ボッチの魔王と卵丼
シラコと男前豆腐はなんか似てる
2018年梅雨。
梅雨の合間の晴れ間、甲斐の国大学のキャンパスは蒸し暑さに包まれていた。学生で賑わう休憩所の隅で、茅野舞桜は冷たいペットボトルを握りしめ、目の前の黒木万桜を直視めていた。彼の能天気な笑顔は、今日の舞桜には、どこか小癪に映った。
「……黒木」
舞桜の呼びかけに、万桜はのんびりと顔を上げた。
「ん? なんだよ、ボッチ。アイスでも奢ってくれんの?」
舞桜は、小さくため息をついた。彼の能天気さには、心底呆れる。だが、今日、彼女が聞きたいのは、そんな軽口ではない。
「さっき、あなたの口から『勇希の父ちゃん』という言葉が出てきたわね」
舞桜の言葉に、万桜はキョトンと首を傾げた。
「ああ、勇希の父ちゃんのこと? なんだよ、それが?」
「その『勇希の父ちゃん』の娘さんという『勇希』という人物……。彼女は、あなたの幼馴染みだそうね」
「そうだけど? それがどうかした?」
万桜の無邪気な問いに、舞桜は一瞬言葉に詰まった。
(どう、も、したわよ。大アリよ……!)
直感的に、舞桜は『勇希』が女性だと看破していた。そして、その直感は、彼女の中にわずかな動揺を生んでいた。彼女の完璧なロジックの中に、異物が紛れ込んできたような、そんな感覚だ。
「……その、勇希という女性は、どのような方なのかしら?」
舞桜は努めて冷静に尋ねたが、その声には微かに硬さが混じっていた。万桜は、顎に手を当てて少し考えた。
「んー、勇希かぁ……」
万桜の脳裏に、今年の春の記憶が鮮明に蘇る。少し埃っぽいアパートの台所で、慣れない手つきで飯をよそっていた、あの時の勇希の姿。
「すっげえ世話焼きで、しょっちゅう俺のこと怒鳴りつけてたな」
万桜は、苦笑いしながら言った。舞桜は、その言葉に、わずかに眉をひそめた。
(怒鳴りつける……? やはり、ただの幼馴染みではない……)
舞桜の頭の中では、すでに様々な可能性が渦巻いていた。
「それは、まるで母親のようね」
舞桜の皮肉めいた言葉に、万桜はまたキョトンとした顔をした。
「母親? いや、違うって。なんていうか、あれだな……うん、不条理な奴」
「不条理?」
舞桜は、その言葉の意味を測りかねた。万桜の思考は、常に予断を許さない。
「そうそう。高校の卒業式の日だったかな。東京本郷大学に行く前夜だって言って、呼び出されてさ」
万桜の言葉に、舞桜の瞳が大きく見開かれた。
(東京本郷大学……? この学歴に全く執着しない黒木と、まさか……)
舞桜は、思わず身を乗り出した。
「それで、一体何があったの?」
「いや、それがさ、なんか飯食えって言われて」
万桜は、語りながら、あの日の「プリン体の殿堂」を思い出したのか、僅かに顔を歪めた。
★★★★★★★
西暦2018年3月。
黒木万桜は、幼馴染みの少女、白井勇希に呼び出されていた。
東京本郷大学へと旅立つ前夜、白井勇希は、少し埃っぽいアパートの小さな台所で、慣れない手つきで飯をよそっていた。このアパートは、元々、彼女の両親が万桜と勇希の二人で受験勉強に集中できるよう、特別に借り上げてくれた勉強部屋だった。両親公認の、男女が共に高みを目指すための空間。だからこそ、白井家のお嬢様である勇希が、この小さな空間で万桜と過ごすことに、何の不自然さもなかった。
万桜の視線は、無意識のうちに、彼女のTシャツに吸い寄せられた。薄手の白い布地の下に、何も身につけていないことが、はっきりと知覚て取れる。柔道で鍛えられたしなやかな体つきが、ゆったりとしたTシャツの柔らかい布地を通して、かえって色香を帯びて見えた。ショートパンツのような軽装で、動きやすさを重視しながらも、どこか万桜を誘い込もうとするような、無防備な魅惑を放っていた。
「……寒くねえの?」
万桜は、必死に平静を装って、そう尋ねた。喉の奥が、乾いている。
勇希は、万桜の言葉を、意にも介さなかった。いや、意にも介さないように見せた。シンクには使いかけの鍋がいくつか。彼女は、まだエリート街道を歩み始めたばかりの、純粋な一人の少女だった。ただ、目の前の男のために、何かを「完璧に」成し遂げようと、人知れず熱を込めていた。そのまなざしは真剣そのもので、まるで国家の命運を左右する極秘任務でも遂行しているかのようだった。その顔には、普段の冷静さとは異なる、わずかな高揚と、抑えきれない焦燥感が滲んでいる。彼女の心臓は、いつもより少し速く脈打っていた。
「で、できた」
無機質な声で告げられたそれは、勇希にとっての渾身の「送り出しの食事」だった。テーブルに置かれた丼に、黒木万桜は目を瞠った。
(なんだ、これ……?)
万桜の脳裏に浮かんだのは、純粋な驚愕だった。そこにあるのは、もはや「卵丼」という牧歌的な名称からはかけ離れた、異形にして荘厳な光景だった。白い飯の上に乱雑に、それでいて確かな存在感を放ちながら築き上げられた、様々な卵たちの小山。それは、彼が物事の本質を洞察する力を持ってしても、その意味を即座には理解できない、圧倒的な情報量を伴う塊だった。
まず目を引くのは、鮮やかな橙色の輝きを放つイクラの粒だ。それが惜しげもなく、飯全体を覆う絨毯のように敷き詰められている。その上に、まるで無造作に、しかし計算されたかのように転がるのは、真珠のように白く艶めくゆで卵たち。鶏卵のそれもあれば、雀の卵ほどにも小さいウズラの卵がいくつも寄り添い、無垢な顔をして佇んでいる。
そしてその隙間を縫うように、あるいはその上に堂々と鎮座するのは、おぼろげなピンク色のタラコの塊。そのつぶつぶとした質感は、イクラのそれとは異なる、また別の海の恵みの証だ。極めつけは、ぬめるような光沢を放ち、官能的なまでに白い白子が、これ見よがしに一切れ、また一切れと散らされていることだろう。
それぞれの卵が持つ色と形、そして食感の多様性が、視覚に訴えかける。これは丼物というより、卵と魚卵が織りなす「プリン体の殿堂」とでも呼ぶべき、禁断の饗宴。一口食べれば、海の恵みと生命の源が、舌の上で爆発するような錯覚に陥るだろう。
「……これ、なに?」
万桜の声は、素直な困惑と、ほんのわずかな恐怖を含んでいた。彼の「鋼鉄の好天思考」をもってしても、この丼の、あまりにも「過剰」な生命力は、一瞬の戸惑いを呼び込んだのだ。脳裏には、どこか遠い未来で聞くことになるかもしれない「痛風」という単語が、脳裏を過った。
勇希は、万桜の困惑を、意にも介さなかった。いや、意にも介さないように見せた。差し出した丼から視線を逸らさぬよう、その琥珀色の瞳は、まっすぐに万桜の反応を捉えていた。彼女は自信満々に、その巨大な卵の小山を指差した。
「卵丼だ」
(うん、不条理だ。不条理な絵面だ……)
万桜は、心の内でそう呟くしかなかった。その場に漂う、居心地の悪い沈黙。勇希の完璧主義は、料理においても、その「量」と「密度」において極限に達しているらしい。そして、それを「卵丼」と断言する彼女の揺るぎない確信は、万桜の思考の範疇を軽々と超えていた。だが、勇希の表情は揺るがなかった。彼女は万桜の視線を受け止め、その深奥の感情を悟られまいと、努めて冷静な声で、いつものように命じた。
「食え」
その言葉には、一切の躊躇も、疑問を挟む余地もなかった。命令。
万桜は、はぁ、と小さくため息をついた。目の前の異形を受け入れるように、あるいは彼女の意志の強さに根負けするように、結局彼は諦めたように箸を取った。
一口、また一口と、彼はその「プリン体の塊」を平らげていく。イクラが弾け、ゆで卵がもっちりとした舌触りを与え、タラコが独特のプチプチとした食感で追随する。時折、ぬめるような白子が口腔を滑り、その濃厚な風味は、万桜の意識を味覚の深淵へと引きずり込んだ。胃の奥底から、得体のしれない生命力が湧き上がってくるような錯覚。それは確かに膨大なエネルギーの塊だったが、同時に彼の身体が警鐘を鳴らすような重さも伴っていた。途中で眉をひそめたり、目を遠く泳がせたりはしたが、その「鋼鉄の好天思考」が胃袋にも宿っているかのように、驚くべきことに、その丼の底までを綺麗に完食した。
勇希は、万桜が箸を置くのを固唾をのんで見守っていた。その表情には、万桜がこの「完璧な食事」を平らげたことへの満足感と、そして彼女自身も自覚しきれないような、ある種の「成功」への切なる期待と、微かな焦燥が入り混じっていた。高鳴る鼓動が、彼女の秘めたる想いを代弁しているかのようだった。万桜が完食した瞬間、彼女は、まるで計算が狂ったかのように、わずかに前のめりになり、慌てて問いかけた。その声には、微かに上擦った響きが混じる。
「万桜。お、おかわりは、い、要るか?」
それは、彼女の内心の焦燥が、最も効率的な形で発露した、万桜に突きつけられた唯一の選択肢だった。若き勇希は、これが万桜に「生命力」を与えるだけでなく、彼を自分に繋ぎ止めるための、不器用な「誘い」であることに、まだ自覚的ではなかったかもしれない。しかし、その全身から発される切迫した空気は、万桜にも伝わっていた。
(だ、ダメだ! ぜ、ぜってーダメだ! ここで手を出しちまったら、勇希の一年を遅らせちまうかもしれない……最低だ、俺は最低だ! フラれた男が、そんなことできっかよ!)
万桜は、呆れたように彼女の顔を見上げた。その目は、丼の底を見つめていた時よりも、はるかに冷静で、そして真っ当だった。そこには、彼女が期待したであろう、いかなるロマンチックな響きも、感情的な反応もなかった。
「通風になるわ。アホンダラ」
その言葉は、若き勇希の、不器用な、しかし深遠な「誘い」の全てを、あまりにも現実的で、そして一切の情を含まない一言で、一刀両断するに十分だった。彼女の期待は、風船がしぼむように音もなくしぼんでいく。勇希の表情から、わずかに期待の色が失せ、代わりにいつもの冷静さと、ほんの少しの諦め、そして万桜には決して悟らせまいとする、微かな恥じらいが戻ってきた。彼女は小さく唇を噛み締め、その場に立ち尽くしていた。その夜の空気が、奇妙なほどに静まり返っていた。
★★★★★★
2018年梅雨。
万桜の記憶の中に、一瞬、あの日の卵丼の異形な姿が、鮮烈なカラーでフラッシュバックした。イクラの鮮やかな橙色、ゆで卵の真珠のような白さ、タラコの不気味なピンク色、そしてぬめるような白子――。
「……随分と、印象的な食事だったようね」
舞桜は、自らの冷静さを保つように、淡々と問いかけた。万桜は、小さくため息をついた。
「もう二度とごめんだね。あれ食ったら通風になるわ」
万桜の素直な感想に、舞桜は口元に手を当てて、小さく考え込んだ。
「その勇希という女性の容姿は? どんな女性かしら?」
舞桜は、努めて客観的に尋ねた。
「ん? ああ、勇希は柔道やってたから、筋肉質な感じ。髪はボッチより長くて、ポニーテールにすること多いよ」
万桜の言葉に、舞桜はわずかに目を見開いた。
(柔道をやっているということは、活動的なタイプね…ポニーテール? 黒木の好み?)
舞桜は、自身の細身の体型と、万桜が語る勇希の活動的な印象を比べ、無意識のうちに、自分と勇希を比較していた。
「……なるほど。とても活動的な方なのね」
「そうそう。ていうか、なんでそんなこと聞くんだよ、ボッチ。もしかして嫉妬? え? やっぱ結婚する?」
ここで万桜の鋼鉄の好天思考が炸裂。舞桜はピクリと反応した。
「し、しないわよ! ば、バカじゃないの? それで彼女は今、東京?」
舞桜は、さりげなく、だが核心を突くように尋ねた。
「そうだよ。この春から東京で暮してる。東京本郷大学。あいつ、俺が『キャンパスで嫁を探す!』って宣言したのにさぁ~」
万桜は、わかりやすくシュンとする。勇希にフラれたと思い込んでいるようだ。
「黒木、あなた、どこ目指すって問われて、『う~ん国立大~』って答えただけでしょう?」
舞桜が冷静に突っ込んだ。
「だって、勇希は国立大に行くって言ってたもん。そりゃあ、同じ国立大なら甲斐の国大学だよな? 近いし、合理的だろ?」
万桜は、心底、不思議そうに首を傾げた。
舞桜は、深くため息をついた。万桜の言葉に、彼女の完璧な思考が混乱する。勇希の健気な想いと、万桜の底抜けの鈍感さ。その絶望的なすれ違いに、舞桜は頭痛が発症しそうだった。
万桜の言葉に、舞桜の目が大きく見開かれた。
(ん? 黒木はフラれたと思ってる? しかし、東京本郷大学…黒木なら可能…さっきのプリン体丼は、つまり…)
舞桜は、内心で動揺を隠せなかった。動揺しながら導き出した答えは、
「据え膳食わぬは、男の恥」
それだった。舞桜が、小さく呟くと、
「卵丼なら残さず食ったよ?」
万桜は断言するように答え、
「の、残さず? ま、まさか朝まで?」
舞桜は盛大に勘違い。ここで万桜、
「落ち着け耳年増。そう言う意図は、ねえ。たぶん…」
歯切れ悪く当時を邂逅。ここで、舞桜、まだ見ぬ勇希に憐れみを覚え、万桜の脛を爪先蹴。
「……」
万桜は、声無き悲鳴を上げ、追い打ちのように臀部に衝撃、話を聞いていた莉那の蹴りだ。
「いっ痛ぇ~? なにすんだよ?」
蹴りを入れたふたりに、抗議の声を張り上げるが、
「黙れ男の恥」
「そして、女の敵。ビアンカの敵」
有言の封殺。
斯してふたりは意気投合。この時から、莉那は舞桜を名で呼ぶようになり、舞桜は莉那をサブリナと呼ぶようになった。
★★★★★★
2025年梅雨入り前。
梅雨入り前の夜。万桜は、先ほどまで見ていた2018年の夢の余韻を引きずりながら、朦朧とした意識で目を覚ました。しかし、そこは自分の寝台ではなかった。肌寒い夜気を感じる縁側に、自分は寝転んでいる。そして視線の先には、数多の論文の山が築かれた机が置かれ、丸眼鏡が逆さまになった男が横に座っていた。
「……ああ、これも夢か」
万桜は小声で呟いた。先ほど夢の中で散々「処理」したはずの、あの喧しい男だ。ケッと毒突き、面倒くさそうに体を起こした。
「なんか用かよ?」
万桜の言葉に、丸眼鏡の男――ノイマンは、微かに疲れた顔で眼鏡を直した。
「君たちは、彼に似ているんだ。30年前の今時分、こっちに来た彼にさ」
「たちって誰だよ?」
万桜は即座に問い返す。ノイマンは一瞬、言葉を詰まらせた。幽霊の規則で、善さんの名を直接は話せないのだろう。
「君によく似た乱暴者だよ。これでいいかい? 似てるんだ。ジョン・アタナソフにさ」
万桜は、その言葉に驚くことなく、むしろ呆れたように鼻を鳴らした。
「ああ。もう一人のジョンね。俺ら基本的に電気屋だからなー。似てるのはあたりめえだろーさ。こう言われたんじゃねえか? 『嘘つく機械造ってんじゃねえ』ってよ」
万桜は、もう一人の「ジョン」が、アタナソフがノイマンに告げたことを、一言一句違えずに伝えたことで、ノイマンの目を見開かせた。彼の表情に、驚愕と困惑の色が混じった。
「メモリ上にプログラムとデータを同時に乗せる。次を乗せる。クリアが間に合わない。残滓が残る。おかしな挙動。これが制御不能のバグの正体だ。おまえ、自律式オートマトン、バグで再現しやがったな? 有益な現象も起こるが、大半が不具合だ。もう一人のジョンに雷落されたろ? 違ぇか?」
まるで見てきたような万桜の言葉に、ノイマンは思わず身を乗り出した。
「ジョン、君なのか?」
その問いかけに、万桜は無言で手刀を食らわせた。スカンと乾いた音が響く。
「違ぇわ! ちょっと考えれば誰でも見えらあ、そんなもん」
万桜は、心底、疲れたように言い捨て、大きく欠伸をした。
ノイマンの口調は、ひどく落ち着いており、先ほどの感情的な激論を交わしていた様子とは異なっていた。万桜は直感する。これが彼の「素」なのだろうと。感情を削ぎ落とし、純粋な知性のみが息衝く思考の形が、まさにそこにあった。
そこから二人は、夢中になって分岐話の会話を繰り広げた。もしも、ふたりのジョンが、手を結んでいれば、ノイマンが早死しなかったこと。40年前に人工知能が誕生していた可能性。「あ、だからか?」と万桜は気づく。勇希の夢を見た理由。そして、心底、憐れんだ視線をノイマンに向け、言い放つ。
「友達いねえんだなオメェ」
ノイマンは、その痛烈な指摘に顔色を変えた。
「うっさいよ! うっさいよ! このリア充!」
「俺には、あいつらがいるからな。あんたにゃならねえよ。ぜってーな。ちっと未来の世界のネコ型ロボット迎えに行ってくらぁ。40年も待たせちまって怒ってんぜ? きっと」
「ああ、ごめんと伝えておいてくれ」
◆ ★ ◆ ★ ◆
洗面台の扉を開けると、そこには湯気が立ち込めていた。浴室から出てきたばかりの茅野舞桜が、大判のタオルを胸に巻き付けただけの姿で、髪を拭いていた。水滴が滴る黒い長髪、洗い立てのような清潔感。普段の完璧なスーツ姿とは異なる、飾らない姿がそこにあった。
万桜の思考が、一瞬、停止した。視線が、無意識にタオルで隠しきれていない胸元へと吸い寄せられる。男の子の本能が、純粋な驚愕を覚えた。
「あ、ごめん!」
万桜は咄嗟に視線を逸らしたが、舞桜は既に気付いていた。その表情筋の乏しい顔は無表情のままだが、目の奥に僅かながら、分析的な光が宿る。
(いや、閉めろ)
「あ、ごめん」
舞桜の声は平坦で、その耳の先が微かに赤く染まる。その一言が、万桜の思考回路を一瞬にして現実に引き戻す。
舞桜は、髪を拭く手を止めず、濡れた前髪から覗く瞳で万桜を捉えた。まるで、不測の事態に遭遇した際に発動する、彼女特有の「情報解析モード」に入ったかのようだ。その視線は、万桜の動揺、逸らされた視線の先、そして彼の呼吸の乱れまでをも瞬時に読み取り、既知の情報と照合していく。
一瞬の沈黙。その場に漂う、微かな湯気と、気まずい空気。万桜は頬を掻き、どうにかしてこの状況を打破しようと口を開いた。
「いや、その、なんだ……風呂上がり?」
あまりにも間抜けな万桜の言葉に、舞桜の表情筋はピクリとも動かない。しかし、その耳の赤みがさらに深まったように見えたのは、万桜の気のせいではないだろう。
(いいから閉めろ)
「ええ。そうよ」
彼女の返答は簡潔で、感情の抑揚は一切ない。それが、かえって万桜の動揺を増幅させる。普段の完璧な彼女からは想像もつかない、無防備な姿。それが、万桜の脳裏に焼き付いて離れない。
「そ、そっか……」
万桜は、もはや何を話せばいいのか分からず、ただ視線を彷徨わせるしかなかった。彼の脳内では、普段の「鋼鉄の好天思考」が、未曾有の事態に直面して一時的に機能不全に陥っている。
舞桜は、再び髪を拭き始め、やがて顔を上げた。その瞳は、すでにいつもの冷静さを取り戻している。
「何か、私に用があったかしら?」
その言葉は、万桜に向けられた問いでありながら、どこか事務的で、先ほどの気まずさを意に介していないかのようだった。あるいは、彼女なりの「通常運転」に戻るための、理性的な切り替えなのかもしれない。
(ともかく閉めろ)
「まず、戸を締めなさい」
舞桜の言葉は、まるで精密機械が発する指示のように、一切の無駄がない。彼女は、万桜の顔が目前にあるにも関わらず、揺らぐことなく、ただ当然の事実を告げるように言った。その声には、微かに濡れた髪の冷たさが混じっているかのようだ。彼女の「秩序と完璧主義」が、この場でも最優先される。
「は? ああ……」
万桜は、我に返ったように洗面台の扉に目を向けた。
(な、な、な、なんで閉めるの? い、い、えー普通出るでしょ?)
その言葉に素直に従い、扉に手を伸ばす。ガチャリ、と音を立てて戸が閉まる。万桜は、自分がまだ脱衣所の中にいることを気にも留めず、そのまま舞桜の次の言葉を待った。
「あの、服を着たいから、出ていってくれるかしら」
舞桜の言葉は、簡潔で、そしてあまりにも正論だった。万桜の脳裏に、今ようやく、自分が置かれた状況が正確に理解される。目の前には、タオル一枚の舞桜。自分は、その密閉された空間に、彼女と二人きり。そして、彼女は「服を着たい」と言っている。
「サーセン!」
万桜は、顔を真っ赤にしながら、ほとんど悲鳴に近い謝罪の言葉を上げ、慌てて扉を開け、外へと飛び出した。閉められた扉の向こうから、湯気の残る浴室の湿った空気が、彼の背中にまとわりつくようだった。
万桜は、洗面台の扉を背にし、大きく息を吐いた。今しがた起こった出来事が、彼の脳内で高速再生される。タオル一枚の舞桜、そして彼女の放った正論。「まず戸を締めなさい」「出ていってくれるかしら」。彼の「鋼鉄の好天思考」をもってしても、この想定外の遭遇は、なかなか処理しきれない情報の奔流だった。
だが、彼の思考はすぐに現実に引き戻される。そもそも、彼は何をしに洗面台に来たのか。
――歯磨きだ。
口の中に残る微かな不快感が、その事実を突きつける。しかし、その目的のために、再びあの扉を開けるのは、あまりにもハードルが高すぎた。万桜は、頭を抱えるようにして、しばらくその場に立ち尽くした。
しばらくして、再びガチャリと扉の開く音がして、洗面台から舞桜が出てきた。彼女は既に髪を完全に乾かし、軽やかな薄手のワンピースに身を包んでいた。朝の光を浴びて、その姿はどこか清涼感に満ちている。
その姿を見た途端、万桜は反射的に、その場で深々と頭を下げた。深々と、というよりは、もはや床に額を擦りつける勢いの、土下座に近い謝罪だった。
「も、申し訳ございませんでしたぁぁあ!!」
大声で、そして心底から悔やむような声が、早朝の静かな廊下に響き渡る。彼の顔は、先ほどとは違う意味で真っ赤になっていた。大人としてのプライドもへったくれもない、純粋なまでの陳謝。
そんな万桜の姿に、舞桜は眉一つ動かさない。しかし、その目線の奥には、わずかな呆れが宿っていた。
(まったく…)
彼女は、腕を組み、小さくため息をついた。
「もういいわ。済んだことよ」
その声は、相変わらず感情の抑揚に乏しかったが、どこか落ち着かない様子の万桜を静めるには十分だった。
通風は痛いらしい。
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!
皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!
引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!