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19/82

ボッチの魔王と薄い本

前書き

 舞桜の「万桜の顔を胸に抱いた事件」を巡り、ファミレスは騒然としていた。莉那から「デキ婚」を巡る厳しい説教を受ける舞桜と勇希。しかし、その怒りの裏には、莉那の母親芳恵の奔放な人生と、彼女が語る「個性が死ぬ」という結婚観が隠されていた。そして、莉那の父親の正体が明かされ、それぞれの親子関係の複雑さが浮き彫りになる。

 一方、万桜たちの壮大な計画である祭りには、最大の危機が迫っていた。トイレ問題という、最も基本的で、しかし致命的な見落とし。万桜は、この難問を解決するため、防衛大学校の学生たちを巻き込み、革新的な「エコトイレ」の発明へと向かう。

 そして祭りの当日。神道と仏教の枠を超えた即興の神仏習合の儀が執り行われる。万桜、勇希、番長、そして舞桜たち若者が中心となり、茅野淳二や澄夫といった大人たち、さらには信源郷町の住民たちをも巻き込んでいく。その儀式は、和太鼓の音と、若者たちのヒップホップ、そして子供たちの伝統的な踊りが融合し、奇跡的な一体感を生み出していく。

 この物語は、個人の感情や家族の秘密、そしてテクノロジーと伝統が複雑に絡み合い、それぞれの想いが奇跡的な祭りの光景へと集約されていく様を描く。


原作者が二次創作って…

 2018年7月、信源郷町(シンゲンキョウマチ)のファミレス。

 夕闇が忍び寄り、午後7時を少し回った頃。冷房の効いた店内は、外の蒸し暑さを忘れさせるほどキンと冷え込んでいる。しかし、その涼しさとは裏腹に、奥のテーブル席からは、尋常ではない熱気が発散されていた。

 呼び出しを受け、店内へと駆け込んできた勇希(ユウキ)は、一歩足を踏み入れた途端、その異様な空気に全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。視線の先にいたのは、テーブルに突っ伏し、「うぅ~。もう許してくださいぃ~」と、今にも消え入りそうな声で呻く舞桜(マオ)だった。彼女の肩は小刻みに震え、テーブルには、もはや雪崩のように山と積まれたティッシュの残骸が散乱している。莉那(リナ)から、件の「万桜(マオ)の顔を胸に抱いた事件」について、文字通り魂を削り取られるかのようなこんこんとした説教を受けていたのは、一目瞭然だった。舞桜(マオ)の顔は、羞恥と罪悪感、そして疲労で真っ赤に染まっている。

「黙れパフパフ娘」

 莉那(リナ)の声は、ファミレスの喧騒を一瞬で凍てつかせるほど絶対零度に近く、そして獲物を追い詰める捕食者のように冷徹だった。ウェイトレスが慌てて運んできたばかりのアイスコーヒーのグラスさえ、その冷気にブルリと震え上がっているかのようだ。確かに、舞桜(マオ)の胸に万桜(マオ)が顔を埋めていた状況を想像すれば、その構図は「パフパフ」以外の何物でもなかった。莉那(リナ)は、鋭く腕組みをして舞桜(マオ)を見下ろし、その双眸からは、一切の容赦を許さない氷のような光が放たれていた。

「あぁ~、サブリナ。あたしが言う筋じゃないが、茅野(チノ)舞桜(マオ)も反省しているようだし~」

 勇希(ユウキ)は、なんとかこの地獄絵図を鎮めようと、ぎこちなく声を振り絞り、そっと空いている席に腰を下ろした。普段の冷静沈着な彼女からは想像もつかないほど、その声にはかすかな動揺と、場の空気を和らげようとする必死さが滲んでいる。だが、莉那(リナ)の容赦ない言葉の刃は、間髪入れずに勇希(ユウキ)へと突きつけられた。

「黙れ無防備(ノーブラ)卵丼(ンドン)娘」

 莉那(リナ)は、一切の躊躇もなく、その研ぎ澄まされた言葉の(ツブテ)勇希(ユウキ)を寸断した。勇希(ユウキ)の顔が、真夏の夕焼け空が一瞬で鉛色に変わるかのように凍りつく。そのあまりにも唐突で、しかし的を射すぎた痛撃に、勇希(ユウキ)は反論の言葉を喉の奥に押し込められ、ただ茫然と固まるしかなかった。その容赦ない言葉の理由を、莉那(リナ)はさらに、まるで尋問官のように冷徹な声で突きつける。

「あたしんチが、母子家庭だって話したよね?」

 莉那(リナ)の声は、先ほどよりもさらに深く、底なし沼のように冷たく響き渡った。テーブルの上のカトラリーやグラスが、その凄まじい冷気にカチカチと音を立てるかのようだ。その言葉の持つ意味、そしてそれが何を暗示しているのかを完全に理解した瞬間、舞桜(マオ)勇希(ユウキ)の顔から、まるで生きた血が抜かれたかのように真っ白になった。

「「さーせんッ! 軽率っしたぁ~ッ!」」

 二人は、ほとんど条件反射のように、しかし心底から震え上がるような声で、完璧なまでにユニゾンを組んで、土下座にも等しい深さで頭を下げ、心からの謝意を表明した。その声には、魂の底からの恐怖と、取り返しのつかない過ちを犯したことへの後悔が、ありありと刻まれていた。

「デキ婚なんて、神話の昔から成立しねぇ~んだよッ!」

 莉那(リナ)は、ピシャリと一喝に叱りつけた。その言葉は、ファミレスの喧騒を完全に沈黙させ、周囲の客さえも一瞬、時間が止まったかのように固まらせるほどの凄まじい気迫を帯びていた。莉那(リナ)の怒りのオーラが、テーブルを挟んだ二人の「パフパフ娘」と「卵丼(ランドン)娘」を、文字通り、熱帯夜の茹だるような暑さの中でも、ガタガタと全身を震え上がらせていたのだった。

 莉那(リナ)は、テーブルの上の水滴一つ見逃さないかのように、鋭い視線を滑らせながら、呟いた。

「勿論、フォローのあるなし、経済力、タフネス、個人差はある。ただひとつ確かなのは、どちらかの個性が死ぬ」

 その言葉は、まるで己に言い聞かせるかのように静かだったが、込められた重みは、舞桜(マオ)勇希(ユウキ)の心を深く抉った。莉那(リナ)のテーブルの端には、無造作に置かれた一冊の原稿らしき束が目に入った。その表紙には何も書かれていないが、使い込まれた様子が、それが彼女にとってただならぬものであることを示唆している。そして、さらに彼女の口から漏れた言葉は、場の空気を凍らせる。

「うちのお母さんって、前は明るい人だったんだって~」

 莉那(リナ)の声は、もはや絶対零度を遥かに下回るコキュートス、地獄の最下層を流れる氷の河のように冷え切っていた。その声に湿り気が帯び、まるで遠い過去の情景を映し出すかのように、微かに震える。

「今じゃあれよ! あれ!」

 莉那(リナ)の魂の叫びが、ファミレスの壁に吸い込まれるように木霊する。彼女は、血走った目でテーブルの奥へと指を差した。その先には、少し離れた席で、四十代くらいの女性がテーブルに広げられた原稿と格闘しながら、不気味に「腐腐腐…腐腐腐…」と笑っている。垣間見える原稿は、薄い本のネームのようだ。

「「いや、デキ婚関係なくね? アレが原因で旦那逃げたんじゃね?」」

 舞桜(マオ)勇希(ユウキ)の顔には、恐怖とは別の、奇妙な納得と呆れの表情が浮かんでいた。二人の声は、先ほどの震えが嘘のように、完璧なユニゾンで放たれた。莉那(リナ)の母親、芳恵のただならぬ雰囲気と、その放つ言葉の強烈なインパクトに、二人の理性は、莉那(リナ)の過去の原因を瞬時に分析していたのだ。その痛いほど的確な指摘に、莉那(リナ)は、ぐっと言葉を詰まらせた。

「う、否めない…」

 莉那(リナ)の顔に、一瞬だけ、微かな敗北の色が浮かんだ。

 不気味に笑っていた初老の女性、福元芳恵が、書きかけの原稿から顔を上げ、ゆったりと腰を上げた。その顔には、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。莉那(リナ)の母親である芳恵は、まるで舞台役者のように、ゆったりとした足取りで三人の席へと移動してきた。

勇希(ユウキ)。久しぶり~。あらまぁ綺麗になっちゃって東京マジック?」

 芳恵の声は、先ほどの笑い声とは打って変わって、朗らかで人懐っこい響きがあった。しかし、その瞳の奥には、何かを深く見通すような、底知れない光が宿っている。芳恵は三人の顔を順に見回すと、遠い目をして、まるで遠い過去を語るかのように口を開いた。

「個性が死ぬって、それは本当だよ…急につまらない人になっちゃうんだ。そこからはすれ違いの連続…見てるの辛くなっちゃう…そんなの嫌だろ?」

 趣味に薄い本を執筆していても、やはり彼女は母親なのだ。その言葉には、人生の深淵を覗き込んだような重みと、娘への、そして目の前の若い世代への警告が込められているようだった。

「どっちも無理して空回ってさ…まあ込み入った話はウチ行ってからにしようか? てか玲子も呼ぼうぜぇ」

 その口調は莉那(リナ)のそれだ。母娘だと沁み沁み思う。芳恵は子供を諭すかのように、テーブルに置かれた伝票をひったくった。そして、三人の若者たちを促すように、ファミレスの出口へと歩き出す。もっとも、引率される側は、今年で19になる青年たちだ。莉那(リナ)舞桜(マオ)勇希(ユウキ)は、互いに顔を見合わせた後、諦めたように、しかしどこか引き寄せられるかのように、芳恵の後を追った。


 福元邸。

 邸宅と呼ぶに相応しい佇まいの家屋は、庭もあれば門もある。邸宅を囲むのは五加(ウコギ)の生垣だ。

(母子家庭? とは?)

 舞桜(マオ)の脳裏にそんな言葉がよぎる。

「相変わらず、サブリナんチはデカいなぁ~」

 勇希(ユウキ)の言葉に、

(お祖父さまが資産家なのね)

 舞桜(マオ)は、そう結論づける。

 門をくぐり、手入れの行き届いた庭を進むと、母屋の玄関から、芳恵が朗らかな笑顔で舞桜(マオ)たちを迎え入れた。その顔には、先ほどのファミレスでの「薄い本」モードは微塵もない。

「さあさあ、中へどうぞ~。玲子ももうすぐ来るからね」

 芳恵の声に促され、三人は玄関を上がる。磨き上げられた廊下は広く、奥には日本庭園が広がっているのが見える。

「うわぁ、やっぱ広いなぁ~。サブリナんチ、いつ来ても落ち着くわぁ」

 勇希(ユウキ)は感心したように呟き、慣れた様子でスリッパに足を通した。

 一方、舞桜(マオ)は、普段の冷静さをわずかに失い、きょろきょろと周囲を見回している。彼女の知る「母子家庭」のイメージとはかけ離れた光景が、目の前に広がっていたからだ。

(この規模で母子家庭とは、どういうこと?)

 舞桜(マオ)の頭の中では、すでにいくつもの仮説が高速で構築され始めていた。

舞桜(マオ)~。そっちじゃないわよ、リビングはこっち!」

 莉那(リナ)の声に我に返り、舞桜(マオ)は慌てて彼女の後を追った。

 リビングに通されると、そこには既に麦茶と和菓子が用意されていた。広々とした空間には、年代物の家具がゆったりと配置され、窓からは豊かな緑が望める。

「お待たせ~!」

 その時、玄関の方から明るい声が聞こえ、白井玲子が入ってきた。玲子は、勇希(ユウキ)の母親とは思えないほど若々しく、快活な笑顔を浮かべている。

 玲子は優しく微笑み、舞桜(マオ)に視線を向けた。

茅野(チノ)舞桜(マオ)です。先日もご挨拶しましたが、わたしは黒木に好意を寄せています」

 舞桜(マオ)は、隠すことなく宣言する。玲子はそんな舞桜(マオ)の様子に、何かを感じ取ったように目を細めた。

「さてと、改めて…玲子も来たことだし、ちょっと真面目な話をしようか」

 芳恵が切り出した。芳恵は、テーブルに置かれた麦茶を一口啜ると、玲子と莉那(リナ)、そして舞桜(マオ)勇希(ユウキ)に視線を向けた。その目には、いつもの悪戯っぽい光はなく、真剣な色が宿っていた。

 芳恵は、薄い本の原稿と、その原作本をテーブルに並べ、

「この本の原作者が莉那(リナ)の父親よ。オバさんは、その才能に惹かれて関係をもちました。それで結婚して、現実に幻滅して、距離を置きました」

 莉那(リナ)は、キョトンとして、

「うぇぇ~? あ、あたしの父ちゃん漫画家だったの? しかもアニメとかになってるヤツじゃん?」

 驚愕する。

「うん。だから黙ってた。ちなみに養育費は、お母さんのネームの元に執筆される薄い本の原稿です」

 芳恵は続け、

「「え、えげつない…」」

 舞桜(マオ)勇希(ユウキ)は絶句する。その少年漫画はいわゆる秀逸なタッチで描かれる冒険活劇だ。それを作者本人が原作を歪めて執筆する。なんて残酷な刑罰か? そして、邸宅の謎が解明する。

「さっきも言ったけど、結婚して夢を捨てて、ふたりして空回ってさぁ…なんか見てらんなくてさぁ…お母さんから、バイバイしたんだ。『追いかけてぇもんは、キッチリ追ってこい! あたしが好きだったのは今のあんたじゃない!』ってね」

 ここで玲子、

「その後で、顔溶けるんじゃないかってくらい泣いてたけどね~」

 からかうように事実を暴露。

「そっからデビューが決まって、ヨリ戻そうかって流れになったけど、芳恵ちゃんが断固拒否しちゃったのよ…尖った作風が家庭の空気で丸くなるって」

 ここで芳恵が言葉を引き取る。

「そんで落ち着いたのがこれ」

 薄い本を指さし舌を出す。しかし、

「し、信じらんない。あたし…」

 莉那(リナ)が噛みつこうとするのを、

「舞浜、ハム、クリスマス、誕生日」

 芳恵が「舞浜、ハム、クリスマス、誕生日」というキーワードで遮った瞬間、莉那(リナ)の顔に驚愕の色が広がった。彼女が「ハムの人」と呼んで親しんでいた存在、クリスマスや誕生日、そして年末や中元の度に、決まって届けられる上質なハム。年に2回、なぜか、ハムの人に連れて行かれる千葉県舞浜にある遊園地(テーマパーク)。それらすべてが、まさに彼女の父親によるものだったのだ。

「え、ハムの人が父ちゃんだったの? え? なんで父ちゃんだって言わないの?」

 莉那(リナ)のもっともな問い掛けに、

「一生、父親面はしないってさ…男って勝手にルール設定して自分を罰して、罪が消えたって思い込む痛い生き物なのよ…」

 芳恵は言葉を被せるように答え、

「そんで、勇希(ユウキ)舞桜(マオ)さんは…万桜(マオ)ちゃんの苦しむ姿、見たい? あの無邪気な笑顔が消えちゃうの、あたしは嫌だなぁ~」

 玲子は、諭すように問い掛けた。

 玲子の言葉は、重くのしかかった。彼の無邪気な笑顔が消えることなど、想像もしたくなかった。

「…っ!」

 舞桜(マオ)は、はっと顔を上げた。彼にどんな影響を与える可能性があるのか、改めて考えさせられたのだ。

 勇希(ユウキ)もまた、玲子の言葉に深く頷いた。

「あたしも、万桜(マオ)の笑顔がなくなるのは嫌だ。でも、好きなんだ! しょうがないじゃないか!」

 勇希(ユウキ)は叫び、俯いた。

「白井勇希…あたしは、あなたが羨ましい…黒木のそばで、黒木を支えていたあなたが…」

 舞桜(マオ)は、先日の行動の真意を口にする。

 二人の若者の感情がぶつかり合う中、玲子は静かに、しかし確信に満ちた声で提案した。

「恋って3年で醒める状態異常。勇希(ユウキ)は違う。だからさ勇希(ユウキ)。3年待ってあげなよ舞桜(マオ)さんのためにさ」

 玲子の言葉は、激しく揺れ動く勇希(ユウキ)の心に、そっと一つの選択肢を置くかのようだった。それは、単なる待機ではない。己の感情と向き合い、相手への真摯な思いを育むための時間を示唆していた。

舞桜(マオ)さんも、3年万桜(マオ)ちゃんを見てみよう? それで気持ち変わらないなら、ふたりでドロドロなとりあいをすればいい」

 玲子は、今度は舞桜(マオ)に視線を向け、微笑んだ。その言葉には、舞桜(マオ)の純粋な恋心を受け止めつつも、それが本当に揺るぎないものなのか、試練を与えるような響きがあった。3年という歳月は、感情を冷静に見つめ直し、本当の「好き」が何なのかを見極めるための猶予期間だ。そして、その先に待つ「ドロドロなとりあい」という言葉は、彼女たちの真剣な感情のぶつかり合いを容認する、ある種の許可のようでもあった。

 勇希(ユウキ)舞桜(マオ)は、互いに顔を見合わせた。玲子の提案は、突飛にも聞こえるが、その言葉の裏には、彼女たち二人の感情を尊重し、最善の道を見つけてほしいという大人の配慮が込められていることを、聡明な彼女たちは理解した。なにせ彼女らは学生だ。それは、万桜(マオ)の笑顔を守るためであり、勇希(ユウキ)舞桜(マオ)自身が、後悔のない選択をするための時間なのだ。

 情報の奔流に、莉那は困惑を吐息に捨てて母に父親への言伝を投げる。

「ハムの人に、父親面しないのはかまわない…でも、じいちゃん面はしてもらう…そう伝えておいてよ…」

 唐突な莉那(リナ)の発言に、芳恵と玲子は顔を見合わせる。このタイミングでこの発言だ。勇希(ユウキ)舞桜(マオ)莉那(リナ)を見つめる。

「え、なに? この空気?」

 莉那(リナ)は呆れかえる。誤解も甚だしい。さっきの今でどうしてそうなる?

「7年後! 7年後の話!」

 莉那(リナ)は叫ぶようにそう言った。

「7年後は25歳! 拓矢(タクヤ)もその頃には退官するって言ってたの!」

 それは、彼女の中で綿密に描かれた未来予想図だった。25歳、女性にとって適齢期とも言われる年齢。そして、拓矢(タクヤ)も自衛官を退官しているという具体的なイメージ。

 莉那(リナ)は、ただ感情のままに話しているわけではない。彼女の言葉の一つ一つには、彼女なりの筋道と、明確なビジョンがあるのだ。父親が「じいちゃん面」をすることで、自分たちが築く未来の家庭に、父親なりの形で関わってほしいという、彼女なりの精一杯の歩み寄り。それは、自らの経験から、個性を尊重しつつも、家族という関係性を模索する莉那(リナ)らしい、独特の愛情表現でもあった。


★★★★★★


 2018年7月中旬。御井神神社の本地仏である宝智院(ホウチイン)にて。

 深い山中にひっそりと佇むその寺、虚空山(コクウザン)宝智院(ホウチイン)の境内は、祭りの準備で慌ただしいながらも、どこか張り詰めた空気が漂っていた。御井神神社の本地仏である虚空蔵菩薩を信仰するこの寺が、まさか番長(バンチョー)の縁戚、山縣(ヤマガタ)政義(マサヨシ)の実家だったとは、万桜(マオ)たちも知る由もなかった。政義(マサヨシ)万桜(マオ)たちのふたつ上の先輩で、高校生の頃には一緒にバンドごっこをして文化祭を盛り上げた、気心の知れた間柄だ。

「てか、山縣(ヤマガタ)先輩(パイセン)の実家だったのかよ?」

 万桜(マオ)が呟くと、

「あぁ、黒幕(フィクサー)。知らなかったのか?」

 番長(バンチョー)は淡々と答える。

 その視線の先には、作務衣姿で指示を出している山縣(ヤマガタ)政義(マサヨシ)の姿があった。

「なんか黒木がやってんなーって思ったら、そんなこと企んでたんかー」

 政義(マサヨシ)は、こちらに気づくと、呆れたような、しかしどこか楽しそうな表情で近づいてきた。そして、祭りの準備に駆り出されている防衛大学校の幹部自衛官候補生たち、特に拓矢(タクヤ)たちに憐れみの視線を送った。彼らが、万桜(マオ)の突飛なアイデアに巻き込まれていることを察したのだろう。

先輩(パイセン)、お久しぶりです」

 万桜(マオ)が会釈すると、政義(マサヨシ)は腕を組み、真剣な表情になった。

「黒木、おまえ、ひとつ見落としてるよ」

 政義(マサヨシ)の言葉に、万桜(マオ)は首を傾げる。ここに資材を持ち込み、祭をするのはいい。しかし、何か致命的な見落としがあるという。

「見落とし、ですか?」

 万桜(マオ)が問い返すと、政義(マサヨシ)はゆっくりと周囲を見回した。

「ああ。これだけの規模で人を集めるなら、一番大事なものを見落としてる」

 その言葉に、番長(バンチョー)が訝しげに口を挟んだ。

「一番大事なものって、なんスかマサさん。食いもんか?」

 政義(マサヨシ)は、にやりと笑った。

「違う。もっと根本的なことだ。おまえら、この山で、トイレの水をどうするつもりだ?」

 政義(マサヨシ)の言葉に、万桜(マオ)番長(バンチョー)、勇希の顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼らは、祭りの華やかさや儀式の準備にばかり気を取られ、最も基本的で、しかし最も重要な「水」の問題を、完全に失念していたのだ。

「水…ですか」

 万桜(マオ)が呆然と呟く。この山奥で、これだけの人数が使うトイレの水を、どうやって確保し、どうやって処理するのか。彼らの顔に、焦りの色が浮かび始めた。

「そう。この宝智院には、昔ながらの汲み取り式しかない。しかも、この人数じゃ、すぐにパンクするだろうな。おまけに、この急な山道で、バキュームカーなんかこれないから、手で汲み出して処理してんだよ…」

 政義(マサヨシ)の言葉は、彼らが直面する現実を突きつけた。祭りの熱気が高まる中、彼らの頭の中には、突如として「トイレ問題」という巨大な壁が立ちはだかったのだった。

「山にトイレがないなら、作ればいいじゃない?」

 ここで万桜(マオ)、まさかの魔王アントワネット。そのあまりにも突飛な発言に、女子たちは、そっと距離を置く。が、自衛官である防衛大学校の学生たちや、その取り纏めである倉田琴葉(コトハ)は別だった。彼らは、非常事態における問題解決の重要性を理解しており、万桜(マオ)の言葉に真剣な眼差しを向けた。

「作ると言っても、黒木くん。具体的にどうするんだ?」

 琴葉(コトハ)が冷静に問いかける。彼女の視線は、万桜(マオ)の突飛な発言の裏にある、実現可能性を探っていた。

「そうだな…」

 万桜(マオ)は顎に手を当て、考え込む。その表情は、すでに次の段階へと進んでいた。

「まず、水洗トイレにしたい。洋式で、清潔感は必須だ。そのためには、大量の水をどう確保するか…」

 万桜(マオ)の言葉に、拓矢(タクヤ)が口を開いた。

「水なら、この山の豊富な雨水を利用するのはどうでしょうか? 大型貯水槽を設置すれば、かなりの量を確保できるはずです」

「なるほど、雨水か。それなら、水道に頼らずに済むな」

 万桜(マオ)は頷く。

「問題は、その後の汚水処理だ。この山から麓まで、どうやって運ぶ?」

 琴葉(コトハ)が核心を突く。

「麓に汲み取り式の汚水槽を設けて、そこにパイプで流すのはどうだろう?」

 万桜(マオ)が提案すると、防衛大学校の学生の一人が、腕を組んで考え込んだ。

「山の中腹から麓までパイプで流すとなると、勾配が問題になりますね。途中で詰まる可能性も…」

「それなら勾配を45度にする。掘ればいいじゃない? あとは二段階排水だ。まず少量の水で排泄物をパイプに乗せて滑らせ、その後に強い水流で後ろから押し出す。これなら詰まりにくいだろう?」

 万桜(マオ)は、まるで閃いたかのように言い放つ。その発想の転換に、周囲の学生たちがざわめき始めた。

「さらに、パイプを通過中におがくずを吸着させ、滑落中に自然に撹拌されるようにする。そうすれば、麓の汚水槽に到達した時には、ある程度混ざり合った状態で、臭気も抑えられるはずだ」

 万桜(マオ)の言葉に、琴葉(コトハ)の目が輝いた。

「おがくずを混ぜる…それは、コンポストの原理を応用するということか黒木くん? しかし、汚水槽に溜まった排泄物の水分をどうする? 汲み取り頻度を減らしたいなら、乾燥させる必要があります」

「それも考えている。麓の汚水槽の蓋に、ソーラークッカーの原理を応用する。太陽光の熱を伝える棒状の電熱体を複数取り付け、太陽光発電で蓋をゆっくり回転させるんだ。そうすれば、水分が蒸発し、容量が減るはずだ」

 万桜(マオ)の言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。それは、単なるトイレの改善に留まらない、環境と利便性を両立させた革新的なシステムだった。

「…黒木くん。それは、まさにエコトイレじゃないですか!」

 琴葉(コトハ)が感嘆の声を漏らす。その表情には、驚きと、そして尊敬の念が入り混じっていた。

「ああ。燃料駆動に切り替えれば、建築現場のトイレ事情も改善できるんじゃねえか? さらに、災害時にも、インフラが寸断された場所で、衛生的で自立したトイレを提供できねえかな?」

 万桜(マオ)は、自信に満ちた表情で語る。彼の頭の中には、すでに完成されたエコトイレのビジョンが描かれているようだった。

 政義(マサヨシ)は、万桜(マオ)の言葉に深く頷いた。

「黒木。おまえは、本当に面白いことを考えるな。ま、天災に巻き込まれる方は大変だろうが…」

 政義(マサヨシ)は苦笑いを浮かべながらも、その目には、万桜(マオ)への期待と、この計画への興味が宿っていた。防衛大学校の学生たちも、自分たちが関わる合宿の裏で、これほど画期的な発明が生まれることに、興奮を隠せない様子だった。

 女子たちが距離を置く中、万桜(マオ)琴葉(コトハ)、そして防衛大学校の学生たちの間では、山奥のトイレ問題を解決するための、熱い議論が交わされていく。それは、単なるトイレの設計図ではなく、未来の衛生環境を変える可能性を秘めた、壮大なプロジェクトの始まりだった。


万桜(マオ)ぉー。終わったー? 乙女が戻っても平気ー?」

 莉那な言葉に、琴葉(コトハ)は苛立ち、

「あー、サブリナくん。わたしらも乙女なんだが? 斧乃木(オノノギ)、横須賀でイイ店を知っている。今度、行ってみないか?」

 からかうように牽制する。

「あ、あ、あげないよ!」

 あわわと狼狽える莉那(リナ)を、

「いや、先輩と違って、自分、未成年なんで」

 拓矢(タクヤ)はやんわり断り、莉那(リナ)を宥めた。


★★★★★★


 2018年8月中旬。宝智院(ホウチイン)にて。

 深い山中にひっそりと佇むその寺は、宝智院(ホウチイン)と名付けられていた。けれども、寺の名前を正しく覚えている人間は、もうほとんどいない。人々は、そこを「墓」のための場所だと認識し、そのために訪れる。苔むした石段が、参道へと静かに誘う。周囲の木々は鬱蒼と茂り、真夏の太陽の光さえも遮断され、ひんやりとした空気が漂っている。俗世の喧騒から隔絶された静寂が、ここを訪れる者の心を、自然と落ち着かせる。

 その厳かな雰囲気の中、今、まさに異例の儀式が始まろうとしていた。それは、即興の神仏習合の儀。

 境内の中心に据えられた祭壇には、神道の神具と仏教の仏具が並べられている。普段ならば決して交わることのない二つの信仰の象徴が、今、一つ所に集められていた。周囲を取り囲むように、信源郷町(シンゲンキョウマチ)の人々と、防衛大学校の幹部自衛官候補生たちが、静かに見守っている。彼らの顔には、この儀式に対する期待と、少なからぬ戸惑いが入り混じっていた。

 祭壇の前に立つのは、白装束に身を包んだ万桜(マオ)だ。彼の体躯は、鍛え抜かれた細身ながらも、そこに宿る強靭な力を感じさせる。彼の視線の先、山の麓から流れてくる「水嚢の川」の上を、一艘の木製の舟がゆっくりと曳航されてくる。舟を曳くのは、ロープウェイの応用で設置されたワイヤーだ。その舟には、二人の若者が乗っていた。

 一人は、祝詞を唱える役の番長(バンチョー)だ。彼は、プロレスラーを思わせる堂々たる体格で、リーゼントの髪型が特徴的だ。学生服の上に白い羽織をまとい、厳かな表情で玉串を手にしている。その立ち姿は、普段のやんちゃな印象とは一変し、神事へと臨む真剣な空気を纏っていた。

 そして、その番長(バンチョー)の隣に立つのは、御井神さま役の勇希(ユウキ)。彼女が身につけているのは、万桜(マオ)が夢に見た御井神(ミイノカミ)さまの衣装を、なんとなく再現したものだった。万桜(マオ)は夢の記憶を覚えていないため、その再現度は彼の記憶の曖昧さを反映している。巫女装束をベースに、要所に施された金糸の刺繍が涼やかな白衣に映え、髪には瑞々しい飾りが揺れている。すらりとした長身が際立つ知的(クール)美女(ビューティー)の彼女がまとう衣装は、完璧な再現ではないものの、その立ち姿は堂々としており、神々しい御井神さまの雰囲気を醸し出していた。

 番長(バンチョー)が深く一礼し、清らかな声で祝詞を奏上し始めた。彼の声は、澄んだ鈴の音のように山間に響き渡り、風に乗って木々の葉を揺らす。それは、古来よりこの地に宿る神々への敬意と、人々への安寧を願う、素朴で力強い祈りだった。即興の場にあっても、彼の心からの思いが込められているためか、聴く者の魂に直接語りかけるような響きを持っていた。

 その番長(バンチョー)の祝詞に応えるかのように、突如として読経が轟いた。荘厳なメロディが、宝智院(ホウチイン)の静寂を破り、周囲の木々に反響する。真夏の日差しが降り注ぐ中にもかかわらず、その読経の響きは、肌を刺すような冷気を漂わせた。

 万桜(マオ)の隣に、いつの間にか一人の女性が立っていた。彼女は、ゆったりとした白い袈裟を身につけている。その顔は、厳かで、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべていた。それは、紛れもない舞桜(マオ)だった。

「えぇ~やろ? 西遊記の三蔵法師のコスプレや? ウチのコスプレクオリティ高いやろ?」

 茅野淳二が、まるで自分の手柄であるかのように胸を張り、ドヤ顔で周囲に問いかけた。彼の赤い紳士服が、この真面目な儀式の中で、一層の滑稽さを醸し出している。隣の澄夫は、腕を組みながらにやけ、泰造は苦笑いを浮かべていた。

 山頂から響く読経と、水嚢の川を上りゆく祝詞の声が、奇妙な、しかし力強いハーモニーを奏で始める。神と仏、そしてそれらを繋ぐ若者たちの存在が、この宝智院(ホウチイン)の山中に、新たな物語の息吹を吹き込んでいくのだった。

 祝詞を唱え終えた番長(バンチョー)が舟から降り立ち、祭壇へと進み出た。同時に、水嚢の川を曳航されてきた勇希(ユウキ)も舟から降り、万桜(マオ)舞桜(マオ)の間に立つ。

 そして、番長(バンチョー)の祝詞と山中から響く僧侶たちの読経が、まるで示し合わせたかのように同時に集束するやいなや、突如として和太鼓がドンと響き渡った! その一打を合図に、境内全体に祭囃子(まつりばやし)が鳴り響く。

 静謐だった空気が一変し、賑やかな祝祭のムードに包まれる。そして、その囃子に呼応するかのように、どこからともなく息の合った地響きが起こった。それは、信源郷町(シンゲンキョウマチ)中のジジババたちが繰り出すヒップホップだった! 腰を低く落とし、手足を小刻みに動かすそのダンスは、老齢とは思えないほどのキレと情熱に満ちていた。その独特なリズムに乗り、さらに子供たちの伝統的な踊りが、荘厳な空気を一層賑やかす。

 囃子を立てているのは、もちろん年寄りたちだ。彼らの表情には、祭りの楽しさと、この異例の儀式に対する興奮が入り混じっていた。そして、和太鼓で力強くリズムを刻むのは、莉那(リナ)拓矢(タクヤ)だ。莉那(リナ)の打つ太鼓は、軽やかでありながら芯が通り、拓矢(タクヤ)のそれは、大地を揺るがすような重厚さで響く。

 神仏習合の即興の儀は、予想だにしなかった形で、信源郷町(シンゲンキョウマチ)の、そして訪れた人々の心を一つに結びつけていく。山の寺の境内に、老若男女、神仏の垣根を超えた、奇跡のようなハーモニーが満ちていった。


えげつない。個性じゃなくて心が死ぬと思います。

『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みの地球の皆様へ!

いつも拙作『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をお読みいただき、本当にありがとうございます!

物語の中で、「魔王」こと黒木万桜は、時には「水嚢の川」で災害に立ち向かい、時には中古スマホを活用したクローズドネットワークなんて突拍子もないアイデアまで生み出しています。

実は、この物語には、万桜のそんな「もしかしたら、これって本当に役立つかも?」と思えるような、たくさんのアイデアが散りばめられているんです。読者の皆さんも、「これ、面白い!」「こんな風に使えるんじゃないか?」なんて、閃いたことはありませんか?

地球のみんなぁ~! オラに「★」をわけてくれーっ!

もし、この物語を読んで、少しでも「面白い!」「次の展開が楽しみ!」「万桜のアイデア、イケるかも!」と感じていただけたなら、どうかページ下部の【★★★★★】ボタンをポチッ!と押して、星評価を分けていただけないでしょうか!

皆さんのその「★」一つ一つが、作者の大きな励みになり、万桜の次の「魔王案件」へと繋がるエネルギーになります!

引き続き、『鋼鉄のポジティブ ~未来の世界のネコ型ロボットを迎えに行こう~』をどうぞよろしくお願いいたします!

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