黒き魔王とシリコン・シェフ
前書き
2019年、2月中旬。甲斐の国大学のカフェ・ジャカジャカは、研究と教育の場という看板をかなぐり捨て、巨大な「欲望の特区」と化していた。
舞台は、バレンタインデーの美食対決。セイタンシステムズの「理不尽な効率」が産み出した「シリコン・シェフ」と、人間の「衝動」を体現するヤスが、愛という名のアナログな感情を、合理性というメスで切り開こうとしていた。勝敗は、「ノイズキャンセリング」を極めた町中華の巨匠、新田原元治の勝利で幕を閉じる。
しかし、その美食の喧騒の裏で、万桜の存在が、大学という枠組みを、そして「文明の常識」そのものを侵食し始めていた。
知識人たちは、万桜の経済力に屈服し、大学を「天国」と称賛した。そして、言語学の比嘉教授は、万桜の持つ新田原の合理的知見を制御するため、「魔改造エスペラント」という究極のAI制御言語の設計図を託す。
食から言語へと、万桜の領域が拡大した、その次の瞬間。
幹部自衛官候補生の藤枝と拓矢が、顔面を蒼白にして駆け込んできた。彼らが突きつけたレポートは、万桜が「完全無農薬農業」の副産物として生み出した、何の変哲もない「雑草」、犬麦とエノコログサが、地球規模のエネルギー危機を終わらせるほどの、究極のバイオマス燃料源であることを告げていた。
無限のエネルギー源が、何の悪意もない「雑草」という形で、何の緊張感もない「魔王」によって、あっけなく創造されてしまった。
これは、「不協和音」と「衝動」を愛する青年が、意図せず「世界の秩序」を破壊していく、極めて不純な文明シフトの物語である。
2019年。2月中旬。甲斐の国大学カフェ・ジャカジャカにて。
場内を包むのは、危機に立ち向かう英雄の、荘厳で、運命的なる魂の讃歌。
それは、炎と水がぶつかり合う宿命、命を懸けた者たちの、熱く、切ない、鎮魂歌であった!
その重厚な調べに乗せて、司会を務める加賀谷教授の声が、場内の空気を灼熱に変える。
「さあ! 挑戦者は! 大衆の胃袋を掴む、路地裏の覇者! 次世代の食を担う移動要塞が誇る、最前線の猛者!」
加賀谷教授は、その大振りな両手を、まるで舞台を切り裂くかのように振り上げる!
「セイタンシステムズのフードワゴン部隊、切り込み隊長こと長尾安治! 古都の香りを纏い、西洋の技で包み込む、鉄板の魔術師! 蕎麦クレープモダンのヤス!」
カフェの一角に設けられた特設キッチン、その照明が、長尾安治の鋭い眼差しを際立たせる!
続いて、教授は舞台をぐるりと回り、審査員席へと向き直る。その表情は、期待に満ちた猟犬のようであった。
「そして! 彼に立ちはだかる、伝説のシリコン・シェフたちを紹介しよう!」
教授は、まず審査員席の奥を指差した!
「海原の厳しさと、米一粒の命を知る、銀鱗の求道者! その神の指先が握る、至高の一貫は、もはや哲学!」
一拍の間! 教授の迫真の身振り!
「甦った寿司職人、葛城幸四郎!」
次に、中央の椅子を指差し、教授は声を一段と高く張り上げた!
「大地と炎の協奏曲を奏でる、厨房の革命家! 伝統と革新の融合、その皿は、まるで美術館のコレクション!」
また一拍の間。
「シェフである千葉譲二!」
最後に、教授は、手前の椅子に座る男の肩を掴み、その全身を揺さぶるように紹介した!
「路地裏に輝く、灼熱の鍋を振る巨星! 五千年の歴史を背負い、庶民の魂を揺さぶる、炎の伝道師!」
シンバルの響きの間。
「町中華の巨匠、新田原元治!」
加賀谷教授は、大振りなリアクションで甦ったシリコン・シェフたちを改めて見渡す。照明が、その大仰な笑顔を白く浮かび上がらせた。
もちろん、引退した職人たちは、それぞれの自宅にいて、遠隔でマカロニ・テンダーアンドロイドを操作している。操作は簡単で、リラックスした状態で料理をする動作をカメラに映すだけだ。それを人工知能が分析して、アンドロイドに動作するように指令をクラウドコンピューティングから送る。
「今日のテーマは、バレンタイン!」
加賀谷教授は、白衣の襟を正し、やや芝居がかった調子で教壇を叩いた。
「バレンタインとは、単なる『愛の告白』ではない。それは、人類が古来より試みてきた、『感情の熱交換システム』の究極形だ。愛という極めて『アナログ』な、非線形の情報を、チョコレートという『物質』を媒介にして、贈与者から受領者へとテレポートさせる『感情の量子テレポーテーション』なのだよ!」
教授の熱弁が、講義室に響き渡る。
「このシステムを成功させる鍵は、媒介となる物質、すなわちスイーツの『純度』と、それに込められた『熱量』の伝達効率だ。ヤス、君の『熱暴走』と、新田原の『最適化』、どちらが真の『愛の効率化』を実現したのか、見せてもらおう!」
ヤスは自信作を携え進み出る。
「さあ、教授! これが、愛の純度を物理法則に昇華させた、ヤッさんの『フュージョン・ノイローゼ・ショコラ』だ!」
ヤスは、箱入り娘な蕎麦、ストレスフリーなミルクから作った生クリーム、信源郷町が誇る贈答用果物をふんだんに使ったスイーツを出す。
皿の上に鎮座するのは、蕎麦粉のガレットともクレープともつかぬ、灰色の生地。その上には、乳酸菌すらストレスを感じさせぬよう過保護に育てられた純白の生クリームが、頂上が見えぬほどに過剰なまでに盛り付けられている。そして、クリームの上には、宝石のように輝く信源郷町の「太陽の葡萄」「奇跡の苺」「黄金の桃」が、それぞれが絶対零度の主役として、互いの領域を侵さぬよう完璧に分離して配置されていた。
一口食べた瞬間、舌の上で起こるのは、味の三次元衝突だった。蕎麦の硬質な香りが、ミルクの過剰なまでの優しさを打ち消し、それぞれの果物が「私だけを見て!」と叫ぶような、自己主張の過剰なオーケストラ。未完成状態でありながら、ストレスフリー食材の競合は、すべてが主張し、味がボヤケたものになる。
「「アホなんか…ヤッさん…」」
万桜は、口に入れたスプーンを静かに置き、氷点下の視線でヤスを射抜く。
「これは『純粋』じゃなくて、『無秩序』だぜ。個々の要素が極度に純粋すぎて、アンサンブルという『社会性』を完全に拒否している。教授の言う『熱量』は、それぞれが個別に発光するだけで、増幅どころか、互いの熱を相殺し合って『絶対零度の不協和音』になっている。この非合理極まりない献立は、まるで『独裁者の集まり』だ」
番長は、蕎麦の残骸が残る口元を乱暴に拭い、万桜は、さらに辛辣な言葉を吐き出す。
「その通りだぜ。なにがストレスフリーだ。食ってるこっちがストレス溜まるわ。最高の素材ってのは、最高の素材の邪魔をしちゃダメなんだよ。素材が喧嘩してるなんてのは、喧嘩じゃなくてただの内ゲバだ」
「その通りだぜ」
対して新田原が選んだのは点心スイーツフルーツ餃子。
新田原が最適解を求めた結果、シンプルな『彩り豊かなフルーツポンチ』が、薄い透明な求肥(フルーツ餃子)に包まれ、冷たい金色の器に美しく盛り付けられていた。それぞれの果物は、互いの甘さを引き立て合うよう計算され、全ての味が調和し、誰にも負担をかけない『最適化された幸福』を体現していた。
加賀谷教授は、その一口を口に含んだ瞬間、恍惚の表情を浮かべた。
「勝者! 新田原!」
教授は、身を乗り出し、絶叫した。
「ヤスは『熱量』を個体の中に閉じ込めようとしたが、新田原は『熱交換』の『効率』を最大化した! 点心という『受容体』が、フルーツポンチという『調和した多様性』を包み込み、『ストレスフリー』を真に実現した! これこそが、『シリコン・シェフ』が導き出した、感情のノイズキャンセリング・バレンタインだ! 論理と合理は、時に純粋な情熱を凌駕する!」
シリコン・シェフを盛大に讃えて、万桜と番長は、新田原の合理性を前に静かに頷き、ヤスだけが、崩壊した自分のスイーツを前に、膝から崩れ落ちていた。
万桜の口元に生クリームをすすめてくるのは、万桜の高校時代の後輩である杉野香織だ。
「黒木先輩! これ別々に食べるとメッチャ美味い! はい、あ~んして。あ~ん」
そう言って、万桜の口元に、蕎麦クレープの皿に残された純白の生クリームを、プラスチックのスプーンですくい取り、杉野香織がすすめてくる。その行為は、二次試験直前の極度の緊張感とは無縁の、あまりにも能天気な、そして純粋な「無邪気な意思」であった。
「うっま! 番長、これ全部が主役でうまくやれる方法ってないのか? つか杉野、おまえ入試とか…」
万桜は、口に入れた生クリームの極上のストレスフリーな純粋性に、思わず目を見開いた。個々の素材のポテンシャルが最高であることは、万桜も認めざるを得ない。しかし、その視線は、二次試験を控えているはずの後輩に向かう。
万桜が指摘すると、香織は、その瞳に微かな挑戦の色を宿して返した。
「先輩も去年のこの時期って、全力で自由でしたよね…」
去年の万桜は、まさにこの周囲で、番長たちと一緒になって、バレンタインスイーツを売り捌き、受験と無縁な大学生たちの秩序を乱していた。その過去の「不純物」を指摘され、万桜は言葉に詰まる。
「簡単じゃねえか。主張するなら、その主張に応じればいい」
番長は、無造作にヤスの前に立ち、敗北した素材が散乱するテーブルを平定した。
番長は、ヤスの失敗作であるクレープの生地に、別皿から持ってきた生クリームを躊躇なく混ぜ込む。さらに、生クリームに極上の贈答用果物を刻んで混ぜ、混沌を融合させた。
彼が目指したのは、新田原元治の「最適化された調和」ではない。「主張する個性の熱量」を、抑え込むのではなく、「受け止めて増幅させる」という、荒々しい『勇者の哲学』であった。
番長は、焼きあがった新しいクレープに、先ほど作った具材を包み、そっと溶かしたチョコレートソースを「赦しの証」のように飾った。
香織が受け取ったそれを、まるで「起死回生の一皿」を扱うかのように、一口食べた瞬間、その表情が固まる。
「け、結婚しよう番長! ウチ、ゼッテー幸せにするから!」
香織は、その完成された「熱狂の味」に理性を完全に破壊され、公衆の面前でプロポーズを叫ぶ。これは、新田原のスイーツがもたらした「最適化された幸福」とは真逆の、「感情の熱暴走」であった。
番長は、左手の薬指に嵌った、既婚者たる証明の指輪を静かに提示し、その申し出を拒絶する。
「自分、既婚者ですんで」
「ちぇー。じゃあ黒木先輩でいいよぉ」
香織は驚くべき早さで妥協という名の合理性を選択し、ターゲットを万桜に変更した。
「俺にも選ぶ権利あるからな?」
万桜は、完成版ストレスフリークレープを口にし、その味に納得しながらも、後輩の熱烈なプロポーズを完全にスルーした。この再構築されたクレープは、万桜の「不協和音こそが世界の真理」という、歪んだ哲学を、美食の形で肯定したのだった。
万桜の手から、番長作の「再構築クレープ」を巧みに引き抜いた舞桜は、新田原元治のスイーツ餃子には目もくれず、それを一口でスルリと頬張った。その優雅で、しかし一切の遠慮のない動きの途中で、舞桜は、未だに番長へのプロポーズの余韻に浸り、目をハートにしている杉野香織の容姿を改めて認めた。
同性の視点からしても、香織は飛び抜けて魅力的な女子である。明るく、行動的で、何より今のカフェ・ジャカジャカの張り詰めた空気とは無縁の、「無邪気な熱量」を持っている。
なぜ万桜は「け、結婚する?」とならないのだろう。万桜自身が、誰よりも「不協和音」と「衝動」を愛する存在のはずなのに。
「黒木、どうして杉野さんには…」
万桜の、その不可解な振る舞いを舞桜が口にすると、万桜はクレープを咀嚼しながら、アッサリと、そして少しだけ疲れたような理由を口にした。
「あいつの狙いは、俺じゃなくて勇希なんだよ」
万桜は、勇希を指した。その理由に、舞桜は硬直した。万桜と勇希は、常に「対」の存在として行動している。香織が憧れる対象は、「黒木万桜と勇希、この二人が織りなす伝説」という偶像全体なのだと、舞桜は瞬時に理解した。
「え、えっと、その、いろいろな人がいるわよね…」
舞桜は、その複雑な構図を理解したものの、どう言葉にしていいか分からず、紋切り型な言葉で濁した。万桜は、その言葉に苦笑を浮かべる。
「そうじゃねえよ。某歌劇団のファンみてーなもんだ。別にそっちじゃねえ。メンドクセーって、前にも言ったろ…俺も勇希も、杉野の前じゃ演じねえとならねえんだ…ま、先輩なんだから、仕方ねえけどよ…」
杉野香織の立ち位置を、万桜は簡潔に説明した。
香織は、万桜たちの「ファン」なのだ。彼女の心の中で、万桜は「秩序をぶっ壊す天才的なワルガキ」であり、勇希は「その暴走を止めるストッパーにして最高の相棒」という、完全に構築された「物語」の登場人物である。
だから、万桜たちは、彼女の前ではその完璧な先輩像を演じ続けないとならない。それが、「偶像」として見られることへの、万桜たちにとっての、目に見えぬ『精神的負荷』だった。
「カオリン。部屋決めた?」
福元莉那は、勝利者の新田原元治のスイーツ餃子を口にした後、その場で番長が再構築したクレープにも手を伸ばし、二種類の甘味の「不協和音」を楽しんでいた。莉那が、受験生である香織に、まるで旅行の話題でも振るかのように、あっけらかんと尋ねる。
「白井先輩の部屋の隣です。福元先輩」
受験直前であるにも関わらず、香織は莉那の問いに、まるで受かることが天の理であるかのように、アッサリと答えた。彼女にとって、勇希のいる東京本郷大学に入学することは、「推し」のいる聖地への「引っ越し」に過ぎない。その場所は、当然、勇希の部屋の隣に確保されている。
「まあ、杉野が落ちることはあるまい。落ちたら落ちたで、セイタンシステムズの東京専属スタッフでもいいしな」
そう言う勇希の口元には、再構築クレープの生クリームが、まるで無邪気な子どもの勲章のように付着していた。香織はそれを見て、推しの完璧ではない部分に、むしろ喜びを覚えたようにため息をつく。そして、ため息の後、呆れながらも、私物であるハンカチで勇希の口元を優しく拭ってやった。その手つきには、「推し」の面倒を見るという、彼女の揺るぎない使命感が込められていた。
「ねえ、黒木…どの辺? どの辺に憧れる要素がある?」
舞桜は、未だにその構図が理解できない。万桜の破壊的な才能と、勇希の寡黙なカリスマ。どちらも理解はできるが、なぜ杉野香織ほどの美貌と実力を持つ者が、そこまで熱狂的な「ファン」になるのか。舞桜は、勇希の拭き残された口元を凝視しながら、万桜に尋ねた。
「あれじゃん。ゆるカワ」
万桜は、舞桜の問いを「思考のノイズ」として一蹴した。
勇希の、一見するとお嬢様然としているが、実際はどこか抜けている天然さ。万桜といる時の、わずかに見せる「仕方ないなあ」という親愛の情。それが、香織の中では、完璧な「推し」の要素として機能しているのだ。その「ゆるカワ」の要素は、もはや矯正不可能であり、それが彼女の「アイドル性」を決定づけている。
万桜は、その事実に半ば辟易しながらも、「先輩という名の偶像」を演じるという、不可避な負荷を受け入れたのだった。
カフェ・ジャカジャカ周辺は、国立大学のキャンパスらしからぬ、異常な熱気に包まれていた。それは、受験前の緊張感ではなく、金銭が流通する喧騒である。
万桜たちが生み出したロッドロボによる完全オーダーメイドグッズは、学生たちの手に渡り、多層構造農業の産物である究極のストレスフリー食材が並ぶ市場は、一般の買い物客で溢れかえっていた。そして、引退した職人たちが、その安全な食材で提供する安くて安全な料理の屋台が、並木道の両脇を埋め尽くす。
もはやここは、研究と教育の府ではない。それは、セイタンシステムズの従業員とその家族に限定された、高度に機能する特区ショッピングモールと化していた。
万桜は、その光景を睥睨し、満足げに舞桜に尋ねた。
「養蚕と養蜂って順調に進んでるらしいな」
その言葉は、まるで自分の庭の作物の生育状況を確認するかのようであった。彼らのプロジェクトは、食料、生産、流通、そして遺伝子レベルの資源にまで拡大し、信源郷町全体をゆっくりと、しかし確実に覆いつつあった。
「ええ、そっちも順調よ…」
舞桜は、スイーツ餃子の皿を持ちながら、静かに答えた。彼女の視線の先には、ロッドロボが稼働する配送センターと、最新の断熱圧縮技術で保冷された農産物を運ぶトラックが見える。
「北野学長から、産学の分離が示唆されないかしら…」
舞桜は、ショッピングモールの喧騒のただ中で、ぽつりと懸念を口にした。
この大学は、もはやセイタンシステムズの巨大な実証実験場である。学長が、この「巨大すぎる利益」と「大学の伝統」の分離を言い出すのも時間の問題だと感じていた。それは、万桜たちの「文明シフト」が、次の段階に進むべき時期に来ていることを示唆していた。
「「「分離? これを手放すだなんてとんでもない!」」」
舞桜の口から出た「産学の分離」という懸念は、その場にいた北野学長、西岡教授、鬼越助教授の三者から、まるで合唱のような大否定をもって迎えられた。三人は、手にしていた新田原元治のスイーツ餃子や、番長作の再構築クレープを堪能しながら、顔を見合わせる。
「茅野くんが懸念するのは、もっともだけどね」
北野学長は、悠然とした態度で喧騒を眺めた。
「大学としちゃ願ったりですよ。経済が回り、不審者が近寄れない」
学長は、遠くのフードワゴンを指した。セイタンシステムズの従業員とその家族のみが利用できるという「村社会」という名の集合が、外部の者を自然と排除し、強固なセキュリティを構築している。そして、最も重要なこと。
セイタンシステムズが稼いできた膨大な『外貨』が、食券や福利厚生という経費の形で、この信源郷町の地域経済を循環させている。結果、大学の研究費でさえ、万桜たちのビジネスが生み出す利益によって、十分に賄えるようになっていた。
「それに研究員たちにとって、この大学は天国だよ。舞桜くん。そうだね、比嘉教授?」
西岡教授は、そう言って、カフェの特等席で山盛りのクレープを食べている比嘉教授に投げ掛ける。比嘉教授は、半年あまりの間でまるまる肥ったと一目でわかる、見事な体躯になっていた。
「まったくですね」
比嘉教授は、満面の笑みでクレープを噛みしめ、力強く頷いた。その笑顔は、かつての困窮を知る者には重い。
日本の大学、特に助教授以下の研究員は、競争的資金の獲得に常に苛まれ、生活費と研究費の板挟みになり、食費や家賃を心配しながら研究を続けるという、極度のプレッシャーに晒されている。
「ここでは、食費を心配する必要がありません」
比嘉教授は、そう宣言した。セイタンシステムズの『ストレスフリー食材』は、大学の福利厚生システムを通じて、研究員たちに安価で提供されている。
甲斐の国大学は、「金の卵」を産み続ける万桜たちを手放す理由が、もはや「哲学」にも「倫理」にも存在しないことを、学長たちはここに確認し合ったのだ。
「不便は発明の母って言うけど、それがネックですが、ここではそれすら関係ない」
比嘉教授は、満面の笑みのまま続けた。彼の腹を満たし、生活の不安を消し去ったセイタンシステムズの『絶対的な充足』。それは、大学が持つ本来の機能、すなわち「不便が生む創造性」を奪い去ったことを意味する。
「ですが、それが私たち研究員にとって、ストレスは必ずしも敵ではありません。むしろ閃きをもたらすノイズです」
教授は、身体の厚みとは裏腹に、眼光だけは鋭く、万桜に視線を向けた。
「この充足と、その周囲に広がる『理不尽なまでの効率性』こそが、黒木くんが連れてくる文明のシフトです! こんな不条理にあって、閃きを獲ない研究員は学者じゃない」
比嘉教授の言葉は、自己の安寧と、それでもなお「知の探求」を捨てない、知識人の悲哀と決意を同時に含んでいた。
教授は、万桜に向かって、まるで最後の賭けを託すように、手に持っていた紙片を差し出した。それは、一見すると大学の裏紙のようだったが、びっしりと羅列された見慣れない文字で埋め尽くされていた。
それは、教授が言語学者としての知識と、万桜の天才的な発想を融合させて極秘裏に進めていたプロジェクトの残骸だった。
「これは、『魔改造エスペラント』の初期設計図です。かつて黒木くんが示唆した、AIの中間言語としての人工言語。これを、感情の量子化、人格の付与、そして曖昧な性別表現の排除を極限まで突き詰めた、『概念直訴型言語』へと魔改造する」
万桜は、その紙片を無言で受け取った。彼の表情は、一瞬にして、美食の対決の熱狂から、世界の設計図を読み解く『魔王』の顔へと変貌した。
「これを完成させれば、シリコン・シェフのロストの原因となった『人間の衝動』や『個体差』といったノイズを、AIが『言語』として完璧に処理し、制御できるようになる」
それは、AIを制御する言語の完成であり、同時に全人類の思考と感情を管理下に置くための、究極の哲学言語の設計図であった。
北野学長たちが「魔改造エスペラント」という究極の言語の設計図に熱狂しているその瞬間、カフェの入り口から二つの異なる種類の「ノイズ」が、嵐のように飛び込んできた。
「ま、魔王さまーッ!」
一人目は、幹部自衛官候補生の藤枝。普段の鉄壁の規律をかなぐり捨てたかのような、悲鳴に近い叫びだった。
「ま、万桜、おまえ。やりやがったな!」
もう一人は、同じく候補生の拓矢。藤枝とは対照的に、怒りと諦めが混ざり合った、地を這うような低い声だった。拓矢は、汗で湿ったレポート用紙を、テーブルの中央に叩きつけるように渡した。
そのレポートには、「完全無農薬農業」で意図的に生命力を極限まで高められた「犬麦」と「エノコログサ」、すなわち「雑草」のデータが並んでいた。
その結論は、驚くべきものだった。
【犬麦とエノコログサのバイオマス燃料としての可能性:報告】
・異常なセルロース合成率: ストレスフリー環境下で育ったそれらの「雑草」は、極めて短期間で、通常の植物の数倍に及ぶセルロース(植物性繊維)を合成していた。
・高効率なメタン生成ポテンシャル: バイオマス化処理をした際、そのセルロース構造の単純さから、従来の穀物系バイオマスよりも30パーセント以上高い効率でメタンガスを生成するポテンシャルを示した。
・結論: 万桜たちが作り出した「雑草」は、地球規模での化石燃料代替を可能にする、究極の次世代バイオマス燃料源となり得る。
「ああ、やっぱり? いやあいつら生命力強いからさあ、そうじゃねえかと思ったんだ」
レポートを斜め読みした万桜は、「魔改造エスペラント」の設計図をテーブルに戻し、あっけらかんと答えた。まるで、「傘を持ったら雨が降った」程度の些細な出来事のように。
その瞬間、カフェ全体が、絶対零度で硬直した。
北野学長は口に運んでいたスイーツ餃子を落とし、比嘉教授は「魔改造エスペラント」の紙片を掴んだまま、痙攣したように固まった。舞桜の顔からは血の気が引き、「雑草」が、大学という枠組みを超えて「世界」を燃やし尽くす可能性を悟った。
藤枝と拓矢は、この無関心な「魔王」こそ、人類史がこれまで追い求めてきた「無限エネルギー」を、何の悪意もなく「雑草」という形で生み出した張本人であることを再認識し、戦慄した。
万桜が作り出した「ノイズ」は、「食」から「言語」へ、そして今、「エネルギー」へと、文明の根幹を次々と侵食し始めたのだ。
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!
皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!
引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!




