ボッチの魔王と黒き魔王
私、農家じゃありません。
2025年初夏。
甲府の街に、いくつかの高い建物が点在する一角。
その最上階にある茅野舞桜の自宅は、都市の喧騒から隔絶された、静謐な空間だった。磨き上げられたガラスの壁からは、夜の帳が降りたばかりの甲斐の国市の煌めきが、まるで完璧に計算された電子回路のように広がる。
ベッドの上、シーツの滑らかな感触を楽しみながら、舞桜は愛用のデバイスを指先で滑らせていた。それは、市販のどのスマートデバイスとも異なる、無駄を削ぎ落とした洗練されたデザイン。彼女自身が改良を重ねた、世界に唯一無二の通信端末だ。ディスプレイには、株価の推移を示すグラフや、AIの最新研究論文の要約が次々とスクロールしていく。彼女の瞳は、どんな情報も瞬時に解析し、最も合理的な結論を導き出す。それが、彼女の「魔王の哲学」だ。
彼女の周囲は、常に完璧な秩序に保たれている。ベッドサイドテーブルの上には書類一枚なく、置かれているのは彼女のハンドメイド通信端末と、万桜からもらった虫除け機能付きのチョーカーだけだ。チョーカーは、セクシーなネグリジェの襟元に、さりげなく、しかし確かに輝いていた。
ピコン、と、端末がわずかに震えた。
ディスプレイに表示された差出人の名前に、彼女の表情が、微かに、本当に微かに動いた。
『黒木万桜』。
彼からの通信は、いつも唐突だ。そして、常に彼女の合理的な思考を揺さぶる、予測不能な「特異点」からのメッセージだった。
彼女は迷わず、通信を開いた。
そこに表示されたのは、簡潔なテキストメッセージ。しかし、その内容は、彼女の脳内を瞬時に、そして不可逆的に書き換えた。
「おまえの力が必要だ。手を貸せボッチ」
茅野舞桜の、完璧に制御された表情筋が、わずかに引きつった。
「—誰がボッチよ、黒き魔王—」
その声は、誰もいない寝室に、わずかに震えて響いた。普段の彼女からは想像もできない、わずかな高揚が混じった、感情の吐露。彼女のクールな仮面の下で、彼女自身の「魔王の哲学」が、万桜という「特異点」からの信号を受信し、歓喜に震えていた。
彼の「気に入らない現実を全部ひっくり返す」という衝動は、彼女の「完璧な秩序」を求める欲望と、異なる形でありながらも深く共鳴する。彼が呼びかける時、彼女の人生は常に、予測不能な、しかし抗いがたい変化に巻き込まれるのだ。
万桜からのメッセージは、信源郷町で今しがた行われたであろう、害獣駆除システムに関する発表の概要を、彼の口調で綴ったものだった。
「—AIとドローンで、害獣を自動で駆除する。無殺傷でな」
彼女は端末をそっとテーブルに置いた。ディスプレイに、万桜のメッセージがまだ表示されている。
彼女のAIが、彼の言葉の裏に隠された真意を探り始める。
(彼は、単に害獣駆除をしたいわけではない。もっと根源的な「何か」を見ている。そして、それを「ひっくり返そう」としている)
彼女の合理的な思考は、万桜の突飛なアイデアの背後にある、深淵な哲学の片鱗を捉え始めていた。
セイタンシステムズの社長として、この案件は、彼女のAI技術の新たな応用先となる可能性を秘めている。そして、もう一つ。
(…万桜。また、私を巻き込むつもり、ですか)
彼女の冷たい瞳の奥に、微かな熱が宿った。
その熱は、ビジネスの合理性だけでは説明できない、彼への特別な「決定事項」が引き起こすものだった。
◆ ★ ◆ ★ ◆ ★ ◆
2018年4月。
甲斐の国大学の講義室は、いつにも増して、微かなざわめきに満ちていた。茅野舞桜は、その騒音が自身の思考を妨げることに、内心で深い不快感を覚えていた。彼女の求めるものは、常に完璧な秩序と、それに裏打ちされた合理性である。無駄な音は、彼女の精密な思考回路を歪める雑音に過ぎなかった。
「マオ~!」
突如、講義室に響き渡ったその嬌声に、茅野舞桜の、常に冷静沈着な表情に微かな動揺が走った。彼女の眉根に、ごくわずかな皺が刻まれる。自身の名前が呼ばれたことによる不快感は、もはや日常となっていた。
「あんだよ、俺、忙しいの」
すぐに、別の方向から迷惑そうな返事が聞こえた。どうやら、彼女と同じ名前の学生が他にもいるらしい。茅野舞桜は、一度息を吐き、その呼び声を意識の外に追いやろうとした。無駄な労力である。しかし、この数日、この「無駄」は彼女の精神を蝕み続けていた。
大学構内、カフェテリア、図書館、そしてあらゆる講義で、まるで呪いのようにその声が彼女を追った。
「マオ~!」
男女を問わず、家族名で呼ばれるたびに、彼女の神経は微かに、しかし確実に逆撫でされる。その原因は、他でもない黒木万桜という存在だった。ありとあらゆる講義で彼と鉢合わせするのは、もはや偶然では説明がつかない。茅野舞桜の合理的思考は、これが彼による意図的な「嫌がらせ」ではないかと結論づけ始めていた。彼女の完璧な秩序を乱す、予測不能な「特異点」。彼との出会いは、彼女の秩序だったキャンパスライフに、すでに小さな亀裂を生み出していた。
三日目。彼女のクールな仮面の下で、感情の波が静かに、しかし確実に高まっていた。彼女の理性は限界に達しつつあった。だが、彼女の完璧な秩序を重んじる性分が、感情のままに席を替えることを許さなかった。それは、彼の理不尽な行動に屈することを意味するようにも思えたからだ。
「名前を変えなさい、黒木万桜」
その声は、冷徹な響きを帯びていた。普段の彼女であれば、冷静に、かつ論理的に相手を追い詰めるはずだ。しかし、この時の彼女は、自らの不快感を隠そうともせず、高圧的な命令口調で彼に迫った。彼女の脳裏には、彼が恐縮し、平謝りする姿が容易に想像された。それが、周囲が彼女を評する「魔王の哲学」が導き出す、最も合理的な予測だった。
だが、その予測は、あっけなく、そして完全に裏切られることとなる。
「え、なにプロポーズ? でも俺、農家の長男だぜ? いいの?」
黒木万桜の返答は、彼女の予測の遥か斜め上を行く、まるで宇宙の彼方から飛来した隕石のようなものだった。彼の頭の中の思考回路は、彼女の合理性とは全く異なる次元で機能しているかのようだった。
(また、これか。こんな軽薄なアプローチを仕掛けてくる男。こういう輩には、この返しが最も効果的だと知っている)
その衝撃と、いつものパターンだと判断した茅野舞桜の手は、ほとんど無意識に動いた。パシッと、乾いた音が講義室に響き渡る。平手打ち。彼女の白い掌が、彼の頬を打った。
頬を打たれた黒木万桜は、驚くどころか、その頬を赤らめ、さらに顔を近づけてくる。
「OKわかった。君と結婚するよ? 住所は…」
「しないわよ! あんたと名前がかぶって迷惑しているって言ってるのよ!」
茅野舞桜は、彼の言葉を遮るように捲し立てた。普段の彼女からは考えられないほどの、感情的な言葉の羅列。その声は、わずかに上ずっていた。そんな彼女に、彼はどこか面白がるように、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
(え、名前がかぶって迷惑? この娘も舞桜って名前だっけ? あ、え、なにマジ? 意識しちゃってる? 名前が同じで運命感じてる? 俺も俺も!)
黒木万桜は、茅野舞桜の激しい抗議を、自分への好意の裏返しと完全に誤解していた。彼の「男子としての自己評価の低さ」と「嫁問題」への切実さが、あらゆる状況を恋愛に結びつけてしまう彼の思考回路を起動させたのだ。彼女の「迷惑している」という言葉は、彼にとって「あなたに夢中だからこそ、こんなにも感情的になってしまうのよ!」という、ツンデレ的な告白に等しかった。そして、彼の鋼鉄の好天思考が、その誤解をさらに加速させる。
(なるほど、俺に気を引かせたいのか。でも、この娘は口下手だから、あんなに感情的になって、本当の気持ちを伝えようと必死なんだな。普通なら、もっとスマートに告白するもんな。うん、やっぱり俺に惚れてるわ。よし、じゃあ、俺が可愛らしい渾名でもつけて、距離を縮めてやんよ!)
彼の脳内で、茅野舞桜はすでに「口下手で不器用な、でも俺に惚れている女子」というフィルターがかかっていた。彼女の眉間の皺も、上ずった声も、全てが「恥じらい」と「戸惑い」に映る。そして、彼の勘違いからの悪戯心が頭をもたげた。
「茅野舞桜、ぼっ茅野舞桜。うんじゃあ、ボッチな?」
「ボッチ」…。彼女の人生において、そのような不合理な渾名をつけられたことなど一度もない。茅野舞桜の顔は、みるみるうちに激昂に歪んだ。孤高を演じ、完璧な秩序を求める彼女にとって、それは自身の存在を否定されるに等しい屈辱だった。彼女の完璧なプライドが、音を立てて粉々に打ち砕かれる。再び、彼女の手が動く。二度目の平手打ち。白い掌の痺れが、彼女の感情の昂ぶりを物語っていた。しかし、黒木万桜は、その鋼鉄の好天思考とでも言うべき精神性で、彼女の怒りをまるで理解していないかのように、のうのうと続けた。
「うん。大丈夫、結婚するよ」
「しません! てか、ぼ、ボッチってなによ? どうして、あたしの講義にばっかりいるのよ? 粘着性執着気質?」
自分でも驚くほど、言葉が滑らかに、感情的に口から飛び出していた。これほど感情を露わにしたのは、彼女にとって、ほとんど記憶にない出来事だった。捲し立てる茅野を前に、彼はようやく、どこか納得したような表情を見せた。
「ああ、そっちか…」
万桜は、ふうと吐息。
(ですよねー。なんか…わかってましたー…ちぇー、まあ、いいか。こんなすぐには嫁は見つからねーよな。ここでしゅんとしてても時間の無駄だ。それより次に聴きたい講義、あっちだったな。こんな所でつっかかってたって仕方ねえ)
黒木万桜は、自身の勘違いが判明した落胆を瞬時に切り替え、無駄な時間を過ごすことを嫌う彼の合理性に従い、次の講義へと意識を向けた。
(この娘、わざわざ俺に迫ってきたり、わざわざ俺の隣に座ったり、名前で構ってアピールしてきたり…自分がこの講義を受けてるから、俺には別の講義に出て、後で内容を共有するって腹積もりなんだな。俺はこの講義の内容、教えてもらう代わりに、あっちの講義はきっちりメモ取って教えてやればいいわけか! やっぱ、できる娘は行動が違うぜ! なるほどなるほど、つまりは「相棒」ってことだな!)
わざわざ俺の隣に――勘違いだ。そこが一番ノートを取りやすいだけだ。
黒木万桜の顔に、途轍もなく合点のいったような笑みが浮かんだ。彼の瞳は、新しい計画に胸を躍らせる子供のように輝いている。
「じゃあ、俺はあっちの講義行って来るから、背中は任せたぜ相棒?」
そう言い残し、黒木万桜は、何の躊躇いもなく席を立ち、本当に別の講義へと向かっていった。残された茅野舞桜は、呆然と彼の背中を見送るしかなかった。一体何なのだ、あの男は。そして、なぜ、彼女はこんなにも感情を揺さぶられているのだろうか。この「特異点」は、彼女の完璧な秩序を、初対面から容赦なく壊しにかかっていた。彼女の人生に、予測不能な要素が、決定的に介入した瞬間だった。
★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★
講義が終わり、学生たちが一斉にざわめきながら席を立つ中、茅野舞桜は、その場から動くことができなかった。普段の彼女であれば、講義終了と同時に、次の行動へと淀みなく移行しているはずだ。しかし、この日、彼女の頭の中は、先ほどの出来事で完全に占領されていた。
「ボッチ」。
その響きが、彼女の冷静な思考を根こそぎ奪い去っていた。黒木万桜という予測不能な「特異点」が、彼女の完璧な秩序を、そしてプライドを、根底から揺さぶったのだ。彼は、まるで彼女の聖域を土足で踏みにじったかのように、あっさりと「ボッチ」という渾名を彼女に与え、そして何事もなかったかのように去っていった。その衝撃は、彼女がこれまで培ってきた「魔王の哲学」を一時的に機能不全に陥らせるほどだった。
彼女は、講義内容など全く頭に入っていなかったことに、今さら気づいた。教授の声も、スライドに映し出された数式も、全てが遠いノイズとして通り過ぎていった。思考は、ただひたすらに「黒木万桜」という存在に囚われ、その不合理な行動を解析しようと躍起になっていた。
そんな彼女の視界に、ひらひらと手を振りながら近づいてくる影があった。当然のように、その人物は黒木万桜だった。彼は、まるで何もなかったかのように、満面の笑みを浮かべて茅野舞桜の隣に座った。
黒木万桜は、淡々と、そして自分のしたいように、話し始めた。
「今日の午後一の『量子力学』の講義、要点は大きく三つだな。一つ目は『不確定性原理』。観測が粒子の状態に影響を与えるっていうやつだ。二つ目は『シュレーディンガーの猫』。箱の中の猫が生きても死んでもいるって思考実験。これは観測するまで状態が確定しないってことの例な」
彼は淀みなく、しかし表情を変えることなく、講義の内容を簡潔に要約していく。そして、びっしりと書き込まれたノートの束をテーブルに置き、茅野舞桜の方に少し押しやった。
「で、これが俺が取ってきたノートのコピーだ。後でゆっくり確認しといてくれ」
何の躊躇いもなく、まるで当然の義務を果たすかのように、彼はそう言い放った。
「んで、おまえの番だけど?」
黒木万桜は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら尋ねた。彼の言葉は、まるで彼女が次に自身の講義内容を共有することを期待しているかのようだった。しかし、茅野舞桜は、キョトンと目を丸くした。自分の番とは? 彼女は彼の言葉の真意を掴みかねていた。彼女の脳内は、先ほどの彼とのやり取りによって完全に占拠されており、講義の内容など、一片たりとも記憶に残っていなかったのだ。
茅野舞桜の、その純粋な困惑の表情を見て、黒木万桜は、ようやく何かを察したようだった。彼の笑みが、わずかに、しかし確実に変化する。彼女が、その講義を全く聞いていなかったという事実に、彼は気付いたのだ。だが、その顔に苛立ちや失望の色はなく、むしろ、どこか呆れたような、しかし優しい諦めのような表情が浮かんだ。
「なあ、ちょっと貸して?」
黒木万桜は、そう言うと、近くに座っていた、比較的に几帳面にノートを取る同級生の一人から、何の躊躇もなく、そのノートを借りてきた。そして、借りてきたノートをパラパラとめくり、数ページをチラリと一読する。その速読の速さは、茅野舞桜の知性をもってしても、驚きを禁じ得ないものだった。彼は、瞬く間にノートの内容を咀嚼し、講義全体の流れと要点を完璧に把握したようだった。
「ごめんなさい、茅野さん。説明足りてなかったわ~」
黒木万桜は、どこか芝居がかった口調で、しかしその瞳には真剣な光を宿しながら、頭を下げた。彼の言葉に、茅野舞桜は再び目を見開く。謝罪? この男が? その意外な行動に、彼女の感情はまたもや揺さぶられる。
彼は立ち上がり、ノートを貸してくれた同級生に軽く礼を言い、そしてもう一度茅野舞桜の方を向き直った。彼の表情は、先ほどまでの能天気な笑顔とは打って変わり、真剣な、しかしどこか遠くを見つめるような眼差しをしていた。
「俺が別の講義聞いて来るから――」
彼はそこで言葉を切り、一呼吸置いた。そして、ゆっくりと、しかし明確な言葉で、その真意を語り始めた。
「俺たちが今、こうして大学で学んでいること。これって、単に知識を詰め込むだけの『勉強』じゃないんだ。俺は、これを『学び続ける義務としての義務教育』だと思ってる。義務教育って聞くと、中学までって思うだろ? でも、本当の義務教育は、生涯続くんだ」
彼の言葉に、茅野舞桜は息を呑んだ。彼女のの哲学は、常に効率と合理性を追求してきた。知識は、目的を達成するための手段であり、無駄な情報は排除すべきもの。しかし、彼の言葉は、その前提を揺るがすものだった。
「世の中は常に変化してる。新しい技術が生まれて、新しい問題も出てくる。その変化に対応するために、俺たちは常に学び続けなきゃならない。大学の講義だけじゃなく、日常のあらゆることからな。それが、社会に生きる俺たちの義務なんだ。この世で起こっている全てのことは、俺たちの『義務教育』の範囲なんだよ」
黒木万桜の瞳は、未来を見据えるような、力強い輝きを放っていた。彼の言葉は、彼女の心の中に、今までになかった波紋を広げていく。彼が言う「学び続ける義務としての義務教育」とは、単なる学問の追求ではなく、世界をより良い方向へと導くための、根源的な使命感を意味しているようだった。
「…だから、俺は、君が今ここで得られるはずだった知識も、しっかり吸収して、次の『義務教育』に活かしたい。ノートに纏めて後で渡すよ。ごめんな、変なことに巻き込んで」
彼はそう言うと、彼女の返事を待たずに、まるで風のように講義室を後にした。残された茅野舞桜は、彼の言葉を反芻するようにその場に立ち尽くしていた。
◇ ★ ◆ ★ ◇
黒木万桜は、講義室を出ると、いつものように足早に廊下を進んだ。彼の頭の中には、次の講義で吸収すべき情報と、それを自身の「学び続ける義務としての義務教育」にどう組み込むかという思考が渦巻いていた。茅野舞桜とのやり取りは、確かに彼の好奇心を強く刺激したが、同時に、ある種の違和感も彼の思考の片隅にまとわりついていた。
(…あれ? なんか、妙だな)
彼は足を止め、頭を掻いた。言葉にはできない、しかし確かに存在する「何か」の不在。それは、これまで彼が、自身の突飛な行動や発言をする度に、必ずと言っていいほど発動していた、ある種の「反応」だった。
高校時代。彼の「人と違う景色が見える」という発想は、しばしば周囲の理解を超え、時には「黒き魔王」という不名誉な渾名で呼ばれるほどの暴走に近い形となって現れた。そんな時、いつも彼を「正し」、あるいは「止める」存在がいた。
真っ先に思い浮かぶのは、白井勇希だ。「白き勇者オスカル」、あるいは「白き姫姉さま」などと影で揶揄されているが、彼女自身はそんな渾名を鬱陶しく思っているはずだ。しかし、彼女は、彼の能天気な暴走に対し、常に言葉による「歯止め」をかけてきた。
「何を馬鹿なことを言っているんだ、万桜!」
「万桜、それは社会の規範に反する!」
その声は、彼の行動に、社会的なルールや常識という「重力」を与えてきた。彼女の存在は、彼の突拍子もないアイデアが、あまりにも現実離れしすぎないための、一種の「リミッター」だった。
そして、斧乃木拓矢。「戦士」などと影で言われているが、本人は軍人気質からくる実践主義に過ぎない。彼は言葉で彼を止めることは少ないが、万桜が暴走する際は、その「実力」で彼を物理的に「正す」役割を担ってきた。「ジェイ」こと拓矢は、時に柔道の技で、時にその圧倒的な存在感で、彼の行き過ぎた行動に「現実」を突きつけてきたのだ。彼らは、黒木万桜の思いつきが、周囲に迷惑をかけないための、強固な「ストッパー」だった。
しかし、大学に入って、この甲斐の国大学に来てからというもの、彼は彼らから離れている。そして、目の前にいた茅野舞桜は、彼を止めようとはしなかった。むしろ、彼女の混乱は、彼自身の行動によって引き起こされたもので、彼女は彼を制するどころか、彼の予測不能な言動にただただ困惑しているだけだった。
(そうか…誰も、俺を止めないのか)
その事実に気づいた時、黒木万桜の足が止まった。これまでは、どんな思いつきも、必ず誰かが軌道修正してくれた。だからこそ、彼は遠慮なく、自分の見える「景色」を口にし、実行に移してきた。しかし、今、この場には、彼を止める人間がいない。
(このままじゃ、さして親しくもない人間に、とんでもない迷惑がかかるな…)
彼の「鋼鉄の好天思考」は、どんな状況でもポジティブな解釈を導き出すが、それはあくまで「許容範囲内」においてだ。目の前の茅野舞桜は、彼の行動によって、明らかに困惑し、不快感を露わにしていた。彼自身の思いつきが、親しい友人ではない人間に直接的な不利益をもたらす。その事実に直面し、黒木万桜は、自身の衝動を初めて自ら踏みとどまった。
彼は踵を返し、講義室へ引き返そうとした。不必要な混乱を引き起こした相手に、きちんと謝罪し、事態を収拾しようと。
その時だった。
「待ちなさい、黒木万桜!」
背後から、冷たく、しかし芯の通った声が聞こえた。振り向くと、そこに立っていたのは、息を弾ませた茅野舞桜だった。彼女の表情は、先ほどまでの困惑に、明らかに「怒り」が混じっていた。彼女は、その優れた知性で、自らの混乱の原因と、彼の行動の背後にある「真意」を、すでに解析し終えたかのようだった。
茅野舞桜は、彼の目の前まで来ると、整然と呼吸を整え、そして静かに、しかし有無を言わさぬ口調で語り始めた。
「…さっきの講義、システム工学における『コンテキストスペース』についての内容でした。あなたは私に別の講義を伝えたかったのでしょう。そして、私がなぜ講義を聞き逃したのか。ええ、私の不覚です。ですが、あなたがその講義の概要を語った時の、あの自信に満ちた口調。そして、私を『ボッチ』と呼び、私の尊厳を平気で踏みにじった行為」
彼女の言葉は、まるで精密なレーザー光線のように、彼の行動の核心を突いていた。
「あたしは、あなたに舐められたままではいらない。あたしの知性が、それを許しません。その講義の内容は、この五分で完璧に咀嚼いたした」
(いたしたってなによ? 武士か? なぜこんな言葉遣いが…!)
彼女は内心で動揺を覚えながらも、言葉を続けた。
「システム工学における『コンテキストスペース』について。それは、情報が持つ意味や文脈が、その情報の利用目的に応じて変化するという概念。ですが、それだけではない。この概念は、情報の解釈、意思決定、そしてシステム設計の基盤となる、より高次元な概念にも応用できます」
彼女の瞳は、知的な光を宿し、彼を真っ直ぐに見据えていた。その言葉は、彼の「真意」を正確に言い当てていた。彼女は、彼の表面的な言動の裏に隠された、深い哲学までをも理解したのだ。
「ええ、あたしはこの講義を聞き逃しました。ですが、あなたのその『義務』とやらを、私に押し付けられるいわれはないわ。あたしが知識を得るのは、あたしの知的好奇心と、あたしの合理性のためです。あなたの『義務教育』とやらには、決して屈しません」
彼女は、そう言い放つと、彼に背を向けた。その背中は、先ほどまでの動揺など微塵も感じさせない、孤高の知性の持ち主としての誇りを示していた。
黒木万桜は、その場に立ち尽くしていた。彼のストッパーが不在であることに気づき、自ら踏みとどまった矢先に、彼女が追いかけてきて、まさか自分の真意を、そして自らのプライドをかけてそれを否定するとは。
(…ははっ、マジかよ)
彼の口元に、乾いた笑みが浮かんだ。彼の思いつきが、彼女の知性を刺激し、彼女の行動を突き動かしたのだ。これは、彼にとって、白井勇希や斧乃木拓矢とは全く異なる、「新たな反応」だった。彼女は彼を「止め」なかった。しかし、彼の行動によって、彼女は自ら動き出した。
彼の「鋼鉄の好天思考」は、この状況を瞬時にポジティブに変換した。彼女は彼にとって、単なる「特異点」ではない。彼女は、彼の「学び続ける義務としての義務教育」を、新たな形で刺激し、共に探求していくことのできる、唯一無二の「相棒」となる可能性を秘めていた。
キャンパスも知らねえな〜。