎ、普段の豪放な態度は鳴りを潜めている。
「「いいから話せ」」
畳みかけるような莉那と勇希の圧力に、番長はついに両手を上げた。全面降伏だ。
「さーせん。黒幕に直接、依頼しました。さーせん!」
彼の口から出たのは、いつもの「俺」ではなく、完全にギブアップを意味する平謝りの言葉だった。その姿は、まるで悪さを咎められた子供のようにも見え、ギャップが際立つ。莉那と勇希は、そんな番長の様子を満足げに見つめると、互いに視線を交わし、静かに頷いた。プロジェクト始動の号令は、既に下されたのだ。
★★★★★★
蒸し暑い夏の日差しが、まるで熱波を実体化させたかのごとく照りつける中、信源郷町のカフェからほど近い山道を、五つの影が連なって進んでいた。アスファルトの照り返しは、蜃気楼のように陽炎を揺らし、都会の喧騒とは無縁の静寂が、蝉の声と共に彼らを包み込んでいた。
先頭を行くのは、Tシャツにハーフパンツという夏らしい軽装の万桜と、アロハシャツにジーンズという季節外れのいで立ちにもかかわらず、その存在感は揺るぎない番長であった。彼らの後ろには、先ほどまでカフェで涼んでいた舞桜、莉那、そして勇希の姿がある。山道とはいえ、カフェから番長が兼ねる社務所までは、大人の足なら程なく到着する距離だ。全員が普段着に近い服装で、時に小石を蹴りながら軽快に歩を進めていた。
万桜のTシャツは、汗で皮膚に吸い付くように張り付き、日々の農業で鍛え上げられたしなやかな筋肉の輪郭を、芸術作品のように露わにしていた。足元はスニーカーながら、その慣れた足取りは、山道と一体化しているかのようだ。彼の瞳は、物理的な光景を捉えるよりも遥か先の虚空を見つめ、脳内の広大な仮想空間に、まだ骨組みだけの未完成な城郭を眺めていることがありありと伺える。その思考は、周囲の現実とは一切の接点を持たない、彼だけの秘密の領域へと深く潜行していた。
「……坂に、川を張る……か。いや、水だと流れる……吸水ポリマー? いや、それだと乾く……ならば、膜に包まれた水や空気の層を何重にも……それなら、舟は地面に接触せずに浮力を得る……いや、目的は抵抗の軽減だ……」
万桜は、周囲の者には意味不明な独り言をぶつぶつと呟きながら、自身の突飛なアイデアを頭の中で反芻していた。彼の顔には、幼い子供が複雑怪奇なパズルに挑む時のように、純粋な困惑と、同時に底知れない狂気じみた愉悦が、混沌とした色彩で混じり合っていた。その表情は、凡人には理解不能な、一種の「変態」性を帯びていた。
「万桜! またおまえ、思考の海に深々と潜り込んでいるのではないか? 何をぶつぶつ言っているのだ? 今、何を考えているのか教えてくれ。まさか、とんでもないことを企んでいるのではないだろうな?」
勇希が、親しみを込めた、しかし僅かに呆れと警戒が混じった声で万桜に問いかけた。彼女もまた、機能的な服装を選んでいるものの、山道を歩く中で額には健康的な汗が宝石のように浮かんでいた。茶色の長髪はポニーテールに結ばれ、都会的な洗練さと活動的な印象を両立させている。東京での都会的な生活から一転、自然豊かな故郷の山道を歩くことに、意外なほど心地よさを感じているようだった。彼女の瞳は、万桜の思考の軌跡を捉えようと、僅かに細められている。その視線の奥には、彼への揺るぎない信頼と同時に、いつもの彼の「やらかし」に対する、熟練の予防線が何重にも張り巡らされていた。
その時だった。まるで予期せぬエラーを検出した精密機械が、自動的に修正プログラムを起動するかのように、舞桜が、一歩前に踏み出た。その動きは淀みなく、寸分の迷いもなく、まるで計算され尽くしたかのような正確さで、勇希と万桜の間に滑り込む。彼女の顔には相変わらず感情の機微は読み取れないが、そのやや高音で冷たい声には、微かな、しかし明確な「不愉快」の響きが混じっていた。それは、彼女の内部で「潜在的な競合」という、予測不能なバグが発生したことを示唆していた。
「ご心配には及びません、白井さん。黒木の発想は、常に社会に新たな価値をもたらす可能性を秘めています。その実現に向けて、あたしが既に共同で検証を行っていますので」
舞桜の言葉は、完璧なまでに論理的で、万桜の突飛な発言を現実的な視点から擁護するものであった。だが、その背後には、勇希が万桜に親しげに問い詰めた瞬間、舞桜の脳内で警鐘がけたたましく鳴り響き、これまで認識していなかった新たな「変数」が、瞬時に彼女のデータベースに刻み込まれていたのだ。それは「潜在的な競合」という、彼女のプログラムを乱す予測不能な要素であった。その「不愉快」という、プログラム上のエラーとも呼べる感情が、彼女を衝き動かした。彼女の狙いは、万桜の注意と関心を自分へと引き戻し、二人の間に、目に見えないが揺るぎない境界線を引くことであった。
勇希の視点から見ると、舞桜の突然の割り込みは、まるで精巧なロボットが予期せぬ障害物を排除するかのような、無機質な動作に見えた。自身の問いかけが宙に浮き、万桜との間に見えない壁が築かれたような感覚に、彼女の心にはわずかな困惑が生まれた。舞桜の完璧な論理と、そこに滲む冷ややかな感情の欠片は、勇希の内に潜む競争心を、静かに、しかし確実に刺激した。それは、彼女の無意識下の防衛本能に、微かな亀裂を入れるかのようであった。
(こ、この女、今、あたしが万桜と話していたのに……)
彼女の脳裏に、そんな独り言がよぎる。舞桜の「ご心配には及びません」という言葉は、まるで自分の存在意義を否定するかのような、冷徹な響きがあった。万桜を守り、導くのは自分だという長年の自負が、一瞬、揺らぐ。しかし、すぐに彼女の「白い勇者」としての理性と、舞桜の言葉が、万桜の突飛な発想を擁護しているという点では、自身が万桜を心配しているのと同じ方向性であることに気づき、一旦は思考を停止させる。だが、舞桜の瞳の奥に感じた、微かな、しかし鋭い「排他性」に、勇希の警戒心は水面下でじりじりと高まった。これは単なる議論の介入ではない、と彼女は直感的に察した。
(この女ッ、ま、万桜に対して、まるで私物のように執着している……?)
勇希の優しい目元に、ほんのわずかながら、鋭い光が宿った。これまで感情をあまり見せない舞桜の、この唐突な行動に、勇希は彼女の隠された意図を読み取ろうと試みる。万桜を「正す」という使命感に加え、彼への純粋な片思いを抱く勇希にとって、この舞桜の動きは、新たな「競合相手」の出現を明確に意味していた。まるで、長閑な湖面に突如として現れた、静かなる捕食者のようであった。
「この魔王はね、いつも頭の中でとんでもないことばかり考えてるのよ、舞桜。それで、私とか勇希が、時々軌道修正してやらないと、とんでもない方向に突っ走るから、大変なんだから」
莉那が、舞桜の隣を歩きながら、まるで解説者のように説明した。彼女は、動きやすいカーキ色のカーゴパンツに明るいグレーのTシャツ、そしてスニーカーという、活動的でありながらも、男性から見ればその健康的なラインが際立つ装いだ。額に巻いた青いバンダナが、彼女の快活な印象を一層引き立て、まるで夏の太陽が擬人化したかのようだった。
「勇希と私は、この魔王の暴走を止めるストッパー役ってわけ。で、番長は、その暴走に巻き込まれる、いい獲物……じゃなかった、仲間って感じかな!」
莉那は悪戯っぽく笑い、番長に視線を送った。その視線は、まるで獲物を品定めするかのような、しかし親愛に満ちた輝きを放っていた。
番長は、いつものアロハシャツにジーンズという恰好で、その体格と相まって威風堂々とした佇まいを見せている。汗を拭いながらも、ぶっきらぼうな口調の中に、微かな優しさを滲ませていた。それは、まるで硬い岩石の奥底から湧き出す清らかな泉のようであった。
「おいおい、福元。勝手なこと言ってんじゃねぇよ。おまえらだって、魔王のアイデアにゃいつも乗っかりたがってんじゃねぇか」
番長が、ぶっきらぼうに莉那に返した。彼の言葉には、万桜を黒幕と呼ぶ親愛と、仲間へのからかいが、絶妙なバランスで混じり合っていた。
「魔王のアイデアは、常に常識の向こう側にあるからな。面白いのは確かだね番長」
莉那が、上の空で応じる。彼の意識は、すでに次の仮想実験へと移行しているかのようだ。
「坂に川を張るというのは、水の流れを制御するという点で、エネルギー効率の課題が伴うでしょう。もし、吸水ポリマーのようなものを応用するとしたら、水の消費量は抑えられますが、耐久性やメンテナンスの側面で新たな問題が生じる…」
舞桜が、万桜の独り言に、まるで精密なデータ分析を行うかのように続けた。彼女の瞳は、万桜の思考の軌跡を追うように鋭く光る。その視線は、彼の脳内に広がる未踏の領域を、一歩ずつ解明しようとする科学者のようであった。
「そうだ。それに、単に水を流すだけでは、流速や深さの均一性を保つのが難しい。輸送手段として安定性を求めるなら、水路の構造自体に工夫が必要になる」
勇希もまた、万桜の言葉を受けて自身の見解を述べた。彼女の視線は、目の前の山道を具体的な課題として捉え、即座に現実的な解決策を探る、熟練の官僚そのものだ。
「そうなんだよな……」
万桜は、二人の分析に相槌を打ちながらも、その心はすでに別の可能性の森をさまよい、再び独り言を呟いた。
「水と空気の層を何重にも重ねた膜で坂道全体を覆うのはどうか。舟を地面に接触させずに浮力を得る……いや、これだけだと浮力は足りない。あくまで抵抗の軽減が目的だ」
万桜は、再び頭の中でアイデアを練り始めた。その思考は、無限の可能性を秘めた宇宙のように、広がり続けていた。
「水と空気の層を重ねるという発想は、流体潤滑や空気浮上の原理に通じます。舟の底と路面の間に薄い流体の層を形成することで、固体間の直接的な摩擦を大幅に削減できる可能性はあります」
舞桜が、万桜の言葉を受け、その応用可能性について言及した。彼女の口調は依然として丁寧だが、その知的な好奇心は、まるで夜空に瞬く星のように隠しきれない。
「だが、何層もの膜が本当に機能するか、その耐久性や、層の間を均一に保つ技術的な課題も大きい。もし破れてしまえば、効果は失われる。ましてや坂道全体を覆うとなると、膨大なコストと手間がかかる」
勇希が、現実的な視点から課題を指摘した。彼女の声は、まるで冷徹な監査官のように、夢物語を現実の数値へと引き戻そうとしていた。
「そうなんだよな……でも、工夫すれば、少ない力で坂を進むボートが見えたんだ」
万桜は、自分の脳内に浮かんだ鮮明なビジョンを語るように、ぽつりと言った。その瞳は、まだ誰も見たことのない未来の光景を捉えているかのようであった。
やがて、鬱蒼と茂る木々を分け入った山の中腹に、苔むした石段の先に立つ社殿が姿を現した。その姿は、幾世代もの祈りが染み込んだかのように重厚な気配を放ち、訪れる者を静かに、しかし有無を言わせぬ力で圧倒する。山全体が、その悠久の歴史と、目に見えない女神の息吹に満ちているかのようだ。
社殿の脇には、番長が暮らす簡素ながらも厳かな社務所がひっそりと佇む。その窓からは、眼下に広がる信源郷町の豊かな田園風景が一望でき、彼が丹精込めて育てた稲穂が風に揺れる様を、日々見守っている。それはまるで、彼自身がこの土地の守り神であるかのような、確固たる存在感を示していた。
「到着! さ、上がってくれ。冷たいお茶でも出すよ」
番長が、強面を和らげて招き入れた。その声には、日差しの下を歩いてきた一行への、素朴な気遣いが滲んでいた。一行は社務所の中へと足を踏み入れた。
広々とした社務所の居間は、簡素ながらも清掃が行き届き、どこか凛とした空気が漂っていた。中央には大きな座卓が置かれ、その周りには座布団が整然と並べられている。番長は、手際よく冷蔵庫から冷えた麦茶と、自作の漬物を取り出した。その手つきは、彼が的屋の仕事で培った手際の良さを感じさせ、まるで熟練の職人が道具を扱うかのようであった。
居間には、冷えた麦茶と、番長が自作したと思われる素朴な漬物が運ばれてきたが、その場の空気は山道を歩いている時とはまた異なる、微かな殺伐感に包まれていた。それは、まるで目に見えない化学反応が起こっているかのようだ。万桜の浮かれた様子と、それを取り巻く女子三人の、互いを探るような視線が、その殺伐とした空気を作り出しているかのようだった。
「いやー、しかし涼しいな、ここ。やっぱ山の上は違うな」
万桜が、座卓に座りながら、気持ちよさそうに息を吐いた。彼の言葉には、場の空気など一切気にも留めない、天真爛漫な無邪気さが滲み出ていた。
「黒幕、山を舐めんな? 蜂も出る」
番長が、訝しげな視線を万桜に向けた。その目は、まるで経験豊富な猟師が、無頓着な若者を諭すかのようであった。
「た、確かに、って、どこでも出るわ」
万桜が、思わずツッコミを入れる。その声には、自分自身の思考に夢中で、周囲の現実を時折見失う彼らしい間があった。
「東京は出ないぞ…せいぜい足長蜂だ…」
勇希がポツリと呟いた。彼女の言葉は、都会の高層建築乱立と、故郷の豊かな自然との間に横たわる、見えない断層を暗示していた。
「それにしても、黒幕。そちらの…ええと、誰子さん、だっけかな?」
番長が、少し視線を泳がせながら、舞桜の方をちらりと見た。彼の口調はぶっきらぼうだが、その視線には、不器用な初心な小僧が滲み出ている。それはまるで、硬派な武士が、初めて触れる絹のような柔らかさに戸惑うかのようであった。
「ああ、ボッチか。こいつは俺の大学の同級生の茅野舞桜だ。ボッチ、こいつは俺の高校の同級生で、この神社の神主見習いをやってる番長だ。正式名称、祭谷結…厳つい顔してるが、初心な小僧だ」
万桜が、いつもの調子で気軽に紹介した。彼の口調は、まるで世界中の全ての垣根を取り払ってしまうかのような、人懐っこさを持っていた。
「茅野です。祭谷さん、はじめまして」
舞桜が、冷静ながらも丁寧に頭を下げた。彼女の視線は番長の顔を捉え、その豪放な外見と、時折見せる初心な小僧な仕草の間のギャップを、まるで未知のデータとして分析しているかのようだった。その顔には、微かな興味の光が宿っていた。
「おお、ご丁寧に。どうも、どうも」
番長は、舞桜の丁寧な挨拶にわずかに戸惑いながらも、慌てて頭を下げた。彼の顔には、初対面の美女に対する、どこか気恥ずかしさが浮かんでいた。その様子は、普段の豪快な番長からは想像もつかない、可愛らしい一面であった。まるで、猛々しい獅子が子猫のように縮こまるかのようであった。
「なあ、番長、そういやさっきの格好って仕事だったのか?」
万桜が、ふと思い出したかのように、番長に問いかけた。先ほどの奇妙な光景の方が気になっていたかのように、どこか楽しげだった。
「ああ~、あれか。なんか地鎮祭で呼ばれたけどな、旦那がクリスチャンだとかでな~。親父が嫌がったから、俺が行ってきたんだ」
番長は、ぶっきらぼうにそう答えた。彼の顔には、別に珍しいことでもないといった風情が浮かんでいる。
「へえ~、神主が神父の格好で地鎮祭? すげーな」
万桜は、面白そうにニヤニヤと笑った。神社の息子である番長が、クリスチャンの施主のために神父の格好をしたという事実が、彼の思考を刺激したようだった。
「ま、地鎮祭自体は日本の古くからの慣習だからな。神様は違うが、土地の安全を願うって意味じゃあ、どこも同じだろ。形はどうあれ、気持ちが大事ってやつよ」
番長は、腕組みをしながら、どこか達観したように言った。その言葉には、地方特有の柔軟さと、現実的な対応力が滲んでいた。
「…ていうかさ、クリスチャンの旦那が地鎮祭をそもそも頼むってのが、もうわけわかんないんだけどねー。地方あるあるかな~?」
莉那が、呆れたように呟いた。彼女の言葉は、その場の全員が内心で抱いていたであろう疑問を、ストレートに代弁していた。
「まあな。でも、そういうもんだろ、田舎ってのは。揉めるよりゃ、丸く収めた方がいいんだよ」
番長は、深く考えることもなくそう言い放った。彼の言葉には、都会の論理では計り知れない、地方社会の現実が凝縮されていた。
「あのさー、番長、そういえばさっき、なんかすごいB級グルメのアイデアがあるって言ってたよね? 出して出してー!」
莉那が、殺伐とした空気を察したかのように、明るい声で場を和ませようと割り込んだ。その声は、まるで夏の夕立が地面を清めるかのように、場の淀んだ空気を一掃した。彼女の言葉に、番長はホッとしたように表情を緩めた。その顔には、安堵と同時に、新しい獲物(料理)を披露できる喜びが宿っていた。
「おお、よく覚えてたな、福元! そうだ、とっておきがあるんだぜ。ちょっと待ってろよ!」
番長は、そう言うと、奥の厨房へと意気揚々と向かっていった。彼の足取りは、先ほどまでの気まずさなど微塵も感じさせない、軽快なものだった。その背中からは、料理への情熱が湯気のように立ち上っているかのようであった。
居間には、再び女子三人と万桜が残された。番長が場を離れたことで、再び空気は微かな緊張感を帯びる。それは、まるで嵐の前の静けさのようであった。万桜は、自身のアイデアについてなにかを考え込んでいる様子で、再び上の空になっている。その表情は、遠い宇宙の彼方を見つめる哲学者のようだ。舞桜は、そんな万桜を静かに見つめ、その隣で勇希と莉那が、互いに視線を交わし合っていた。その視線には、言語化されない様々な感情が込められていた。
痛いから