黒き魔王とかつての魔王
ノイマン式って、バグの元なのか?
2025年初夏。
5月の新緑が目に鮮やかな日差しの中、甲斐の国市、黒木家の敷地には、いつもとは違う活気が満ちていた。母屋の裏手に佇むモダンな二階建ての離れ。今日からここが、茅野舞桜と福元莉那の新たな拠点となる。
離れの玄関では、引っ越し作業に勤しむ三つの影があった。黒木万桜は、いつも通りの能天気な笑顔で大型の段ボール箱を軽々と運び出している。Tシャツの袖からは、農業で鍛え上げられたしなやかな筋肉が覗いている。
その隣で、福元莉那、通称サブリナは、手際よく荷物を整理していた。黒いショートヘアにカーキ色のカーゴパンツ、そして汗で額に張り付いた髪を気にすることなく、額には青いバンダナを巻いている。トップスは明るいグレーのTシャツで、腰には黒のジップアップパーカーが巻かれている。足元は機能性を重視した黒のスニーカーだ。彼女はダンボールの蓋を素早く閉め、マジックペンで中身を書き記していく。
「そっちはもう少しで終わるじゃん? 万桜、これ、重いから運ぶの手伝って?」
そう言いながら、彼女は重そうな本を詰め込んだ箱を指し示す。その言葉には、斧乃木拓矢の実家の借金も返し終えた、力強い行動力と実践主義が滲んでいた。
一方、室内では茅野舞桜が、冷静な眼差しで荷物の配置を指示していた。身長170センチのモデル体型が映える彼女は、引っ越し作業にも関わらず、どこか清潔感のある白いジャージ姿で、その長い黒髪は、きちんと一つにまとめられている。彼女自身も、重くはないが数の多い段ボール箱を次々と開梱し、内容物を適切な場所へ整理している。
「万桜、その段ボールは、こちらの壁際に置いてくれる? サブリナ、その細長い箱は、私のワークスペースに持ってきて~」
少し高音と低音の中間やや上の冷たな高音で、その指示は丁寧で、かつての命令形ではないものの、友人に対するフランクさが加わっている。その背後には寸分の狂いもない効率性が透けて見える。彼女の表情筋は相変わらず乏しいが、友人たちとの会話の際には、ごくわずかに口角が上がるなど、感情の機微が以前よりも読み取りやすくなっている。まるでフランス製の人形のように、感情の機微を読み取るのは難しいと思われた彼女にも、確かに変化が訪れていた。しかし、黒木万桜に対してだけは、その薄い表情の中に、ほんのわずかながら、特別な親密さが垣間見えた。それは、かつて「ボッチ」とまで言われた彼女が、唯一その心を許した相手に向けられる、無意識のサインだった。万桜と莉那がそれぞれの指示に従う様子を、その鋭い眦の瞳で見つめていた。
黒木万桜は、茅野舞桜の指示を聞きながらも、ひょいと顔を上げてサブリナに声をかけた。
「サブリナ、この箱の中身ってなんだ? やけに重いけど」
黒木万桜の能天気な問いかけに、サブリナは腕で汗を拭いながら答える。
「ああ、これ? 拓矢が大切にしてた歴史書と、あとは私のセキュリティ関連の資料だよ。機密情報満載だから、落とさないでよ?」
その時、万桜はふと、舞桜の腕に目をやった。そして、首元には、黒木万桜自身が以前渡した虫除け機能付きのチョーカーが光っていた。クールで合理的な彼女が、実用的な贈り物を肌身離さず身につけているのを見るたび、万桜は、
(虫除けの季節にゃ早くね?)
と首を傾げるが、特に深くは考えない。彼の「鋼鉄の好天思考」が、恋愛における致命的な鈍感さを生み出している瞬間だった。
舞桜は万桜の視線に気づいたのか、視線を万桜に向けた。
「なにか、問題でも?」
万桜は慌てて首を横に振った。
「いや、なんでもねーよ! にしても、サブリナもボッチも、引っ越しの荷物、結構あるんだな?」
万桜の言葉に、サブリナはにやりと笑った。
夕刻、西日が甲斐の国市の果樹畑を赤く染める頃、黒木家の母屋の居間には、甘やかな香りが漂っていた。今日の引っ越し作業の疲れを癒やすべく、三人は縁側に近い居間に集まっていた。中央の座卓には、舞桜が手土産に持参した、見るからに上品な水羊羹の箱が置かれている。一口食べれば、ひんやりとした口当たりとともに、品のいい甘さが広がる。
万桜は、無造作に座椅子に座り、二つ目の水羊羹を大事そうに味わいながら、
「いやー、今日の水羊羹は格別に美味いな! ボッチ、サンキュー!」
と、満面の笑みで言った。彼の日焼けした顔には、引っ越し作業でかいた汗の痕がうっすらと残っている。
舞桜は、自身の分を一口食べただけで、行儀よく座卓に手を置いていた。表情筋の変化は乏しいが、その瞳はわずかに和らいでいる。
「それは良かったわ、万桜。さて、サブリナ、そろそろ共同生活の取り決めについて話し合いましょうか」
普段は丁寧だが、万桜とサブリナを前にすると、柔らかくも効率を求める彼女の口調が顔を出す。
莉那は、水羊羹の包みを丁寧に剥がしながら、
「うん。それがいいねー。まずは風呂のルールからだろ? 万桜の家は、毎日お湯を交換する系だったよな? ぐぬぬ、お貴族さまめぇ~」
青いバンダナが揺れる。彼女のショートヘアは、引っ越し作業でさらに活発な印象を受けていた。
万桜は頷いた。
「そうそう、毎日交換する。それが黒木家のスタイル。昔っからそうだ。沸かし直しとかは、しないな。あと、お貴族さまじゃなくてお百姓さまじゃ」
舞桜は、静かに頷き、手元のメモ帳を取り出した。
「じゃあ、万桜が一番風呂。家主だし。ただし、入浴後の浴室への接近は禁止します」
彼女の言葉は淀みなく、既に頭の中で完璧なシステムが構築されているようだった。
「そりゃ~どうも。んで掃除は当番制ってことでいいのか? 別にいいぜ俺のまんまでも?」
万桜の言葉に舞桜が否。
「ダメよ。お世話になるんだから、そっちはやるわ」
彼女の瞳が、二人の反応を静かに見つめる。その表情に変化はなくても、相手の意図を汲み取ろうとする真剣な眼差しだった。
サブリナは察したように頷いた。
「了解、オーナー。うん。ただしい判断だ。交代制にしよう」
と、ニヤリと万桜に視線を向けた。
「なんだよサブリナ? え、なに? おまえら、俺がよからぬことするって思ってる? ちょっと~。思春期じゃねえからね?」
と、万桜は抗議の声を上げる。
「「思ってますけど、それがなにか?」」
ふたりの圧に、
「で、ですよね~。家事の分担助かります~。食事の準備はやります~。そんな圧とかやめて~。お願いですから~」
万桜は、圧に屈してギブアップ。
★★★★★★
1920年代、ベルリン大学の物理学科研究室。
薄暗い部屋には、黒板が所狭しと数式で埋め尽くされ、机には論文の山が築かれている。その部屋の中心に、若き日のジョン・フォン・ノイマンはいた。まだ20代前半、しかしその瞳には既に老成した知性と、未来への飽くなき探究心が宿っていた。
向かい合うのは、年配の物理学者たち。彼らの顔には、ノイマンの提示する、あまりにも突飛で、あまりにも「現実離れした」理論に対する困惑と、わずかな怒りが浮かんでいる。
「フォン・ノイマン君、君の提示する『自己増殖オートマトン』の概念は、あまりにも……飛躍しすぎている。現行の物理法則と、倫理的な側面から見て、あまりにも無謀だ。」
老教授の一人が、疲れたように眼鏡を押し上げた。彼の言葉は、ノイマンの理論が持つ「生命」の模倣という、当時の科学者にとっては禁忌にも近い領域への踏み込みを指している。
ノイマンは、ふ、と鼻で笑った。その表情には、一切の悪気がない。あるのは、己の知性への絶対的な確信と、周囲の凡庸さへの諦念だけだ。
「無謀? 教授方、人類は常に『無謀』という旗を掲げて進歩してきたはずですが? それに、倫理などというものは、その時代の科学の進歩がもたらす新たな地平の前では、常に形を変える砂上の楼閣に過ぎません。私の理論は、この世界の根本を、より深く理解するための、最も純粋なアプローチですよ。」
彼の言葉は、鋭利な刃物のように、教授たちの「常識」を切り裂く。彼にとって、目の前の「倫理」や「既存の法則」は、乗り越えるべき「バグ」に過ぎないのだ。
別の教授が、苛立ったように声を荒らげた。
「しかし、その概念が、もし…もしもだ、実際に実現してしまったらどうなる? 我々は、その結果に責任を持てるのか? 制御不能な事態を招く可能性は考慮しないのかね?」
ノイマンは、くるりと背を向け、黒板に新たな数式を書き始めた。チョークの音が、静寂に響く。彼の頭の中では、既に次の段階の思考が始まっているかのようだ。
「制御不能? 私が提案するのは、あくまで自己複製する『機械』です。それらは、与えられたプログラムに従うのみ。もしそれが『制御不能』になるというのであれば、それはプログラミングの問題か、あるいは、それを理解できない側の認識不足でしょう。」
彼は、振り向かずに続けた。その声には、冷徹なまでの合理性が宿る。
「もし、その結果が『人類を滅ぼす』というものであったとしても、それは私にとって、単なる『演算結果』に過ぎません。それに、その『結果』に至るまでの過程、その知的な挑戦こそが、最も美しく、最も価値のあるものです。」
彼は、ふと手を止め、チョークの粉を払った。そして、初めて教授たちをまっすぐ見た。その瞳は、一点の曇りもなく、純粋な好奇心と、ある種の狂気を帯びていた。
「そもそも、科学的に可能だと分かっていることをやらないのは、倫理に反する。それが私の哲学です。教授方、あなた方の思考は、あまりにも『残滓』が多すぎる。」
彼の口から出た「残滓」という言葉に、教授たちは顔を見合わせた。彼らは、それが何を意味するのかを理解できなかった。しかし、その言葉が、彼らの「感情」や「過去の経験」といった、非論理的なものを指していることだけは、直感的に理解できた。
ノイマンは、彼らの反応に何の感情も示さず、再び数式へと目を向けた。彼の知性は、既に遥か先の未来へと旅立っていた。彼にとって、目の前の議論は、解決すべき取るに足らない「バグ」でしかなかったのだ。
★★★★★★
あれは、黒木家の庭先の縁側を、まるで自分の寝床とでも勘違いしているかのように、二つの半透明な人影がチョロチョロと漂っていた、梅雨明けの夜だった。
一人は、丸眼鏡をかけた、どこか神経質そうな男。もう一人は、背が高く、帽子を深く被った思索的な雰囲気の男だ。彼らは互いに顔を突き合わせ、聞き慣れない言葉で何やら激しく言い争っている。時折、怒りに任せて手振りまで加えるものだから、縁側の下の土が、微かに揺れているように見えた。
その光景を、天井からフワリと降りてきた、もう一つの半透明な人影が、じっと見下ろしていた。最近この世を去ったばかりの、黒木家の先代当主、善さんである。生前と変わらぬ、がっしりとした体格。柔和な顔立ちの奥に、獲物を見定めるような鋭い眼光が光る。
(なんだ、このうっとうしいのは。うちの家、汚すんじゃねぇぞ…てめえら、どうせ碌でもねえ幽霊だろうが)
善さんは、生前の癖で、腰を回すように大きく伸びをした。そして、そのままフワリと宙を舞い、幽霊たちの真ん中に着地するや、その表情は一変する。眉間に深い皺が刻まれ、その瞳は、獲物を狙う猛禽のそれだ。
「なんだ? テメエ。このヤロー?」
善さんの、地を這うような、低く唸る声が響き渡った。幽霊たちが、まるでその声に全身を硬直させた、その刹那――まさかのドロップキックが炸裂した。スカン、と音もなく、しかし確実に衝撃を伴うドロップキックだ。ノイマンらしき男は、眼鏡がズレ落ちて逆さまになり、オッペンハイマーらしき男は、帽子が深々と顔にめり込む。二つの半透明な人影は、まるで蹴られたボールのように吹っ飛び、そのまま縁側から庭の池にスプラッシュ音もなく盛大に沈んだ。
「だ、誰だ!?」
「何をする!」
水面に波紋一つ立てずに、幽霊たちが驚愕の声を上げた。善さんは、池の縁に仁王立ちになり、腕を組む。その顔には、心底どうでもよさそうな、しかし妙に説得力のある退屈そうな表情が浮かんでいる。だが、その目は決して幽霊たちから離れない。
「誰だぁ? ここはわしらの家だよ。てめえらこそ、何だよそりゃ。うちの周りでチョロチョロしやがって。泥棒か? それともガキのいたずらか?……あぁ?」
善さんの言葉は、一見するとのんびりしているが、その語尾には有無を言わせぬ圧が込められている。幽霊たちは顔を見合わせ、眉をひそめた。
「泥棒? 我々は…人類の存亡に関わる、重要な議論を…」
「あぁ? 知るかよ。どうせ碌でもねぇ話だろ。日本語話せよ。日本語を。それに、泥棒かどうかはさておき、幽霊なら幽霊らしく、もっと静かにしろってんだ。夜中にギャーギャーうるせえんだよ。迷惑なんだよ」
善さんは、心底迷惑そうな顔で言い放った。ノイマンとオッペンハイマーは、再び顔を見合わせた。彼らは、目の前の「ドロップキックをかます幽霊」という、彼らの生前の物理法則を完全に無視した存在に、戸惑いを隠せない。しかし、その老人の纏う、どことなく「本物」の威圧感に、反論の言葉が出てこない。
「で、あんたら、そこで何してんだ?」
善さんが、有無を言わさぬ口調で尋ねた。ノイマンらしき男が、ようやく口を開いた。彼の声は、憔悴と、わずかな諦めを含んでいる。
「我々、すなわちこの現象たる存在は、ある種の深い自己省察のフェーズに移行しており、その本質的起因は、我々が過去において主導した科学的探求、その帰結が、この実世界に対し、極めて予測困難かつ広範な負のインパクト、あるいは、破壊的蓋然性をもたらしたという、客観的帰納事実に基づいております。故に、我々の意識体は、今なおこの物質的領域に未練を留め、ある種の遍在性、すなわち流離の状態を継続するに至りました。そして、この特定の地理的、文化的領域、具体的にはこの住居空間において、我々が観察するに至った、或る若き個体の思考プロセスが、我々自身の辿った軌跡と極めて近似した潜在的リスクを内包しているという事実に、深刻な懸念を抱いております故に、その状態を鑑み…」
善さんは、その言葉を聞きながら、じっとノイマンを見つめた。彼の眉間の皺は深まり、その表情は険しさを増していく。やがて、その瞳に、明確な苛立ちの色が宿った。
「……なに言ってるか、わかんねぇんだよ」
善さんの声は、驚くほど静かだった。だが、その静けさの中に、嵐の前の不気味な気配が宿っていた。ノイマンとオッペンハイマーは、その無感情な呟きに、一瞬にして凍り付いた。そして、善さんは、無言で、ゆっくりと、しかし確実に幽霊たちに歩み寄った。その歩みは、まるで必然の破滅を運ぶかのようだった。
次の瞬間、縁側にドゴッ、ドゴッ、と鈍い、しかし重い音が響いた。善さんは、幽霊たちの体を掴み、地面に叩きつけ、時には足元を払って転がし、まるで土嚢でも扱うかのように、感情の一切こもらない顔でボコボコにし始めた。彼らは半透明の存在であるため、肉体的損傷はない。だが、その意識体は、まるで強力な電磁パルスを受けたかのように激しく揺らぎ、形が歪む。眼鏡が宙を舞い、帽子がさらに深々と顔にめり込む。幽霊たちは、痛みではなく、存在そのものの揺らぎに、驚きと恐怖の、しかし声にならない呻きを上げた。善さんは、その間も、一切の言葉を発することなく、淡々と、しかし容赦なく彼らを打ちのめした。
数秒にも満たない、しかし幽霊たちにとっては永遠にも感じられた時間。善さんは、満足したようにフン、と鼻を鳴らし、再び腕を組んだ。
ノイマンとオッペンハイマーの幽霊は、まるで躾の行き届いた犬のように、庭の苔の上に正座し、シュンと肩を落としていた。先ほどの無言の「指導」が、彼らの学術的なプライドと、幽霊としての存在意義の双方に、甚大な影響を与えたようだった。
「自分ら、大罪、犯したんスね? 昔」
ノイマンらしき幽霊が、震える声で、慣れない日本語の砕けた口調を必死に捻り出した。その言葉には、どこか哀愁が漂う。
「そんで、なんつーか、ストッパー? みたいな?」
オッペンハイマーらしき幽霊も、彼の言葉に続くように、ぎこちなく尋ねた。二人の間に、まだ「言霊」としての明確な人格は宿っていないが、言葉の端々には、必死に「わかりやすさ」を追求しようとする努力が見て取れた。
その必死さを見て、善さんの顔に、再び不機嫌そうな色が浮かんだ。彼は、フン、と鼻を鳴らし、再び両幽霊をギロリと睨みつけた。その眼光は、まるで「まだるっこしいんだよ、おめえら」と言外に語っているようだった。
「「さーせん! つまり、ヤベーもん産まれる時に、警鐘鳴らす浮遊霊が自分らッス。さーせんッ!」」
善さんの言葉に続き、ノイマンとオッペンハイマーの幽霊は、条件反射のように、しかし必死に、その言葉を復唱した。彼らの背中には、目に見えない汗が流れているようだった。その瞬間、彼らの言葉の中に、ほんのわずかだが、善さんが求めた「人格」の片鱗が、宿り始めたように見えた。
「で、だ…」
善さんは、ハァ、と深いため息をついた。その息には、肉体を持たぬ幽霊とは思えぬほどの、深い疲労の色が滲んでいた。彼の眼差しは、再び遠くを見つめ、どこか諦めにも似た諦観を宿している。
「万桜が造ろうとしてるヤベーもんってな、アレだろ?」
善さんの言葉は、そこにあった。静かに、しかし、その重みが空間を圧する。ノイマンとオッペンハイマーは、ピクリと反応した。その顔に、再び恐怖の色が浮かぶ。彼らが「憂慮」していた「過ち」の正体が、今、目の前で明らかにされようとしている。
「……害獣駆除楽々くん」
善さんは、その名を口にした途端、全身から力が抜けたかのように、縁側に腰を下ろした。その表情は、先ほどのドロップキックをかます猛々しさも、無言でボコボコにする冷酷さも、どこにもない。ただ、心底疲れ果てた老人の顔がそこにあった。孫の見落としからの大騒動は、これまでにも数えきれないほど経験してきた。そのたびに、彼は尻拭いをし、時には痛みを伴う「指導」もしてきた。だが、今回ばかりは、呆れ返るばかりだった。
(ホント、ガキのままで困っちまう。あいつは、いつもそうだ。最高の思いつきと、最低の危機管理。だが、それが、あいつの「良さ」でもあるんだ。…だからこそ、わしらが見てやらねぇと)
善さんは、深く息を吐き出すと、ゆっくりと顔を上げた。そして、ノイマンとオッペンハイマーの幽霊に向き直る。彼らの目には、先ほどまでの威圧感とは打って変わった、深い悲痛と、そして懇願の色が宿っていた。
次の瞬間、ノイマンとオッペンハイマーは、信じられないものを見た。
善さんが、ゆっくりと、その頭を下げたのだ。
先ほどまで彼らを無言で打ちのめし、存在の根源を揺るがした男が、まるで頭を地面に擦り付けるかのように、深々と、幽霊たちに頭を下げた。その姿は、あまりにも衝撃的で、幽霊たちは息をのんだ。
「頼む。あいつを…万桜を、止めてやってくれねぇか」
善さんの声は、震えていた。その言葉は、彼の口から出たとは思えないほど、弱々しく、しかし、だからこそ、魂を揺さぶるような響きを持っていた。幽霊たちは、未だ、言葉が出なかった。目の前の「規格外の存在」が、自分たちに、頭を下げている。その事実に、彼らの半透明な体が、微かに震える。
★★★★★★
黒木万桜は、グースカと豪快ないびきをかいて眠っていた。いつものように、研究で疲れた体を、誰かの寝床に転がり込んだ時と同じ無防備さで預けている。布団ははみ出し、足は壁にめり込みそうになっている。
しかし、彼の夢の中は、妙に騒がしかった。
誰かが、聞き慣れない言葉で言い争っている。それも、やたらと声がでかい。彼の夢を、まるで低周波治療器のごとくビリビリと揺らす。
(ったく、なんだよ、この訛りのひでぇ英語…いい加減にしろってんだ)
万桜は気にせずに眠ったままだ。だが、言い争いのボリュームが、どんどん上がる。まるで、誰かの怒鳴り声が、すぐ耳元で聞こえるかのようだ。夢の中の風景が、ノイズで歪み始める。
「うるせえ! 日本語話せやボケ!」
寝ぼけ眼でキレる万桜は、上半身だけガバッと起き上がった。その瞬間、彼の無意識の怒声が、夢の中の空間を揺るがす。幽霊たちは、その勢いにたじろぎ、互いに顔を見合わせた。
「だからやんだよ。半端な威力は使用を躊躇させねえ! それが俺らの…」
ノイマンらしき幽霊は、まるで喉元から血を吐くような勢いで、必死に万桜に何かを伝えようと叫んだ。その言葉は、確かに熱量を帯び、少年の荒々しい口調で、彼の半透明な体を震わせるほどだった。先ほどの無言の制裁が効いたのか、懸命に「人格」を宿らせようとしている。
しかし、万桜は苛立ちを募らせる。その言葉は、彼の脳内で「バグ」として認識されている。熱量はあっても、本質的に何かが足りない。
「テメエらの言葉に人格はねえ! 言語の設計思想が違うんだよ、設計思想が!」
万桜は、布団に仰向けになりながら、まるで論文の不備を指摘するかのように、ゆっくりと、しかし容赦なく言い放った。彼の目は、夢の中の空間を、まるで透過するデータのように見つめている。
「おまえら、英語がデフォルトだろ? 英語ってのはな、一人称に『私』『僕』『俺』とか、そういう人格を定義する言葉の要素が、日本語と比べて極端に少ないんだよ。だから、言葉そのものが、おまえらの『誰であるか』を表現してくれねえんだ。理解できねえんだよ、そういうのは。リアリティがねえ」
彼はフン、と鼻を鳴らす。不快感を露わにする。
「だから、テメエらの一人称は、『俺』とか『あたし』とか、『儂』とか『僕』とかじゃねえんだよ。私ですらねえ。おまえらの存在に、本当にリアリティがある一人称を見つけろ。そして、それを、おまえらの『言葉の根幹』として認識し、体現しろ。眠いから、早くしろ。やり直し!」
怒鳴りつけながら、彼は幽霊の後ろ頭に、回し蹴りを叩き込んだ。スカン、と空気の抜ける音がした。幽霊たちは、その物理的な干渉に、幽霊らしからぬ呻きを上げる。
突然のリテイクに、幽霊たちは、ショボンと肩を落とした。
「んだはんで、いやだはな! はんぱな力っこは、ためらわねぇで使うど! それが、おらだの…」
リテイクする幽霊、無駄に上手い。方言が。万桜は、眉間の皺をさらに深くする。寝返りを打ちながら、もう一度、幽霊たちの顔面に鋭いキックを叩き込む。
「普通に話せやボケ」
日本語を許可され、幽霊たちは、安堵したような、しかし少し困惑した声を上げた。
「「あざ~す!」」
「だからって砕けんな!」
万桜の怒声が夢の中に響き渡る。幽霊たちの、核兵器開発の重い後悔など、彼の耳には、まるで入っていないようだった。彼の「鋼鉄の好天思考」の前では、彼らの贖罪すら、単なる「迷惑なノイズ」でしかない。
★★★★★★★
黒木家の一室。ミニマルな調度品で整えられたその部屋で、茅野舞桜は、規則正しい寝息を立てて眠っていた。彼女の眉間には、微かにだが、普段から浮かぶ思索の皺が刻まれている。彼女の夢は、常に論理的で、無駄がない。完璧な秩序を保っていた。
((ふむ…今日のデータは、最適化率がさらに向上したな。このままいけば、来月のプロトタイプは…現行の課題をクリアし、さらに100%の精度で…))
彼女の夢の中では、無数のコードが光の粒子となって飛び交い、複雑なシミュレーションが瞬時に計算されていく。彼女の思考は、眠っている間も、彼女のAIを成長させるための、終わりなき計算を続けていた。全ては、無駄なく、完璧に。
だが、その完璧な夢の空間に、突然、奇妙なノイズが混じり始めた。それは、どこか耳慣れない、しかし妙に甲高い、不協和音のような声だった。彼女の視覚野に、まるで「バグ」を示す赤文字のエラーコードのように、歪んだ音波がちらつく。
「だ、だから、これ以上、我々が…」
聞き取れない。ノイマンらしき幽霊の声だ。だが、その英語には、不自然な響きがある。まるで、データ転送の際にパケットが破損したかのような、劣悪な音質だ。
「…人類にとっての抑止力は…」
オッペンハイマーらしき幽霊も、懸命に訴えかけているようだ。しかし、その言葉もまた、ひどく歪んで聞こえる。まるで、何層もの翻訳フィルターを介した、不完全な音声データのようだ。彼女の完璧な聴覚は、その不整合さに苛立ちを覚える。
茅野舞桜の眉間の皺が、深く刻まれた。彼女の顔に、明確な不快感が浮かび上がる。夢の中のシミュレーションが、そのノイズによって僅かに乱れた。彼女のAIは、そのノイズを「排除すべき不純物」として認識し、排除アルゴリズムを起動しようとしている。
((排除。不要なデータ。システムの整合性を乱すエラー…このままでは、最適な計算結果に到達できない…不純物だ…))
彼女の意識は、半覚醒状態のまま、その「ノイズ」を解析し始める。そして、その不快感の正体を、明確に認識した。
それは、英語の訛りだった。それも、ひどく耳障りな、完璧な発音とは程遠い、「不純物」としか言いようのない訛りだ。彼女にとって、それは言語の持つ美しさ、論理性、そして「言霊」の持つ意味を根底から冒涜する行為に等しかった。
茅野舞桜は、夢の中で、冷たい眼差しで幽霊たちを見据えた。まるで、存在そのものを否定するような、絶対的な視線だ。
「訛りが酷い。やり直し」
彼女の声は、氷のように冷たく、一切の感情を含まない。だが、その言葉には、研ぎ澄まされた刃のような鋭さがあった。幽霊たちは、その言葉に凍り付いたように動きを止めた。彼らは、万桜の動物的な怒りとは異なる種類の、「完璧主義者」の存在を、今、目の当たりにしていた。
そして、茅野舞桜は、その完璧な発音で、幽霊たちに突きつける。その言葉一つ一つが、彼女の理想とする「完璧な秩序」を体現しているかのようだ。
「マイ・フェア・レディをじゅっぺん観てから出直しなさい」
さらに、彼女は続けた。口元に、微かな、しかし絶対的な勝利を確信するような笑みが浮かぶ。それは、まさに「魔王」のそれだ。
「The rain in Spain stays mainly in the plain. (スペインの雨は主に平野に降る)は、地理的な事実とは異なります。The rain in Spain mainly falls in the mountainous areas and the north.(スペインの雨は主に山岳地帯や北部で降る)」
完璧な発音、そして事実。その言葉が、凍てつく空気の中に、透明な音色を響かせた。幽霊たちは、その精緻な発音のコントラストに、戦慄する。自分たちの「言霊」が、いかに濁り、不純物を含んでいるかを、容赦なく突きつけられたのだ。
「万桜をノイマンたちには、させない」
その言葉は、幽霊たちにとって、最も痛烈な意趣返しであり、同時に、彼らの「贖罪のミッション」に、新たな、そして極めて厳格な「品質管理」という試練を課すものだった。それは、彼らの過去の過ち、その「残滓」をも徹底的に排除しようとする、冷徹な「魔王の哲学」の宣言だった。
★★★★★★
彼の心には、ノイマンとオッペンハイマーの魂の叫びは、微塵も響いていなかった。その衝突が持つ、倫理的な重みや深い後悔を、彼には全く自覚がなかったのだ。彼の思考は、あくまで目の前の「データ」の解析にしか向かっていなかった。
その冷淡な反応に、ノイマンとオッペンハイマーは、はっきりと落胆した。彼らの「言霊」は、まだ万桜の心に届いていない。これでは駄目だ。もっと、もっと『熱量』を込めなければならない。彼らは、互いに強く頷き合った。
万桜の夢の中の空間が、再び、激しく脈動した。
無機質なコンクリートの壁と、重苦しい鉄の扉が並ぶ地下施設。その殺風景な空間に、二つの半透明な人影が、かつてないほどの輝きを放ちながら浮かび上がる。ノイマンとオッペンハイマー。彼らの瞳には、もはや過去の苦悩だけでなく、未来を変えんとする切実な願いが宿っているかのようだった。
「だからやんだよ。半端な威力は使用を躊躇させねえ! もう二度と過ちを繰り返させない『絶対の抑止』が生まれる!」
ノイマンの言葉は、まるで鋼鉄の剣がぶつかり合うような、研ぎ澄まされた音を響かせた。彼の周囲には、光り輝く数式が嵐のように渦巻き、その絶対的な信念が空間を震わせる。その表情には、一切の迷いがなく、ただひたすらに「先」を見据える者の顔があった。彼の「正義」は、自らの手で背負った「業」が、未来永劫の平和を保証する「楔」となると信じていた。
「黙れ、ジョン! それが、お前が『理解』しない『業』の始まりだ! これは『抑止』などではない! 『魂の堕落』だ! おまえは、この手がもたらす真の重みを知らないのか!? 我々は、この手で、おまえ自身を『悪魔』に変えようとしているのだぞ! 『世界を破壊する者』となることを、おまえは恐れないのか!? この『業』に、これ以上、おまえを囚わせはしない! 止めろ! 今ならば、まだ引き返せる!」
オッペンハイマーは、血を吐くような叫びを上げた。彼の体から放たれる焦燥は、熱波となって空間を歪ませ、背後には地獄のような業火と崩れゆく都市の幻影が、より鮮明に、より巨大に立ち上がった。その瞳には、未来への絶望と、それでもなお友を救おうとする悲壮な決意が宿っている。彼の「正義」は、ノイマンを、そして人類を、「力」の魔力から救い出すことにあった。
「ジョン! 人と人はわかりあえる! ひとりで業を背負うな!」
オッペンハイマーの言葉に、ノイマンは冷笑を浮かべた。
「人だと? 笑わせんなヒトだよ! 無邪気な怪物は、相手の痛みを理解しねえ! テメエが焼かれるまでわかんねえんだ!」
ノイマンは、さらにオッペンハイマーを指差し、怒りに声を震わせた。
「罪を認めて許しを乞うたテメエが言うな! この『業』に、最初に俺たちを巻き込んだのは、どこの誰だ!? この『サイコパス』が!」
ノイマンは、怒りに燃える瞳で、オッペンハイマーを射抜くように見据え、吠えた。
「コーンパイプは、俺が潰す。テメエは手ぇ出すんじゃねえ!」
その言葉に、オッペンハイマーの顔が、さらに絶望に染まった。彼は、肩を震わせ、声を殺して嗚咽し始めた。
「ああ、あのヤローだけは許せねえ……でも、今の俺は孤立している。おまえの言う通りだ。ジョン。俺もあいつらと変わらねえ。焼かれないとわかんねえヒトなんだ……!」
オッペンハイマーの絶望に満ちた嗚咽を聞きながら、ノイマンは虚空を見つめ、不敵に、そしてどこか悲しげに口の端を吊り上げた。
「……俺はスターリンの頭にこいつをぶち込んでやるぜ?」
その言葉に、オッペンハイマーの嗚咽が止まり、はっと顔を上げた。
「やめろよ。おまえだけが……!」
ノイマンは、その問いかけを冷酷な笑みで受け止めた。
「チャカ突きつけられたら焦って開発急ぐだろうさ……」
そう自嘲気味に笑うノイマンに、オッペンハイマーは、もはや言葉を失い、ただ嗚咽でしか応えられなかった。
その「衝突」は、まさに魂を削り合う激戦だった。純粋な科学的探求心と、その究極の帰結がもたらす倫理的責任の、宇宙規模の対立。激しく燃え盛る信念と、抗いがたい絶望の叫びが、万桜の夢の中を埋め尽くした。
ノイマンとオッペンハイマーは、自分たちの渾身の「再現」が、ついに万桜の無意識に響いたと、僅かな希望を抱いた。彼らの『言霊』は、これまでになく純粋で、魂の奥底から絞り出されたものだった。しかし、その希望は、次の瞬間、粉々に打ち砕かれる。
その苛立ちが、物理的な現象となって現れる。
ノイマンとオッペンハイマーは、突然、目に見えない強大な力に、何度も、何度も、打ち据えられた。それは、善さんのように、感情を伴った怒りや、叱責の念からくるものではない。ただ、邪魔な騒音という、純粋な合理性に基づく、冷徹な『処理』だった。
ドゴッ、ドゴッ、と、夢の中の空間で、鈍い音が響き渡る。幽霊たちは、痛みではなく、存在そのものが歪むような衝撃に、声にならない悲鳴を上げた。ノイマンの眼鏡は逆さまになり、オッペンハイマーの帽子は深く顔にめり込む。彼らは、まるで無形のエラーデータであるかのように、空間のあちこちに弾き飛ばされ、無言のまま打ちのめされた。
万桜は、依然として目を閉じたままだ。眉間の皺は深いが、その表情には、一切の感情が読み取れない。
そして、その冷徹な審判は、さらに続く。
★★★★★★
舞桜は、夢の中で、彼らの魂の叫びが放つ『熱量』の強さには気づいていた。しかし、その言葉の『発音』が、彼女の脳内で完璧なデータとして処理するには「不適切」だと判断したのだ。彼女の超高精度な脳は、彼らの魂の言葉が感情的にはどれほど強烈であろうと、まるで機械の音声認識システムのように、完璧な『発音』を求めた。
その結果、ノイマンとオッペンハイマーは、さんざん、発音についてダメ出しされた。
「『業』の発音はもっと正確に」「『サイコパス』の語尾が不明瞭」「『ぶち込んでやるぜ』の『ぜ』は、もっと歯切れよく」
彼らの魂の言葉が、感情的にはどれほど強烈であろうと、舞桜にとっては、単なる『ノイズ』として認識されるだけだった。
魂を削り合う激戦を演じ、その果てに冷徹な「シバキ」と「発音ダメ出し」を受けたノイマンとオッペンハイマーは、もはやボロボロだった。彼らは、幽霊でありながら、文字通り精神的に打ちのめされ、身体を寄せ合って、まるで幼い子供のように震えていた。
「「もうヤダあの子たちぃ……!」」
ノイマンとオッペンハイマーは、夢の外の現実世界にいる善さんに向かって、涙ながらに泣きついた。善さんは、そんな彼らの姿を苦笑しながら見つめていた。
「舞桜ちゃんが、あんたたちにさせねえって言ったんだろ? じゃあ、大丈夫だよ」
善さんは、優しい声で二人をなだめる。彼の心の中では、「万桜にゃ、勿体ねえや」と、強く感じていた。この二人の魂の叫びの、その深みや美しさは、まだ分からないだろう。だが、それこそが茅野舞桜の持つ、計り知れない可能性であり、彼が心から評価する理由でもあった。
ノイマンとオッペンハイマーが熱いよね?
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
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