黒き魔王の仮想現実
前書き
シルバーウィーク直前の東京。万桜は、天空塔の展望台で高所恐怖症を露呈し、舞桜や勇希にからかわれた挙句、莉那によってVRシミュレーションだと騙されてしまう。しかし、その単純さの裏で、万桜は展望台の仕掛けから「没入型VR」の核心を見抜いていた。彼は、足の裏の感覚、匂い、風、そして東洋医学の経絡を組み合わせることで、脳を騙し、現実と区別がつかない仮想現実を作り出せるというのだ。
茅野建設の新拠点で、万桜はさらに驚くべきアイデアを披露する。CTスキャンデータをベクターデータ化することで、医療分野に革命をもたらす「完全3D」システムの構想。そして、経絡を操作することで、VR空間内で肉体的な疲労をシミュレートしたり、逆に時間の流れを圧縮したりする「精神と時の部屋」のような技術の可能性を語る。
この技術は、リハビリや学習効率を飛躍的に向上させる「光」の側面を持つ一方で、拷問や精神的な支配に悪用される「闇」の側面も秘めていた。
これは、万桜の天才的な発想が、人類の未来を明るくも暗くもする可能性を秘めた、壮大な「魔王案件」へと発展していく物語である。
スカイツリーの展望台は、割と怖い。
2018年9月シルバーウィーク直前の天空塔。
「兄ちゃんは、高い所が苦手なんだよ。舞桜お姉さん」
顔面を蒼白にして、桜の手をギュッと握る万桜を指し、桜はそう言った。
万桜は、妹の言葉でさえ耳に入っていない。ただ、ぼんやりと空を見つめ、窓の外の街並みを視界に入れないように努めている。
舞桜は、涼やかな表情を崩さない。彼女は、窓の外の景色、地上の人々の動き、遠くの山の稜線まで、すべてを把握しているかのようだった。
「高所恐怖症…と、メモしておきましょう。黒木の弱点リストに」
舞桜の瞳に、嗜虐的な光が宿る。
「怖いなら下で待ってればよかったじゃないか?」
勇希は、万桜の顔を見て、堪えきれないといった様子で笑った。
「え? なに言ってんだ? 怖い? お、俺が? ヤダなぁ~勇希」
万桜は震える声で強がったが、その顔は正直だった。顔面を蒼白にして、口元はひきつっている。視線は、窓の外の街並みから、必死に遠ざけようとしていた。
その様子を、舞桜は、涼やかな表情で見つめていた。彼女の口元には、わずかな笑みが浮かぶ。そして、次の瞬間、彼女は悪戯っ子のように、万桜の背中に手を置き、トンと軽く押しやった。
「きゃあっ!」
万桜は、まるで少女のような悲鳴を上げた。彼の体は、無防備に窓側へと傾き、ガラスにへばりつく。窓の外には、地上がはるか遠くに広がっていた。
万桜の心臓は、激しく脈打つ。体が窓ガラスに張り付いたまま、彼は目を開けることができない。
「お、おまえ! なにすんだよ、ボッチ!」
恐怖と混乱が入り混じった声で、万桜は舞桜を非難した。
「あら、ごめんなさい。つい、うっかり手が滑ってしまって」
舞桜は、わざとらしくそう言って、涼やかな微笑みを浮かべた。彼女の瞳には、万桜の困惑ぶりを楽しむかのような、嗜虐的な光が宿っている。
「舞桜お姉さん、いじわる~」
桜は、万桜の様子を見て、くすくすと笑った。彼女は、舞桜の行動を、兄へのちょっとしたお仕置きだと捉えているようだった。
「万桜、顔が真っ青だぞ。大丈夫か?」
勇希は心配そうに声をかけたが、その声には、笑いをこらえている様子がにじみ出ていた。
万桜は、舞桜の悪戯心と、勇希たちのからかいに、なすすべがなかった。彼は、窓ガラスにへばりついたまま、ただひたすらに、この時間が終わるのを待つことしかできなかった。
「はい、そこぉ。へばりつかない」
莉那が、力任せに万桜を窓から引き剥がした。
「うぅ~、サブリナ…助けて…」
万桜は、恐怖で腰が抜け、半泣きになりながら莉那に縋り付いた。
「うん。ヤローがやると、イラってくるねぇナミさんヘルプ」
莉那は、万桜の縋るような視線を軽くあしらうと、隣にいた勇希に目を向けた。
「男が女に縋り付くとか、マジありえないから」
莉那は、まるで汚いものでも見るかのように、万桜を勇希に押し付けた。
勇希は、突然のことに戸惑いながらも、万桜を抱きかかえるように支えた。
「いい、万桜。あれは4Kディスプレイだ」
莉那は、万桜の眼前に人差し指を立てて、力強く言った。
「ここは地上10階だ。屋上の上だから、実質3階だ。屋上庭園を合わせても、たかがしれてる」
万桜は、莉那の言葉を信じ、マジマジと窓を見つめた。
「ま、マジで?」
彼の脳は、混乱しながらも、莉那の言葉を真実として受け入れていく。
「いいか? あのエレベーターも4Kディスプレイだ。体感型VRだ」
莉那は、人差し指をわずかにずらし、まるで魔法使いが呪文を唱えるかのように、万桜に暗示をかけた。
莉那の、その自信に満ちた口調と、悪戯っぽい瞳が、万桜の混乱を増幅させた。
「すげぇ! VRか!」
万桜は、純粋な驚きと、恐怖から解放された安堵の表情を浮かべた。
彼の無垢な笑顔に、莉那は呆れたように肩をすくめた。
「「「おい、ちょれーぞ、こいつ…」」」
桜、勇希、舞桜は単純過ぎる万桜に異口同音。
★ ◆ ★ ◆ ★
地上に降り立ち、空中庭園からスカイツリーを見上げると、巨大なエレベーターがゆっくりと昇降しているのが見える。
「すっげぇなー。あれも演出かぁー」
万桜は、心底感心したように、目を丸くしてそう呟いた。
彼の脳内では、先ほどの高層階の景色も、そこにたどり着くまでのエレベーターも、すべてが精巧に作られたバーチャルリアリティの世界に書き換えられている。
「あー、そうだぞー。外側の窓に見えるのも4Kディスプレイだぞー」
莉那は、万桜の単純さに、もはや面白みすら感じていない様子で、丹念に暗示を刷り込んでいく。
万桜は、莉那の言葉に、うんうんと頷き、まるで初めてVRゲームを体験する子供のように、目を輝かせた。
「まあ、冗談はさておきよ。足の裏の感覚がカギだってのがわかったぜ?」
万桜は、それまでの弱々しい姿が嘘のように、不敵な笑みを浮かべた。
展望台は、なだらかな坂になっていた。それも意図的に、人が立つとバランスを崩しやすいような不安定な角度、不安定な素材の感触だった。
万桜は、足の裏の感覚を確かめるように、地面を踏みしめた。
「あのディスプレイもVRも、ぜーんぶ、俺が怖がったからって、サブリナが言い出した冗談だろ? でも、俺は気づいたぜ。あの展望台、足の裏の感覚が微妙に狂うように作られてる」
万桜は、莉那の冗談にまんまと乗ったフリをしていたが、その間に、あの空間の真の目的を解析していたのだ。
「勇希、これ魔王案件だけど、続けていい?」
万桜は、屈託なく笑って勇希に尋ねた。
「ストップだ! 万桜」
勇希は、万桜の天才的なひらめきが、またしてもとんでもない事態を引き起こすことを予感し、思わず万桜を制止した。
「黒木、やめなさい」
舞桜もまた、その冷静な瞳にわずかな焦りを浮かべ、万桜に言った。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
押上にある茅野建設の新拠点。歩いて数分、昇降機に乗ること3分。赤い紳士服の淳二には目もくれず、
「へー、高いな~。ボッチの兄ちゃん。お邪魔します」
万桜たちは、社長室で赤い社長にお辞儀した。
「え、舞桜?」
淳二は、妹の突然の訪問に、少し困惑気味だった。だが、舞桜は、
「道端で話せる話じゃなかったの。兄さんも聞いていいから」
と、涼やかな表情で言い放った。その言葉には、この場にいる全員が、ただならぬ重要性を秘めた議論が始まることを悟った。
淳二が、秘書に人数分のコーヒーを淹れるよう指示し、皆がソファに座ると、舞桜が切り出した。
「黒木。以前、あなたが提案した『医療現場での3Dデータ活用』について、具体的な進捗を聞かせてもらえるかしら?」
舞桜の言葉に、万桜の瞳がキラリと輝いた。彼は、まるで待ってましたとばかりに、身を乗り出した。
「おう! ボッチ! あれな、ヤベーんだぜ!」
万桜は、興奮気味に言葉を紡ぎ始めた。
「聞いてくれ、勇希! サブリナも!」
万桜は、まるで子供が新しいおもちゃを見せびらかすかのように、タブレットを取り出した。画面には、先日、甲斐の国大学で莉那と30分で完成させたという「自動描画システム」のデモ映像が映し出されている。
「これ、マンガのキャラクターを作るだけじゃねえんだ! 俺とサブリナが考えたんだが、これって、CTスキャンと組み合わせたら、ヤバイことになるんじゃねえかなって!」
彼の言葉に、莉那と勇希の顔に、期待と好奇心が入り混じった表情が浮かんだ。
「そう! 例えばさ、MRIとかCTスキャンとかの医療画像をAIに分析させて、臓器とか血管とか神経とかの『形』を、ベジェ曲線とかのデータで抜き出すんだよ!」
万桜は、興奮気味に身振り手振りを交えて説明した。彼の脳内では、すでに医療画像が線画として分解され、再構築されているかのようだ。
「そんで、その抜き出したデータを元に、VRとかARで手術のシミュレーションができたら、すごくね? 医者が手術前に、何度でも練習できるんだぜ? まるでゲームみたいにさ!」
彼の言葉には、医療の未来を変える可能性が秘められていた。
「それ、絶対すごいと思う!」
勇希は、目をキラキラさせて頷いた。彼女の脳内では、すでにVR空間で手術シミュレーションを行う医師たちの姿が描かれているかのようだ。
「そうよ、勇希! これが『完全3D』よ!」
莉那は、万桜の説明を補足するように、タブレットの画面を操作し、さらに詳細な図解を表示した。
「CTスキャンで得られた3次元のボクセルデータから、ベジェ曲線のような数学的な『線』で構成されるベクターデータを抽出、解析、そして再構築するの! これなら、単なる表面だけでなく、骨、臓器、血管などの内部構造を非破壊で詳細に捉えることができるわ!」
莉那の解説は、その技術的な深さを的確に伝えていた。
「それで、この3次元ベクターデータは、単なる3Dモデルではなく、『形』や『構成』そのものをデータ化した『レシピ』になるんだぜ! 例えば、人体のCTスキャンであれば、『頭蓋骨のレシピ』『心臓のレシピ』『大動脈のレシピ』といった形で、各パーツが構造化されたデータとして扱えるんだ!」
万桜は、得意げに胸を張った。彼の言葉は、まさに「完全3D」システムの核心を突いていた。
「この『レシピ』があれば、医療分野では、臓器や腫瘍の形状、血管の詰まり具合などを精密に解析できるわ。患者個々の状況に合わせた最適な手術計画を立てることも可能になるのよ」
莉那は、さらに言葉を重ね、その応用範囲の広さを強調した。
「それに、このベクターデータって、ピクセルデータに比べてデータ容量が軽いし、描画処理も高速なんだぜ! だから、CTスキャンで得られた精密な人体モデルを、AR/VR空間にリアルタイムで表示できるんだ! 医師や学生が仮想空間で手術の練習をしたり、人体構造を学習したりすることが可能になるんだぜ!」
万桜は、興奮のあまり、ソファから立ち上がって身振り手振りを交えながら説明した。彼の脳内では、すでにこの技術が医療現場に革命をもたらしているかのようだ。
「つまり、これがあれば、若い医師の研修に革命をもたらすわね。実際の患者さんではない仮想空間で、様々な症例の手術を安全に経験できるようになる~熟練度の向上が加速するでしょう」
そこに、冷静な声が響いた。舞桜だ。彼女の分析的な脳内では、すでにそのシステムの医療現場での応用が、具体的なビジョンとして構築されているかのようだった。
「それだけじゃないわ、黒木。手術中に、患者さんの身体に重ねて、AIが抽出した臓器や腫瘍のベクターデータをARで表示できたら、執刀医はリアルタイムで『透視』しているかのような感覚で手術を進められるわ。より正確な切開や縫合が可能になり、誤って健康な組織を傷つけるリスクを最小限に抑えられる。脳外科や心臓外科など、ミリ単位の精度が求められる手術において、これは計り知れないメリットよ」
舞桜の言葉に、万桜は目を輝かせた。彼のアイデアが、さらに具体的な形を帯びていく。
「あとは、個々の患者さんの身体的特徴に合わせたオーダーメイドの手術計画を、AIが生成した詳細なデータに基づいて立案できるわ。人工関節の形状を患者さんの骨格に合わせて最適化したり、特定の腫瘍の除去に特化した手術器具の設計に役立てたりすることも考えられる」
舞桜は、さらに言葉を重ねた。
「そして、手術チーム全体で、高精細な3Dモデルやベクターデータを共有しながら、手術計画を議論できる。これにより、チームメンバー全員が同じ手術イメージを共有し、よりスムーズで連携のとれた手術が可能になるわ」
舞桜の言葉は、万桜のアイデアが持つ、医療の安全と質を向上させ、患者の予後を大きく改善する可能性を、明確に示していた。
「なんや、凄い話になっとるやないか!?」
淳二は、口をあんぐりと開けて、興奮を隠しきれない様子で呟いた。彼の脳内では、医療の未来が、鮮やかに描かれているかのようだ。
「これで、俺も名医になれるんか!?」
淳二は、冗談めかして言ったが、その瞳の奥には、万桜たちの技術への純粋な期待が宿っていた。
「兄さん。これは、医療分野だけでなく、工業・製造分野にも応用できるわ。物体の内部構造までベクターデータ化できるため、製品の強度解析や、部品の最適な配置、内部配線の設計など、より高度な3Dシミュレーションに応用できるの。これにより、試作品の作成回数を減らし、開発コストと時間を大幅に削減できるわ」
舞桜は、淳二の言葉を受けて、さらに「完全3D」の応用範囲を広げた。
「そう! これって、つまり、現実世界を丸ごと3Dデータ化して、仮想空間に再現できるってことだぜ! 『デジタルツイン』みたいなもんだ!」
万桜は、興奮冷めやらぬ様子で、叫んだ。彼の脳内では、すでにデジタルツインの世界が、目の前に広がっているかのようだ。
「そうね、黒木。まさに『デジタルツイン』の概念ね。現実世界のあらゆる情報をデジタルデータとして複製し、仮想空間でシミュレーションを行うことで、問題の予測や解決、効率化を図る。都市計画、災害対策、スマートシティの実現にも応用できるわ」
舞桜は、万桜の言葉に、深く頷いた。彼女の顔には、万桜の才能に対する深い感銘と、その可能性を社会に実装することへの、強い決意が宿っていた。
「舞桜。この技術、法務なら貸すで? いつでも言ってや?」
淳二は、妹の舞桜に、温かい眼差しでそう言った。彼の表情には、万桜たちの才能を最大限にサポートしたいという、兄としての優しさが滲み出ていた。
「ありがとうございます、兄さん。その時は、喜んでお借りしますわ」
舞桜は、微笑みを浮かべ、兄に深々と頭を下げた。
社長室の窓の外には、スカイツリーがそびえ立っている。その遥か上空で、万桜たちの「完全3D」が、東京、そして世界の未来を、新たな次元へと導こうとしていた。
★ ◇ ☆ ★ ◇ ☆ ◇ ★
「つまり、CTスキャンすれば、俺やボッチや勇希やサブリナが仮想現実で、完全に再現されるってことだ。さっき展望台で気づいたんだが、没入型仮想現実って、たぶん、できるぜ?」
万桜は、靴を脱いで、素足を出し、社長室の床を確かめるように踏みしめた。
「ヒントは、足裏と目と匂いと風で、脳を騙すんだ」
万桜は、得意げにそう言い放った。彼の瞳には、純粋な閃きが宿っている。
「足裏…? 目と匂いと風…?」
舞桜は、万桜の言葉に眉をひそめた。彼女の脳内では、その断片的な情報が、既存のVR技術と結びつき、新たな可能性の扉を開こうとしているかのようだ。
「黒木、もう少し詳しく説明しなさい。その『脳を騙す』というのは、具体的にどういうことかしら?」
舞桜は、冷静な声で万桜に促した。彼女の口調には、万桜の突拍子もない発言の裏に、計り知れない価値が隠されていることを予見しているかのような、確信が滲み出ていた。
「おう、ボッチ! よくぞ聞いてくれた!」
万桜は、目を輝かせた。彼は、舞桜が自分の言葉に真剣に耳を傾けてくれたことに、純粋な喜びを感じているようだった。
「足の裏ってさ、俺たちが普段意識しないけど、常に地面の情報を脳に送ってるだろ? 硬さとか、温度とか、傾斜とか。展望台で足元が不安定だった時、俺、めっちゃ怖かったんだけど、あれって、視覚と足裏の感覚がズレてたからなんだ」
万桜は、身振り手振りを交えながら説明した。
「つまり、そのズレを意図的に作り出したり、逆に完璧に同期させたりすることで、脳に『錯覚』を起こさせるんだよ。例えば、傾斜に横たわった状態で、足の裏に軽く圧力をかけたり、微細な振動を与えたりするだけで、脳は『自分が立っている』って錯覚するんだぜ! 踵、踵と言うより踝には触れないのがポイントだ!」
万桜の言葉は、舞桜の脳裏に、具体的なVR装置のイメージを鮮明に描き出していく。
「それに、目はドーム状のモニターで視野全体を覆って、匂いはアロマミスト、風はハンディクーラーの技術を応用して、微かな風を当てる。身体全体はマッサージチェアで使うようなエアバックでスーツ状に包み、適宜刺激を与える。これらを全部連動させれば、脳は現実と区別がつかなくなるんだぜ! だって、全部の感覚が、仮想空間と一致するんだから!」
万桜は、興奮冷めやらぬ様子で、力説した。
「なるほど…多感覚の統合と、平衡感覚への介入…」
舞桜は、感心したように呟いた。彼女の脳内では、万桜の言葉が、まさにパズルのピースのように嵌まっていくかのようだ。
「現在のVRヘッドセットは、視覚と聴覚が中心だけど、このアイデアは、触覚と嗅覚、そして最も重要な平衡感覚までも統合する、究極の没入型VRシミュレーターね」
「そう! そしてな、この技術は、高所恐怖症の克服訓練とか、外科手術のシミュレーション、リハビリテーションだけじゃねえ! もっとヤバイことができるんだぜ!」
万桜は、ニヤリと笑った。彼の瞳には、新たな「魔王案件」の予感に輝いている。
「…まさか、経絡?」
舞桜の瞳が、わずかに見開かれた。彼女の口から出た言葉は、万桜の思考を正確に言い当てていた。
「おう、ボッチ! さすがだな!」
万桜は、満面の笑顔で頷いた。
「東洋医学で言う『経絡』ってやつだよ。これを軽く刺激したり、あるいは意図的に遮ったりすれば、仮想現実なのに『疲労』させられるんじゃねえかなって!」
万桜の言葉は、舞桜の背筋に冷たいものが走らせた。
「疲労をシミュレート…? 現実の身体は動かさずに、脳に疲労感を錯覚させる…?」
舞桜の表情が、一瞬にして凍り付いた。彼女の脳裏には、その技術が持つ、計り知れない危険性が鮮明に浮かび上がっていた。
「そう! これって、例えばゲームで、プレイヤーが長旅の後に疲労困憊する感覚を、実際に体験できるんだぜ! もっと物語に感情移入できる!」
万桜は、無邪気にそう言って、ゲームへの応用を語った。
「馬鹿を言わないで、黒木!」
舞桜は、思わず声を荒げた。彼女の顔は青ざめ、その瞳には、万桜の無邪気な発想の裏に潜む、恐ろしい「闇」が見えているかのようだ。
「そんな技術、ゲームだけじゃないわ! 肉体的な傷を負わせることなく、VR空間内で精神的、肉体的な疲労感を負わせ続けることが可能になる! これは、VRを究極の拷問ツールへと変貌させる可能性を秘めているのよ!」
「あとは、仮想労働者がVR空間で過酷な労働を強いられ、現実では健康な身体を保ちながらも、常に疲労感に苛まれるようなディストピア的な社会が生まれるかもしれない…」
舞桜は、震える声で言葉を続けた。彼女の想像力は、その技術がもたらすであろう、暗い未来を描き出していた。
「さらに、特定の経絡に働きかけることで、人の精神状態を意図的に操作することも可能になるかもしれない。不安や焦燥感を増幅させたり、希望を奪ったりといった、精神的な支配へと応用されるリスクがあるわ!」
舞桜は、顔を蒼白にして万桜に詰め寄った。彼女の瞳には、かつてノイマンやオッペンハイマーが背負った「業」が、万桜の天才性によって再び呼び起こされることへの、深い恐怖が宿っていた。
「…リアルな『時計じかけのオレンジ』やね。学生のころ読んだわ…」
淳二は、深く頷きながら、静かに呟いた。彼の言葉は、舞桜の恐怖を裏付けるかのように、重く響いた。
「そうよ、兄さん! 人間の自由意志を奪い、まるでゼンマイ仕掛けの機械人形のように、特定の行動パターンしか取れないようにする…倫理的な境界線が極めて曖昧になるわ!」
舞桜の言葉には、強い危機感が込められていた。
「でもさ、これって、『精神と時の部屋』にもならねえかな?」
万桜は、舞桜の剣幕を全く意に介さず、能天気な笑顔でそう言った。彼の脳内では、すでに疲労シミュレーションの「闇」の側面が、「光」へと転換されようとしているかのようだ。
「精神と時の部屋…?」
舞桜は、万桜の言葉に、一瞬だけ思考が停止した。その瞳に、再び新たな可能性の光が宿る。
「そう! アニメでさ、現実の1日が部屋の中では1年経過するってあっただろ? あれって、脳が時間をどう認識するかってことだよ。この経絡操作VRは、そこに直接介入できるんだ!」
万桜は、興奮気味に説明した。
「例えば、VR空間で1年分の訓練(例えば、武道や楽器の練習など)をシミュレートし、経絡の流れを意図的に妨げることで、脳に『1年分の肉体的疲労』を感じさせるんだ。その後、短時間で経絡の流れを正常に戻し、深い回復状態をシミュレートすることで、まるで長い眠りから目覚めたかのような感覚を生み出せるんだぜ!」
万桜の言葉は、舞桜の脳裏に、時間の壁を超えるトレーニングの可能性を鮮明に描き出した。
「つまり、肉体の限界を超えることなく、精神と集中力だけを極限まで鍛えることができる…怪我のリスクを減らし、パフォーマンスを飛躍的に向上させる…アスリートや特殊な技能を持つ人々の訓練に革命をもたらすわね!」
舞桜は、万桜のアイデアに、再び目を輝かせた。彼女の顔には、その技術がもたらす「光」の側面への、強い期待が宿っていた。
「さらに、病気や老化で肉体を動かせない人々が、VR内で1年分のリハビリを1日で体験できる。これは、身体性の維持と精神的な活力を保つ上で重要な役割を果たすわ!」
舞桜は、その応用範囲の広さに、興奮を隠せない様子で言葉を続けた。
「うんうん! 究極のリハビリテーションだ!」
勇希も、目をキラキラさせて頷いた。
「忙しい現代人が、1日の短い休憩時間を使って、VR内で1年分の趣味や学習に没頭する…という新しいライフスタイルが生まれるかもしれないね」
莉那は、冷静ながらも、その可能性に感銘を受けているようだった。
「兄さん。これは…『魔王案件』ではあるけれど、その光の側面を追求すれば、人類の進化を加速させる、計り知れない可能性を秘めているわ」
舞桜は、万桜の顔をまっすぐ見つめた。彼女の瞳には、万桜の才能に対する畏敬の念と、その才能を正しく導こうとする、強い決意が宿っていた。
「よし! じゃあ、プロジェクト開始だな! ボッチ、善きに計らえ」
万桜は、舞桜の言葉に、満面の笑顔で頷いた。彼は、自分の発想が、舞桜によって社会的な意義を与えられ、具現化されていくことに、純粋な喜びを感じているようだった。
「いや、任せるな!」
舞桜の悲鳴が、社長室に木霊した。
☆ ★ ◇ ★ ☆
「まあ、1日で1年分は無理だろうけどよ。でも妙に長く感じることってあるだろ?」
万桜が言うと、
「「「今がそれ!」」」
舞桜、勇希、莉那は異口同音に叫んだ。その声には、万桜の突飛な発想に振り回される、彼女たちの疲労と呆れが混じっていた。淳二と桜は、すでに窓の外に意識を向け、現実逃避に走っていた。
「ほら、お嬢ちゃん、あれが東京タワーやで」
「マジでか? 兄ちゃん東京タワーも制覇しようぜ?」
桜は目を輝かせながら淳二に答える。だが、万桜は、
「却下だ。この高さで割りとギブだわ!」
と、桜の無邪気な要求を一蹴した。
「そうよ、黒木! あなたの話を聞いていると、本当に1日が1年にも感じるわ! 脳が処理する情報量が多すぎるのよ!」
舞桜は、額を押さえながら万桜に詰め寄った。その声には、疲労困憊した知性のある人間の悲鳴が混じっている。
「でも、それがポイントなんだろ、ボッチ? 脳の時間認識は、体温の変化と情報量で決まるんじゃねえか?」
万桜は、舞桜の剣幕を意に介さず、涼しい顔で反論した。
「そうよ、万桜! 私たちは今まで、体温の変化で脳が時間を認識するなんて、考えもしなかったわ! でも、言われてみれば、激しい運動をした後って、時間の流れが早く感じるものね!」
勇希は、万桜の言葉に、目から鱗が落ちたかのように大きく頷いた。彼女の脳内では、自身の体験と万桜の仮説が、鮮やかに結びついている。
「そう! VRスーツに微細な温度調整機能をつけて、短時間で体温を緩やかに上昇させるんだ。そんで、激しい運動をした後のような状態をシミュレートする。その後、急速に体温を下げて、ぐっすり眠った後のような回復感を再現するんだよ!」
万桜は、興奮気味に身振り手振りを交え、さらに言葉を続けた。
「この体温の急激な変化は、脳に『長い時間が経過した』っていう強い錯覚を与えるんだぜ! まさに『体温操作による時間の圧縮』だ!」
「なるほど…体温を操作することで、脳に時間の錯覚を起こさせる…」
舞桜は、目を見開き、万桜の言葉に深く頷いた。彼女の表情には、その技術の持つ計り知れない可能性への、驚きと期待が入り混じっていた。
「そして、もう一つの要素が『情報量と出来事の密度』ね。脳が処理する情報量が多いほど、私たちは時間を長く感じる。新しい経験や出来事が次々に起こる1時間は、退屈な1時間よりも長く感じられる。これは、脳が記憶の密度を時間の長さと結びつけているためよ」
舞桜は、万桜の言葉を補足するように、論理的に説明した。
「そう! それをVR空間でやるんだ! 例えば、VR内で1年分の読書、思考、経験を高速で処理させるんだ。経絡へのフィードバックも組み合わせることで、脳に『膨大な情報量を処理した』っていう感覚を与えるんだよ!」
万桜は、さらにテンションを上げる。
「この情報の過剰な密度が、時間の感覚を著しく引き伸ばすんだぜ! まさしく『情報操作による時間の伸縮』だ!」
「だからよ、私たちにとっては、あなたの話を聞いている今が、まさにその『情報操作による時間の伸縮』を体験しているようなものよ! 脳への情報量が過多なのよ!」
莉那は、鋭いツッコミを入れた。彼女の言葉は、舞桜と勇希の顔にも同じように疲労の色を浮かばせていた。
「まあ、1日が1年は無理だろうけど、短い時間を濃密に過ごすことは可能だ。現実でも起こり得る自然現象だ。それを意図的に上げることで、学習や訓練効率の向上をはかるんだ!」
万桜は、周囲の悲鳴を意に介さず、力強くそう言い放った。彼の瞳には、この技術がもたらす未来のビジョンが鮮明に映し出されている。
「つまり、感覚を加速させるわけね!」
勇希は、万桜の言葉に、目を輝かせて頷いた。彼女は、この技術がもたらす革新的な可能性に、純粋な好奇心を抱いているようだった。
「そう! 知覚のブースティングだ! 足の裏の軽い刺激は、『立っている』っていう最も基本的な身体感覚を、より強く、より即座に脳に伝達するんだ。疲労と回復も早送りできる! 本来数時間かかる肉体の疲労プロセスを、瞬時に脳に感じさせ、その回復プロセスも短時間でシミュレートするんだぜ!」
万桜は、興奮気味に説明した。
「脳の『時間認識』は、体温の変化や情報量に強く影響される。VRと経絡操作を組み合わせ、体温の急激な変化や膨大な情報量を脳に与えることで、現実の1分をVRの1年に引き伸ばす、あるいは1年間の学習経験を1日に圧縮するといった、時間の伸縮を可能にする…」
舞桜は、万桜の言葉を反芻するように呟いた。彼女の表情は、その技術の倫理的な側面と、その計り知れない可能性の間で揺れ動いているかのようだった。
「でも、問題があるとすれば、許容情報量ね。1日が1年はさすがに長いでしょ? 逆に血流が速すぎて酸欠になる。カロリーも足りない」
舞桜は、現実的な課題を指摘した。
「そう! だから、必要なのは良質の情報量なんだよ、ボッチ! 雑踏の雑音は情報量とは言わない。体系化され、論理的に整理された、新しい知識やスキル、経験なんだ!」
万桜は、舞桜の指摘に、深く頷いた。
「このシステムは、VR空間での『良質な情報量』と『劣悪な情報量』を巧みに使い分けることで、時間認識を制御する…時間延長の学習モードでは『良質な情報量』を脳に集中して与え、経絡を操作して体温をわずかに上昇させ、脳が『活動している』と錯覚させる。疲労が溜まってきたと感じたら、脳への情報量を減らし、経絡を操作して体温を下げ、深い休息状態をシミュレートするんだ!」
万桜は、その圧倒的なビジョンを語り続けた。
「音声や画像の再生速度を徐々に上げていけばいいんだ。感覚だけが加速する。そうすれば、脳が適応し、感覚だけが加速していくという体験が可能になる! そこに、意図的な埋め込み、サブリミナルに有益な情報とランダムなノイズを埋めることで、コツのようなものを掴めるんじゃねえかな?」
万桜の言葉は、その場にいる全員の思考を刺激し、未来への可能性を広げていく。
「この辺でやめとくか? もう少しあんだけど…」
万桜は、3人に尋ねた。
「「「もう、勘弁してくれ~!」」」
舞桜、勇希、莉那の悲鳴が、再び社長室に木霊した。
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
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引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!




