ボッチの魔王と黒き魔王のルームシェア
デボラは最強。
2025年初夏。
「あたしがちゃんと裁いてやったから、もう大丈夫だよ、オーナー」
莉那は、舞桜の背をポンポンと優しく叩きながら、まるで小さな子供をあやすかのように話しかけた。その声は、先ほどまでの怒気を全く感じさせず、慈愛に満ちている。
ようやく落ち着きを取り戻した舞桜が、莉那から顔を上げた。その目はまだ潤んでいるものの、クールな光が戻りつつあった。
「ありがとう、サブリナ……やっぱり、あなたを呼んで正解だったわ」
舞桜は、心底ホッとしたように呟いた。彼女の「魔王の哲学」では対処しきれない、万桜の暴走を止めるには、サブリナという「特効薬」が必要なのだと、改めて認識したようだった。
サブリナは、満足そうに頷くと、再び地面の万桜に視線を向けた。その表情は、もう怒りではなく、獲物を見定めたハンターのそれに近い。
「さて、魔王。そろそろ、観念してあたしのオーナーと真面目に話し合う気になった? オーナーは斧乃木家の恩人なんだから」
((嫁気取り?))
斧乃木家とは、莉那の恋人である斧乃木拓矢の実家だ。彼の家の農地を舞桜が買い戻して貸与している。ふたりは気早く嫁を気取る莉那に、なんだかほっこり。
万桜は、痛む腹を抑えながら、ゆっくりと上半身を起こした。彼の目は、サブリナと舞桜の間を行き来し、状況を把握しようと努めている。
「……おい、サブリナ。おまえ、まさか、オレとボッチの『研究発表会』を邪魔するつもりじゃねぇだろうな?」
彼は、まだ懲りていないようだった。その言葉に、サブリナの眉間に再び深い皺が刻まれる。
「研究発表会? うちのオーナーを泣かせておいて、よくそんなこと言えるね? そもそも、そんな危ないことばかり考えてるから、ビアンカに選ばれないんだよ!」
莉那は、腰に手を当て、口を尖らせた。その勢いに、万桜はたじろぐ。
「はぁ? ビアンカは俺を選んだろ! 今さっき!」
(選んでないわよ、どこにいるのよビアンカ?)
「あれは魔王、おまえが選んだだけだ! ビアンカの気持ちはどこにもない! いいか、ビアンカが本当に選ぶのは、最強ヒロインのデボラなんだよ!」
(え、サブリナ、今デボラって言ったか? いつの間にデボラ枠になったんだおまえ?)
莉那は、なぜか興奮気味に、力説した。その主張に、万桜と舞桜は顔を見合わせる。
「え、デボラって、あのネタ枠の?」
万桜が思わず口にすると、莉那の顔が怒りで真っ赤になった。
「誰がネタ枠だ! おまえがデボラの魅力を理解できないサイコパスなんだよ!」
再び莉那の拳が閃こうとしたその時、舞桜が慌てて割って入った。
「待って、サブリナ! もういいから! 彼の話は、私ももう少し聞きたいと思ってるの」
舞桜の言葉に、サブリナは不満そうに腕を下ろした。彼女の「オーナー」の言葉には逆らえないらしい。
「……まったく、オーナーは優しいんだから。魔王に騙されないでよ?」
莉那は、万桜をギロリと睨みつけながら、そう言い放った。
万桜は、腫れた頬をさすりながら、体勢を立て直した。
「ったく、おまえの暴力は物理的にも精神的にもダメージがデカいんだよ……」
彼がそうぼやくと、莉那はフン、と鼻を鳴らした。
「うるさい! 魔王が暴走するからあたしが止めてんだろ! いいから、話すならちゃんと話せ!」
三人は、再び縁側に座り直した。万桜は、まだ少し痛そうに顔を歪めているが、彼の目はいつものように輝いている。
「で、ボッチ。さっきの話の続きだが、あの電子蚊取り器の制御を人工知能にするっていうのは、何も既存の半導体を大量に使うって意味じゃねぇんだ」
万桜は、舞桜を「ボッチ」と呼ぶ。それは、独りぼっちという意味ではなく、舞桜と莉那と万桜の「いっぱいボッチ」だから。孤高にさせないという、彼らなりの約束なのだ。
万桜は、宙に浮かせた電子蚊取り器を指でクルクルと回しながら、話し始めた。
「俺が目指してるのは、半導体でしか動かないような複雑な回路を極力減らし、もっとシンプルで、かつ頑丈なシステムを構築することなんだ。例えば、カメラは画像データを雲形計算機に送る感知器として使う。解析は雲形計算機の人工知能が行う。その結果を洗濯機が物理開閉器で操作するのと同じように、この電子蚊取り器も物理的な駆動装置で動かす。これなら、電子蚊取り器本体は極力半導体を使わずに済むだろ?」
万桜の言葉に、舞桜は腕を組み、考え込むような表情を見せた。
「それは…確かに、理論上は可能ね。カメラからの情報を受信し、雲形計算機で人工知能が処理し、その結果を物理的な動作に変換する。その物理的な駆動装置の部分を、半導体を使わないメカニカルな仕組みで構築できれば、という前提だけど」
「そう、そこだ! 例えば、電子蚊取り器の推進は、細かな羽の角度を電動機で調整するんじゃなくて、電磁石の原理を使って、空気の噴射口をパタパタ開閉する、みたいな。で、その開閉のタイミングを、アナログ回路と継電器の組み合わせで制御するんだ。人工知能からの『右へ行け』とか『上に上がれ』って指示を、そのアナログ回路が電気信号の強さに変換して、継電器が動く。そうすれば、複雑なプログラミングは不要で、埋め込みソフトの更新もいらねぇだろ?」
万桜は、興奮気味に身振り手振りで説明する。彼の頭の中では、すでにそのシステムが立体的に構築されているかのようだ。
三人の奇妙な議論が続く中、不意に玄関の方から呼び鈴の音が響いた。チーン、というのんびりとした音は、まるでこの和やかな(しかし内情はカオスな)縁側の風景に溶け込むかのようだ。
「ん? 誰だろう?」
万桜は首を傾げながら、ゆっくりと立ち上がった。腫れた頬をさすりながら、玄関へと向かう。彼の後に続き、舞桜と莉那も立ち上がった。
玄関を開けると、そこには見慣れない宅配業者が立っていた。大きな段ボール箱を二つ、台車に乗せて。
「黒木様のお宅でよろしいでしょうか? こちら、茅野様宛のお荷物になりますが」
宅配業者は、伝票を確認しながら言った。その言葉に、万桜は目を丸くする。
「茅野……って、ボッチのことか? おい、ボッチ、なんか頼んだのか?」
万桜は振り返り、舞桜に問いかける。舞桜は一瞬、眉をひそめたが、すぐに何かを思い出したように頷いた。
「ええ、私よ。ここに送るように手配したの。それから、その隣にある小さな荷物も、私のものよ」
宅配業者の台車には、大きな段ボール箱の他に、もう一つ、細長い箱が乗っていた。
「え? ちょ、ちょっと待てよ、ボッチ。なんでウチに荷物が届くんだ? しかもそんなデカいの」
万桜は混乱した様子で、舞桜に詰め寄る。彼の顔には、予期せぬ事態への戸惑いが顕わだった。
そんな万桜の様子を、サブリナが面白そうに眺めている。
「へぇ、オーナー。なんか企んでるね?」
サブリナの言葉に、舞桜は小さく微笑んだ。その微笑みには、確かな自信と、わずかな悪戯心が混じっているように見えた。
「ええ。あなたたちには、事後報告になるけれど」
舞桜は、宅配業者から荷物を受け取ると、慣れた手つきで段ボール箱を開け始めた。中からは、解体された状態の、いくつもの精密な機械部品が現れた。
「これ……もしかして、あの電子蚊取り器の試作機か?」
万桜が、驚きと興奮の入り混じった声で尋ねた。彼の目には、早くも子供のような輝きが宿っている。
「ええ。あたしが会社で提唱し、設計まで進めていたシステムの一部よ。実際に動くかどうかは、ここでの検証が必要だけれど」
舞桜は淡々と答える。彼女の言葉からは、この場での「研究プロジェクト」が、すでに現実世界で具体的な形を成し始めていることがうかがえた。
「マジかよ、ボッチ! すげぇな! じゃあ、こっちのでっかい箱は?」
万桜が興奮気味に、残りの箱を指さした。
「そちらは……私たちが当面、ここで生活するための最低限の荷物よ」
舞桜がそう答えると、万桜はさらに混乱した表情になった。
「は? 生活するための荷物って……まさか、ウチに住むってことか?」
万桜の問いに、舞桜は冷静に頷いた。
「ええ。この家の離れを、あなたの妹さんの桜ちゃんから許可をいただいて、使えるように手配したわ。この研究プロジェクトのためには必要なことだから」
舞桜は、あくまで合理的に説明する。彼女の言葉からは、すべてが計算され尽くした計画の一部であるかのような響きがあった。
「へぇ、オーナー、やるじゃん! あたし、もう先に荷物送っちゃったから、ちょうど良かった!」
サブリナが、手を叩いて喜んだ。彼女は、万桜の戸惑いをよそに、すでに自分の居場所を見つけたかのように振る舞っている。その言葉に、万桜はさらに顔を青ざめさせた。どうやら、二人は事前に示し合わせていたらしい。
「え? サブリナまで? おいおい、ちょっと待ってくれよ! なんでだよ!」
万桜は、完全にパニックに陥った。まさか、二人がかりで自分の家に居座るとは、予想だにしていなかったのだ。
「だって、オーナー一人じゃ不安だもん。それに、変なことしたら社会的に死ぬぞ? いいか、地方舐めんなよ? 性的噂話あたりまえだからな? 女子と住所同じってだけで嫁認定だからな? ふたりだと――」
サブリナは、悪びれる様子もなく言い放った。彼女の目には、万桜をからかうような光が宿っている。が、
「酒池肉林認定だよバカヤロー」
万桜の乾いた呟きに、
「ぬ、ぬっかたぁ~!」
莉那はかぶりをフリフリ、地方アルアルに絶叫し、
「それに、私もこのシステムには興味があるの。あなたたちの研究に、私も協力させてほしいわ」
舞桜は見ない振り発動。
舞桜もまた、サブリナの言葉を補足するように言った。彼女の言葉は、あくまで論理的であり、万桜が反論できる余地はほとんどない。
こうして、万桜の、平穏だったはずの日常は、突如として二人の女性によって占領されることになった。彼の家は、奇妙な共同生活と、前代未聞の研究の拠点へと変貌を遂げる。
「……マジかよ、俺の自由が……」
万桜は、天を仰いで呟いた。しかし、その顔には、困惑の裏に隠しきれない、新たな刺激への期待が浮かんでいるようにも見えた。
★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★
西暦2018年、梅雨入りしたばかりの甲斐の国大学のキャンパスは、重く立ち込める雲と、時折降り出す雨で、初夏の明るさとは打って変わって、しっとりとした空気に包まれていた。学生たちは、濡れた傘を畳みながら、足早にそれぞれの建物へと向かう。
学内にある、比較的広々とした休憩所の一角。窓の外の雨音を遠くに聞きながら、茅野舞桜、黒木万桜、そして福元莉那の三人が、小さな円卓を囲んで座っていた。テーブルの上には、各自のノートやタブレット、飲み物が置かれ、以前のカフェテリアでの出会いとは異なり、彼らの間には既に、自然な交流が生まれていた。
舞桜は、手に持つボールペンを回しながら、本日受けた「応用システム工学」の講義内容について、簡潔に説明を始めた。
「複雑系における動的平衡の維持、特に非線形な要素が多数存在する大規模システムでの安定性確保が今日の議題だったわ。フィードバックループの設計がいかに重要か、その理論的背景と実例が示された」
彼女の言葉は理路整然としており、その論理的な思考は、まるで精密な機械が正確に稼働するかのようだった。
万桜は、舞桜の言葉に頷きながら、自分のノートに走り書きされたメモを指差した。
「俺の『行動経済学』は、人間の非合理性と、それが市場に与える影響って話だったな。例えば、プロスペクト理論ってのがあってさ、人間って得するより、損する方を過大評価するんだと。だから、ギャンブルだと、勝つ確率が低いのに突っ込んじまう、みたいな」
彼の説明は、専門用語を織り交ぜつつも、どこか軽妙で、人間の本質を突くような洞察力に満ちていた。彼の話には、常に「世の中をひっくり返す」という思想の萌芽が見え隠れする。
二人の説明が一段落したところで、これまで黙って耳を傾けていた莉那が、身を乗り出した。彼女は、先日とは打って変わって、シンプルなTシャツにデニムという、大学生活に馴染んだ装いだったが、その瞳の輝きは相変わらずだった。
「あたしはね、今日、農業ゼミの農作業を手伝ってたら、ちょうど新しい土壌改良の研究の話が聞こえてきて! 微生物の力を最大限に引き出して、痩せた土地でも豊かな作物を育てる技術なんだって。あと、遺伝子組換えじゃない、自然界の生物が持つ特定の能力を利用して、害虫を寄せ付けない作物を育てる研究も進んでるんだって!」
莉那の言葉は、まるで大地の恵みのように、生命力に満ちていた。彼女が説明する内容には、生物多様性への配慮や、持続可能な農業への視点が込められている。彼女の言葉は、舞桜のシステム思考と、万桜の非合理性を読み解く視点に、新たな視点を付け加えた。
三者三様の講義内容が、互いの脳内で交錯し、新たな発想の種を蒔いていく。異なる分野の知識が、互いに影響し合い、思わぬ結合を生み出す。それはまさに、彼ら三人だからこそできる「叡智の共有」だった。
「…ねえ、茅野さん、もしかして、あのRPG、まだやってる?」
莉那が、楽しそうな顔で舞桜に問いかけた。その言葉に、舞桜はわずかに表情を固めた。
「…あれは…その…」
彼女は言葉を濁し、視線を逸らした。あの国民的RPGを、夜な夜な、システムの解析と効率的な攻略法の検証に没頭し、その奥深さと、製作者の緻密な計算に感銘を受けていたのだ。だが、そのことを素直に認めるのは、彼女の哲学が許さない。同時に、万桜への複雑な感情が、言葉を詰まらせる。
「茅野さん…今、どこ…」
莉那が、さらに畳み掛けるように尋ねた。その言葉に、舞桜の頬に、微かな赤みが差す。
「…ビアンカをとるべき? え、でもデボラは? フローラは?」
茅野舞桜の冒険は、究極の選択で止まっているようだ。
(もう魔王退治しないで、ここで暮らせれば…)
問題の先送り――日本人の得意技さえ持ち出すほどに悩んでいる。
「「ビアンカ選ばねえとかサイコパスだよな?」」
万桜と莉那は、呆れ気味に笑った。
その時、休憩所の入り口から、一人の男性がゆっくりと歩み寄ってきた。彼の顔には、落ち着いた大人の魅力と、どこか少年のような茶目っ気が混じり合っている。時に見せる鋭い眼差しには、長年の経験と深い洞察が宿る。清潔感があり、シンプルながらも質の良い服装を好む彼こそが、大学の学長、北野学長であった。
三人は、その存在に気づくと、一瞬にして会話を止め、背筋を伸ばした。特に舞桜と万桜は、普段の奔放さとは打って変わって、わずかに緊張した面持ちになる。
「誰、この先生?」
万桜が、遠慮なく、しかし小さな声で舞桜に尋ねた。彼の視線は、学長に向けられながらも、頭の中では目の前の人物が何者であるかを懸命に分類しようとしているようだった。
「さあ。優先順位の低い講義の担当教授までは把握してないわ」
舞桜も、その声に気づかれないよう、ごく小声で答えた。彼女の言葉は、相変わらずの冷静さだが、学長という存在を認識できていないことが、その「優先順位」という言葉に表れていた。
「学長だよバカ共ッ!」
莉那は、思わずといった様子で声を上げた。その声は、休憩所の静けさに響き渡る。彼女にとって、日頃から農業ヘルパーとして世話になっている「雇い主」であり、恩人ともいえる学長を知らない二人の態度に、さすがに据えかねたようだった。
北野学長は、彼らのテーブルの傍らに立ち止まると、穏やかな笑みを浮かべた。
「いや、少しばかり散歩をね。君たちの活発な議論が、ここから聞こえてきたものだから、つい足を止めてしまったよ」
彼の言葉には、独特のユーモアと含蓄が込められている。彼は三人の顔を一人ずつ見渡し、その目に深い洞察の光を宿らせていた。特に、万桜の目と、舞桜の目の奥に潜む、既存の枠に収まらない発想の輝きを捉えているようだった。
「特に、君たち三人の組み合わせは面白い。黒木万桜君の突飛な発想と、茅野舞桜君の論理的な分析、そして福元莉那君の…生命力溢れる実践力。それぞれの異なる知性が、見事に融合している」
北野学長は、莉那に目を向け、少しだけ口角を上げた。
「福元莉那君、君の活躍は、私にも届いているよ。農業と、そして…君の、そのユニークな『客寄せ』の才能もね」
学長から「客寄せ」という言葉が出た瞬間、莉那の表情がさっと固まった。彼女の目には、一瞬、焦りと不安がよぎる。学長は、カフェテリアでの彼女の活動を公に認知している。それは、ある意味で彼女が「裏の活動」と認識しているものが、大学側に把握されており、何らかの注意や処分に繋がるのではないかという懸念が脳裏をかすめたのだ。 しかし、彼女の活動は昼食代を稼ぐためのものであり、決して悪質なものではない。だが、その「裏の活動」が大学側に知られていることに、彼女は動揺を隠せない。後、耳に入った講義内容の共有は守秘義務違反だ。契約書に書いてある。どうしよう? そんな不安でいっぱいだ。
そんな莉那のわずかな動揺を見抜くかのように、北野学長はフッと口元を緩めた。
「心配いらないよ、福元莉那君。門前の小僧が習わぬ経を読むことは織り込み済みだ。それを踏まえての公開だよ。それに君は、その『経』の意味をちゃんと理解している。違うかい?」
彼の言葉は、まるで彼女の心の内を見透かすようだった。北野学長のその懐の深い言葉に、莉那の表情は、やがて安堵の色を帯びていく。彼女の型破りな行動の裏にある「目的」と「情熱」を、この大人は理解しているのだと。
莉那は、心からの感謝を込めて、北野学長に向かって、ぱっと顔を綻ばせた。その笑顔は、瞬時に媚びるような、しかしどこか計算されたような、キャバ嬢を彷彿とさせる扇情的なものへと変化する。視線を絡め取るように学長を見上げ、ほんの少し首を傾げる仕草は、「男はこういうのが好きでしょ?」と言わんばかりだった。
「泰造ッ!」
その瞬間、北野学長の声が、休憩室に雷のように響き渡った。その声は、一人の男性に突き刺さる。その視線の先には、先ほどから少し離れた場所で、大学施設の視察を行っていたらしい白井泰造が立っていた。彼は、温厚な表情をしていたはずが、学長の声にギクリと肩を震わせる。
「さーせんッ!」
白井泰造は、まるで反射のように、素直に頭を下げた。彼は、莉那を農業ヘルパーに推薦した人物であり、彼女の「客寄せ」の才能は知っていたが、それがキャバ嬢のような振る舞いを伴うものだとは知らなかった。学長に言われて初めて、その詳細を把握したのだろう。
白井泰造は、素早く莉那に近づくと、彼女の肩をキッと掴んだ。彼の顔は、普段の笑顔とは打って変わり、厳しさを帯びている。
「莉那! ごめんなさいしなさい! おまえ、そういうことをすると、おじさんたちはすぐ勘違いするんだぞ!」
泰造は、自分の娘と同い年の莉那に対して、まるで自分の娘を叱るかのように、厳しく諭した。彼は莉那たちの親世代であり、彼女を温かく見守る立場だからこそ、公の場で学長に指摘されたことの重みを理解しているのだ。
泰造の真剣な表情に、莉那の顔からいたずらっぽさが消え失せた。彼女は、先ほどの学長への「営業スマイル」ではなく、心からの反省を込めて、北野学長に向き直った。
「学長、申し訳ありませんでした!」
そして、莉那は泰造の顔を見上げた。
「泰造さん、ごめんなさい……あたし、またやっちゃいました」
莉那の声は、いつもよりずっと小さく、しゅんとしていた。泰造は、彼女の頭をポンと優しく叩いた。
「わかればいいんだ。おまえは素直だからな。だが、気をつけろ。おまえが頑張っているのはよくわかるが、時と場所を弁えろ。な?」
泰造の言葉に、莉那は大きく頷いた。彼の叱咤の中に、深い優しさと、彼女への信頼が込められていることを、莉那はよく知っていた。
「さて、君たちに一つ、提案がある」
北野学長は、表情を少しだけ引き締めた。彼の目は、真剣な光を帯びている。
「君たちのその『叡智の共有』、私にも、その一部を共有してはくれないだろうか? 私が提供できるものがあるかもしれない」
その言葉は、彼らの研究プロジェクトに対する、大学からの支援の意思表示にも聞こえた。特に、彼の教育哲学が「問題児を出さない」ことであるため、既存のルールに縛られず、学生の個性を伸ばすことで、彼らが問題を起こす必要がない環境を作ることを目指しているからこその提案だった。
「あ、すみません。その前によろしいでしょうか?」
万桜が学長の言葉を遮り、視線を白井泰造に向けた。彼の瞳には、いつもの能天気さに加えて、わずかな好奇心と、旧知の相手に対する遠慮のなさが混じり合っている。
「勇希の父ちゃん、なにしてんの?」
この場の非正規員について問い質す、その声には一切の悪気がない。しかし、泰造にとって、この場の非正規員とは自分であるという、万桜の指摘は図星だった。
白井泰造は、丸みを帯びた温厚な顔立ちに、常に笑顔を湛えた表情が特徴的だ。体格はしっかりしており、活動的な印象を与える。スーツ姿でも、どこか親しみやすく、力強いオーラを放つ。彼が北野学長の隣で、ほんの数秒前まで穏やかな笑みを浮かべていた。しかし、万桜の遠慮ない一言に、その表情はピクリと引き攣る。彼は白井勇希の父親であり、地域の有力な政治家である。とはいえ、この大学の公式な関係者ではない。今日は、学長に請われて、地域の活性化事業に関する意見交換のために立ち寄ったに過ぎないのだ。
泰造は、万桜の質問にどう答えるべきか、一瞬逡巡した。学長は、泰造の状況を面白がるように、口元に笑みを浮かべている。
「万桜ちゃん、視察だよ。万桜ちゃんたちが勉強してるか、授業参観さ」
泰造は、親愛を込めて、しかしどこか落ち着かない様子で万桜に話しかけた。彼の脳裏には、幼い頃、勇希が怪我をした際に人目もはばからず号泣した万桜の姿が鮮明に焼き付いている。あの純粋な少年が、目の前にいる青年だ。泰造は、そんな万桜を我が娘の婿にしたいと本気で考えていた。
「あー視察って授業参観って、俺たち19だぜ今年?」
万桜は、ようやく合点がいったように声を上げ、直ぐに不満げに泰造に言い返す。その無邪気な一言は、泰造の苦労を物語るかのようだった。泰造は、もうなにも言わず、ただ笑うしかなかった。彼の脳裏には、娘の勇希が万桜に振り回され、苦笑いしている姿が浮かんだ。彼自身もまた、万桜という予測不能な存在に、いつの間にか巻き込まれていることに気づいていた。
舞桜と莉那は、そんな二人のやり取りを、どこか呆れたような、しかし微笑ましいものを見るような目で眺めていた。この「学長の提案」という重要な局面で、万桜が場の空気を読まずに個人的な疑問をぶつけるのは、もはや日常風景の一部になりつつあった。
「それにしても、万桜ちゃん。キャンパスで、その嫁さん見つけるとか、オジサン良くないと思うよ、ん?」
泰造は、学長に聞こえないよう、しかし確実に万桜に届く声で、目配せしながら言った。泰造は、万桜が勇希と同じ東京本郷大学に進み、そこで良縁を得るものだとばかり思い込んでいたのだ。まさか、地元の国立大学を選び、しかも既に親密そうな女性が二人もいるとは、全くの想定外だった。莉那は拓矢と確定しているが、茅野舞桜という存在は、彼にとって完全に計算外である。
しかし、万桜の返答は、泰造の予想を遥かに超えるものだった。
「キャンパスで、嫁探せって言ったの勇希の父ちゃんじゃん?」
万桜は、悪びれる様子もなく、むしろ不思議そうな顔で泰造に問い返した。その言葉に、泰造は一瞬言葉を失う。確かに、かつてそんなことを言った記憶がある。成績優秀で、地頭も良い万桜なら、東京本郷大学に進んでエリートコースを歩み、自然と勇希と結ばれるだろうと、勝手に青写真を描いていたのだ。
「ボッチのこと言ってる? ちげえよ。ボッチとサブリナで分担して全講義制覇すんだよ。勿体ねえじゃんか?」
万桜は、泰造の勘違いに気づいたように、得意げに胸を張って言った。そのあまりに突飛な発想に、泰造は完全に毒気を抜かれてしまう。学長も、万桜の奇抜な発言に、驚きの表情を隠せない。
「ボッチって名前はないんじゃない?」
泰造が、たしなめるように言うと、万桜はすぐに反論した。
「そりゃ、独りぼっちだったらだろ? 俺とボッチとサブリナ。さんにんぼっち。…3はアボリジニにとって『いっぱい』。いっぱいボッチって意味だよ」
万桜の独特な言葉の解釈に、
(なにこの子、お、漢前過ぎる!)
泰造はぐっときた。娘の勇希のために大泣きした、あの純粋な少年は、知性も発想力も桁外れだが、根本的な部分はちっとも変わっていない。その事実に、泰造は安堵とも感銘ともつかない感情を抱いた。
「それでは…学長、具体的な提案ですが、講義の記録を許可して」
万桜が言いかけ、自分の名前も把握してないことを察した北野学長は、
「北野です」
穏やかに言葉を被せた。
「北野学長。講義を動画で記録して、好きな時に受講する許可をいただきたい。そうすれば農繁期に受講できない時でも――」
受講し放題。万桜にとっては、大学の講義はそれに過ぎない。そして極めて個人的な要求だ。これが、二年後に活きるとは、この時、誰も思わない。
そう世界中を騒がせた『コロナ禍』。その対応のひとつ遠隔講義である。万桜たちは、それを予見したかの如く、学生起業して、ひとつの事業として成功させることになる。いまはまだ、極めて個人的な思い付きだが。
「泰造…彼、天才?」
学長は泰造に尋ねる。泰造は、屈託なく笑い、
「ただの悪戯小僧ですよ…誰より優しい、ね」
問いかけにそう答えた。
最近は最強を(さいつよ)と読むの?
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!
皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!
引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!