黒き魔王と秋刀魚と鰻と
前書き
夏の甲斐の国大学キャンパス。勇希は万桜が作った奇妙な「ハンディクーラー」を手にし、隣を歩く舞桜を驚かせる。その「常識」外れのアイテムは、信源郷町という小さなコミュニティだけに留まらず、世界を変える可能性を秘めていた。
一方、休憩室の入り口では、万桜と番長が秋刀魚を焼きながら、ウナギの完全養殖について語り合っていた。万桜は、ウナギの生態に関する突飛な仮説を次々と披露し、その内容は「親の亡骸から遺伝情報を経口摂取する」など、生物学の常識を覆すものだった。
その話を聞いた舞桜と勇希は、それが国家機密レベルの「魔王案件」であることに気づき、彼らの暴走を止めようとする。しかし、万桜は、既存の技術では再現不可能な深海の環境を、簡単な仕組みで再現できるという決定的な閃きを得る。そして、彼の天才的な発想は、秋刀魚の蒲焼きを、ウナギの蒲焼きの味と食感を模倣した、画期的な「偽ウナギ」へと昇華させていく。
これは、万桜の自由で型破りな発想が、科学や技術、そして食文化の常識を塗り替えていく物語である。
鰻と鱸って似てない?
勇希は、まるで夏の陽射しを避けるかのように、一見するとドライヤーに似た、しかしその機能は遥かに凌駕する奇妙な装置を、何気なく自分の顔に向けて歩いていた。筒状の本体の後方には、直径50センチ程の透明な円錐が取り付けられている。それは、ビニール傘よりもわずかに小さいくらいのサイズで、視界を遮ることもない。その見慣れない、しかし勇希にとってはあまりにも日常的なアイテムを手にしている彼女に、隣を歩く舞桜は、困惑と好奇心が入り混じった表情で尋ねた。
「え、えっと…なによそれ?」
舞桜の疑問に、勇希はなんてことないように、むしろ当たり前のことを聞かれたかのように答えて見せた。その声には、一切の疑問も戸惑いも含まれていなかった。
「うん? ハンディクーラーだが? ちょっと電池切れでな。自家発電中だ」
勇希の中では、この「ハンディクーラー」は、夏の猛暑を乗り切るための必須アイテムであり、もはや呼吸をするのと同じくらいに「常識」なのだ。彼女の顔には、微かな風が心地よく当たっている。それは、外気の熱気を忘れさせるほどの涼しさだった。
後ろに取り付けられた円錐が漏斗となり、風を集めて中にある発電機を回す。その発電機が細い銅管の内部の水をポンプで循環させ、銅管は保冷剤で熱交換を行い、集めた風を冷やして送る。呆れるくらいに単純な構造だが、心地よい。
隣を歩く舞桜は、その光景に、片手を顔にあてて深く、そして重い溜め息をついた。その溜め息には、諦めと、そしてある種の確信が込められていた。
「勇希…あなたたち、黒木に毒されている…」
舞桜の脳裏には、万桜の顔が鮮明に浮かび上がった。おそらく、これも万桜の突飛な、しかし常識を覆す発明に違いない。彼の生み出すものは、常に周囲の人間を巻き込み、その常識を根底から揺さぶるのだ。
「そ、そう言えば東京では見なかったな? まだ夏本番じゃないからだと思ってた…」
勇希は、ふと、まるで今気づいたかのように、そして恐る恐る、声のトーンを落として尋ねた。その瞳には、一抹の不安が宿っていた。
「こ、これもしかして、常識じゃないのか? 信源郷町だけなのか?」
その言葉を聞いた瞬間、舞桜の顔から血の気が引いた。彼女の嫌な予感は、確信へと変わった。これは、信源郷町という小さなコミュニティだけに留まるような代物ではない。その技術は、世界を変える可能性を秘めている。そして、その巨大な波紋の中心には、常に「魔王」万桜がいるのだ。
「勇希、手続き急ごっか~」
舞桜は、もはや諦めと達観が入り混じったような視線を虚空に向けて歩みを速めた。その声には、新たな「魔王案件」の予感と、それに伴う膨大な「面倒事」を予見しているかのような、深い疲労が滲み出ていた。しかし、その疲労の奥には、万桜の天才的な発想を、何としても社会に実装しようとする、彼女の揺るぎない決意が宿っていた。
2018年9月中旬。甲斐の国大学、農業ヘルパー休憩室のどこか簡易な建物の入り口で、万桜と番長が七輪を囲み、秋刀魚を焼いていた。パタパタと団扇で扇ぐたびに、煙と共に香ばしい薫りが立ち上り、少し離れた場所から戻ってきた勇希と舞桜の鼻腔を心地よく擽った。
「なんで白身で形も似てんのに、鰻の味にならねえんだろうな?」
番長が不思議そうに呟くと、万桜は団扇で秋刀魚の脂を煽りながら、得意げに話し始めた。
「回遊魚だからじゃねえか? 俺思うんだが、ウナギの産卵場所って、海底火山のそばなんじゃねえかって。地熱で水温は温かいし、熱水の上昇流で、深海なのに水圧が低い『特殊な低水圧水域』があるんじゃねえかな?」
番長は、秋刀魚をひっくり返しながら、興味深そうに相槌を打った。
「ほう、深海なのに水圧が低い…? それはまた、突拍子もない話だな。でも、あり得るかもしれねえな」
「だろ? しかもな、ウナギのヌメリの正体って、その水圧から身を守る為の『鎧』なんじゃねえか? 普段は低水圧水域にいるけど、外敵から身を守る時は、一時的に水圧の高い水域に逃げられる。その時に、ヌメリがクッションになるんだよ」
万桜の言葉は、まるで目の前にウナギの生態系が広がっているかのように、熱を帯びていた。
「へぇ~、ヌメリが鎧か! 面白いな。じゃあ、なんで養殖のウナギはあんなにコストがかかるんだ? 天然のシラスウナギが捕れねえからだけじゃねえだろ?」
番長の問いに、万桜はニヤリと笑った。
「そう! そこが『盲点』なんだよ! 俺は思うんだが、今のウナギの人工孵化の条件が根本から間違ってんじゃねえかって。高水圧じゃねえし、水温も低温じゃねえ。だって、深海の生物が淡水で生きられるかよ? 限りなく淡水の川に近い状態の水圧、水温が孵化に適してるんじゃねえかな?」
「淡水に近い…? でも、産卵は深海だろ?」
「だからだよ! 深海での水圧は低い可能性が高いと判断するぜ。低水圧水域までの旅路で、あるいは『群体』のように移動してんのかもしれねえ。弱い個体が外、強い個体がうち、ってな。幼魚も親ウナギも、低水圧水域まで群体で移動し、親ウナギも群体で深海まで移動する。コスト掛かってるそれってさ、高水圧に耐えられる特殊個体を産み出そうとしてるからだろ? 言ってみれば人工進化だ。成功した個体はスーパーウナギってわけだ。そりゃあ、成功率低いはずだわ~」
万桜の言葉は、もはやウナギの生態系を超え、生命の進化にまで及んでいた。
「「ちょっと待って! お願いですから!」」
その時、休憩室の入り口に差し掛かった舞桜と勇希が、悲鳴のような声を上げた。彼女らの顔は青ざめ、その瞳には、万桜の言葉が持つ計り知れない危険性と、それが引き起こすであろう新たな「魔王案件」への恐怖が宿っていた。
「黒木! 番長! なにを話しているの!」
舞桜は、秋刀魚の香ばしい煙をものともせず、二人に詰め寄った。その声には、怒りとも呆れともつかない、複雑な感情が入り混じっていた。
「いや、番長が秋刀魚でウナギのフェイク料理って言うからよぉ…あ、でも、この推論なら、いけねえかなウナギの完全養殖?」
万桜は、無邪気に答えた。彼の脳内では、すでにウナギの完全養殖システムが完成しているかのようだ。
「「周囲を警戒して!」」
舞桜と勇希は、完璧な唱和で叫んだ。彼らの視線は、休憩室の周囲を素早く見渡し、不審な人物がいないかを確認する。その緊迫した様子に、万桜と番長は、きょとんとした顔で見つめ合った。
「え? なにが?」
万桜は、状況を全く理解していなかった。彼の頭の中には、ウナギの完全養殖という壮大な夢しか存在しないのだ。
「あなたたちの話は、国家機密レベルよ! 下手したら、国際問題になるわ!」
舞桜の言葉に、勇希は深々と頷いた。彼女の顔には、万桜の天才性がもたらす、新たな「面倒事」への覚悟が滲んでいた。秋刀魚の香ばしい匂いが漂う休憩室の入り口で、ウナギの完全養殖を巡る、壮大な「魔王案件」が、今、静かに、しかし確実に動き出していた。
秋刀魚を焼き上げながら、万桜が番長に尋ねる。
「番長、通訳」
しかし、番長は、焼き上がった秋刀魚を皿に盛りつけながら、どこか呆れたように答えた。
「黒幕、腹減ってんじゃねえ? なに言ってっか、俺にもわからねえ」
そう言いながらも、番長は、万桜の言葉を補足するように付け足した。
「ウナギは河口付近に居るんだから、その水域の水圧や水温が一番適してるってのは、俺もそう思うぜ…。ウナギの敵は陸上の鳥だとすれば、海はかっこうの逃げ場だ。ヌメリの鎧で海水からも身を守ってんじゃねえかな?」
「「付け足すなー! 休憩室入って!」」
その時、舞桜と勇希の悲鳴のような声が、休憩室の入り口から響き渡った。彼女たちは、顔を青ざめさせ、まるで危険な秘密が漏洩するのを恐れるかのように、二人に詰め寄った。
「なるほどな~、回遊魚に見せ掛けた淡水魚って考えか~」
万桜は、秋刀魚を皿に盛りつけ、菜箸で軽くつまむと、無邪気な笑顔で勇希と舞桜の口元へと差し出した。
「勇希あーん」「ボッチもあーん」
物理的に、そして味覚的に二人の乙女を黙らせる。彼女たちは、突然の甘い誘惑に、一瞬だけ動きを止めた。その隙に、万桜は、ウナギの完全養殖に関する新たな仮説を、さらに展開させようとしていた。
万桜は、甘じょっぱい秋刀魚の蒲焼きを咀嚼しながら、ぼんやりと呟いた。その瞳は、遥か遠くの海の底を見据えているかのようだ。
「じゃあ、成長過程で淡水と海水を適宜変えて、水圧を変えた環境でストレスを与えてやれば、シラスになり得るかもな」
彼の言葉は、まるでウナギの生命の神秘を解き明かす鍵を握っているかのようだった。そして、ふと別のアイデアを閃いたように、番長に問いかけた。
「なあ番長、秋刀魚の蒲焼きじゃなくて、鱸の蒲焼きが近いんじゃねえかな?」
番長は、万桜の言葉に、納得したように頷いた。
「鱸の蒲焼きか~。確かに近いかもしれねえな…」
鱸は、その生涯において生息域を大きく変える魚だ。稚魚のうちは河川の汽水域や下流域で過ごし、成長するにつれて河川の中流域、そしてやがては沿岸の海へと活動範囲を広げていく。彼らは、淡水と海水が混じり合う汽水域を好む傾向にあり、この環境変化に適応する能力に長けている。
特に、若魚から成魚にかけては、河川と海を行き来する回遊性が顕著になる。産卵期には、多くの個体が外洋に出て、深場で産卵を行うと考えられている。また、食性が肉食性であり、小魚や甲殻類を捕食する。その身は白身で、クセがなく、様々な料理に用いられるが、特に蒲焼きにすると、ウナギにも似た濃厚な味わいと、ふっくらとした食感が楽しめる。
鱸は、その適応能力の高さから、環境の変化に強い魚としても知られている。彼らが淡水と海水を行き来し、異なる水圧や塩分濃度の環境に適応していく過程は、まさにウナギの生態と共通する部分が多い。万桜が「鱸の蒲焼き」を提案したのは、ウナギの持つ「回遊魚に見せ掛けた淡水魚」という特性と、その生涯における環境適応能力を、鱸に重ね合わせたからだろう。
「タウリン配合した栄養ドリンクをタレに混ぜれば、栄養価的にはおなじだろ?」
万桜はさらりと、まるで悪魔の囁きのようにフェイク料理を提案した。その瞳には、純粋な好奇心と、常識を覆すことへの愉悦が宿っているかのようだ。
「特製のタレとは別に刷毛で塗るかー。考えたな黒幕」
番長は腕組みして熟考し、その顔には、新たな商売の可能性を見出した職人の表情が浮かんでいた。
「イカゲソペーストして、一緒に焼けば皮っぽくなるし、栄養ドリンク要らねえんじゃねえかな?」
番長の提案に、万桜の目がキラリと輝いた。
「お、いいな~。それ~。鱸とイカの蒲焼きか~」
ここで、万桜と番長が考案した「鱸とイカの蒲焼き」のコストについて、少しばかり解説しよう。
まず、鱸だ。鱸は、日本の沿岸から河川まで広く生息し、比較的漁獲量も安定しているため、ウナギに比べてはるかに安価に入手できる。特に、天然のシラスウナギの漁獲量が年々変動し、その価格が高騰の一途を辿っているウナギとは対照的だ。養殖技術も確立されており、安定供給が見込めるため、価格の変動リスクも低い。ウナギの蒲焼きが高級料理とされる一方で、鱸の蒲焼きは、より手軽に楽しめる庶民的な価格帯で提供できる可能性を秘めている。
次に、イカゲソだ。イカゲソは、イカの足の部分であり、通常、胴体部分に比べて安価で取引されることが多い。加工食品の原料としても広く利用されており、安定した供給源がある。イカゲソをペースト状にして蒲焼きに混ぜ込むことで、ウナギの皮のような食感と風味を再現しようという発想は、まさにコストパフォーマンスを極限まで追求した、万桜らしいアイデアと言える。イカゲソ自体にもタウリンなどの栄養素が豊富に含まれているため、栄養ドリンクを別途加える必要もなく、自然な形で栄養価を高めることができるのだ。
つまり、「鱸とイカの蒲焼き」は、ウナギの蒲焼きの味と食感を模倣しつつ、原材料費を大幅に抑えることができる。これは、より多くの人々が手軽に栄養価の高い魚料理を楽しめるようになる、画期的な「偽ウナギ」となる可能性を秘めているのだ。万桜の思考は、常に「いかにして、より多くの人々が旨いものを安く食えるか」という、根源的な問いに繋がっているのである。
「鱸だから腹開き、つまり関西風だなー。じゃあ鱸とイカゲソペーストは蒸すかー。ペーストの繋ぎはメレンゲなー」
万桜の言葉に、番長が蒲焼きの焦げ目をつけながら答えた。
「蒲鉾っぽいなー」
その時、講義の共有のために戻ってきた舞桜が、二人の会話に耳を傾け、深々と溜め息をついた後、呆れたような、しかしどこか知的な響きを帯びた声で口を開いた。
「蒲鉾は元々、魚のすり身を棒に巻きつけて焼いたものよ。その形が植物の蒲の穂に似ていたから、『蒲鉾』と呼ばれるようになったの。そして、その『焼く』という調理法が、後にウナギなどを焼く『蒲焼き』の語源になったと言われているわ」
舞桜の言葉は、まるで歴史の教科書を紐解くかのようだった。
「つまり、蒲鉾と蒲焼きは、元々は同じルーツを持っていたのよ。魚のすり身を焼くという、シンプルな調理法から派生した、日本の食文化の奥深さを物語っているわね」
万桜と番長は、舞桜の解説に、感心したように頷いた。彼らの脳内では、日本の食文化の歴史と、自分たちの考案した「鱸とイカの蒲焼き」が、新たな繋がりを見出しているかのようだった。
「へぇ~、蒲鉾って、そんな歴史があったのか~。じゃあ、俺たちの『鱸とイカの蒲焼き』も、日本の食文化の歴史に名を刻むってことか?」
万桜は、目を輝かせながらそう言い放った。彼の瞳には、自らの発明が、単なる料理の域を超え、新たな歴史を創造する可能性が映し出されているかのようだった。
「「それは大袈裟!」」
舞桜と、勇希が、完璧な唱和でツッコミを入れた。その声には、万桜の突飛な発想への呆れと、それでも彼の才能を認めざるを得ないという、複雑な感情が入り混じっていた。
★ ☆ ◆ ☆ ★
休憩室の空気は、刃物でも切れるかのように険悪だった。その理由は明白だった。
「「さーせんッ! 美味しかったんですッ! さーせんッ!」」
舞桜と勇希が、床に正座させられ、顔を青ざめさせて謝罪の言葉を繰り返している。そう、彼女たちは、みんなのために焼かれたはずの秋刀魚を、文字通り「平らげて」しまったのだ。
「いや、食べ過ぎでしょ。どう考えても」
微かに薫ってくるはずだった香ばしい秋刀魚の薫りが、すでにそこにはない。その消失に、琴葉と莉那は、ご機嫌斜めどころか、もはや氷点下の視線を二人に突き刺していた。あたりまえである。彼女たちも、この秋刀魚を楽しみにしていたのだ。
「いや、聞いてください…! 世紀の大発見を聞かされる身にもなっていただきたい!」
勇希は、過度の過負荷を凌ぐために、食欲で誤魔化したのだと必死に弁明を試みるが、その声は震えていた。
「いや、ただの仮説じゃん? てか、ひとりで四人前ですからね。食べ過ぎです」
莉那が冷たく言い放つ。九人分の秋刀魚は、一匹丸々ではない。ひとり分は半身である。つまり、勇希は一人で二匹分、舞桜も同様に二匹分を平らげたことになる。
番長は、この修羅場を凌ぐため、黙々と残り一尾の秋刀魚を七輪で焼き上げながら、頭を捻っている。もはや、白いご飯に合うものは、まぜご飯くらいしか思い浮かばない。
万桜は、そんな緊迫した空気などどこ吹く風とばかりに、ため息をひとつ吐くと、海苔を軽く炙り始めた。そして、黙々と炊飯器の釜に、香ばしいきざみ海苔を入れていく。次は、古漬けを丁寧に刻み、チューブの山葵とあえていく。その手際の良い動きは、まるで熟練の職人のようだ。
焼き上がった秋刀魚を、番長は躊躇なく釜に投入し、古漬けの山葵和え、きざみ海苔、頭と尾を切り落とした秋刀魚と手早く混ぜていく。湯気と共に、秋刀魚と海苔、山葵の香りが混じり合い、食欲をそそる香りを休憩室に漂わせた。
当然、舞桜と勇希の目の前には、白いご飯と古漬けだけが置かれていた。彼女たちは、秋刀魚の香りを恨めしそうに嗅ぎながら、自分たちの過ちを噛み締めるしかなかった。
即興のまぜご飯は、大量に刻んだ海苔の香りと、山葵、古漬けの適度な酸味、秋刀魚が絶妙に絡まり旨かった。
「魚類と俺たち陸上生物の違いってなんだと思う? 俺さ、あいつらは、水に溶け込んだ親の亡骸から、遺伝情報を経口摂取してんじゃねえかなって思うんだ」
洗い物は、当然、勇希と舞桜である。万桜の言葉は、さらに続く。
「ウナギは群体として深海、おそらく海底火山近隣の水域に進んで産卵する。鮭は産卵すると死ぬ。でもウナギは産卵した場所に卵を暖めるように留まっている。力尽きるまで。多少の高水圧でも卵が孵化できるように」
その場にいた者たちの脳裏に、ドームのように陣形を整えたウナギの群体が想起された。
「やがて力尽きた親ウナギの亡骸は養分として海中に溶ける。人工孵化しても、シラスにならない理由ってそれじゃねえかな?」
万桜の言葉に、番長は七輪の火を消しながら、腕組みをして深く頷いた。その顔には、万桜の突飛な発想を真剣に受け止める職人の眼差しが宿っていた。
「なるほどな…。確かに、親の亡骸から直接、生命の根源たる情報を得るってのは、生物学的にはとんでもねえ話だが、ウナギのあの謎めいた生態を考えりゃ、あり得ねえとは言い切れねえな。養分として溶け出すだけじゃなく、遺伝子レベルの情報が受け継がれる…まるで、魂の継承みてえな話じゃねえか」
番長の言葉は、万桜の仮説に、さらに深みを与えた。
「継承じゃなくて、転生に近いんじゃねえかな? 従って、人工養殖に足りないものは、親の亡骸の成分じゃねえか? 後、親たちの体温」
万桜の言葉は、ウナギの完全養殖における、現在の科学が直面する最も深い「盲点」を突いていた。彼の脳裏には、生命の神秘と、それを再現しようとする人間の傲慢さ、そしてその間に横たわる、まだ見ぬ真実が鮮明に映し出されているかのようだ。
その時、舞桜が、どこか遠い目をして語り始めた。彼女の脳裏には、大学で学んだ、ウナギの人工養殖に関する膨大なデータが、鮮明に蘇っているかのようだ。
「ウナギの完全養殖…それは、まさに科学者たちの、果てしない挑戦なのよ」
彼女の声は、まるで、まだ見ぬ生命の神秘を解き明かそうとする、研究者たちの苦悩と情熱を代弁しているかのようだった。
「まず、親ウナギを捕まえてくるでしょう? そして、彼らにホルモンを投与して、無理やり成熟を促すの。そうして、ようやく採れる卵は、直径わずか1ミリメートル。水中に浮遊する、まるで目に見えないほどの小さな命よ」
舞桜は、指先で空中に小さな円を描いた。その繊細な動きは、ウナギの卵の儚さを物語っていた。
「水温は、約25℃に保たれるわ。水圧は、私たちが今いるこの休憩室と同じ、大気圧下。深海の高水圧環境を再現するなんて、今の技術ではほとんど不可能だから。そうして、ようやく卵から仔魚が孵化する。でもね、ここからが本当の戦いなの」
舞桜の声に、わずかながら疲労の色が滲んだ。その言葉に、万桜が、すかさず口を挟んだ。
「いや、ちょっと待てよボッチ? 水圧を再現できねえ? 水槽の空気層を圧縮すればいいんじゃねえか? 密閉した水槽の上部に空気層作って、そこに空気送り込めば、水圧かけられるだろ? それなら、深海の水圧だって再現できるんじゃねえかな?」
万桜の言葉は、舞桜の常識を打ち破る、純粋な閃きだった。舞桜は、一瞬言葉を失い、彼の顔を凝視した。その瞳には、驚きと、そして新たな可能性への光が宿っていた。
「…そうね。原理的には、可能かもしれないわね…」
舞桜は、そう呟くと、再び語り始めた。
「孵化したばかりの仔魚は、口が未発達で、餌を摂ることができない。卵黄の栄養だけで、か細く生きている。この時期は、本当にデリケートで、ちょっとした環境の変化で、あっという間に命を落としてしまう。まるで、ガラス細工の命を扱うようなものよ」
琴葉が、静かに頷いた。彼女の脳裏には、極秘任務の繊細さが重なっているかのようだ。
「そして、ようやく柳の葉のような透明な姿のレプトケファルスに変態する。でも、彼らの天然の餌は、深海の『マリンスノー』と呼ばれる浮遊物や、微生物だと考えられている。それを人工的に再現するなんて、どれだけ難しいか、想像できる?」
舞桜は、テーブルに置かれた湯呑みを手に取り、ゆっくりと息を吐いた。
「今は、サメの卵を主成分とした特殊な人工飼料を使っているわ。でも、それでも成長は遅いし、死亡率は高いまま。まるで、本来の道を外れた生命に、無理やり別の道を歩ませているようなものよ。そして、この段階でも、高水圧環境は再現されていない」
万桜は、その言葉に、深く頷いた。彼の「親の亡骸の成分」と「親たちの体温」という仮説が、舞桜の語る現状と、まるでパズルのピースのように嵌まっていくかのようだ。
「そうか…今の人工養殖は、ウナギが本来経験するはずの、親からの『生命の根源たる情報』や、『温もり』を、与えられていないんだな。だから、シラスにならない。だから、コストがかかる。それは、天然のウナギが持つ、あの強靭な生命力や、環境適応能力を、人工的に再現できていないからなんだ」
万桜の言葉は、まるで深海の謎を解き明かす、新たな光を放っていた。
「つまり、今の完全養殖は、ウナギを『天然に近づける』んじゃなくて、高水圧に耐えられない、ある意味で『不完全な』ウナギを、無理やり生き延びさせようとしている。だから、莫大なコストがかかる。俺たちが目指すべきは、天然のウナギが持つ『完璧な生命力』を再現することなんだよ。親の亡骸の成分、親たちの体温、そして淡水と海水を適宜変え、水圧を変えた環境でストレスを与える…そうすれば、本当の意味での『スーパーウナギ』が生まれるじゃあねえかな?」
万桜の瞳は、未来のウナギの姿を鮮明に映し出しているかのようだった。彼の言葉は、ウナギの完全養殖という科学の最前線に、新たな、そして決定的な一石を投じるものだった。
「万桜ッ! おまえ、おまえ、おまえ!」
思わぬ深海条件の再現方法の発見に、勇希が取り乱し、万桜に詰め寄った。その瞳は興奮で潤み、声は上ずっている。
「落ち着け白井・ビダン。3回呼ばなくても聞こえるわ」
万桜は、某国民的ロボットアニメの主人公のように「おまえ」を連呼した勇希を、どこか呆れたように、しかし優しくなだめた。彼の表情には、いつもの呑気さが戻っている。
その光景を横目に、琴葉と莉那は、虚空を見つめて、深々と頭を下げた。
「「ごめんよぉ。ふたりともぉ。あたしらが悪かったよぉ。秋刀魚食べるわ。そら食べるわ~」」
彼女たちは、先ほどの秋刀魚の怨みをあっさり流した。そして、万桜の新たな閃きがもたらすであろう「面倒事」への諦めが入り混じっていた。その言葉は、まるで自分たちに言い聞かせているかのようだった。
「番長。おまえ、こっちだよな? 手伝うよな? な?」
拓矢は、万桜の新たな「魔王案件」に巻き込まれることを予感し、番長の肩をガッチリと掴んで放さない。その手には、まるで獲物を捕らえたかのような力が込められていた。
「い、いや斧乃木。俺、ほら番長じゃん?」
番長は、必死に言い訳をしようとするが、拓矢の視線から逃れることはできない。
「「進学校のな」」
勇希と拓矢の声が、完璧な唱和で響き渡った。彼らは、番長が逃げ出すことを許さない。万桜たちが通っていた高校は、県内きっての県立の進学校だ。地方では、公立高校が私立高校よりも優秀な場合が多く、彼らの出身校もまさにその典型だった。万桜がこの高校を選んだ理由は、家から一番近いからである。彼の選択は、常に合理的で、そしてどこか突飛なのだ。
休憩室の空気は、万桜の魔王的な閃きと、それに振り回される仲間たちの人間模様によって、一層賑やかさを増していくのだった。
『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!
いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。
実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?
地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!
もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!
皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!
引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!




