お手玉、落とす。
男性社員が就業時間前に揃ってソワソワしている日。
それは決まって合コンが後に控えている日なのだという。
給湯室に集まり噂話に花を咲かせる女性社員たちを尻目に、朋子はそそくさとマグカップを置き、席に戻ろうとする。
もう帰宅の準備をしなくては。
「桂木さんも今日あたり、どう?」
とても胸の大きい同僚がそう聞いてくる。
男も女も、今日は合コンの話のようだ。
「いやいや、いいですよ私なんて」
「いいじゃない、たまには」
出て行こうとする朋子の腕を強引に引き、
「合コン、いった時ある?」
などと聞いてくる。
「男を手玉に取るって、けっこう快感よ?」
胸を押し当てて甘い声をだす同僚に苦笑するしかない。
「桂木さんが男を手玉に取るって?」
と他の社員は一斉に吹き出した。
「本当、すいません」
拝み倒すように合コンの誘いを断った朋子は足早にオフィスを後にした。
準大手の物流会社にオペレーターとして入社して3年。
一度も軽い噂の上がらない朋子には、すっかりおカタいイメージが付いていた。
顔は綺麗なのにもったいない。
もう少し愛嬌があれば。
同僚の女性社員には口々に同情を受ける。
朋子はそれらを黙って聞き流す。
セルロイドのスクエア型メガネの奥にある彼女の目は笑っていた。
会社から駅まで15分。
バスの中でバッグを抱える朋子は口を固く結んでいる。
駅から最寄駅まで20分。
帰宅ラッシュの電車の中、彼女もまた顔の無い人々に溶け込む。
とても上手く。
誰にも気に止められないまま、電車を降りる。
最寄駅から自宅までの徒歩、15分。
夕焼けが朋子の頬を赤く染める。
沈む太陽。
一日が終わる。
週末の午後―――。
マンションのドアを開けると、玄関先でバッグを置き、
「ただいま」
と呟く。
―――カツカツとフローリングを蹴る軽快な音とともに、一匹のチワワが朋子に向かって走ってきた。
短い尻尾を絶え間なく振っている。
「いい子にしてた?」
ロイヤルミルクティーの色に似ている背中を撫でていると、後ろでドアが開く音がした。
「なんだ、姉さんも今帰り?」
玄関には、真新しいスーツに身を包んだ隆之が立っていた。
「珍しいわね、こんなに早く」
「週末は残業禁止令が出たんだ」
ドアを閉めると隆之はまじまじと朋子を眺め、
「それにしてもねー・・・」
と呟いた。
濃紺のビジネススーツに身を包み、最低限の化粧を黒いフレームのメガネで誤魔化している姉を見ていると、隆之はそう口にせずにはいられなかった。
犬用玩具のお手玉を放り投げると、全速でそれを追いかけていったチワワを見送り、朋子は自室へ引き上げた。
ウォークインクローゼットに足を踏み入れると、朋子は一つ大きな深呼吸をする。
自分をリセットする空間。
これから私は別人になる。
心の中でそう言ってみる。
髪をほどき、スーツを脱ぎ、伊達メガネを外す。
それらの行為一つひとつが自分を開放してくれる。
地味な自分が嫌いではない。
でも、今はしばらく、さようなら。
メイクを落とし、ゆっくりと眼を閉じる―――眼を開けると、そこには新しい自分がいた。
真一文字に結ばれた口が優雅に微笑み、切れ長だった眼が柔らかな曲線を描いている。
さあ、これから目一杯キレイにならなくては。
朋子は心を躍らせながら、眠っていた自分に笑顔で語りかける。
「いつ見ても感心するね」
自室から出てきた姉を見ると、隆之は飲みかけていた缶ビールを置いてそう言った。
弟の隆之から見ても、朋子の変貌ぶりには舌を巻かざるを得なかった。
街ですれ違って、この二通りの人物が同一であると気づける人が果たしているのだろうか。
それほど彼女の印象は変わっていた。
「これから出かけるから、ちょっとこれ、付けてくれる?」
外見だけでなく人柄まで変わった朋子は、弟にそう言ってネックレスを渡す。
「また合コン?」
「だったら?」
挑戦的な眼差しに、隆之は苦笑いしかできない。
「今日はどこまで?」
「恵比寿かな」
「じゃあ、恵比寿に女王様が降臨ってワケだ」
冗談で言ったつもりが、今の朋子は、女王、という言葉にまんざらでもない表情を浮かべる。
「恵比寿って、姉さんの会社の近くなんじゃない?」
「ええ。だから?」
「誰かにこの格好、見られたらまずいんじゃない?」
姿見越しに見た姉は、弟の愚かな質問を鼻で笑い、
「見られて、気づかれると思う?」
と分かりきった答えを求める。
「まあ、すれ違ったくらいじゃ、絶対に気づかれないだろうね」
答えに満足したように頷き、朋子はマンションを後にした。
恵比寿までの35分。
朋子は自分に降りかかる視線を楽しみながら待ち合わせの店へ向かう。
夜気に落ち着いた町に、彼女のシルエットは少しだけ輝いていた。
派手すぎてはいけない。
他の誰かより少しだけ華やかに笑い、少しだけ大きく驚き、少しだけ大袈裟に感心する。
少しだけがポイントなのだ。
店に入りトイレに直行した朋子は、メイクを直してから鏡を見、やりすぎがないか自分の顔を確認する。
笑ってみると、当たり前のように華やかな顔立ちの女性が映る。
少しも違和感を感じさせない馴染みきった笑み。
生まれてからずっとそうだったような自信に満ちた顔。
朋子は安心してトイレを出た。
「今日はどんな人たち?」
トイレ前で待ち伏せていた合コン仲間の結衣に聞く。
「それが、今回はブッキングが上手くいかなくて・・・」
「何? 医者じゃないの? 弁護士? 会計士?」
個室に案内されながら朋子はため息をつく。
「でも、結構カッコいい人、集まってるのよ」
「人は外見じゃないって何度も言ってるでしょ?」
諭すように言ってから部屋の前で時計を確認する。
待ち合わせ二分前―――中からは既に数人の話声が聞こえた。
「まあいいわ。たまには気楽に飲むのもいいか」
「そんなこと言って、今回も全員に粉かけて回るんでしょ?」
朋子は微笑み、
「粉かけるなんて心外ね。毎回、相手方が勝手に熱くなるだけじゃない」
と鼻で笑う。
が、心の中では、今回も何人の男が自分を口説きに掛かるのだろうと思い、楽しんでいた。
今まで出会ってきた男の顔が、まるでお手玉のように朋子の頭の中を変わるがわる回っている。
部屋のドアを開け自分に視線が集中し、面々がさまざまな表情を浮かべる所を想像し、朋子の気持ちも高揚してきた。
医者や弁護士や社長でないのであれば、気張る必要もない。
今日は目一杯楽しむのだ。
そう思い、飛び切りの、だが慎ましい笑顔と共に朋子は部屋のドアを開けた。
「どうも、こんばんわ―――――」
「―――――あれ、桂木さん? だよね?」
顔を上げると、そこには会社の同僚の面々が立っていた。
帰宅する前、ソワソワしていた男性陣である。
ボタ、ボタ、ボタ。
お手玉が落ちる音が聞こえた気がした。
朋子は最高の笑顔を凍りつかせたまま、部屋のドアをゆっくり閉めたのだった。