ボッチの魔王と麗しくないサブリナ
ん~~ってやるヤツ見たこと割とある
2025年初夏。
黒木万桜の祖父の家。縁側から望む庭は、初夏の強い日差しを浴びて、緑が鮮やかだ。蝉の声が鳴り響き、遠くから里山の匂いが風に乗って運ばれてくる。
その縁側に、特定の人気アニメ主人公のような爽やかな黒髪を完璧にセットし、白の上質Tシャツにライトベージュのチノパン、白いブランドスニーカーという、完璧に計算された「嫁探し」の勝負服に身を包んだ黒木万桜が、片膝を立てて座っていた。彼の切れ長の鋭い瞳が、門から入ってくる客を捉える。
やがて、その視線の先に、オフホワイトのワンピースにパナマハットを被り、涼やかに佇む茅野舞桜の姿が映った。手には風呂敷包み。彼女のクールビューティーな容姿は、田園風景の中にあっても一際目を引く。
万桜は、立ち上がり、彼女の方へと数歩歩み寄った。
「悪いなボッチ。つか、おまえ、なんかキラキラしてない? や、やだ眩しい」
黒木万桜は、茅野舞桜の清楚な装いに、堪らなく照れてしまう。思えば同年代の女子は、友人の確定嫁である福元莉那以外は、久々だ。
「なに言ってんのよ…ハイ、これおじいさまにお供えして…あ、お線香上げてかまわない?」
そう言って茅野舞桜は、ヒールを脱いで黒木家の敷居をまたいだ。
万桜は、彼女の案内役を務めた。居間の脇にある仏間に通された茅野舞桜は、持参した水羊羹を仏壇に供え、静かに手を合わせた。線香の淡い香りが、初夏の静かな家屋に広がる。その間、黒木万桜は、わずかに離れた場所から、目を伏せて佇む茅野舞桜の横顔を、静かに見つめていた。彼の鋭い目つきの奥に、幼い頃からの記憶が揺らめく。
線香をあげ終えた茅野舞桜が振り返ると、万桜はすぐに表情を切り替え、いつもの能天気な笑みを浮かべた。
「おっ、さすがボッチ。礼儀正しいじゃん。そんじゃ、さっそくだけど、蕎麦食うか? ちょうど取り立ての野菜もあるしよ」
万桜は、居間の奥にある広いテーブルを指差した。そこには、ガラスの器に入った蕎麦と、色鮮やかな採れたて野菜の盛り合わせが並べられている。
「ええ、いただくわ」
茅野舞桜は短く応じ、促されるままにテーブルへと向かった。
二人はテーブルに着き、涼やかな蕎麦を箸で持ち上げた。彼らは勢いよく音を立てて啜るようなことはしない。静かに、しかし丁寧に、蕎麦を口へと運んだ。
蕎麦の風味は、清らかな水と、その土地の土が育んだ穀物の香りをそのままに伝える。
蕎麦を一口食べた茅野舞桜の表情が、微かに緩んだ。次に、取り立ての瑞々しい胡瓜に手を伸ばし、一口齧る。パリッとした食感とともに、口の中に広がる青々しい香りと甘み。
「ん~~~!」
茅野舞桜は、思わずといったように、芸能人がよくやるように目を閉じ、心底から味わうような声を漏らした。普段のクールな彼女からは想像もつかない、素直な感動がそこにはあった。
「ん~ってやるヤツ初めて見た」
その様子を目の前で見ていた万桜は、蕎麦を啜るのを止め、目を見開いて彼女を見つめていた。
「だって、美味しいんだもん…」
舞桜は、照れたようにはにかんだ。
万桜が苦笑し、彼の記憶の糸が、再び過去へと引き戻されていく。
――蕎麦を勢いよく啜るのが「粋」だなんて、そんなのは幻想だと、万桜と舞桜は語り合ったことがあった。あれは落語の仕草を庶民が真似て広まったんじゃないかと、二人は仮説を立てたのだ。
その時の舞桜の返しはこうだった。
「ああ、地方から江戸にきた侍は方言が酷かったはずだし、言葉が伝わらないこともあったでしょうね? でも、ジェスチャーで伝えようとする町人たちにホッコリしてたかも?」
これに万桜が、
「コミュニケーションを円滑にするための話芸か…いいね、面白い考察だ…」
こう答える。
些細な雑談が、二人にとっては常に考察へと変わり、深く掘り下げられていく。そんな過去の、知的な邂逅が、今の万桜の脳裏に蘇っていた。
ふと、過去の記憶から、現代の縁側へと意識が戻る。黒木万桜は、テーブルの脇に置いてあった手のひらサイズの機器に手を伸ばした。それは、一見するとシンプルな白い箱型のプラスチック製ベープだったが、彼の指が特定の箇所に触れると、わずかな駆動音と共に、宙へとふわりと浮上した。祖父が電気屋だったこともあり、幼い頃から電子工作に没頭していた万桜にとっては、お手の物だった。浮遊するベープからは、微かに、しかし確かに蚊を寄せ付けない香りが広がっている。
「これの制御を人工知能に?」
隣でその様子を見ていた茅野舞桜が、冷静な声で問いかけた。彼女の目は、その浮遊するベープに、知的な好奇心を宿している。
「ああ、出来ると思うよ…いまは滞空させるだけだが、推進させる羽翼を着けて目的地まで飛ばす。後はスチームミストやドライアイスで人工濃霧のドームで蓋して炭酸ガスを散布させる。殺傷寸前で無効化を停止させ山に帰す。あるいは気絶させて予防接種とかすればエキノコックスだって封じられるかも?」
万桜の言葉は、まるで止まることのない思考の奔流だ。彼の頭の中では、浮遊するベープの先に、複雑なシステムと、それを実現する具体的な技術が、すでに明確な形として描かれている。
その途方もない発想の速さに、茅野舞桜は感嘆する。同時に、その実現可能性と同時に、彼が語る「殺傷寸前で無効化」「気絶させて予防接種」といった、倫理の境界線を平然と越えるような危うさにも、彼女は気づいていた。
万桜は、舞桜の顔をじっと見つめた。彼女の表情は、いつものクールな仮面の下に、微かな困惑と、何かを言いたげな感情が揺れているように見えた。彼は、自分の思考の速度と、それがもたらす可能性の大きさを、彼女が理解しきれていないと感じ取った。
「ボッチ、おまえ、なんか無理だとか思ってねーか?」
万桜が、いつもの能天気な口調で尋ねた。彼の視線は、舞桜の表情の奥にある、理性的な疑問を射抜くようだった。
「ええ、少し。その発想は素晴らしいけれど、現状の技術でそれを全て実現するには、膨大な時間とコスト、そして何よりも倫理的な問題が山積しているわ。特に、生態系への影響や、住民への説明責任は、無視できない。不可能とは言わないけれど、極めて困難な道のりだと判断するわ」
舞桜は、いつもの冷静沈着な口調で、しかし明確に、彼女の合理的な思考に基づいた「無理」の理由を述べた。彼女の瞳は、彼の「人と違う景色」を理解しようとしながらも、現実の壁を冷静に指摘していた。
「あー、やっぱりそう来るか、ボッチは」
万桜は、呆れたように苦笑いを浮かべた。彼の顔には、まるで「いつものことだ」と言わんばかりの表情が浮かんでいる。
「俺は、可能性の先に『無理』はないと思ってる。それに、倫理とか規制とか、そういうもんは、どうせ後からついてくるもんだろ? まずは、出来るかどうかの問題だ。出来るか、出来ないか。おまえの言う『極めて困難』ってのは、『出来ない』じゃねーんだよ」
彼の言葉は、常に前向きで、現状の制約に囚われない。それが彼の「鋼鉄の好天思考」の根幹であり、彼の「人と違う景色が見える」所以だった。彼は、舞桜の合理的な反論を、自らの哲学で軽々と飛び越えてみせた。
「……あなたのその思考回路は、理解に苦しむわね」
茅野舞桜は、額に手を当て、深い溜息を吐いた。口ではそう言いながらも、その表情の奥には、どこか呆れと諦め、そして抗いがたい魅力を感じているような、複雑な感情が入り混じっている。彼女の「魔王の哲学」は、常に合理的で効率的であるべきだと教えているが、万桜の予測不能な「好天思考」は、その秩序を乱す唯一の例外だった。
「でも、あなたのアイデアは、常に常識の向こうから生まれてくる。そして、それが時に、現状を打破する『きっかけ』となることも、否定できない事実だわ。だから、私はあなたのその『無理』を、『不可能』とは断じない。しかし、無謀な計画に合理性を見出すことは、私の哲学に反するわ」
彼女の言葉は、まるで万桜を理解しようとしながらも、自身の哲学とプライドの間で揺れる、茅野舞桜自身の葛藤を映し出していた。彼女は「不可能とは言わない」と言いながらも、その実現への道のりが、いかに茨の道であるかを、理性が警告しているのだ。
「ボッチは素直じゃねぇな。でもよ、俺は知ってるぜ? おまえが『極めて困難』って言う時、本当は『面白い』って思ってるんだろ」
万桜は、舞桜の核心を突くようにニヤリと笑った。彼の言葉は、舞桜のツンデレな本質を見抜いていた。彼は、彼女の合理性の奥に隠された、知的な挑戦への渇望を、誰よりも理解しているのだ。
「それに、俺は、別に突拍子もないこと言ってんじゃねーんだ。みんなが『無理だ』って諦める前に、別の視点から見たら、意外と簡単な道が見えたりするもんだ。ま、そういうもんだろ?」
彼の言葉は、自らの天才性をひけらかすものではなく、むしろ自然体だ。まるで、「当たり前のこと」を語るかのように、その「人と違う景色」について説明する。それは、彼の「鋼鉄の好天思考」が、ただの楽観主義ではなく、確固たる信念と洞察に基づいていることを示していた。
茅野舞桜は、何も言い返せずに、ただ万桜を見つめていた。彼の言葉は、彼女の合理的な思考に、新たな風穴を開ける。彼の「人と違う景色」は、常に彼女の「魔王の哲学」に、予期せぬ「きっかけ」を与え、彼女の思考を次の段階へと進化させてきたのだ。彼女は、彼の底抜けのポジティブさと、その中に潜む確信に、再び引き込まれていくのを感じていた。
(やべ、コイツ、致命的なことに気づいてない)
冷や汗が、背筋をヒンヤリ撫で付ける。獣を無効化出来ると言うことは、人間も無効化出来ると言うことだ。霧のドームで包む。それが可能になれば、都市があっさり死滅する。
縁側の向こうに広がる夏の庭園は、相変わらずの静けさに包まれている。しかし、黒木万桜と茅野舞桜の間では、まるで戦場の司令部のような緊迫した論戦が繰り広げられていた。
「いいか、ボッチ。人工濃霧通信端末は、空に特定のエリアでスチームミストを包むようなもんだ。最初は手探りかもしれねぇが、一度コツを掴めば、そのミストは狙った場所に、狙った濃さで、確実に展開できるようになる。データは、そのミストを最適化するための燃料だ。おまえの言う『極めて困難』ってのは、まさにその『燃料』が足りねぇって話だろ? だがな、俺は知ってる。データは、そこら中に転がってるんだよ。百万台の玩具の車を人工知能に運転させてビッグデータを収集し、整合性を詰める。それが俺のやり方だ」
万桜は、熱っぽく語った。彼の瞳には、すでに完成した未来のビジョンが見えているかのようだ。彼の言う「特定のエリアでスチームミスト」とは、まさに通信インフラのことであり、その制御がいかに繊細で、かつ広範囲に影響を及ぼすかを、彼なりの言葉で表現していた。
「……あなたの比喩は、相変わらず独特ね、黒木万桜」
茅野舞桜は、小さくため息をついた。彼女の口調は、普段の「家人との会話の口調」に戻っていたが、その表情は真剣そのものだ。
「特定のエリアでスチームミストを包む制御は、単に『燃料』の問題ではないわ。ミストの粒子一つ一つの動き、風の流れ、気温、湿度、周囲の地形…あらゆる要因が複雑に絡み合い、刻一刻と変化する環境下で、狙った濃さ、狙った場所に維持し続けることの難しさを、あなたは理解しているのかしら? それは、人工知能制御の難しさと同義よ。一つのパラメータが狂えば、ミストはたちまち拡散し、意図しない場所へと流れてしまう。それが現実世界での通信インフラであれば、甚大な被害を招く可能性があるわ」
彼女は、腕を組み、冷徹な目で万桜を見つめる。彼女の言う思考は、現実の厳しさを突きつける。
「ほう? 被害か。被害が出るような設計にはしねぇよ、当たり前だろ? つか、ボッチ、おまえはさ、ミストを『制御し続ける』って発想に囚われてるだけなんじゃねぇの? 俺が言ってるのは、もっと根本的なことだ。特定のエリアでスチームミストを包むのは、発生させたらそれで終わりじゃねぇ。常に形を変え、必要に応じて『再生成』されるべきなんだよ。そして、その『再生成』のサイクルを人工知能に学習させれば、環境の変化に対応できる。何もかもを完璧に『制御』する必要はねぇんだ。大雑把に、でも確実に、目的を達成する。それが俺のやり方だ」
万桜は、自信満々に言い放った。彼の思考は、常に「完璧な制御」ではなく「最適な結果」へと向かう。
「大雑把? それが、通信インフラにおいて許されるとでも? 例えば、特定のエリアで通信が途絶した場合、それは単なる『大雑把』では済まされないわ。人命に関わる可能性すらある。それに、その『再生成』のサイクルとやらも、結局は人工知能の処理能力とデータの質に依存する。百万台の玩具の車を人工知能に運転させてビッグデータを収集し、整合性を詰める、とあなたは言うけれど、それを『通信端末』として活用できる形に『解析』し、『意味のある情報』として『学習』させるには、膨大な演算リソースと高度なアルゴリズムが必要となるわ。まるで、無限の砂漠の中から、特定の砂粒を見つけ出すようなものよ。それが『極めて困難』である所以なの」
茅野舞桜は、冷静に、しかし鋭く反論する。彼女の言葉には、現実的な課題と、彼女自身の人工知能技術への深い理解が込められている。
「だからこそ、人工知能なんだろ? ボッチ、おまえは、人工知能の可能性を舐めすぎだ。百万台の玩具の車を運転させてビッグデータを収集し、整合性を詰めるのは、人間には無理でも、人工知能には可能だ。それも、俺らが思っている以上に、早く、正確に、効率的にな。それに、初期のシステムは、何も完璧である必要はねぇんだ。まずは、『特定のエリアで特定のデータ』をやり取りすることから始める。例えば、夏場のショッピングモールでミストを散布するとか、それらを広範囲で行いデータを収集すればいい。その『限定された範囲』ならリスクはねえ。それで得られたデータで、人工知能を鍛え、徐々に範囲を広げていけばいいんだ。小さい成功を積み重ねて、大きな成功につなげる」
万桜は、自信に満ちた口調で言い切った。
「……ッ!」
茅野舞桜の、完璧なまでに整っていた表情が、微かに歪んだ。彼女の脳内で、黒木万桜が提示した、常識離れしたアイデアが、恐ろしいほどの速度で解析されていく。夏場のショッピングモールでのミスト散布。そこから得られる膨大な人流データ、温湿度データ、さらには人々の購買行動や感情の機微までをも捉え、人工知能が学習していく可能性。そして、その限定された範囲での成功が、やがて都市全体、国家全体へと広がる未来図。
そのビジョンは、彼女の合理性を激しく揺さぶった。黒木万桜は、「止められないバカ」だ。そして、止められないバカは、止まらない。兵器転用の可能性があれば、即座にアイデアを棄却するはずなのに。
しかし、彼女の知性は、それが「確かに出来る」と告げていた。そして、「見たい」。黒木万桜が引き寄せる、誰も見たことのない未来を、彼女は確かに渇望していた。
冷徹な理性と、未来への狂おしいほどの渇望。二つの感情が、茅野舞桜の内部で激しく衝突した。彼女の額に、微かな汗が滲む。グッと奥歯を噛み締め、その膨大な情報を、そして彼への思いを、すべてを呑み込んだ。こうなることは、わかっていた。だから、事前に福元莉奈に、救援を要請していたのだ。
(サブリナぁ~、助けて…)
茅野舞桜は、心の中で、涙ながらにサブリナ(莉奈の呼び名)を叫んだ。それは、彼女の人生において、合理性だけではない、新たな「決定事項」が加わった瞬間だった。
庭に蝉の声が響き渡る中、二人の論戦は、新たなステージへと突入していくのだった。
「うちのオーナー泣かすなよ!」
その声は、庭の静寂を切り裂くように響き渡った。振り向くと、そこに立っていたのは、いつの間にか現れた福元莉奈だった。彼女の顔には、普段の快活な笑顔ではなく、どこか本気の怒りが浮かんでいた。そして、彼女は迷うことなく、右腕を大きく振りかぶる。
――どんッ!
乾いた、しかし重い打撃音が、縁側に響き渡る。黒木万桜の頬桁に、福元莉奈の渾身のコークスクリューブローが炸裂した。彼の体が僅かに浮き上がり、そのまま庭の地面へと倒れ込んだ。
福元莉奈の渾身の一撃を食らい、庭の地面に倒れ込んだ万桜は、呻き声を上げた。その瞬間、茅野舞桜は、堰を切ったように莉奈に駆け寄った。
「サブリナぁ~!」
普段のクールな表情はどこへやら、彼女は幼子のように莉奈の腕にすがりつき、顔を埋めて震えた。万桜の強烈なビジョンと、兵器転用の可能性という重圧に晒され、理性だけでは抑えきれない感情が溢れ出たのだ。
「よしよし。ごめんね、オーナー。あたしが遅かった」
福元莉奈は、舞桜の背を優しく撫で、小さな頭を抱きしめた。その目は、温かく、そして慈しみに満ちていた。しかし、その視線が、地面に伏せる黒木万桜に向けられると、一転して鋭い光を宿した。キッと眉根を吊り上げ、まるで獲物を狩る獣のような鋭い眼差しで万桜を睨み付ける。
「魔王、おまえ、ビアンカとフローラどっち選んだ?」
その声には、怒りとは異なる、しかし確実に彼を追い詰めるような、独特の圧があった。某国民的RPGの、あまりにも有名で、そして多くのプレイヤーを悩ませた究極の選択。莉奈は、万桜の人間性を試すかのように、その問いを投げかけた。デボラはネタ枠らしい。
地面に倒れたままの黒木万桜は、頬を腫らしながらも、一瞬の迷いもなく即答した。
「え、ビアンカだけど?」
その言葉を聞いた途端、福元莉奈の眉根が不服げに寄せられた。彼女の顔に、明確な不満の色が浮かび上がる。そして、彼女は再び、容赦なく右足を振り上げた。
「オラァッ!」
甲高い気合の声と共に、万桜の腹部に、福元莉奈の回し蹴りが炸裂した。グッ、と万桜の体がくの字に折れ曲がり、庭の土埃が再び舞い上がった。うん。理不尽。それ以外は言葉が見つからねえ。
★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★
時は遡り、2018年初夏。
甲斐の国大学のキャンパス内にあるカフェテリアは、昼時を過ぎても学生たちの活気に満ちていた。窓から差し込む午後の光が、談笑する学生たちの顔を照らす。その一角で、茅野舞桜と黒木万桜は向かい合って座り、机の上に広げられたノートとタブレットを挟んで、静かに講義内容を共有していた。
黒木万桜は、机の上に広げられたノートとタブレットを挟んで、茅野舞桜と向かい合って座っていた。彼の隣にいると、その奔放な発想が、時として彼女の内に潜む感情を揺さぶるかのようだった。
舞桜は、細部まで計算し尽くされたかのような佇まいだった。ストレートに切り揃えられた肩までのボブヘアは、一糸乱れず、彼女の揺るぎない知性を象徴している。身につけているのは、トレンドに左右されない上質な素材の白シャツに、細身のネイビーのパンツ。全体的に装飾を排し、機能性と知性を際立たせたそのスタイルは、まさに「仕事ができる女性」のそれだった。
舞桜は、コーヒーを一口飲みながら、先ほど終えた「システム工学特論」の要点を淡々と説明する。
「…以上が、『人工知能倫理における公平性と透明性の確保』の講義概要よ。データのバイアスが人工知能の判断に与える影響と、それをいかに最小限に抑えるかについて深く掘り下げられていたわ」
彼女の言葉は淀みなく、その表情は常に冷静だ。しかし、時折、彼女の目が隣に座る万桜の、びっしりと書き込まれたノートへと向けられるのは、彼が提供する情報への無意識の信頼の表れだった。
(あらやだ。この娘、キラキラしてる。やだ眩しい)
視界に入った彼女の姿に、万桜は思い、少し照れる。
その清潔感のある肌には、控えめなベージュのアイシャドウと、薄く引かれたアイラインが引かれている。口元には僅かに血色を添える程度のリップが塗られており、彼女自身の合理性をそのまま具現化したかのような、品格を保ったメイクだった。
万桜は、彼女の説明に頷きながら、自分のノートと照らし合わせる。彼の表情は、いつもの能天気な笑みを湛えているが、その切れ長の瞳の奥には、確かな理解の光が宿っていた。
このふた月、彼が講義で得た知識、特に経済学や産業論で語られるデータは、日本の未来に暗い影を落としているように感じられた。緩やかに、しかし確実に訪れるであろう経済の停滞、国際競争力の低下。古い産業構造にしがみつく日本社会の姿が、彼の脳裏をよぎる。
「なるほどねぇ。やっぱ、ボッチのノートはまとまってて助かるわ。俺の方の『認知科学と人間の行動』の講義は、人間の意思決定のプロセスで、いかに無意識が影響するか、って話だったんだよな。特に、脳の認知負荷を減らすためのショートカット、いわゆるヒューリスティックの話が面白かったぜ」
彼はそう言って、自分のノートを舞桜の方に少し押しやった。彼女はそれを手に取り、視線を走らせる。
「ヒューリスティック…認知バイアスとの関連ね。確かに、人工知能倫理のバイアス問題と繋がるわね」
二人の会話は、常に知的な探求へと繋がっていく。それは、周囲の学生から見れば、まるで恋人同士の他愛ない会話のようにも見えるが、その実、互いの知性を刺激し合う、彼らなりの「学びの場」だった。
また、彼女の横顔が視界に入る。よく見れば、耳元にはごく小ぶりなパールのピアスが揺れ、首筋には細いプラチナのチェーンが光る。それらは、彼女の持つ完璧な合理性の中に、ごくわずかに「女性らしさ」という彩りを添えているかのようだった。それは、まだ舞桜自身も気づかない、万桜という「特異点」の存在が、無意識に彼女の琴線に触れ始めた、ごく微かな兆候なのかもしれない。
やがて、講義内容の共有を終え、茅野舞桜が、立ち上がって席を離れる。
その背後から、不意に声が飛んできた。
「魔王、おまえビアンカ捨てるサイコパス?」
講義の共有を後ろの席で聴いていた福元莉那は、茅野舞桜が離席した機会で言葉を投げた。
彼女は、頭につば広帽子を被り、赤のチェックシャツをまとい、その上にはデニムのベスト、下にはホットパンツと革製ブーツという、どこか牧童を思わせる軽快な装いだった。一仕事終えたと見え、額にはうっすらと汗が滲んでいるが、その顔には達成感と、いつもの屈託のない笑顔が満ち溢れていた。
「サブリナ? てか、ビアンカ一筋だよ俺は?」
万桜は、背後の声に淡々と答える。福元莉那は、小学生からの腐れ縁、少なくてもビアンカ枠じゃない。
その時、アイスティーのトレーを手に、茅野舞桜が席へと戻ってきた。彼女の足取りは常に整然としており、その存在自体がカフェテリアの喧騒の中に、一筋の冷静な光を灯すようだった。
席に着こうとした瞬間、彼女の視線は、万桜の隣に座る莉那の全身を捉えた。
(……随分と、主張の強い服装ね。しかも、この場にはあまりにも不適切。カフェテリアという公共の場での服装としては、TPOを完全に逸脱しているわ。周囲の男子学生の視線が集まっているのも当然ね。その視線の種類も、知的興味というよりは、むしろ……。くっ、動揺するな、茅野舞桜! しかし、なぜこの女性は、これほどまでに自身の身体的魅力を前面に押し出す必要が? まさか、客寄せと…? いや、そんな馬鹿な…いや、ありえるわね……)
舞桜の、普段は揺るがぬ冷静さを湛えた瞳が、莉那の姿を捉えた瞬間、わずかに見開かれた。その視線は、瞬時に彼女の全身を舐めるように駆け巡り、脳裏で高速に分析されていく。つば広帽子の縁から覗く、わずかに汗ばんだ額。大胆に開かれた赤のチェックシャツの隙間から惜しげもなく覗く、弾むようなデコルテ。その上を飾るデニムのベストは、鍛え抜かれた身体のラインを強調し、視線を自然と、引き締まった腰へと誘う。そして、見る者の目を釘付けにするのは、健康的でありながら、限りなく挑発的なホットパンツの下で惜しげもなく露わになった、瑞々しい太腿。そこからスラリと伸びるウェスタンブーツが、全体の印象をさらに際立たせていた。
農作業を終えたという彼女の肌は、土の汚れなどまるで無縁であるかのように滑らかで、むしろその軽快な装いは、計算し尽くされたファッション性すら感じさせた。しかし、この大学のカフェテリアという場において、その姿はあまりにも異質であり、舞桜の持つ「TPO」という厳格な概念を、根底から揺るがしかねないほどに刺激的だった。周囲の男子学生たちの熱い視線が、その異質性を雄弁に物語っている。
彼女の脳内では、「この服装がこの場に与える影響」「周囲の反応の予測」「個性の主張と常識の乖離」といった項目が高速で処理されていく。結論は一つ。「不適切」。
舞桜は、アイスティーをテーブルに置き、無言で席に着いた。彼女の表情は読み取れないが、莉那に向けられた、わずかに引き締められた口元が、その判断を示しているかのようだった。
そんな舞桜の視線に気づいたかのように、莉那は、パッと明るい笑顔を舞桜に向けた。
「初めましてフローラさん。あたしは福元莉那。ここで農業ヘルパーをしています。この格好してる理由は客寄せです」
莉那は、全く臆することなく、流れるような口調で自己紹介を始めた。その言葉に、舞桜はわずかに目を見開く。自身が「フローラ」と呼ばれたこと、そして、その服装の理由をここまでストレートに告げられたことに、驚きを隠せないようだった。
確かに、露出の多い莉那の軽快な装いに釣られて、カフェテリアの男子学生の数は、普段よりも明らかに多い。そう、このカフェでのランチ無料が、莉那の報酬なのだ。
「ボッチ、尻軽娘みたいな…」
万桜の口から出た辛辣な言葉を契機に、万桜は「……」と無言の悲鳴を上げた。脛を莉那に蹴られた激痛が襲ッたのだ。
「あたしは拓矢一筋だ。おまえと一緒にすんなサイコパス」
莉那の「客寄せ」という目的を再確認させ、舞桜の表情筋をさらにわずかに強張らせたが、その次に飛び出した「拓矢一筋」という一言に、舞桜はなぜかホッとしている自分を見つけていた。
(なぜ、私はこの「拓矢一筋」という言葉に安堵を覚えている? 黒木万桜の隣にいる、この奔放で自己主張の強い女性に対し、私はこれほどまでに動揺しているというのか? 私の合理性が、完全に機能不全に陥っている……!)
「失礼。私は茅野舞桜。黒木とは…」
舞桜が自己紹介を続けようとしたその時、
「講義の共有――いいなぁ、いいなぁ、あたしも聴きたいなぁ?」
莉那がまさかのおねだりを始めた瞬間、それまで知的な会話で満たされていた空間の空気が、一変した。彼女は瞳を大きく見開き、その中に宿る無邪気な輝きは、まるで子供のように純粋でありながら、抗いがたい魔力を含んでいた。
「講義の共有――いいなぁ、いいなぁ、あたしも聴きたいなぁ?」
その声は、甘やかに、そしてどこか小悪魔的に響き、続けて紡がれる「いいなぁ、いいなぁ、いいなぁ」という繰り返しの言葉は、まるで蠱惑的な呪文のようだった。そのおねだりの標的は、いつの間にか、カフェの店長に向けられていた。
莉那の、ほとばしるような生命力と、計算めいた無邪気さが織りなす魅力は、店長を抵抗する間もなく絡め取り、彼の顔には瞬く間に、諦めと陶酔が入り混じったような表情が浮かび上がる。まるで、逆らうことなど最初から不可能であったかのように、彼は莉那の放つ奔放なオーラに、あっという間に陥落したようだった。
「ねえ、ここのランチ持つからさ、あたしにも聴かせてよ? 魔王、いいよな?」
万桜への扱いはぞんざいだった。彼が「サイコパス」だから、とでも言うように。
そんな莉那の言葉を聞きながら、万桜は「あ、そうだ!」と、何かを思い出したようにポンと手を打った。彼はリュックの中から小さな化粧箱を取り出し、席に着いたばかりの舞桜の前に差し出した。
「ボッチ、これ。この前の講義、潰しちまった詫びだ。ほれ」
舞桜は訝しげに箱を見つめた。まさか、この場で? しかも莉那の前で? 彼女は眉をひそめながらも箱を受け取ると、中を確認した。
箱の中には、上品に輝く、サテンとパールの虫除けチョーカーが収まっていた。しっとりとした光沢を放つサテンをベースに、一粒のパールが控えめに輝く、エレガントなデザインだ。虫除けの香油は、パールの裏に隠したウッドビーズや圧縮繊維に染み込ませるのだろう。
「…虫除け、ですって?」
舞桜の言葉には、驚きと困惑が混じっていた。万桜が選んだ品の良さと、彼の意図とのギャップに、理解が追いつかない。
(この黒木万桜という男は、常に私の想像の斜め上を行く……まさか詫びの品が虫除けとは。だが、このデザインの洗練され具合は、彼の持つ美的感覚なのか、それとも単なる偶然か? いや、待て……虫除け? この状況で虫除けを贈る意図は……)
「あぁ、実質タダみてーな物だから、遠慮無く使ってやってくれ。全部、俺のお手製だから」
万桜は得意げに胸を張った。あくまで実用品としての機能性に基づいていることを示していた。しかし、舞桜の頭の中では、その言葉が別の意味へと変換されていく。
(虫除け? まさか、男除け? つまり、私を他の男から遠ざけ『おまえは俺のものだ』ってこと? そのために、これほどまでに洗練されたデザインを選んだと? 私の知性を試しているのか、それともこれは……黒木万桜からの、深い、独占的な好意の表明……!? しかし、「実質タダみてーな物」とは、どういうことだ? 彼の言葉の端々から、私への独占欲と、そしてその奥に潜む、私を惑わせる意図を感じる……! ああもう、理性と感情がぐちゃぐちゃだわ!!)
彼女の脳内では、万桜の能天気な説明が、彼からの深い、独占的な好意の表明として盛大に誤解釈されていく。普段の冷静さが嘘のように、舞桜の頬に微かな朱が差した。
「おい、これゼッテー勘違いしてんぜ?」
莉那が呆れたように囁くが、
「なんだとう? ちゃんとに取説付けてんぞ?」
「ちっげえよバカ魔王!」
万桜の脛を再び蹴り上げる。声無き悲鳴が「……」と万桜から上がり、舞桜の表情の変化は乙女のそれだ。
「おまえの分は作ってやんねぇッ!」
「要るかサイコパス! でも作り方は教えてください。お願いします」
莉那も虫除けは欲しいらしい。
ビアンカもいいけどフローラ選ぶと自責の念で潰されます。