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ボッチの魔王と卵丼

シラコと男前豆腐はなんか似てる

 2018年梅雨。

 梅雨の合間の晴れ間、甲斐(かい)国大学(くにだいがく)のキャンパスは蒸し暑さに包まれていた。学生で賑わう休憩所の隅で、茅野(チノ)舞桜(マオ)は冷たいペットボトルを握りしめ、目の前の黒木(クロキ)万桜(マオ)直視(みつ)めていた。彼の能天気な笑顔は、今日の舞桜(マオ)には、どこか小癪(こしゃく)に映った。

「……黒木(クロキ)

 舞桜(マオ)の呼びかけに、万桜(マオ)はのんびりと顔を上げた。

「ん? なんだよ、ボッチ(・・・)。アイスでも奢ってくれんの?」

 舞桜(マオ)は、小さくため息をついた。彼の能天気さには、心底呆れる。だが、今日、彼女が聞きたいのは、そんな軽口ではない。

「さっき、あなたの口から『勇希(ユウキ)父ちゃん(とーちゃん)』という言葉が出てきたわね」

 舞桜(マオ)の言葉に、万桜(マオ)キョトン(・・・)と首を傾げた。

「ああ、勇希(ユウキ)父ちゃん(とーちゃん)のこと? なんだよ、それが?」

「その『勇希(ユウキ)父ちゃん(とーちゃん)』の娘さんという『勇希(ユウキ)』という人物……。彼女は、あなたの幼馴染みだそうね」

「そうだけど? それがどうかした?」

 万桜(マオ)の無邪気な問いに、舞桜(マオ)は一瞬言葉に詰まった。

(どう、も、したわよ。大アリよ……!)

 直感的に、舞桜(マオ)は『勇希(ユウキ)』が女性だと看破(かんぱ)していた。そして、その直感は、彼女の中にわずかな動揺を生んでいた。彼女の完璧なロジックの中に、異物(いぶつ)が紛れ込んできたような、そんな感覚だ。

「……その、勇希(ユウキ)という女性は、どのような方なのかしら?」

 舞桜(マオ)は努めて冷静に尋ねたが、その声には微かに硬さが混じっていた。万桜(マオ)は、顎に手を当てて少し考えた。

「んー、勇希(ユウキ)かぁ……」

 万桜(マオ)の脳裏に、今年の春の記憶が鮮明に蘇る。少し埃っぽいアパートの台所で、慣れない手つきで飯をよそっていた、あの時の勇希(ユウキ)の姿。

「すっげえ世話焼(せわや)きで、しょっちゅう俺のこと怒鳴(どな)りつけてたな」

 万桜(マオ)は、苦笑いしながら言った。舞桜(マオ)は、その言葉に、わずかに眉をひそめた。

怒鳴(どな)りつける……? やはり、ただの幼馴染みではない……)

 舞桜(マオ)の頭の中では、すでに様々な可能性が渦巻(うずま)いていた。

「それは、まるで母親のようね」

 舞桜(マオ)の皮肉めいた言葉に、万桜(マオ)はまたキョトン(・・・)とした顔をした。

「母親? いや、違うって。なんていうか、あれだな……うん、不条理(シュール)(やつ)

不条理(ふじょうり)?」

 舞桜(マオ)は、その言葉の意味を測りかねた。万桜(マオ)の思考は、常に予断(よだん)(ゆる)さない。

「そうそう。高校の卒業式の日だったかな。東京本郷大学とうきょうほんごうだいがくに行く前夜だって言って、呼び出されてさ」

 万桜(マオ)の言葉に、舞桜(マオ)の瞳が大きく見開かれた。

東京本郷大学とうきょうほんごうだいがく……? この学歴に全く執着しない黒木(クロキ)と、まさか……)

 舞桜(マオ)は、思わず身を乗り出した。

「それで、一体何があったの?」

「いや、それがさ、なんか飯食えって言われて」

 万桜(マオ)は、語りながら、あの日の「プリン体の殿堂(デン・オブ・プリン)」を思い出したのか、僅かに顔を歪めた。


★★★★★★★


 西暦2018年3月。

 黒木(クロキ)万桜(マオ)は、幼馴染みの少女、白井(シライ)勇希(ユウキ)に呼び出されていた。

 東京本郷大学トウキョウホンゴウダイガクへと旅立つ前夜、白井(シライ)勇希(ユウキ)は、少し埃っぽいアパートの小さな台所で、慣れない手つきで飯をよそっていた。このアパートは、元々、彼女の両親が万桜(マオ)勇希(ユウキ)の二人で受験勉強に集中できるよう、特別に借り上げてくれた勉強部屋だった。両親公認の、男女が共に高みを目指すための空間。だからこそ、白井(シライ)家のお嬢様である勇希(ユウキ)が、この小さな空間で万桜(マオ)と過ごすことに、何の不自然(ふしぜん)さもなかった。

 万桜(マオ)の視線は、無意識のうちに、彼女のTシャツに吸い寄せられた。薄手の白い布地の下に、何も身につけていないことが、はっきりと知覚()()れる。柔道で鍛えられたしなやかな体つきが、ゆったりとしたTシャツの柔らかい布地を通して、かえって色香(いろけ)を帯びて見えた。ショートパンツのような軽装で、動きやすさを重視しながらも、どこか万桜(マオ)(いざな)い込もうとするような、無防備な魅惑(みわく)を放っていた。

「……(さむ)くねえの?」

 万桜(マオ)は、必死に平静を装って、そう尋ねた。喉の奥が、乾いている。

 勇希(ユウキ)は、万桜(マオ)の言葉を、意にも介さなかった。いや、意にも介さないように見せた。シンクには使いかけの鍋がいくつか。彼女は、まだエリート街道を歩み始めたばかりの、純粋な一人の少女だった。ただ、目の前の男のために、何かを「完璧に」成し遂げようと、人知れず熱を込めていた。そのまなざしは真剣そのもので、まるで国家の命運を左右する極秘任務でも遂行しているかのようだった。その顔には、普段の冷静さとは異なる、わずかな高揚と、抑えきれない焦燥感が滲んでいる。彼女の心臓は、いつもより少し速く脈打っていた。

「で、できた」

 無機質な声で告げられたそれは、勇希(ユウキ)にとっての渾身の「送り出しの食事」だった。テーブルに置かれた丼に、黒木(クロキ)万桜(マオ)は目を瞠った。

(なんだ、これ……?)

 万桜(マオ)の脳裏に浮かんだのは、純粋な驚愕だった。そこにあるのは、もはや「卵丼」という牧歌的な名称からはかけ離れた、異形にして荘厳な光景だった。白い飯の上に乱雑に、それでいて確かな存在感を放ちながら築き上げられた、様々な卵たちの小山。それは、彼が物事(ものごと)本質(ほんしつ)洞察(どうさつ)する(ちから)を持ってしても、その意味を即座には理解できない、圧倒的な情報量を伴う塊だった。

 まず目を引くのは、鮮やかな橙色の輝きを放つイクラの粒だ。それが惜しげもなく、飯全体を覆う絨毯のように敷き詰められている。その上に、まるで無造作に、しかし計算されたかのように転がるのは、真珠のように白く艶めくゆで卵たち。鶏卵のそれもあれば、雀の卵ほどにも小さいウズラの卵がいくつも寄り添い、無垢な顔をして佇んでいる。

 そしてその隙間を縫うように、あるいはその上に堂々と鎮座するのは、おぼろげなピンク色のタラコの塊。そのつぶつぶとした質感は、イクラのそれとは異なる、また別の海の恵みの証だ。極めつけは、ぬめるような光沢を放ち、官能的なまでに白い白子が、これ見よがしに一切れ、また一切れと散らされていることだろう。

 それぞれの卵が持つ色と形、そして食感の多様性が、視覚に訴えかける。これは丼物というより、卵と魚卵が織りなす「プリン体の殿堂(デン・オブ・プリン)」とでも呼ぶべき、禁断の饗宴。一口食べれば、海の恵みと生命の源が、舌の上で爆発するような錯覚に陥るだろう。

「……これ、なに?」

 万桜(マオ)の声は、素直な困惑と、ほんのわずかな恐怖を含んでいた。彼の「鋼鉄(ハガネ)好天思考(ポジティブ)」をもってしても、この丼の、あまりにも「過剰」な生命力は、一瞬の戸惑いを呼び込んだのだ。脳裏には、どこか遠い未来で聞くことになるかもしれない「痛風」という単語が、脳裏(のうり)(よぎ)った。

 勇希(ユウキ)は、万桜(マオ)の困惑を、意にも介さなかった。いや、意にも介さないように見せた。差し出した丼から視線を逸らさぬよう、その琥珀色の瞳は、まっすぐに万桜(マオ)の反応を捉えていた。彼女は自信満々に、その巨大な卵の小山を指差した。

卵丼(ランドン)だ」

(うん、不条理(シュール)だ。不条理(シュール)な絵面だ……)

 万桜(マオ)は、心の内でそう呟くしかなかった。その場に漂う、居心地の悪い沈黙。勇希(ユウキ)の完璧主義は、料理においても、その「量」と「密度」において極限に達しているらしい。そして、それを「卵丼」と断言する彼女の揺るぎない確信は、万桜(マオ)の思考の範疇(はんちゅう)を軽々と超えていた。だが、勇希(ユウキ)の表情は揺るがなかった。彼女は万桜(マオ)の視線を受け止め、その深奥の感情を悟られまいと、努めて冷静な声で、いつものように命じた。

「食え」

 その言葉には、一切の躊躇も、疑問を挟む余地もなかった。命令。

 万桜(マオ)は、はぁ(・・)、と小さくため息をついた。目の前の異形を受け入れるように、あるいは彼女の意志の強さに根負けするように、結局彼は諦めたように箸を取った。

 一口、また一口と、彼はその「プリン体の塊(かたまり)」を平らげていく。イクラが弾け、ゆで卵がもっちりとした舌触りを与え、タラコが独特のプチプチとした食感で追随する。時折、ぬめるような白子が口腔を滑り、その濃厚な風味は、万桜(マオ)の意識を味覚の深淵へと引きずり込んだ。胃の奥底から、得体のしれない生命力が湧き上がってくるような錯覚。それは確かに膨大なエネルギーの塊だったが、同時に彼の身体が警鐘を鳴らすような重さも伴っていた。途中で眉をひそめたり、目を遠く泳がせたりはしたが、その「鋼鉄(ハガネ)好天思考(ポジティブ)」が胃袋にも宿っているかのように、驚くべきことに、その丼の底までを綺麗に完食した。

 勇希(ユウキ)は、万桜(マオ)が箸を置くのを固唾をのんで見守っていた。その表情には、万桜(マオ)がこの「完璧な食事」を平らげたことへの満足感と、そして彼女自身も自覚しきれないような、ある種の「成功」への切なる期待と、微かな焦燥が入り混じっていた。高鳴る鼓動が、彼女の秘めたる想いを代弁しているかのようだった。万桜(マオ)が完食した瞬間、彼女は、まるで計算が狂ったかのように、わずかに前のめりになり、慌てて問いかけた。その声には、微かに上擦った響きが混じる。

万桜(マオ)。お、おかわりは、い、要るか?」

 それは、彼女の内心の焦燥が、最も効率的な形で発露した、万桜(マオ)に突きつけられた唯一の選択肢だった。若き勇希(ユウキ)は、これが万桜(マオ)に「生命力」を与えるだけでなく、彼を自分に繋ぎ止めるための、不器用な「(いざな)い」であることに、まだ自覚的ではなかったかもしれない。しかし、その全身から発される切迫した空気は、万桜(マオ)にも伝わっていた。

(だ、ダメだ! ぜ、ぜってーダメだ! ここで手を出しちまったら、勇希(ユウキ)の一年を(おく)らせちまうかもしれない……最低(サイテー)だ、俺は最低(サイテー)だ! フラれた男が、そんなことできっか(・・・)よ!)

 万桜(マオ)は、呆れたように彼女の顔を見上げた。その目は、丼の底を見つめていた時よりも、はるかに冷静で、そして真っ当(まっとう)だった。そこには、彼女が期待したであろう、いかなるロマンチックな響きも、感情的な反応もなかった。

「通風になるわ。アホンダラ(・・・・・)

 その言葉は、若き勇希(ユウキ)の、不器用な、しかし深遠な「(いざな)い」の全てを、あまりにも現実的で、そして一切の情を含まない一言で、一刀両断(いっとうりょうだん)するに十分だった。彼女の期待は、風船がしぼむように音もなくしぼんでいく。勇希(ユウキ)の表情から、わずかに期待の色が失せ、代わりにいつもの冷静さと、ほんの少しの諦め、そして万桜(マオ)には決して悟らせまいとする、微かな恥じらいが戻ってきた。彼女は小さく唇を噛み締め、その場に立ち尽くしていた。その夜の空気が、奇妙なほどに静まり返っていた。


★★★★★★


 2018年梅雨。

 万桜(マオ)の記憶の中に、一瞬、あの日の卵丼(ランドン)の異形な姿が、鮮烈なカラーでフラッシュバックした。イクラの鮮やかな橙色、ゆで卵の真珠のような白さ、タラコの不気味なピンク色、そしてぬめるような白子――。

「……随分(ずいぶん)と、印象的な食事だったようね」

 舞桜(マオ)は、自らの冷静さを保つように、淡々と問いかけた。万桜(マオ)は、小さくため息をついた。

「もう二度とごめんだね。あれ食ったら通風になるわ」

 万桜(マオ)の素直な感想に、舞桜(マオ)は口元に手を当てて、小さく考え込んだ。

「その勇希(ユウキ)という女性の容姿は? どんな女性(ひと)かしら?」

 舞桜(マオ)は、努めて客観的に尋ねた。

「ん? ああ、勇希(ユウキ)は柔道やってたから、筋肉質な感じ。髪はボッチ(・・・)より長くて、ポニーテールにすること多いよ」

 万桜(マオ)の言葉に、舞桜(マオ)はわずかに目を見開いた。

(柔道をやっているということは、活動的なタイプね…ポニーテール? 黒木(クロキ)の好み?)

 舞桜(マオ)は、自身の細身の体型と、万桜(マオ)が語る勇希(ユウキ)の活動的な印象を比べ、無意識のうちに、自分と勇希(ユウキ)を比較していた。

「……なるほど。とても活動的な方なのね」

「そうそう。ていうか、なんでそんなこと聞くんだよ、ボッチ(・・・)。もしかして嫉妬(ジェラシー)? え? やっぱ結婚する?」

 ここで万桜(マオ)鋼鉄(ハガネ)好天思考(ポジティブ)が炸裂。舞桜(マオ)ピクリ(・・・)と反応した。

「し、しないわよ! ば、バカ(・・)じゃないの? それで彼女は今、東京?」

 舞桜(マオ)は、さりげなく、だが核心を突くように尋ねた。

「そうだよ。この春から東京で暮してる。東京本郷大学トウキョウホンゴウダイガク。あいつ、俺が『キャンパスで嫁を探す!』って宣言したのにさぁ~」

 万桜(マオ)は、わかりやすくシュン(・・・)とする。勇希(ユウキ)にフラれたと思い込んでいるようだ。

黒木(クロキ)、あなた、どこ目指すって問われて、『う~ん国立大~』って答えただけでしょう?」

 舞桜(マオ)冷静(れーせー)に突っ込んだ。

「だって、勇希(ユウキ)は国立大に行くって言ってたもん。そりゃあ、同じ国立大(こくりつだい)なら甲斐(かい)国大学(くにだいがく)だよな? 近いし、合理的だろ?」

 万桜(マオ)は、心底、不思議そうに首をかしげた。

 舞桜(マオ)は、深くため息をついた。万桜(マオ)の言葉に、彼女の完璧(かんぺき)な思考が混乱する。勇希(ユウキ)健気(けなげ)な想いと、万桜(マオ)の底抜けの鈍感(にぶ)さ。その絶望的なすれ違いに、舞桜(マオ)は頭痛が発症しそうだった。

 万桜(マオ)の言葉に、舞桜(マオ)の目が大きく見開かれた。

(ん? 黒木(クロキ)はフラれたと思ってる? しかし、東京本郷大学トウキョウホンゴウダイガク黒木(クロキ)なら可能…さっきのプリン体丼は、つまり…)

 舞桜(マオ)は、内心で動揺を隠せなかった。動揺しながら導き出した答えは、

()膳食(ぜんく)わぬは、男の恥」

 それだった。舞桜(マオ)が、小さく呟くと、

卵丼(ランドン)なら残さず食ったよ?」

 万桜(マオ)は断言するように答え、

「の、残さず? ま、まさか朝まで?」

 舞桜(マオ)盛大(せーだい)に勘違い。ここで万桜(マオ)

()()耳年増(みみどしま)。そう()意図(いと)は、ねえ。たぶん…」

 歯切(はぎ)れ悪く当時を邂逅(かいこう)。ここで、舞桜(マオ)、まだ見ぬ勇希(ユウキ)(あわ)れみを覚え、万桜(マオ)の脛を爪先蹴(トゥキック)

「……」

 万桜(マオ)は、声無き悲鳴を上げ、追い打ちのように臀部に衝撃、話を聞いていた莉那(リナ)の蹴りだ。

「いっ痛ぇ~? なにすんだよ?」

 蹴りを入れたふたりに、抗議の声を張り上げるが、

「黙れ男の恥」

「そして、女の敵。ビアンカの敵」

 有言(ゆうげん)封殺(ふうさつ)

 (かく)してふたりは意気投合(いきとーごー)。この時から、莉那(リナ)舞桜(マオ)を名で呼ぶようになり、舞桜(マオ)莉那(リナ)サブリナ(・・・・)と呼ぶようになった。


★★★★★★


 2025年梅雨入り前。

 梅雨入(つゆい)り前の夜。万桜(マオ)は、先ほどまで見ていた2018年の夢の余韻(よいん)()きずりながら、朦朧(もうろう)とした意識で目を覚ました。しかし、そこは自分の寝台(しんだい)ではなかった。肌寒(はださむ)夜気(やき)(かん)じる縁側(えんがわ)に、自分は寝転んでいる。そして視線(しせん)の先には、数多(あまた)の論文の山が築かれた机が置かれ、丸眼鏡(まるめがね)が逆さまになった男が横に座っていた。

「……ああ、これも夢か」

 万桜(マオ)小声(こごえ)(つぶや)いた。先ほど夢の中で散々(さんざん)「処理」したはずの、あの(やかま)しい男だ。ケッ(・・)毒突(どくづ)き、面倒くさそうに体を起こした。

「なんか用かよ?」

 万桜(マオ)の言葉に、丸眼鏡(まるめがね)の男――ノイマンは、(かす)かに疲れた顔で眼鏡を直した。

「君たちは、彼に似ているんだ。30年前の今時分(いまじぶん)、こっちに来た彼にさ」

「たちって誰だよ?」

 万桜(マオ)即座(そくざ)()かえす。ノイマンは一瞬(いっしゅん)、言葉を()まらせた。幽霊(ゆうれい)の規則で、(ぜん)さんの名を直接は話せないのだろう。

「君によく似た乱暴者(らんぼうもの)だよ。これでいいかい? 似てるんだ。ジョン(・・・)アタナソフ(・・・・・)にさ」

 万桜(マオ)は、その言葉に驚くことなく、むしろ(あき)れたように鼻を鳴らした。

「ああ。もう一人のジョン(・・・)ね。俺ら(・・)基本的に電気屋(でんきや)だからなー。似てるのはあたりめえ(・・・・・)だろーさ。こう言われたんじゃねえか? 『嘘つく機械造ってんじゃねえ』ってよ」

 万桜(マオ)は、もう一人の「ジョン(・・・)」が、アタナソフ(・・・・・)がノイマンに告げたことを、一言一句(いちごんいっく)(たが)えずに伝えたことで、ノイマンの目を見開(みひら)かせた。彼の表情(ひょうじょう)に、驚愕(きょうがく)困惑(こんわく)の色が混じった。

メモリ(・・・)上にプログラム(・・・・・)データ(・・・)を同時に乗せる。次を乗せる。クリア(・・・)が間に合わない。残滓(ざんし)が残る。おかしな挙動。これが制御不能(せいぎょふのう)バグ(・・)の正体だ。おまえ、自律式(じりつしき)オートマトン(・・・・・)バグ(・・)で再現しやがったな? 有益(ゆうえき)な現象も起こるが、大半(たいはん)不具合(ふぐあい)だ。もう一人のジョン(・・・)雷落(ドヤ)されたろ? (チゲ)ぇか?」

 まるで見てきたような万桜(マオ)の言葉に、ノイマンは思わず身を乗り出した。

ジョン(・・・)、君なのか?」

 その問いかけに、万桜(マオ)は無言で手刀(チョップ)を食らわせた。スカンと乾いた音が響く。

(チゲ)ぇわ! ちょっと考えれば誰でも見えらあ、そんなもん」

 万桜(マオ)は、心底、疲れたように言い捨て、大きく欠伸(あくび)をした。

 ノイマンの口調は、ひどく落ち着いており、先ほどの感情的(かんじょうてき)激論(げきろん)()わしていた様子(ようす)とは(こと)なっていた。万桜(マオ)直感(ちょっかん)する。これが彼の「()」なのだろうと。感情(かんじょう)()ぎ落とし、純粋(ピュア)知性(ちせい)のみが息衝(いきづ)く思考の形が、まさにそこにあった。

 そこから二人は、夢中になって分岐話(タラレバ)の会話を繰り広げた。もしも、ふたりのジョン(・・・)が、手を結んでいれば、ノイマンが早死しなかったこと。40年前に人工知能が誕生(たんじょう)していた可能性。「あ、だからか?」と万桜(マオ)は気づく。勇希(ユウキ)の夢を見た理由(ワケ)。そして、心底(しんそこ)(あわ)れんだ視線(しせん)をノイマンに向け、言い放つ。

友達(ダチ)いねえんだなオメェ(・・・)

 ノイマンは、その痛烈(つうれつ)指摘(してき)顔色(かおいろ)()えた。

「うっさいよ! うっさいよ! このリア充!」

「俺には、あいつら(・・・・)がいるからな。あんた(・・・)にゃならねえよ。ぜってーな。ちっと未来の世界のネコ型ロボット迎えに行ってくらぁ。40年も待たせちまって怒ってんぜ? きっと」

「ああ、ごめん(・・・)と伝えておいてくれ」


◆ ★ ◆ ★ ◆


 洗面台の扉を開けると、そこには湯気が立ち込めていた。浴室から出てきたばかりの茅野(チノ)舞桜(マオ)が、大判のタオルを胸に巻き付けただけの姿で、髪を拭いていた。水滴が滴る黒い長髪、洗い立てのような清潔感。普段の完璧なスーツ姿とは異なる、飾らない姿がそこにあった。

 万桜(マオ)の思考が、一瞬、停止した。視線が、無意識にタオルで隠しきれていない胸元へと吸い寄せられる。男の子の本能が、純粋な驚愕を覚えた。

「あ、ごめん!」

 万桜(マオ)は咄嗟に視線を逸らしたが、舞桜(マオ)は既に気付いていた。その表情筋の乏しい顔は無表情のままだが、目の奥に僅かながら、分析的な光が宿る。

(いや、閉めろ)

「あ、ごめん」

 舞桜(マオ)の声は平坦で、その耳の先が微かに赤く染まる。その一言が、万桜(マオ)の思考回路を一瞬にして現実に引き戻す。

 舞桜(マオ)は、髪を拭く手を止めず、濡れた前髪から覗く瞳で万桜(マオ)を捉えた。まるで、不測の事態に遭遇した際に発動する、彼女特有の「情報解析モード」に入ったかのようだ。その視線は、万桜(マオ)の動揺、逸らされた視線の先、そして彼の呼吸の乱れまでをも瞬時に読み取り、既知の情報と照合していく。

 一瞬の沈黙。その場に漂う、微かな湯気と、気まずい空気。万桜(マオ)は頬を掻き、どうにかしてこの状況を打破しようと口を開いた。

「いや、その、なんだ……風呂上がり?」

 あまりにも間抜けな万桜(マオ)の言葉に、舞桜(マオ)の表情筋はピクリとも動かない。しかし、その耳の赤みがさらに深まったように見えたのは、万桜(マオ)の気のせいではないだろう。

(いいから閉めろ)

「ええ。そうよ」

 彼女の返答は簡潔で、感情の抑揚は一切ない。それが、かえって万桜(マオ)の動揺を増幅させる。普段の完璧な彼女からは想像もつかない、無防備な姿。それが、万桜(マオ)の脳裏に焼き付いて離れない。

「そ、そっか……」

 万桜(マオ)は、もはや何を話せばいいのか分からず、ただ視線を彷徨わせるしかなかった。彼の脳内では、普段の「鋼鉄の好天思考」が、未曾有の事態に直面して一時的に機能不全に陥っている。

 舞桜(マオ)は、再び髪を拭き始め、やがて顔を上げた。その瞳は、すでにいつもの冷静さを取り戻している。

「何か、私に用があったかしら?」

 その言葉は、万桜(マオ)に向けられた問いでありながら、どこか事務的で、先ほどの気まずさを意に介していないかのようだった。あるいは、彼女なりの「通常運転」に戻るための、理性的な切り替えなのかもしれない。

(ともかく閉めろ)

「まず、戸を締めなさい」

 舞桜(マオ)の言葉は、まるで精密機械が発する指示のように、一切の無駄がない。彼女は、万桜(マオ)の顔が目前にあるにも関わらず、揺らぐことなく、ただ当然の事実を告げるように言った。その声には、微かに濡れた髪の冷たさが混じっているかのようだ。彼女の「秩序と完璧主義」が、この場でも最優先される。

「は? ああ……」

 万桜(マオ)は、我に返ったように洗面台の扉に目を向けた。

(な、な、な、なんで閉めるの? い、い、えー普通出るでしょ?)

 その言葉に素直に従い、扉に手を伸ばす。ガチャリ、と音を立てて戸が閉まる。万桜(マオ)は、自分がまだ脱衣所の中にいることを気にも留めず、そのまま舞桜(マオ)の次の言葉を待った。

「あの、服を着たいから、出ていってくれるかしら」

 舞桜(マオ)の言葉は、簡潔で、そしてあまりにも正論だった。万桜(マオ)の脳裏に、今ようやく、自分が置かれた状況が正確に理解される。目の前には、タオル一枚の舞桜(マオ)。自分は、その密閉された空間に、彼女と二人きり。そして、彼女は「服を着たい」と言っている。

「サーセン!」

 万桜(マオ)は、顔を真っ赤にしながら、ほとんど悲鳴に近い謝罪の言葉を上げ、慌てて扉を開け、外へと飛び出した。閉められた扉の向こうから、湯気の残る浴室の湿った空気が、彼の背中にまとわりつくようだった。

 万桜(マオ)は、洗面台の扉を背にし、大きく息を吐いた。今しがた起こった出来事が、彼の脳内で高速再生される。タオル一枚の舞桜(マオ)、そして彼女の放った正論。「まず戸を締めなさい」「出ていってくれるかしら」。彼の「鋼鉄の好天思考」をもってしても、この想定外の遭遇は、なかなか処理しきれない情報の奔流だった。

 だが、彼の思考はすぐに現実に引き戻される。そもそも、彼は何をしに洗面台に来たのか。

 ――歯磨きだ。

 口の中に残る微かな不快感が、その事実を突きつける。しかし、その目的のために、再びあの扉を開けるのは、あまりにもハードルが高すぎた。万桜(マオ)は、頭を抱えるようにして、しばらくその場に立ち尽くした。

 しばらくして、再びガチャリと扉の開く音がして、洗面台から舞桜(マオ)が出てきた。彼女は既に髪を完全に乾かし、軽やかな薄手のワンピースに身を包んでいた。朝の光を浴びて、その姿はどこか清涼感に満ちている。

 その姿を見た途端、万桜(マオ)は反射的に、その場で深々と頭を下げた。深々と、というよりは、もはや床に額を擦りつける勢いの、土下座に近い謝罪だった。

「も、申し訳ございませんでしたぁぁあ!!」

 大声で、そして心底から悔やむような声が、早朝の静かな廊下に響き渡る。彼の顔は、先ほどとは違う意味で真っ赤になっていた。大人としてのプライドもへったくれもない、純粋なまでの陳謝。

 そんな万桜(マオ)の姿に、舞桜(マオ)は眉一つ動かさない。しかし、その目線の奥には、わずかな呆れが宿っていた。

(まったく…)

 彼女は、腕を組み、小さくため息をついた。

「もういいわ。済んだことよ」

 その声は、相変わらず感情の抑揚に乏しかったが、どこか落ち着かない様子の万桜(マオ)を静めるには十分だった。





通風は痛いらしい。


『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!

いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!

物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。

実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?

地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!

もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!

皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!

引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!


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