2 今世の聖女様
エレーナは平民であり、農家の長女だった。
名前も今とは違い、レナと呼ばれていた。
十三匹の羊がいる飼育小屋と、とうもろこし畑、そして小さな家が、レナにとって世界の全てだった。
生活は苦しかった。
でも貧しいながらに愛情をたっぷり受けて育ったレナは幸せだった。
優しい父に、厳しいけど大好きな母、そして泣き虫で生意気だけど可愛い妹。
ずっとこのままの生活が続くと信じていた。
十歳のあの時までは。
レナが十歳のとき、世界が一変した。
きっかけは教会での洗礼の儀式だった。
平民の子供は、十歳になると教会で洗礼を受ける義務がある。
この国の宝である聖女を見つけるためだ。
なんでも、数十年か数百年に一度、平民から聖女様が誕生するらしい。
前回に聖女が誕生したのは約百年前。
噂ではそろそろ聖女が誕生してもおかしくないとされていた。
その洗礼をレナも受けなければならなかった。
洗礼のために教会へ行くと決まった日、レナは猛烈に嫌な予感がした。
それは確信めいた予感だった。
だが子供だったレナは、その複雑な気持ちを言語化することができなかった。
「おっ父。 オラが聖女様に選ばれたらどうなるだ?」
潜り込んだ布団の中で父に尋ねた。
隙間風の吹くこの家では、レナにとって父や母が一番の暖房だった。
薪や炭は普通の平民にとって高価だ。
かといって勝手に木を伐採すると捕まってしまう。
なので他の一般的な農家と同様に、家族で固まって寒さを凌ぐことは普通のことだった。
「そりゃ名誉なことだよ。 なにせこの国を守る聖女様にレナがなるってことだからな」
「もし……もしオラが聖女様になっても、オラはこの家にいてもいいだか?」
「……俺達はいいが、どうなるだろうな。 仮にもこの国をお守りくださる聖女様だからな。 もしかしたら貴族様の養子にされちまうかもしれねぇな」
それを聞いたレナは青ざめた。
「そしたらおっ父やおっ母やレンに会えなくなるだか? オラそんなのイヤだ! そんなの耐えられねぇだ!」
レナは泣いてしまった。
「レナ、どうかしたの? なにを泣いてるの?」
隣の布団で妹のレンと寝ていた母が体を起こした。
「いや、レナが聖女様になりたくないって泣くんだよ……。 貴族の養子になるのもイヤだってさ。 そもそも聖女様なんて百年以上現れていないってのに」
父の説明に母はクスリと笑った。
隣で寝ていた妹のレンを父の布団へ移動させる。
レンは目を覚ますことなく、移動先である父の身体にぴたりと張り付き、寝息を立てている。
「おいで、レナ。 今日はおっ母と寝よう」
レナは母の布団に潜り込むと、その大きな胸に顔を埋め、泣きじゃくった。
「よしよし。 大丈夫よ、レナ。 レナがお貴族様の養子になっても、レナがおっ父やおっ母の娘だってことには変わりないし、レナはずっとレンのお姉ちゃんなんだから。 それにお貴族様も鬼じゃないわ。 レナがお願いしたら好きなだけ会わせてもらえるわよ」
母の優しい言葉を聞いても、レナは泣き続けた。
「それに貴族様の養子になれば、美味しいご飯はお腹いっぱい食べられるし、オヤツだって誕生日以外にも食べられるのよ? 綺麗なお洋服だって何十着と買ってもらえるし、あったかい布団で眠ることだってできるんだから」
「イヤだ! そんなのいらねぇだ! オラそんなの欲しくねぇだ! オラ、ずっとこの家がいいだ! オラは……オラは……うわぁぁぁぁん!」
レナは泣いた。
泣き疲れて眠るまでずっと泣き続けた。
母はそんなレナの頭をずっと撫でてくれた。
レナが眠るまでずっと。
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そして洗礼の日。
父に連れられたレナが教会で水晶に手をかざすと、その水晶が信じられないほどの光を放った。
と、同時にレナのお腹が熱くなった。
まるで羊用の熱々の焼き印を触ってしまったときのような痛みがレナを襲った。
耐えきれず倒れたレナを、父がすんでのところで抱き止めた。
「レナ! 大丈夫か! どうした! どこか痛いのか!?」
「おっ父……。 お腹が……お腹が熱いだ」
「!?」
娘の言葉に、父は慌ててレナの上着を捲った。
するとレナの臍の上に真っ赤な百合の花のような紋章が浮かび上がっていた。
「なんだ、これは……」
「そ、それはアズラーレンの百合の紋章……。 何ということだ……」
神父が膝をつき、両手を胸の前で組み涙を流した。
「聖女様です。 この子……いや、このお方は今世の聖女様です」
薄れゆく意識の中で、レナは神父の言葉を聞いた。
それはレナにとって、まるで呪いの言葉であった。