黒き魔王の燻煙と寿司職人
この地の一角、セイタンシステムズの旧休憩室は、未来を賭けた異形の実験場と化していた。そこにあるのは、炎なき超高温を実現する「炭火香テンダー」と、東京の引退した寿司職人の「技」を宿したマカロニ・テンダーアンドロイド。
若き天才エンジニア万桜の発想、番長の職人気質の食材知識、そしてAI技術が、日本の食文化を根本から破壊する「劇物」を生み出そうとしていた。
チヌーク輸送ヘリで運ばれた極上の海の幸が、AIの指先によって「究極の炙り寿司」へと昇華し、若者たちの議論は、数兆円規模の「文明シフト経費」へと発展する。常識の壁を打ち破る彼らの前に立ち塞がるのは、市議、学長、そして老練な職人の「正論」と「舌」。
そして、究極のテクノロジーが生み出した「胡瓜の神」が、すべてを破壊し、次のステージの幕を開ける。
これは、「死蔵された財産」である熟練の技と、「未来の最新技術」が火花を散らす、食の革命の物語である。
2019年2月節分。甲斐の国大学、セイタンシステムズ拠点の旧休憩室にて。
旧休憩室は、いつもとは違う緊張感に包まれていた。テーブルの上には、万桜が設計し、佐伯が構造体を組み上げた「炭火香テンダー」が置かれている。それは、黒い耐熱樹脂とステンレスノズルで構成された、無骨なドライヤーのような形状をしていた。
その装置の脇には、燻煙用のウッドチップを入れるための小さなチャンバーが取り付けられており、空気取り入れ口は、有線給電の強力な高圧ブロワーに直結されている。
炎は使わない。ガス臭は皆無。断熱圧縮によってのみ超高温を生み出す、万桜の「劇物」的発想の結晶だ。
「今日は優等生を試すぜ。サーモンだ」
番長は、無言で、手慣れた所作でサーモンを捌いてゆく。
まな板の上で、脂が乗った分厚い銀色の身が、番長の包丁の軌跡に合わせて、淡いオレンジ色へと姿を変えていく。番長の捌きは、豪快な風貌からは想像できないほど繊細だ。皮と身の間の一番美味しい部分を壊さぬよう、僅かな振動も与えずに、ゆっくりと刃を進める。
サーモンの表面にうっすらと浮き出た乳白色の脂が、彼の技術の証だ。番長は刺身のような厚切りではなく、皮目を残したまま、表面だけを炙るためのステーキ状の短冊に切り出す。
彼にとって、サーモンはナマズとは違う。養殖技術によって既に完成された「優等生」の食材だ。その優等生を、さらに高みへと導くのが、新しい調理器具の役割だと番長は考えていた。
「番長、サーモンにあう香りってなんだと思う?」
万桜は、足元に広げられた燻煙用の木炭チップのサンプル袋を指で選別しながら、番長に投げ掛けた。
「そうだなあ……」
番長は、まな板のサーモンを一瞥し、すぐに答える。
「鮭の脂は重いから、香りは軽く、かつ鮮烈じゃねえと負ける。桜チップは甘くて芳ばしすぎて、かえって脂をクドくする。ヒッコリーじゃあ強すぎる」
番長は、迷うことなく万桜の足元の袋の一つを指さした。
「ブナだな。ブナの木は、燻煙にすると香りが控えめで、食材本来の旨味を邪魔しねえ。そのかわり、淡い香りが長時間残る。こいつで、サーモンの上質な脂を、ガス臭なしで炙り切る」
番長の選択は、まさにプロのそれだった。
「なるほどねー」
万桜は、ブナチップの袋を掴み、テンダーのチャンバーにそれをセットした。
「よし。まずはオーソドックスが一番だよなー」
万桜は、漆黒の炭火香テンダーを手に取った。そのノズルは、先細り(断熱圧縮)から急拡大(作用反作用による拡散)へと変化する、独特な形状をしている。
番長が切り出したサーモンを耐熱皿に置き、万桜はテンダーの電源を入れた。
「ゴーッ」という、巨大なドライヤーのような、それでいて異様な密度の高い送風音が室内に響く。
ノズルの先端に炎はない。赤熱した金属も見えない。
見えるのは、ブナの燻煙だけだ。
断熱圧縮によって超高温になった空気の流速に乗り、チャンバー内で燻されたブナの白い煙が、勢いよく拡散しながらサーモンの皮目へと吹き付けられる。
ジリジリ、ジジジ……
サーモンの皮目が、一瞬で収縮し、まるで白い雪が溶けるように、瞬時に焼き色へと変わっていく。
熱風はサーモンを吹き飛ばさず、優しく、しかし確実に炙っている。
そして、その場に充満したのは、ガスバーナー特有のあの臭いではない。
遠くのキャンプ場から風に乗って届いたような、ブナの木が持つ、純粋な炭火の芳ばしい香りだけだった。
「いやあ、ボッチの兄ちゃんが寿司職人のじいちゃん紹介してくれてよかったぜ」
万桜は満面の笑みでそう言った。
万桜が指差す先には、マカロニ・テンダーアンドロイドがいた。その金属のアームは、目の前に設置された高速度カメラと、ノートパソコンに走る人工知能によって制御されている。
東京の自宅にいる引退した寿司職人、葛城幸四郎は、安楽椅子に座り、まるで瞑想するかのように、ゆっくりと、しかし完璧なリズムで空中で寿司を握る動作を繰り返していた。彼の指先の微細な動き一つ一つが、カメラを通じてAIによって解析され、リアルタイムでアンドロイドのアームへと転写されていた。
マカロニ・テンダーアンドロイドは、無表情な樹脂製の顔と、極度に滑らかに動く手首を持っていた。その動きは、油圧の力強い音ではなく、無数の「マカロニ型パイプビーズ」が微細に連結する、囁くような駆動音と、「側面の穴を通る高分子の糸(腱)」が締まる、微かな摩擦音だけを立てる。
「葛城さん。サーモンの厚さはこんなもんでよかったか」
番長は、自分が切り出したサーモンネタの厚みを指差す。
「普通の白身や光り物は、シャリの上にそっと乗せて、口の中でハラリと崩れる『儚さ』が大事だ。だから薄めに切る。だが、マグロや、このサーモンのような脂の強いネタは、ネタが主役になれるように、少し厚めに切り出すのが常識だ」
普段は豪快な番長だが、調理の先達である葛城幸四郎には、食の真理を問うような真摯な態度を見せる。番長が求めるのは、万桜の「炭火香テンダー」による瞬間炙りの効果を最大限に引き出す厚みだった。
『おう。こんなもんでいいぜ』
東京の葛城幸四郎は、椅子に座りながら、遠隔でアンドロイドに憑依している。彼の声が、耳元で囁くような金属音を伴って、アンドロイドから発せられた。
『若い頃は、手の皮が薄く、皮膚の温度をコントロールできねえと、シャリが冷たくなりすぎたり、飯粒が手に貼り付いたりして、握りが**「死ぬ」ことがあった。だが、このマカロニの腕は、体温がない代わりに、熱伝導を完璧に制御できる。人間が六十年かけて悟る「余計なものを入れない技」を、この鉄の指は最初から持っているんだ』
葛城幸四郎は、自身の限界を超越したアンドロイドの手に、惜しみない賛辞を送った。
旧休憩室には、葛城の老練な職人の声と、無表情なアンドロイドの精巧すぎる動作が、カオスな光景を生み出していた。若者たちの最新技術は、「引退した職人」という人類の「死蔵された財産」を、「未来の技」として蘇らせたのだ。
『ネタは厚けりゃいいってもんじゃねえ。口に入れて噛み切れる、ギリギリのサイズってのがあるんだ。儂の動きを、おまえらが作った人工知能がどう解析しているか知らねえが、儂の脳はこのアンドロイドの指先に接続されている感覚だ』
葛城幸四郎の言葉を受け、万桜は興奮したように頷いた。
「そうだ! 葛城さんの脳内の『技』を、カメラが運動エネルギーとして捉え、AIがそれをアンドロイドの人工筋肉への正確な駆動信号に変換している!」
アンドロイドは、万桜が「炭火香テンダー」で皮目を炙り上げたサーモンを掴み、ワサビを塗り、一貫の寿司へと仕上げた。
『ワサビを塗る時も、ネタの繊維を壊さねえように、そっと優しくだ。いいか、寿司は握るんじゃねえ、添えるんだ』
その光景は、極めてシュールでありながら、感動的だった。
東京の老職人が、山梨の旧休憩室で、最新のAIとロボットアームを使い、究極の炙り寿司を創造している。
無機質な金属のアームが、「ブナの香りを纏ったサーモンと空気を含んだシャリ」を、人間以上の精度で調和させ、「究極の寿司」としてテーブルの上に差し出した。
「いや、美味いわー。大将の寿司、また食えるなんて思わんかったわぁ」
万桜の前に差し出された炙りサーモンの握りを、淳二は深い感慨とともに一口で放り込んだ。
彼の目元が緩む。その味わいは、ただ美味しいというだけでなく、引退してしまった職人の葛城幸四郎の「技」を、二度と食すことはできないと思っていた者が再会したような、ノスタルジーに満ちた確信だった。
アンドロイドが再現した、人肌よりもわずかに低い温度の完璧なシャリ。その上に添えられた、程よい厚みのサーモンの身。
だが、これは単なる「再現」では終わらなかった。
万桜たちのシステムが生み出した優等生の破壊力は、時間差で、味覚の暴力として淳二を襲った。
サーモンの身の脂の乗りは均質で雑味が一切ない。その上、炭火香テンダーによって極薄の皮目だけが炙り切られている。
従来のガスバーナーでは、超高温で炙れば必ずガス臭が残り、素材の持つ「純粋な旨味」に、化学燃焼の「濁り」が混ざってしまう。
しかし、この寿司には、それが一切ない。
口の中で脂が溶け、シャリの酸味がそれを追う。そして、次の瞬間、ブナの純粋な燻煙が、鼻腔の奥で爆発した。
「うっま! なんや、これメッチャ美味いやんか!」
淳二の顔が、一気に歪んだ。目を見開き、口元に手を当てて、歓喜と苦悶の間の、奇妙な唸り声を上げる。
「優等生」サーモンの、上質な脂。AI寿司職人による、崩れすぎない絶妙なシャリの圧力。そして、炭火香テンダーが刻み込んだ、遠い記憶のような炭火の香り。
すべての要素が、舌の上で最高精度で噛み合い、従来の寿司が持つ調和の概念を、頭の側から破壊していく。
彼は口の中に残った寿司を噛みしめ、
「くそっ、純粋すぎんだよ! このサーモンと、この炙りは、日本の寿司の常識を殺しやがる!」
淳二は、この究極のコラボレーションが、飲食業界に、そして日本の食文化に、どれほどの劇物を投下したかを即座に理解し、戦慄したのだった。
万桜が、純粋なブナの香りが爆発する「優等生サーモン寿司」の破壊力に戦慄する、その瞬間。
外のキャンパスから、重低音の轟音が地鳴りのように鳴り響いた。旧休憩室の窓ガラスが微かに振動する。
ほどなくして、大きなホバー台車を二人がかりで押し、莉那と拓矢が入ってきた。
「「待たせたな」」
莉那と拓矢は、その表情には不敵な笑みを浮かべている。二人がかりで運んできたホバー台車には、大型の発泡スチロールの箱が積まれていた。
拓矢が箱の蓋を開ける。
蓋が開いた瞬間、室内にキンと冷えた磯の香りが満ちた。
発泡スチロールの箱の中には、保冷剤と特殊な液に浸された、極上の鮮魚たちが並んでいる。
三崎口で仕入れた、極めて上質なネタの数々だ。
まず目を引くのは、鮮やかな赤身を持つ本マグロの背トロ。光沢があり、見るからに質の高い脂を含んでいるのがわかる。
次に、皮目に銀色の光を放つコハダ。しっかりと締められており、職人の仕事が光る一品だ。
さらに、身が締まり、透明度が高いヒラメ。そして、殻から剥かれたばかりのような、瑞々しい光沢を放つウニ。
まさに、葛城幸四郎のAI寿司職人が握るに相応しい、最高峰の海の幸が、そこに集結していた。
万桜は窓の外に目を向け、小さく開いた窓から外のキャンパスを一瞥する。
そこには、茶色と緑の迷彩を施された、巨大な陸上自衛隊の輸送ヘリコプター、チヌークの雄姿があった。巨大な二つのローターが、ゆっくりと慣性で回転を続けている。
「自由だな。おまえら…」
万桜は、もはや呆れを通り越して、感心すら覚える。寿司ネタの買い出しに、ヘリコプターを使うという発想が、すでに狂っている。
「「ちげえよ。訓練だよ訓練」」
莉那と拓矢は目を逸らし、声を揃えて言い訳をする。
自衛隊関連のコネクションを持つ拓矢、そして勇希の父、市議の力を使ったのは明白だ。
そこに、顔面を蒼白にした舞桜と、同じく青白い顔をした勇希が、ふらつきながら入ってきた。
「「へ、ヘリなんか二度と乗らない」」
二人は、軍用ヘリの乱暴な乗り心地に、激しく体力を消耗したようだった。
「なんだ。だらしがない」
二人に付き添っていた琴葉は、青い顔の二人を呆れたように見る。
「まあ、軍用機だからね」
出迎えた市議である泰造は、穏やかに二人を取りなした。
「ローターの振動がダイレクトに来るからね、特に訓練飛行だと」
「自由だな地方…ヘリってポンポン駐めちゃダメだろ? 勇希の父ちゃんも陸将さんも自由過ぎ」
万桜は、地方都市が持つ、インフラと常識の歪みにただただ呆れ返るばかりだった。しかし、その歪みこそが、万桜たちの「劇物」を育む土壌なのだ。
「いい黒木、これは必要なことなのよ」
舞桜は、まだ微かに震える手で、テーブルを叩いた。
「あなたがアホみたいに、ポンポン思いつくから、経費を遣いまくらないとならないの!」
彼女の声には、焦燥と、万桜の才能に対するある種の諦念が混じっていた。
「考えてみなさい。今回の『陸の海』システムは、低コストで優等生ナマズを量産する。『炭火香テンダー』は、世界中の外食産業の調理法を変える。『ホバーカーとホバー馬車』は、交通インフラを根本から破壊する」
舞桜は、一つ一つ指を折って、万桜の生み出す「劇物」の経済的影響を強調する。
「これらはすべて、セイタンシステムズという一社に、あまりにも莫大な利益を集中させる。このまま行けば、来年度の法人税は、数兆円という、冗談みたいな額になるわ! その利益をそのまま国庫に納める? そうすれば、その巨額な資本は、硬直した国庫で死蔵されてしまう。『淀んだ資本』は市場に流し込まねばならない。これが私の哲学よ」
舞桜は、チヌークを使った寿司ネタの調達を正当化する。
「私たちは今、未来の文明を設計しようとしている。そのためには、技術開発費、人材投資費、そしてインフラ実験費として、その利益をすべて吐き出す必要がある。言っておきますけど、チヌークの搭乗費は、『訓練飛行に乗じた、地方インフラ改善のための特殊環境下における超長距離低温輸送技術の検証実験』という名目で、経費計上されています。違法性はありません」
彼女は、まるで言い聞かせるように、言葉を区切った。
「いや、甲斐の国市に寄付すりゃいいじゃねえか?」
万桜は、いつも通り、最もシンプルで、最も正論な回答を投げ返す。
万桜の思考では、「利益が出たら、地域の公共のために使う」という、極めて単純なサイクルが最適解だった。
万桜の正論に、舞桜は沈黙した。
寄付。それはたしかに、法人税を大幅に節約できる、最も妥当な節税策の一つだ。
しかも、甲斐の国市という、彼女が市議である泰造を抱き込み、地域創生という名目でシステムを稼働させているホームグラウンドへの寄付なら、地域住民の支持と政治的な基盤を強固にする最高の手段だ。
「……っ」
舞桜は、万桜の無頓着で、あまりにも明快な正論に、ぐっと言葉を詰まらせた。
彼女の頭の中では、法人税を払うよりも、甲斐の国市に巨額の寄付をし、その資金で「ホバー馬車」の地方インフラ実験区間を市内の農道に敷設する方が、はるかに未来への投資として合理的であるという計算が、瞬時に弾き出されていた。
万桜は、経済や法律の知識はないが、常に「最も効率的で、無駄のない資源の循環」という真理を突いてくる。
「くそっ、わかったわよ! 寄付……寄付ね。それも、『未来型インフラ実験都市・甲斐の国』構想のための寄付として計上するわ」
舞桜は、万桜の正論に渋々、しかし、より巨大なスケールの野心へと舵を切ることを決意した。
万桜と舞桜が、数兆円規模の「文明シフト経費」について、寄付か実験費かという壮大な議論を交わしている最中、室内には冷ややかな視線が突き刺さる。
「「佐伯」」
琴葉と佐々は、一斉に、冷たい声で佐伯に投げ掛けた。
佐伯は顔を硬くし、視線を寿司ネタの豪華な箱へと逃がす。
そして、最も平和的ながら、最も根源的な質問が飛んできた。
「勇希、ホバーカーってなに? お父さん聞いてない」
泰造は、朗らかな笑顔で娘に尋ねる。市議会議員として、地方創生に繋がる新しい交通インフラは当然、把握しておくべき案件だ。
「いや、それはあたしも聞いてない。舞桜、なんだホバーカーとホバー馬車って?」
勇希もまた、舞桜に問い質した。
「「魔王案件の最新版です! さあ、お寿司を食べましょう!」」
舞桜と佐伯は、ホバーカーの件が露呈することを避けるため、異口同音に話題を逸らした。
二人の顔には、「今は聞かないでくれ」という必死の懇願が浮かんでいる。
しかし、万桜が生み出す「劇物」の恐ろしさを最も理解している、常識組は、情報連携の漏れを許さなかった。
「「「「大将、このふたり山葵マシマシで」」」」
勇希、泰造、琴葉、佐々は、恐ろしいほど息の合った、地獄のオーダーをAI寿司職人に叩きつけた。
マカロニ・テンダーアンドロイドを遠隔操作する葛城幸四郎は、東京の自宅でそれを聞き、ニヤリと笑う。
『あいよ。情報隠蔽罪の罰として、極上の山葵をたっぷり塗ってやるぜ』
次の瞬間、アンドロイドは、極上のマグロとコハダの握りに、通常の三倍もの山葵を塗りつけ、舞桜と佐伯の目の前に差し出した。
「文明の慣性」を破壊する天才たちも、「常識」と「山葵の暴力」の前には、一瞬で顔を青ざめさせるのだった。
極上の鮪の握りが、舞桜と佐伯の前に置かれた。
マカロニ・テンダーアンドロイドを操作する葛城幸四郎は、あえて彼らの前に醤油皿を置かない。醤油は刷毛で、直接ネタに塗るスタイルだ。
山葵で涙目になり、舌の痺れを必死で堪える舞桜と佐伯。葛城幸四郎は、その顔色、肩の強張り、そしてお茶を一気に飲み干す仕草から、彼らが今、「刺激」を求めている状態を正確に把握した。
鮪の握りに塗られた醤油は、通常よりもわずかにキツめだった。山葵の刺激で鈍った味覚を、醤油の塩気と旨味で一気に叩き起こし、鮪本来のコクを最大化させる。
山葵の暴力に耐えた舞桜と佐伯は、意を決して鮪を口に放り込んだ。
「……美味えな。大将」
万桜が、鮪の握りを口の中で転がしながら、心底感銘したように言った。
「番長、おまえもしっかり盗めよ熟練のわざ」
万桜の言う「わざ」とは、もちろんアンドロイドの指の動きではない。「客の好みや状態を、視線や仕草だけで把握し、次に何を出すべきか、どう味付けすべきかを決断する洞察力」のことだ。
「おう。黒幕、魔王に訓練カリキュラムを作成してもらおうぜ」
番長は、豪快に口に入れたコハダを噛み締めながら頷いた。
番長の狙いは、葛城幸四郎の「技」をAI御者ホバー馬車の制御システムに応用することだ。
「道路状況、荷物の揺れ、馬の疲労度」といった変数を、「客の顔色や仕草」と同じようにAIが感知し、自動的に最適な運行プランを組む。番長が目指すのは、「究極のおもてなし」を備えた物流システムだった。
「貪欲だねえ、黒木くんに番長くん」
その時、静かに旧休憩室の入口の暖簾をくぐり、北野学長が感心するようにそう言った。
大学の旧休憩室が、陸上自衛隊のヘリで運ばれた高級魚をAI寿司職人が握るというカオスな実験場になっているにもかかわらず、北野学長はそれを咎めるどころか、楽しそうに微笑んでいる。
「わたしは、青魚の背の皮目と身の間の、あのしっとりとした脂の香りがたまらないんだ。大将、コハダを頼むよ。欲を言えば、サバがあれば嬉しいね」
北野学長は、年配の男性が好む、脂のりよりも鮮度と熟成を求める、通好みのネタを注文した。
「あいよ。年季の入った渋い注文だねえ」
アンドロイドの指が、コハダの握りに、さらに繊細な調整を加えるために動き出した。
「こりゃ人材の宝庫だぜ。引退した板前に、引退したシェフ。町中華の料理人」
万桜は、マカロニ・テンダーアンドロイドを操作する葛城幸四郎の繊細な指の動きを眺めながら、目を輝かせた。
「北野学長、学食の運営をセイタンシステムズで請け負っちゃダメでしょうか?」
万桜の頭の中には、「陸の海」のナマズや、「多層構造農業」で生み出される完全無農薬の野菜を、葛城や他の引退した名人たちのAIが調理し、「究極の食」を学生たちに安価で提供する未来の図が広がっていた。それは、「食の革命」を一般社会に浸透させる最高のショーケースとなる。
「それはさすがに……」
北野学長は苦笑しながら難色を示した。
「それじゃあ、カフェテラスのカフェ・ジャカジャカが経営難になります。地域経済のバランスもありますからね」
学長の言う通り、甲斐の国大学の学食運営は、地元材木問屋の田中さんが地域貢献のために始めた副業であり、急激な「文明シフト」は、彼らのホームグラウンドである地方経済の秩序そのものを破壊してしまう。舞桜の経費理論と同じく、万桜の「正論」は、往々にして「文明の慣性」を無視するのだ。
「葛城さん。無茶を承知で頼みます、いっちょ、こいつを握って貰えないでしょうか?」
万桜は、チヌークで運ばれてきたマグロのトロやウニの横に置いてあった、胡瓜を取り出した。
それは、万桜たちの「多層構造農業」で栽培された、ストレスフリーの完全無農薬野菜だ。一般的な胡瓜よりも皮は硬質で、内側には、生命力が凝縮された濃い緑色の種がみっしりと詰まっている。
『カッパかい?』
アンドロイドを操作する葛城幸四郎の声が、東京から響く。その声には、笑いが混じっていた。
『いいぜ、握ろう。寿司っていうのはね、トロやウニで終わるもんじゃねえんだ。カッパ巻きやかんぴょう巻き、玉子といったシンプルなもので、その日の〆にする』
葛城は、寿司職人の哲学を語る。
『口の中を、華やかな味で満たし続けるんじゃない。胡瓜の青い香りで、舌をリセットする。米の味、海苔の香りを、もう一度新鮮に感じるためにね。』
マカロニ・テンダーアンドロイドの指が、胡瓜を細長く切り出し、シャリの上に置き、海苔で巻いていく。
葛城幸四郎の言う「〆」とは、舌の再起動であり、食後の余韻を決定づける、職人の最後のプライドなのだ。
究極の魚介と炭火香、そしてテクノロジーの奔流の中に、万桜は、「究極の胡瓜」という、最も根源的な素材を投げ込んだ。それは、彼の「文明シフト」が、いかに「自然」と「シンプルさ」を重要視しているかを象徴する、最後の握りとなるだろう。
「北野学長。召し上がってみてください」
万桜は、自信満々の笑みを浮かべ、握られたカッパ巻きを、北野学長へと差し出す。胡瓜には一切の水分が浮いていない。
「まだ、おなかイッパイじゃないんですが……」
北野学長は、渋々とカッパ巻きを口に運んだ。高級な鮪やウニを味わった後の、簡素な胡瓜。口の中で噛みしめた瞬間、その穏やかな抵抗感が爆発に変わった。
バリッという、歯を突き抜けるような、乾いた生命の軋み。
その直後、まるで圧縮されていた光合成のエネルギーが解放されたかのように、口内に、鼻腔に、そして脳の奥に、青々とした暴力的な香りが駆け巡った。それは、胡瓜が持つべき「青臭さ」ではなく、水と太陽と土の、純粋すぎる生命力そのものの匂いだった。
「う、美味えじゃねえか……」
北野学長の目が見開かれる。口調が、普段の丁寧な学者のそれではなく、思わず出てしまった荒々しい若者のそれに変わっていた。
「や、やっぱりアニキはスゲえやぁ……!」
彼はそのまま、椅子にもたれかかり、一瞬、気を失ったかのように、白目を剥いて沈黙する。それは、脳が処理しきれないほどのストレスフリーな胡瓜の衝撃だった。
「爽さん。若い頃に戻っちゃってるよ?」
北野学長の年下の従兄弟である泰造は、学長―—爽大の滅多に見せない素の反応に、好奇心と不安が入り混じった顔をする。彼は、学長の椅子にもたれかかった身体を支えつつ、残ったカッパ巻きを掴み、口に放り込んだ。
泰造の全身に、雷が走った。
「ぐ、うぁあぁぁぁあ!」
市議という立場、成熟した政治家としての理性、すべてが胡瓜の力の前で崩壊する。口の中は、まるで真夏の畑に立っているかのような、濃密な緑の津波に襲われた。
舌が、胃が、細胞の一つ一つが、全力で胡瓜の生命力を吸収しようとする。
「な、なんだこれ……! 胡瓜……胡瓜じゃねえ! これは……胡瓜の神だ!」
泰造は、机に両手をつき、カッパ巻きを神と崇めるかのようなポーズで呻く。彼がこれまで食べてきた胡瓜は、すべて「文明の負荷」を背負った、妥協の産物だったのだと、瞬時に理解した。
彼らが今口にしたのは、万桜たちの「多層構造農業」が生み出した、「食の革命」の最も純粋な成果だった。
万桜は、獰猛な笑みを顔に貼り付けたまま、挑戦状を叩きつける。
「田中さんと俺と番長は、食材のハンディをつけさせてもらう。北野学長、エルダーワーカーに学食の運営の許可をいただきたい」
万桜の言う「エルダーワーカー」とは、引退した葛城幸四郎や、万桜がリストアップしている引退した凄腕の職人たちを指す。これは、「学食」を舞台にした、「若者の最新技術」と「熟練の技」の対決だった。
その挑戦を聞いた葛城幸四郎は、東京の遠隔操作ブースで、椅子の上で身を乗り出した。彼の魂を乗せたアンドロイドの腕が、ゆっくりと宙で震える。
『胡瓜一本で、あっしらの心臓を止めるようなカッパ巻きを握らせやがって……!』
葛城幸四郎は、若者の才能に嫉妬し、同時に「職人としての血」が沸騰するのを感じた。
『学長さん。若旦那。あっしからも、お頼み申し上げる。今一度、腕を振るっちゃイケねえだろうか?』
老練な職人が、若者からの挑戦を受けて、現役復帰を懇願する。
その懇願を受けた茅野淳二と、北野爽大の顔面は、胡瓜の暴力と山葵の衝撃からまだ立ち直っていなかったが、その目には「戦いの火」が宿っていた。
「せ、先輩…爽さん…」
泰造が絞り出すように淳二に尋ねる。
「Goや! 黒木くん!」
淳二は、一瞬で大手建設会社の社長という仮面を剥ぎ取り、地元の荒くれ者のような顔に戻った。
「ブチかましたれや黒木くん!」
北野爽大もまた、学長という知的な装いを捨て、粗野な言葉で万桜に許可を出した。
ここに、万桜たちの「食の革命」の次のステージが決定した。甲斐の国大学の学食は、引退した職人たちと、万桜たちの最新技術が火花を散らす、「世代間闘争」の実験場となる。
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!
皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!
引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!




