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ボッチの魔王のギャルの拒絶

前書き

 恋は二択。世界は劇物。

 2019年1月。甲斐の国の片隅で、黒木万桜(マオ)は人生の岐路に立っていた。

 幼馴染の白井勇希(ユウキ)と、学生ベンチャーの社長である茅野(チノ)舞桜(マオ)。二人の女性の間で揺れる不毛な恋の悩みを抱えながら、万桜(マオ)は友人の拓矢(タクヤ)番長(バンチョー)から「善きに計らえ」と、投げやりに突き放される。

 一方、万桜が企図する壮大な計画「文明シフト」を推進する学生ベンチャー「セイタンシステムズ」の周りには、天才的な「劇物」たちが集まり始めていた。

 カフェでのミーティング中、万桜たちの前に現れたのは、経理の天才にしてデイトレーダーの後輩、杉野(スギノ)香織(カオリ)。その破天荒な才能と、万桜への熱烈なアプローチは、冷静沈着な社長・舞桜の「不採用」宣言を引き出し、さらに勇希の「アイアンクロー」までも炸裂させる事態に。

 万桜、舞桜、勇希、そして莉那リナ。この濃すぎる関係性の中に、香織という新たなトリックスターが加わることで、彼らは世界の金融市場すら意のままに操りかねない「金融ディストピア」の予感を覚える。

 そして、その劇的な展開の最中、番長が持ち込んだのは、外来魚の常識を覆す、極上の味。

 恋の悩みと、世界を変える「劇物」たちの奔走。天才たちの情熱は、世界を平和な未来へ導くのか、それとも破滅的な変革をもたらすのか。

 これは、二つのマオをめぐる青年の恋愛模様と、文明の常識を破壊し、新たな価値を創造しようとする若き革命児たちの物語である。


 2019年、人日の節句の夕刻。

 御井神(ミイノカミ)神社の麓は、既に濃い藍色に包まれていた。古井戸の近くにある空き地は、かつて子供たちの秘密基地だった場所で、周囲を囲む杉の木々が天蓋のように闇を吸い込んでいる。

 鬱蒼(うっそう)とした黄昏の森の中、真冬の冷気が肌を刺した。古井戸を囲む石積みの苔も凍てつき、そこにある岩に腰を下ろす三人の青年たちの吐息だけが、白い塊となって上空へと立ち昇る。

 万桜(マオ)拓矢(タクヤ)と番長。かつての悪ガキであった三人は、静寂の中で不毛な恋の相談をしていた。

「んで、おおかたあたりはついてるけどよ」

 拓矢(タクヤ)が、万桜(マオ)に先を促す。

黒幕(フィクサー)、気持ちはわからんでもねえが、どっちつかずって、どうなのよ?」

 番長が核を突いた。

「え、エスパーか? おまえらは…」

 万桜(マオ)は心中を言い当てられて、乾いた笑みを浮かべた。

「だってよぉ、ボッチも勇希(ユウキ)もどっちも好きなんだもんよぉ」

 情けない顔を両手で覆って、情けない声で万桜(マオ)は嘆く。

勇希(ユウキ)はわかるよ。幼馴染で長えもん。でも茅野(チノ)さんとは一年経ってねえだろ?」

 拓矢(タクヤ)がそう言うと、番長が補足する。

「ああ、恋愛感情って三年で冷める状態異常だって言うよな」

「え、ちょ、あと二年、なにもしちゃダメってことかよ? 別のヤツに掻っ攫われちゃうじゃねえか!」

 万桜(マオ)狼狽(うろた)えるが、拓矢(タクヤ)と番長は、

「「知らねえよ。そんなこたぁ」」

 キッパリと言い切った。

 古井戸から微かに湿った土の匂いが立ち昇る。鬱蒼(うっそう)とした木々が作る影の中、万桜(マオ)は両腕を組み、冷え切った岩の上で身を震わせる。

「「ああ、アレだ。そう、善きに計らえ」」

 投げやりに言い切り、拓矢(タクヤ)と番長は立ち上がった。

 拓矢(タクヤ)は夜空を見上げ、満天の星が木々の隙間から覗く光景に目を細める。

「ま、どっちも逃げねえ女だろ。ゆっくり考えな」

 番長が万桜(マオ)に背を向けたまま、古井戸の暗闇に声を投げかけた。

黒幕(フィクサー)、なるようにしかならねえんだ。気楽に構えな」

 その言葉は、まるでかつての悪ガキたちに向けた、秘密基地の合言葉のようだった。

 取り残された万桜(マオ)は、冷えた岩の上で、両腕に顔を埋める。

 黄昏の森は、なにもかもを飲み込むように、静かに夜の帳を下ろし続けた。


★★★★★★


 2019年1月上旬。

 甲斐の国大学のメインストリートから少し入ったところにあるカフェは、卒論前の学生で賑わっていた。ミルサーの唸る音、エスプレッソマシンの蒸気音、そして無数のヒソヒソ話が作り出す喧騒が、空間全体に膜を張っている。

 そのカフェの窓際の席で、万桜(マオ)舞桜(マオ)と向かい合っていた。広げられたノートには、次期複合発電所の建設プランと、多層構造農業の収支報告が書き込まれている。

「だから、陸の海では『天草』の加工排水を使うとして、そのミネラル成分のブレンド比率を…」

 万桜(マオ)が身を乗り出し、広げた表に顔を近づけた、その瞬間だった。

「黒木先輩!」

 甲高い、よく通る声が、カフェの喧騒を一瞬で切り裂いた。その声に、周囲の数組の学生が、何事かと一斉に振り返る。

 万桜(マオ)は反射的に振り返った。そこに立っていたのは、高校のバスケ部で一緒だった杉野(スギノ)香織(カオリ)だ。細く整えられた眉、目元にはラメがキラキラと光り、制服のスカートは校則ギリギリの短さ。華やかで奔放な空気を纏った、典型的な今どきのギャルだった。

「おお、杉野(スギノ)じゃん。なに、センター試験前の社会科見学か?」

 万桜(マオ)が気楽に投げ返す。

「黒木さん、そちらは?」

 舞桜(マオ)の声が、心なしかワントーン低い。彼女の瞳には、警戒の色が明確に浮かんでいた。もし普段なら「え、なにジェラシー?」とでも切り返せただろうが、今、万桜(マオ)は妙に舞桜(マオ)を意識しており、その言葉は喉の奥に引っかかったまま出てこない。

「ああボッチ。こいつは高校の部活の後輩で、杉野(スギノ)香織(カオリ)ってんだ。杉野(スギノ)、おまえどこ受けんだ?」

 万桜(マオ)が問うと、香織(カオリ)は、その迷いのない瞳をまっすぐ舞桜(マオ)に向けた。

「こいつ誰ですか先輩!」

 香織(カオリ)の宣戦布告とも取れる一言に、カフェの喧騒が一気に遠のき、二人の周囲だけが、まるで真空の静寂に包まれた。

「こいつ…」

 舞桜(マオ)の口元が微かに引き攣り、臨戦態勢に入る。

 思わぬ窮地に立たされた万桜(マオ)は、即座に脳内で現状を分析し、鋼鉄の好転思考を炸裂させた。この香織(カオリ)というトリックスターは、真正面から否定しても無駄だ。むしろ、この状況を利用して、舞桜(マオ)との関係を強固にする好機と変えてやる。

「ああ、こいつは茅野(チノ)舞桜(マオ)。俺の嫁候補だ」

「な、な、なにを?」

 狼狽(うろた)える舞桜(マオ)に、万桜(マオ)は最小限の、しかし力強い声で持ち掛ける。

「イイから合わせろ。めんどくせえんだよ。こいつは」

 舞桜(マオ)万桜(マオ)の小声による相談に、その意図を瞬時に察した。この場を波風立てずに収めるための、「魔王の戦術」だと理解する。舞桜(マオ)は、もう一度香織(カオリ)の瞳をジッと見た。うん。これは、昔、勇希(ユウキ)万桜(マオ)を見るのと同じ、「恋する乙女の圧」である。

 舞桜(マオ)は吐息をひとつ。一呼吸置いて、大人の余裕を見せつけた。

「黒木さんの嫁候補らしい茅野(チノ)です。杉野(スギノ)さん。初めまして」

「お百度参りで、白井先輩を東京に追っ払ったのに、む、虫がついていたとは~」

 香織(カオリ)は、負け惜しみに唇を噛みしめ、「グヌヌ」と唸る。

「いや、俺、一昨年に言ってるからね? 彼女居るから付き合えません。ごめんなさいって」

 万桜(マオ)は、淡々と事実を口にした。

「でもでも、白井先輩は東京に~」

 香織(カオリ)が叫びかけたその時、カフェの入り口から、さらに強力な圧が降り注いだ。

 そこには、いつの間にかスーツ姿で立っている、白井勇希(ユウキ)の姿があった。

杉野(スギノ)万桜(マオ)は売約済みだと言ったはずだが?」

 勇希(ユウキ)の圧は、今日の冷えた空気よりも鋭く、カフェのガラス窓一枚隔てた外部の雑音まで凍りつかせるようだった。

 万桜(マオ)は急いで割って入る。

幼気(いたいけ)な後輩をイジメんなよ。つか杉野(スギノ)、今は集中する時なんじゃねえのか?」

 そう指摘するが、香織(カオリ)が今日ここを訪れた本当の理由は、受験ではない。

「カオリン、ん? なんでピキってんのみんな?」

 香織(カオリ)が振り向いた先には、福元莉那(リナ)がニコニコと立っていた。彼女は新入社員の面接のためにカフェの別の席にいたのだ。

「福元先輩ぃ。黒木先輩や白井先輩がイジメるんですぅ」

 香織(カオリ)は、状況を即座に判断し、長いものに巻かれるトリックスターとしての本領を発揮する。

「ふぅん。そんで、受験とウチとどっちを選ぶカオリン」

 莉那(リナ)は、香織(カオリ)の言葉を真に受けずに流し、彼女の意思を質した。しかし、その前に、

「不採用」

 不機嫌な舞桜(マオ)の鶴の一声が炸裂した。

「ちょっと舞桜(マオ)。人事はあたしに一任するんでしょ?」

 莉那(リナ)がそう言っても、舞桜(マオ)は頑なだ。

「不採用。社長をこいつ呼ばわり。初対面でこいつ呼ばわり。不採用一択です!」

 莉那(リナ)は、頬を膨らませて頑なに「不採用」を繰り返す舞桜(マオ)を、まるで駄々をこねる子供を宥めるように、優しい仕草でなだめた。

「まあまあ、舞桜(マオ)。そんなにピリピリしなくても」

「いや! あたしは断固拒否です! こいつ…黒木とサブリナを足して2で割ったような気がする!」

 舞桜(マオ)は、経営者としての冷静さを忘れるほど、自身の本能的な直感に忠実だった。その根拠なき「危険信号」は、彼女の優秀な秘書としてのキャリアで培われたものだ。

「い、否めない。カオリン。諦めて受験して、ウチの会社に合流しなよ」

 莉那(リナ)が冷静にそう提案すると、香織(カオリ)は、そのキラキラしたギャルメイクの瞳を、万桜(マオ)に真っ直ぐ向けた。

「国立大学って、裏口入学できましたっけ?」

 その問題発言に、万桜(マオ)は思わず椅子から腰を浮かせた。

「いや、おまえ! 普通に入れるだろ? 俺らと一緒に受けた模試、A判定だったじゃねえか!」

 万桜(マオ)の呆れたツッコミを、香織(カオリ)はニヤリとした笑みで受け止めた。彼女は、高校時代からバスケよりも株価チャートに夢中だった、経理の天才にしてデイトレーダーなのだ。

「大丈夫! 先輩、可能性に蓋をするなんて黒き魔王さまらしくもない」

 香織(カオリ)は力説した。彼女の指先が、テーブルに置かれた万桜(マオ)の端末を一瞬で叩き、電卓アプリの数字が踊る。

「先輩。デイトレードの世界で、一日に資金を三割増やすことは可能です。二倍、三倍だって夢じゃありません。これは確率論ではありません、相場の波を読む天賦の才です! ウチはその波に乗れます。ウチが会社に入れば、ウチのこの能力で、先輩の計画にかかる初期投資を、一ヶ月で捻出してみせます!」

 彼女は、まるで熱狂的なカルトの教祖のように、熱い相場師の知識を披露した。その言葉の裏側には、億単位の数字と、桁外れの利益が具体的に存在していることを、万桜(マオ)は知っている。

「可能性に蓋じゃなくて、おまえのは、可能性にセメントを塗って、大岩を置いて、その上から鉄板で溶接しちゃってるからな」

 万桜(マオ)は、その恐るべき才能の暴走に、深く嘆息した。その才能は、正しい道で使えば世界を変えるが、一度道を誤れば、世界を滅ぼしかねない。

 その瞬間、勇希(ユウキ)が動いた。彼女は、カフェのテーブルを回り込み、香織(カオリ)の顔を掴むと、まるでスラムダンクを叩き込むかのような勢いで、アイアンクローの形に指を食い込ませた。

「受験しろ。おまえは東京本郷大学組だ。そんな一過性のギャンブル性の利益は、あたしたちの『文明シフト』には不要だ」

 勇希(ユウキ)は、後輩に対する愛情と、未来への義務感から、強い瞳で香織(カオリ)を恫喝するように命じる。

 顔を掴まれ、物理的な痛みに怯えた香織(カオリ)は、涙目で従った。

「ふ、ふぁいっ」

 舞桜(マオ)は、その光景に悲鳴を上げた。

「な、なんで、あなたたちの周りは濃いのよ! もう社長のおなかイッパイです!」

 彼女は、カフェの喧騒の中で、自分の周りだけが、常に異常な密度で物事が進んでいくことに、耐えられなくなっていた。

「「いや、舞桜(マオ)も大概だからね」」

 莉那(リナ)勇希(ユウキ)は、完璧なユニゾンでツッコミを入れた。莉那(リナ)は、面白そうに笑い、勇希(ユウキ)は、万桜(マオ)への絶対的な信頼を込めた冷たい視線を送っていた。

 カフェの喧騒はすぐに元に戻ったが、窓際のテーブルには、天才相場師の涙と、三人の濃すぎる関係性の残滓が残されていた。


 張り詰めた空気が、莉那(リナ)の明るい声によってようやく溶け始めた。彼女は、まだ警戒を解かない舞桜(マオ)と、アイアンクローを解除した勇希(ユウキ)の間に立ち、改めて香織(カオリ)を紹介する。

「あらためて紹介するよ。舞桜(マオ)。この娘は、杉野(スギノ)香織(カオリ)。あたしらの高校の後輩で、女子バスケ部のエース。あたしと一緒で背はそんなに高くないけど、空気を読む目が天才的なんだ」

 香織(カオリ)は、その紹介にぴたりと合わせ、舞桜(マオ)に深々と頭を下げた。

杉野(スギノ)香織(カオリ)です。ギャルだけど風呂好きです。ギャルだけど未経験者歓迎です」

 最後の「未経験者歓迎」という言葉を発したとき、香織(カオリ)の視線は再び万桜(マオ)に向いた。その目が、何を「未経験」と指しているのかを万桜(マオ)は即座に理解し、コメカミに青筋を立てる。

「少しお黙ろうな? なッ?」

「ふぁ、ふぁい」

 すかさずに、勇希(ユウキ)のアイアンクローが香織(カオリ)の頬に炸裂した。勇希(ユウキ)は物理的な力で、香織(カオリ)の暴走を止めることに躊躇がない。

「ほらぁ、黒木とサブリナじゃん。痴女リナと、魔王じゃん」

 舞桜(マオ)はオヨヨと泣き、嘆いた。この濃すぎる後輩がセイタンシステムズに加わることで、自分たちの小さな学生ベンチャーが、本当に脱却不可能な巨大組織になってしまう予感を覚えたのだ。

「頭はいいけど、ちょっと残念なヤツなんだよな」

 万桜(マオ)は呆れたように香織(カオリ)を紹介する。香織(カオリ)の才能は知っているが、その奔放さが常にネックだった。

「でも、試合の時はすげえんだぜ」

 唸るように感心する万桜(マオ)の言葉を、勇希(ユウキ)が引き取った。

「相手の嫌がるポイントを、確実に攻めて流れを変える。まるで上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)再来(さいらい)だよ」

 勇希(ユウキ)はアイアンクローで香織(カオリ)を吊るし上げながらも、その能力だけは惜しみなく褒めた。

 香織(カオリ)の戦術眼は、戦国時代に「軍神」と呼ばれた上杉謙信が、戦場で一瞬にして敵の「本質的な弱点」を見抜き、そこへ全軍を集中させて流れを断ち切る能力と酷似している。彼女はバスケの試合中、相手チームの最も疲弊している選手、最も焦っているポイントガード、最も守備が薄いエリアを一瞬で見極め、そこを容赦なく攻め立てるのだ。

 莉那(リナ)は、その戦術眼が、いかに現代のビジネスと投資において価値があるかを強調した。

勇希(ユウキ)の言う通り、その戦術眼こそ、あたしたちが求めているものだよね。商売っていうのは、結局、『どこに資源を投入すれば、最も効率よく利益を生むか』という、絶え間ない戦いの連続だから」

 莉那(リナ)は、目を輝かせた。

「特に投資の世界なんて、まさに情報の戦場よ。香織(カオリ)の才能は、他者が気づかない『相場の最も嫌がるポイント』、つまり、最も価格が動く臨界点クリティカル・ポイントを嗅ぎ分ける。これは、財務諸表や市場データからは決して読み取れない、直感的かつ絶対的な戦術よ。カオリンがいれば、あたしたちの初期投資のリスクは劇的に下がると思うよ」

 万桜(マオ)も頷く。

「ああ。戦場でも、ビジネスでも、本質は変わらねえ。杉野(スギノ)の『一瞬で勝負を決める戦術眼』は、俺たちの『文明シフト』という壮大な計画にとって、最大の武器になるのは間違いない」


★★★★★★


 万桜(マオ)は、テーブルに置かれた冷め始めたコーヒーを一口すすり、静かに言った。

「つか、あいつ最初から、東京本郷大学を受けるつもりだったんだな」

 香織(カオリ)がコートのポケットからちらりと見せた受験票には、この甲斐の国大学ではない、はるか東の最高学府の名前が印刷されていたのを、万桜(マオ)は見逃さなかった。

 舞桜(マオ)は、その言葉に深く頷く。彼女の表情は、先ほどの感情的な「不採用」宣言から一変し、冷静沈着な若き敏腕社長の顔に戻っていた。

勇希(ユウキ)、東京の部屋は経費で落とせる。杉野(スギノ)さんがそっちに行ったら面倒を見てあげて」

 舞桜(マオ)にとって、経理に異常なほど明るい香織(カオリ)の参入は、まさに渡りに船だった。彼女は、セイタンシステムズの経理を一人で賄っており、その多大な労力は舞桜(マオ)自身を疲弊させていた。

「会社の成長にとって、経費削減は必ずしも正義じゃない。削減しすぎた経費は、消費の縮小と、資本の国庫への死蔵に繋がるわ」

 舞桜(マオ)は、誰もが経費削減を美徳とする時代に逆行するかのような、独自の経済哲学を披露した。

「必要経費は、私たちの血の巡りよ。優秀な人材への投資や、未来への布石、つまり『東京での勇希(ユウキ)杉野(スギノ)さんの住居費』のような必要経費は、淀んでいた資本を市場に流し込み、さらに大きな成果を呼ぶ血流なんだから」

杉野(スギノ)のお守りか? サブリナのが向いてるじゃないか」

 勇希(ユウキ)が、あからさまに辞退を申し出る。

「決めたのは勇希(ユウキ)でしょ? それに黒木とサブリナと杉野(スギノ)さんよ。混ぜるな危険に決まってるじゃない」

 舞桜(マオ)は、三人の顔を順に見比べ、ゾッとした表情を浮かべた。

 万桜(マオ)の天才的な発明、莉那(リナ)の奔放な知性、そして香織(カオリ)の桁外れの相場師の戦術眼。この三人が一つになれば、彼らは金融機関の動きを予測するどころか、人工知能制御のデイトレーダーシステムを開発し、その巨大な資本力と予知能力で、世界の金融市場を意のままに操るようになるだろう。

 それは、富が極少数の天才たちに集中し、大多数の一般市民が、そのシステムの「最適化」という名の下に管理される、恐るべき金融ディストピアの始まりを予感させた。

「あたしらは劇物か?」

 莉那(リナ)が、面白そうに問いかけた。彼女の口元には、その「劇物」たちが引き起こすであろう、世界の変革に対する期待と、否めない可能性を笑う余裕が浮かんでいた。

 その言葉は、もはや冗談ではなかった。万桜(マオ)たちは、世界のルールを根底から覆す「劇物」の塊であることを、その場にいる全員が認識していた。


★★★★★★


 万桜(マオ)たちが、金融ディストピアの予感に戦慄しているその時、元休憩室の給湯室から、湯気を立てた皿を手に、番長が嬉々とした面持ちで出てきた。給湯室はすでに番長専用の「厨房」と化している。

「おう、おまえたち、ちょっとこいつを食ってみろよ」

 皿の上には、丁寧に皮が引かれた、純白の身が並べられていた。上品に蒸し上げられているのか、ほのかに磯のような、清涼な香りが漂っている。番長は、去年の秋から、万桜(マオ)と共に外来魚の泥抜きと、餌の改良実験を人知れず続けていた。

 舞桜(マオ)は、フォークでその身を一口すくい、静かに口に運んだ。

「アッサリしていて、上品な味ね。なにかしら?」

 彼女の舌は、高級レストランの味を知っている。その舞桜(マオ)が、目を丸くして首を傾げた。淡水魚にありがちな、鉄臭さや泥臭さは皆無だった。

 勇希(ユウキ)は、目を閉じ、口の中で肉質を確かめるようにゆっくりと咀嚼した。

「鱸にちかいな。いや、さらに繊細だ。天然の鱸よりも、身の繊維が細かく、締まっている」

 彼女の鋭敏な味覚が、その肉質の異常なまでの高水準を即座に見抜いた。

 その反応を見て、番長はニヤリと笑い、テーブルにドンと残りの切り身を置いた。

「オオクチバス、ブラックバスだぜ」

 その瞬間、カフェの喧騒が一時的に遠ざかった。

「去年の夏からファンネル風力発電でエアコンプレッサーを回し続けた甲斐があったぜ…これ革命じゃねえか番長!」

 万桜(マオ)が、顔色を変えた。彼の頭の中では、「外来魚」「特定外来生物」という単語と、今口にした清澄で高貴な味覚が、激しく衝突していた。この上品さが、あの泥臭い魚の味だというのか。

 舞桜(マオ)は、持っていたフォークを皿の上に落とした。キン、と静かな音が響く。

「う、嘘よ! あの、バス釣りで捨てられる臭い魚の味じゃない!」

 彼女は、衝撃のあまり顔面を蒼白にした。常識が覆されることへの、純粋な驚きだった。

 勇希(ユウキ)は、一瞬の沈黙の後、番長を見た。その目は、感嘆と、ある種の畏怖に満ちていた。

「泥抜きだけではない。この締まりは、水圧か……。万桜(マオ)の『陸の海』システムは、ただの密閉水槽ではない。水質の常識、肉質の常識、魚種の常識を、すべて破壊した新種の食材を創造したというのか」

 勇希(ユウキ)は、その天才的な発想の具体化された成果に、深く感銘を受けていた。彼女が感心することは稀である。

 舞桜(マオ)は、皿の上の切り身を指差し、目を輝かせた。彼女のビジネスの才覚が、即座にその価値を算出し始めた。

「臭くないブラックバス……『白のシーバス』よ! これなら高級魚として世界に出せる! 黒木、あなたは本当に、文明シフトの革命児だわ!」

 彼女の目は、すでにこの魚が世界中のレストランで使われる光景を見ていた。

 番長は、その驚愕のリアクションの渦の中心で、静かにガッツポーズをした。

「番長、他の落第生たちも食ってみようぜ!」

 万桜(マオ)は、口元に残る上品な魚の余韻を噛みしめながら、自身の壮大な夢が、ついに「味」という現実を伴って実現したことを確信した。

『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!

いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!

物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。

実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?

地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!

もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!

皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!

引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!

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