智の魔王と漆、黒き勇者と人工炭酸泉
前書き
甲斐の国大学の農業ヘルパー休憩室にて、舞桜は万桜が新築した建物の建材に、高価な漆がふんだんに使われていることに疑問を抱く。万桜と莉那は、漆の葉や枝を肥料として再利用する独自の「漆の共創」モデルが、漆の生産を持続可能にし、巨大なビジネスチャンスを秘めていることを力説する。
そして、舞桜の夢から始まった、漆の木との「共生」という壮大なテーマは、万桜の「舞桜の部屋を見れば、彼女が漆の木との関係をどう捉えているか分かる」という突飛な発想へと繋がる。舞桜の部屋は、予想外にミニマルで洗練された空間であり、その生活スタイルは、勇希の「汚部屋」とは対照的だった。舞桜の合理的な食生活は、万桜たちを驚かせる。
物語は、万桜と莉那が、中学時代に莉那の家を巡って起こした一芝居を回想する。そこで万桜は、莉那の家を「豪華なプレハブ」にするという新たな「魔王案件」を立ち上げる。漆喰、竹釘、組木式柱、炭酸の井戸、風力発電、土ブロック…彼の突飛なアイデアは、次々とクラスメートを巻き込んでいく。
さらに、その「魔王案件」は、万桜の家族である父・大雅と祖父・善次郎、そして母・佳代の専門知識と結びつくことで、より現実的で壮大な構想へと発展していく。この物語は、万桜の天才的な発想力が、周囲の人々を巻き込み、伝統素材や生活の概念を根底から覆す、壮大なプロジェクトへと発展していく様子を描いている。
お盆休みってなんだろう?
2018年9月下旬。甲斐の国大学農業ヘルパー休憩室。
「漆って高価だと思うけど…けっこう、ふんだんに使ったわよね…」
新築されていく、農業ヘルパー用休憩室の動画を検証しながら、舞桜がポツリと呟く。
「あれ、おかしい…おかしなこと言ってる」
莉那が呟くと、万桜が「奇遇だなサブリナ。俺もそう思う」と続いた。
「なにがおかしいって、舞桜? 漆は確かに高価なものだ。だからこそ、俺たちは漆をふんだんに使ったんだろ?」
万桜は、舞桜の問いかけに、きっぱりと答えた。彼の視線は、動画のスクリーンに向けられている。そこには、漆でコーティングされた壁や床、そして漆で接着された木材の美しい光沢が映し出されていた。
「これを見ろ、舞桜」
万桜は、動画を一時停止し、あるグラフを画面に表示させた。それは、従来の漆の生産量と、黒木家独自の栽培方法、つまり「漆の共創」によって予測される生産量を比較したものだった。グラフは、後者が圧倒的な右肩上がりを示している。
「俺たちが漆の葉や枝を肥料として再利用することで、漆の木の寿命が延び、安定的に高品質な漆が採取できる。これにより、漆の木の寿命が延び、安定的に漆を採取できる、持続可能な生産サイクルが確立される。この技術は、強力な特許として保護される可能性を秘めているんだぜ?」
万桜は、自信に満ちた表情で語り始めた。
「そうだな。漆の木との共生を通じて漆を採取するという、ストーリー性のあるビジネスモデルは、非常に強力なブランド価値を生み出すだろう。これにより、建材としての漆のブランド価値がさらに高まるだろうな」
莉那は、万桜の言葉を引き取り、そのビジネス的価値を補足した。
「そう! そしてな、このビジネスモデルを独占的に持つことで、漆市場におけるリーディングカンパニーとしての地位を確立できる。そうなれば、漆そのものの価格が向上するだけでなく、この『共生型漆採取モデル』を他の企業にもライセンス供与できる。その価値は、数千億円規模に達する可能性を秘めているんだぜ?」
万桜は、興奮気味に身振り手振りを交えて力説した。彼の言葉は、もはや休憩室のスケールを遥かに超え、日本の伝統素材が世界を変える壮大なビジョンを描き出しているかのようだった。
「…ふんだんに使っても、お釣りが来る、ということね…」
舞桜は、万桜と莉那の熱弁に、呆然としながらも、ようやく納得したような表情を浮かべた。彼女の涼やかな瞳の奥には、新たな「魔王案件」の大きさを悟った、複雑な感情が渦巻いている。
「ああ、そうだ。漆はただの素材じゃない。漆は、俺たちのアイデアを具現化するための『魔法の道具』なんだ。漆は、俺たちの『クラフトゲーム工法』を支える、大切な土台なんだよ」
万桜は、新築された休憩室を満足げに見回しながら、そう言い放った。彼の言葉は、漆という伝統素材に、新たな命を吹き込むかのような、力強さに満ちていた。
★ ◆ ★ ◆ ★
「おい、ボッチ。そろそろ帰るぞ?」
万桜の声に、舞桜は、ハッと目覚めた。今のは夢だ。万桜は舞桜のことを『ボッチ』としか呼ばない。
「黒木、漆って高価よね?」
夢で見た内容を検証するように、舞桜が尋ねた。
「あぁ~? まあ高価っちゃ高価だけど、それが?」
万桜は、不思議そうに尋ね返す。
「例えば、漆の枝や葉を土に返して、その土から、ウルシオールを抽出出来ないかしら?」
突拍子もない舞桜の言葉に、
「どうしたの舞桜? 魔王が感染ってない?」
莉那は、心配そうに尋ねた。
万桜は腕組みをして、
「土壌にウルシオールは染み込んでる気はするけど、それだけじゃ足りねえんじゃないか? だって、あれストレスで生まれる生体防御反応だろう?」
足りないものを捕捉した。
「そうよ、黒木! そのストレスなのよ!」
舞桜の瞳が、キラリと輝いた。彼女の思考は、万桜の言葉をきっかけに、一気に加速する。
「つまり、漆の葉や枝を肥料として再利用し、漆の木が最高の状態で育つよう、肥料や環境を管理する…」
舞桜は、自分の頭の中で、まるでパズルのピースを組み合わせるように、言葉を紡いでいった。
「漆の木が自ら良質な漆を作り続ける環境を整える…それこそが、持続可能な生産サイクルを確立する鍵になるんじゃないかしら?」
彼女の言葉は、確信に満ちていた。
「そのストレスってなんだろうな? 樹木にとっての痛みである事は確かだ。血を抜いてるようなもんだろ?」
万桜の喩えに、莉那が『うぇ~』と顔を顰めた。
「ウルシオールは、樹液に含まれる主成分で、万桜の言うとおり、漆の木にとっての生体防御反応、つまり身を守るためのものだと考えられてるね」
莉那は、万桜と舞桜の議論に割って入るように、落ち着いた口調で解説を始めた。
「特に、虫や微生物が侵入しようとしたときに、それを撃退するために分泌される。だから、漆の木に傷をつけることで、その『血』、つまり樹液を採取できるのさ。傷が深いほど、その防御反応も強くなるから、良質な漆が採れるというわけ」
彼女の言葉は、まるで大学の講義を聞いているかのように、非常に分かりやすかった。
「生存本能を刺激する? 渇水?」
木にとっては残酷な提案をする舞桜に、
「え、急にどうしたの舞桜? 魔王みたいなこと言ってるよ?」
莉那は案ずるように宥める。
「ボッチは、漆を搾り取ることだけを考えているわけじゃないだろう。漆の木の生存本能を刺激しつつ、健康的に育てる方法を探してるんじゃないか?」
万桜は、舞桜の真意を読み取ったように、静かに言葉を補足した。
「そう、黒木! その通り! 木にとっての『苦しみ』を、ただの搾取で終わらせるのではなく、漆の木が自ら良質な漆を作り続けたいと思えるような、『適切なストレス』を与えることはできないかしら?」
舞桜の瞳は、再び輝きを増した。彼女の思考は、もはや漆の採取という単純な行為を超え、漆の木との「共生」という、壮大なテーマへと向かっている。
「まあ、カカオ豆の肥料は、豆の莢だからな。ボッチの仮説は合ってると思う。落ちた枝や葉から染み出た土壌のウルシオールも吸い上げてるんだと思う」
ここで万桜は、思いついたように、
「サブリナが言うように、生体防御反応だとすれば、1番手っ取り早いストレスは葉への侵食だ。病害虫じゃ枯らすかもしれねえ。けど日照を隔日で遮れば?」
また樹木に対して残酷を宣う万桜に、
「それは確かに、漆にとっちゃスクランブルだろうけどさ」
莉那は、嫌そうに顔を顰めた。
「決まりね。それで行きます。茅野建設の建材担当に提案してみる」
舞桜は目を輝かせるが、
「ボッチ…おまえんチ、ちょっと見せてくんない?」
万桜は、唐突に投げかけた。
「確かに! 舞桜も独り暮らしだった…」
莉那は先日の勇希の汚部屋を想起し、戦慄した。
「え、なに? ちょっと、黒木?」
舞桜は、唐突な提案に戸惑いを隠せない。
「いや、違うんだ。ボッチの部屋がどうなってるかとか、そういうことじゃないんだ」
万桜は、慌てて否定した。
「じゃあ、なんなのよ?」
舞桜は、怪訝な顔で万桜を見つめる。
「おまえは、漆の木の『気持ち』がわかってるだろう。だったら、おまえの部屋を見れば、おまえがどんな風に生活しているのか、それが一目でわかると思うんだ」
万桜の言葉に、舞桜は一瞬、言葉を失った。
「つまり、舞桜の部屋の現状を把握することで、漆の木との『共生』を、舞桜がどう捉えているのかを、言語化するヒントが得られるんじゃないかってことか…」
莉那は、万桜の真意を的確に言語化した。彼女の言葉に、舞桜はさらに困惑した表情を浮かべる。
「そういうこと! 俺たちは、この『漆の共創』を、ただのビジネスとしてではなく、漆の木との共生、つまりクラフトゲームとして捉えている。だから、ボッチの部屋、つまりボッチの生活空間を見ることが、そのクラフトゲームの核心に迫るための、重要なステップだと考えたんだ」
万桜は、舞桜の肩をポンと叩いた。
「いや、だからって…」
舞桜の抵抗も虚しく、万桜と莉那は、すでに舞桜の部屋へと向かう気満々だった。彼女の顔は、羞恥心と諦めで、真っ赤に染まっている。それは、新たな「魔王案件」の始まりを予感させる、賑やかな喧騒だった。
★ ◆ ★ ◆ ★
甲斐の国市駅前、高層マンション。
「「あっ、なんかイイ匂いとかしますねぇ?」」
万桜と莉那は、庶民と富裕層との差に恐縮し、ちょこんと正座して、そんなことを宣った。
「男子高校生か? てか、ソファーつかいなさいよ」
舞桜は、彼らを呆れたように見つめる。彼女の部屋は、想像とはまるで違っていた。
白い壁と、磨き上げられた木の床。余計なものが何一つない、ミニマルで洗練された空間が広がっている。部屋の中央には、北欧家具のようなシンプルで上質なソファーが置かれ、窓からは甲斐の国市の街並みが一望できた。
「…てっきり、勇希みたいな汚部屋を想像してたんだけど、ごめん」
莉那は、正直に謝罪した。
「失礼ね! あたしは、自分のテリトリーは綺麗に保つの!」
舞桜は、むっとした表情を浮かべた。彼女の言葉には、確固たる信念が感じられる。
「甘えなサブリナ…ボッチ…冷蔵庫見せてもらうぜ?」
言うが早いか、舞桜の制止も聞かずに、万桜は冷蔵庫を開ける。中は化粧水や化粧品と、清涼飲料水のみ。
「妙に食べっぷりがいいから…そうじゃねえかと思っていたが…」
万桜は溜息をつき、
「おまえ、大学でしか食ってねえだろう?」
言い当てた。
「な、なにを勝手に…!」
舞桜は、小さな吐息をひとつつく。
「ほら、これをごらんなさい」
舞桜は、冷蔵庫の横に貼ってあった、1枚のレシートを指差した。それは、弁当チェーンのレシートだった。幕の内、海苔弁、焼き鮭弁、幕の内、海苔弁、焼き鮭弁。そのローテーション。
「夜は食べない。それは朝消費する。独り暮らしで自炊とか、正気の沙汰じゃないわ」
舞桜は、ど正論を突きつける。そして、夜を抜くのは、
「舞桜のプロポーションって、こうやって維持されてたんだぁ~、へ~、チートじゃなかったんだ~」
莉那は感心したように得心した。
「いや、スタイル気にして健康壊してどうする?」
万桜が慌てて、指摘するが、
「高カロリーは、番長や黒木が供給してくれるでしょ? それ以上は食べ過ぎよ」
舞桜はジト目を貼り付け、栄養失調じゃないことを強調した。
「だいたい、うちよりサブリナの邸宅のが立派だったじゃない? 6畳間の木造アパートを想像してたわよ…」
舞桜は、莉那の言葉に、反撃するようにそう言い放った。莉那は母子家庭だ。それも地方の。しかし、莉那の家は立派な邸宅であり、庭もあれば、五加の生垣もあった。
「いや、うちプレハブだぜ?」
真顔で莉那。
「中学ん時にみんなで建てたんだよなぁ?」
万桜は胸を張って捕捉する。舞桜は額に手を当て、
「いや、あれは邸宅。一般住宅とプレハブに謝れ」
またもや、ど正論を突き付けた。
★ ◆ ★ ◆ ★
2013年8月、当校日、信源郷町中学2年A組の教室。
激昂する拓矢の拳を、万桜が片手で受け止めた。ケンカの仲裁だ。
この時、万桜の身長は150センチほど、拓矢は成長が早いのか、170センチほどもあった。体重も70キロほどの筋肉質だった。拓矢に殴られそうになっていた同級生の名は田中だったか? 万桜はあまり記憶にない。身長も万桜と変わらない。
「なに熱くなってんだよ拓矢?」
涼しい顔をして、万桜は飄々と尋ねた。
「どけ万桜! そいつ腐ってやがる!」
万桜は、冷静に状況を整理した。普段、明るい莉那が勇希の胸で泣いている。
勇希は、莉那を抱きしめ、拓矢を鋭い眼光で睨みつけている。その様子から、拓矢と田中の間に、なにがあったのかを瞬時に察した。
「おい。おまえ…なに言ったの? てか、なにしたの?」
底冷えするような冷たな声音に、万桜は質した。声変わりは済んでいる。田中は、拓矢の気迫に呑まれて答えることが出来ない。
「サブリナの父親を無責任だって中傷したんだよ。そいつは。そんな男に騙された母親もマヌケだってな」
勇希が簡潔に情報連携した。それだけじゃないのは、莉那の涙を見ればわかる。
拓矢は、2年前に、父親を亡くしている。激昂したのはそのためか。
「なるほどな…」
万桜は、静かにそう呟くと、溜息をひとつ、腰を抜かす田中の顔面をかすめるように鋭い蹴りを壁に叩き込む。轟音が教室に響き渡り、喧騒が止んだ。
「とりま、いったん失せろ。話が纏まらねえ」
震える田中を軽く足蹴にし、この場から退散を促した。
田中が教室から出ていくと、万桜は、
「いちいち熱くなってんじゃねえよ。なに言われたんだか知らねえが、ひっくり返しゃいいだろう?」
そう言って、拓矢の肩をポンと叩いた。
「うぅ~、あいつ、うちがプレハブなのは、お母さんがシングルだからだって言って…」
莉那は、万桜と勇希に、ウルウルとした瞳で訴えかけた。しかし、万桜は、その言葉に騙されることはない。これは、ウソ泣きだ。万桜は、そう直感する。
「勇希、まわりくどい。状況説明」
万桜は、勇希に鋭い視線を送って現状報告を求めた。
「まあ、田中がサブリナにちょっかいを出したのはホントだ。そうだなオカリナ」
勇希は、岡田里菜ことオカリナに投げた。
福元莉那こと、サブリナの芯は強い。心無い言葉で折れることはない。
「あいつ、たぶんサブリナ好きなんだよ魔王さま」
オカリナの言葉に万桜は、ひどく納得する。深々と吐息し、
「オカリナぁ~、田中呼んできて~」
万桜は投げかけ、
「いや、友人として気になってな。万桜、おまえなら、なんとかするんじゃないか?」
勇希は丸投げ、
「まあいいや。ようは豪華なプレハブにすりゃいいんだろ?」
投げられた万桜は、こともなげにそう言った。
「万桜ッ! リビングと自分の部屋が欲しい! 土地ならあるしさ」
莉那は、立ち上がり、拳を突き上げた。その瞳には、先ほどの涙はどこにもない。そこにあるのは、イタズラを思いついた子供のような、無邪気な輝きだった。
「…ちょ、サブリナ、なに言ってんだよ…」
ひとり状況を掴めていない拓矢こと斧乃木拓矢に、
「魔王案件を引き出す為に、サブリナと勇希が一芝居打ったんだって。いや直接、言ってこいや…」
呆れたように万桜が言うと、
「だって、あいつウザいし、拓矢もあたしの為に怒ってくれたし、一石二鳥じゃんか?」
莉那は悪びれることなく開き直った。
「えぇ~? マジでかー? あとで謝らねえと…」
拓矢が嘆くと、
「それはしないでいい。おまえは間違ってない」
勇希が正論を口にした。
「ああ、そこは反省してもらわねえとな~」
万桜は間延びした声で賛同した。彼は、この一連の騒動が、莉那と勇希の、仕組まれた茶番であることを理解した。しかし、同時に、その茶番が、彼の新しい「魔王案件」の始まりとなることを、確信したのだ。豪華なプレハブ。それは、漆の新たな可能性を拓く、最高のテーマだった。
「サブリナ、おまえのじいちゃん左官屋だったよな? 漆喰の材料貰ってくれ」
万桜はテキパキと動き出す。その瞳は、すでに完成した豪華なプレハブの姿を捉えている。
「オカリナ。おまえんチ、串作ってたよな。焼き鳥とかの? 材料調達したら、竹釘にできねえか聞いてみてくれ」
魔王案件は、クラスメートに波及していく。万桜の指示に、皆が戸惑いながらも、そのカリスマ性に引き寄せられるように動き始めた。
もちろん、
「田中、おまえんチ、材木屋だったよな? 端材を安く調達できねえか、聞いてくれ」
田中にも。彼の役割は、漆で接着する「組木式柱」の材料調達だ。漆の強力な接着力と防腐・防虫効果を利用した、従来の集成材とは一線を画す、次世代の混成木材。万桜の脳裏には、檜の強度と杉の軽さを併せ持つ、理想の柱の姿が浮かんでいた。
「あと、おまえの父ちゃん、たしか大学でカフェやってたよな? おもしろいこと思いついたんだけどよ。井戸建ててみねえかって声かけといてくれ。炭酸の湧き出る井戸。だって、雨水濾過して水質が炭酸になるように調整するだけじゃねえか? たぶん、できるからさ」
万桜には、炭酸の湧き出る井戸が見えていた。しかし、
「「「井戸建てるってなに?」」」
同級生たちは、常識の埒外な万桜の発想に困惑気味だ。
「電源はそうだなぁ。筒に漏斗さして風集めて、うん。これもできる。土ブロックは…おい、誰か蒟蒻作ってる家ねえか…」
万桜は、次々と新しいアイデアを口にする。風力発電、土ブロックの材料。彼の頭の中では、すべてのピースが、すでに完璧に組み上がっていた。
「漆喰、竹釘、組木式柱、炭酸の井戸、風力発電、土ブロック…」
莉那は、万桜の言葉をひとつひとつ復唱する。それは、彼女の家を豪華なプレハブへと変貌させる、壮大なプロジェクトの設計図だった。
「…なんか、ワクワクしてきた」
莉那は、そう言って、ニヤリと笑った。彼女の悪巧みは、万桜という「魔王」の手によって、誰も想像しなかった形で、実現に向かうのだった。
★ ◆ ★ ◆ ★
「「井戸を建てる? なに言ってんだ?」」
父親の大雅と、祖父の善次郎は、夕食で万桜の口から出た構想に、異口同音で突っ込んだ。食卓に並んだマスカットソースのローストチキンを囲んで、穏やかなはずの時間が、一変して熱気を帯びていく。
「でっかい濾過器を地下に建てんだよ。溜池とかも、これにすれば、作物の病気が激減するんじゃねえか?」
万桜は満足そうにローストチキンを咀嚼しながら答えた。彼の脳内では、すでに巨大な濾過システムが地下に構築され、清浄な水が作物に供給される未来が見えている。
「た、確かに」
農作業で日焼けした顔を引きつらせ、大雅は唸った。その発想はなかった。溜池の水質管理は、これまで悩みの種だったからだ。
「じいちゃん。それでさあ、土を掘るのにこんな道具考えたんだ」
万桜は、丼飯を掻き込み、ゴクリと飲み込むと、食器をシンクに運んで、
「電磁石の力で、土を立方体状に掬う。土に蒟蒻パウダーを混ぜた水を染み込ませて固める。電力は、風洞の筒に漏斗で圧縮した風でタービン回して発電して、その電力を利用する」
待ち切れないと言わんばかりに、構想を語る万桜に、善次郎は、
「いや、できると思うけどよぉ、じいちゃん飯食い終わってねえよ。ちょっと待て」
手早くローストチキン丼にして、万桜のように飯を掻き込んで咀嚼し、大雅も同じように掻き込んだ。
その様子を眺めていた、母の佳代はせっかくの手の込んだ料理があっという間に、胃袋に消えたことに、若干、不満に思うが、こうなった黒木家の男たちは、止まらないことを知っている。万桜同様に子供と同じになってしまうのだ。だから、吐息をついて諦めた。
「ちょっと待て、万桜。じいちゃんは安全面を考えたい」
善次郎は、丼を置くと、真剣な表情で万桜を見据えた。
「地下に建てる井戸なら、崩落のリスクが一番の懸念だ。井戸を『建てる』という発想は面白い。床や壁も組木式で組み立てるのか? 漆で接着すれば強度は保てる。その工法なら、安全性を確保した上で、井戸を建造できるな」
漆の接着剤としての優位性や、組木式柱の強度向上を熟知している善次郎は、万桜の突飛なアイデアに、現実的な解決策を付け加えていく。
「おまえの言う炭酸の井戸もいい。作物の生育に影響があるかもしれん」
大雅は、飲みかけのお茶をテーブルに置き、考え込む。
「しかし、水質を調整するにしても、濾過器や装置の耐久性はどうする? 土の中に埋めるなら、防水や防腐対策も必要だ。漆は天然の防腐・防虫効果があるから、それを使えば耐久性も上がるだろう。濾過器の素材も、漆を塗ることで寿命が延びるんじゃないか?」
大雅は、柔道整体院を経営する傍ら、農業にも携わっているため、水質が作物に与える影響や、設備の耐久性について深い知識を持っている。彼の視点から、万桜のアイデアはさらに発展していく。
万桜の発想は、家族それぞれの専門知識と合わさることで、さらに具体性と説得力を増していくのだった。
「いや、井戸なんだから竹と木を櫓状に組んで、壁はコンクリートにする。崩落の危険は、蒟蒻繊維の密度の高い土ブロックを下層に密度の低い土ブロックを上層に重ねて、地震の揺れを往なす。もちろん、コンクリートの壁も同じようにグラデーション状に土ブロックで囲む」
万桜が淀みなく答えたことに、善次郎は満足そうに頷いた。土の密度で衝撃を吸収するという発想は、彼の長年の経験からしても、非常に理にかなっていたからだ。
「じゃあ、次は濾過の方法と水質の設計と衛生だな。人工物なんだから、紫外線とかで消毒できねえか大雅?」
「薄い濾過層を多層にすりゃ、だいぶ衛生的になるだろうが、確かに人工構造物の強みは欲しいな」
大雅は善次郎の問い掛けにそう答えると、万桜と善次郎を交互に見て、
「濾過層に石灰岩やミネラルを溶出させる素材を組み込めば、水の硬度やミネラル成分を自由に設計できる。さらに、紫外線で消毒すれば、より安全な水が確保できる。井戸を複数作って、それぞれに異なるミネラル層を設ければ、和食には軟水を、パン作りには硬水といったように、用途に応じて水を使い分けることもできるな」
大雅のアイデアは、井戸を単なる水源ではなく、理想の水を作り出す「水質調整システム」へと進化させた。
「それ、特許もんじゃねえか、大雅!」
善次郎が目を丸くして、大雅を指差した。
「井戸は『掘る』ものじゃなくて、『建てる』もの。そして『設計する』もの。万桜の言った通りだ。これは革命的な発想だぜ」
万桜の発想は、もはや一つの井戸の建設に留まらず、水資源そのものの概念を揺るがす壮大なプロジェクトへと発展していくのだった。
「父ちゃん、炭酸ってコンクリートダメにする?」
万桜の問い掛けに、大雅は一瞬考え込んだ。
「いや、コンクリートの器に炭酸入れたことねえからなぁ」
そう言いながらも、彼の頭の中では、コンクリートの主成分である水酸化カルシウムと、炭酸水の主成分である二酸化炭素の化学反応が高速でシミュレーションされていた。
「だがな、コンクリートはアルカリ性だ。炭酸は酸性。酸とアルカリが混ざりゃ、中和反応を起こして、コンクリートを構成するカルシウム分が溶け出す可能性は高い。つまり、長期間にわたって炭酸水がコンクリートに触れ続けると、強度が落ちていくと考えた方がいい。そうなると、井戸の壁が時間とともに劣化していくリスクがあるな」
大雅は、この問題の本質を見抜いた。
「ステンレスの容器に貯めれば良いでしょ?」
佳代が洗い物を終え、濡れた手をタオルで拭きながら、そう言い放った。彼女の言葉は、それまでの重苦しい議論を一気に晴らすような、明快なものだった。
万桜と大雅は、顔を見合わせる。
大雅は、すぐに佳代のアイデアが持つ利点を理解した。柔道整骨院で使う器具や、飲食店の厨房で使われる容器の多くはステンレスでできている。
「なるほどな……」
彼は顎髭をなでながら、深く頷いた。
「たしかに、ステンレスなら錆びねえし、表面が滑らかだから、雑菌やカビが繁殖する余地がねえ。掃除も簡単だ。衛生面を考えたら、これ以上の素材はねえかもしれん」
大雅は、整骨院の経営者として、衛生管理の重要性を誰よりも知っていた。
「それに、地下に埋めるにしても、土中の湿気や腐食にも強い。耐久性も問題ないだろう」
「ミネラルなんかは、濾過の過程で水に溶け出すでしょう? なに、溶け出し易いように底に粉末状で散布したっていいのよ。人工炭酸泉については、これなんかどうかしら?」
万桜たちを前に、佳代が説明を続ける。
「筒を地下に埋設された密閉タンクに設置するのよ。高圧ボンベじゃなくて、ドライアイスで炭酸ガスを供給するの。水に溶けきれなかったガスが、弁なしの口から筒内に流れ込む。筒内の圧力が一定以上になると、弁付きの口が開いて、ガスが勢いよく容器の底に放出される。そうすると、細かい泡になって水に溶け込んでいくってわけ」
その仕組みは、ポンプや複雑な装置を一切使わない、まさに万桜らしい発想だった。
「ガス抜きと循環を同時に行うから、タンク内の炭酸濃度を維持できるし、圧力の上昇も防げる。炭酸の強さは、ドライアイスの量や、筒の本数で調整できるわ」
大雅は佳代のアイデアを熱心に聞き入ると、興奮した表情で口を開いた。
「すごいな、母ちゃん! これなら井戸と組み合わせることも可能だぜ。井戸の底にこのシステムを組み込めば、湧き出した水がそのまま炭酸泉になる。複数の井戸を作って、それぞれに異なるミネラルを溶出させれば、ミネラル炭酸泉だって作れる!」
大雅は、さらに続けた。
「和食には軟水の炭酸泉、パン作りには硬水の炭酸泉って使い分けもできるし、健康や美容に良いとされる特定のミネラルを溶出させれば、まさに究極の自家製ミネラルウォーターだぜ!」
大雅は、佳代のアイデアが井戸を単なる水源ではなく、理想の水を作り出す「水質調整システム」へと進化させる可能性を確信した。
「それって、特許もんだろう、大雅?」
善次郎の問いかけに、大雅は力強く頷いた。
「ああ、もちろんだ。このシステムは、井戸を『掘る』んじゃなく『建てる』、そして『設計する』という、万桜の発想と見事に合致する。これは、水との新しい付き合い方を提示する、まさに革命的なアイデアだぜ!」
佳代のアイデアが、さらに強固なものにした瞬間だった。
お盆休みなんか…ないんだからねっ!
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!
皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!
引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!




