文芸「一瞬」ショートムービーシリーズ ――どこかの誰かが見た風景
琥珀色に暮れゆく、夏の約束
――あの夏の、約束は。
「次のコンペが通ったらさ、お団子買って、一緒に食べようよ」
ごく短い前下がりボブの、あらわになっている襟足。生え際のキワのキワを。斜め上から盗み見ながら、色気のないこと言うなあなんて、俺は思った。
「なんで団子? そんなのでいいの?」
「そんなのがいいの。いつも前通ってるくせに、なかなか買えないじゃん」
ふいと視線だけで彼女が示した先には、昔ながらの団子屋。このご時世にありつつ忖度なしできっちり日曜定休のその店は、その日も当然のごとくシャッターを下ろしていた。
こうして奈央がうちに来るのはたいてい日曜で、そうでなければ平日の夜遅く。だから最寄り駅からうちまでの途中にある、ここの団子を買うチャンスは普段はない。まあでも、気のいい夫婦が半分道楽でやっている、特段有名店でもない街の団子屋。わざわざ機会を作って買いに行くほどのものでもないと思うけど。
そんな俺の思考を読んだみたいに、半歩ほど前を歩いていた彼女がくるりと振り向いた。ちょんと形のいい頭の輪郭をなぞるように、首元で丁寧に切り揃えられた毛先が揺れる。
「そんなのって言うけど。みたらし団子って、すごく綺麗じゃない、琥珀みたいで」
――琥珀って、なんだっけ。ああ、あれか。
彼女の説明を受けながら、俺は、以前たまたま深夜につけたテレビでやっていた、教養番組の鉱物特集かなんかを思い出した。樹木から滲み出た樹脂が、年月を経て化石化したやつ。たまに中に虫とか入ってる、あれ。
「なんか可哀想だよね。ちょっと甘い匂いに釣られただけなのに、永遠に閉じ込められちゃうなんて」
可哀想なんて言葉を使ったわりに、彼女の声のトーンはさっぱり小気味よく乾いていた。
けど俺にはわかる、引き寄せられる虫の気持ちが。さすがに家までは我慢したけど――ふやふやと赤ん坊みたいな産毛が残る甘い首筋に、俺は本能で吸い寄せられた。
結局、二人で一緒に団子を食べることはなかった。彼女の仕事のコンペは通らなかった。
どうやらキャリアの節目にあったらしいそれに、彼女が並々ならぬ思いを懸けていたのは一目瞭然だった。
四六時中、作品に繋がるアイデアやらなんやのことが頭にあって。昼夜とか曜日とか関係なく、創作にふけって。就職活動においてはとにかくホワイト企業であることが最優先で、何をするかなんてどうでもよかった俺からしたら、クリエイター業というのは未知の世界だ。
けど俺は彼女に、価値観をこっち側に合わせろなんて言うつもりはなかったし、支えたいと思っていた。三十過ぎれば周りから、いろいろな話も聞く。女性にはタイムリミットがあるんだっていうことも。
俺には何かを強いる気は一切なくて、ただ、もし、この先彼女が。つらいなーなんて感じることがあったとき、気兼ねなく寄りかかれる場所があったらと、そう思っただけだったんだ。
「……どうかな」
「どうかなって……」
「奈央の仕事のことどうこう言うつもりはないし、あとほら、子供とかもさ、無理するもんじゃないだろ。奈央に俺より大事なものがあったって、俺は全然大丈夫。いつまでだって待てるし。だから今までどおり――」
「やめてよ」
「…………え?」
「待つなんて、言わないでよ。……期待には、応えられない」
一瞬だけ、その瞳が大きく見開かれて。それが、眉頭がぴくっと動くのにあわせて歪んで。あ、泣く。そう思ったけれど、彼女は泣かなかった。
そういえば、感動系の映画とかではすぐ泣くくせして、仕事のことでは絶対に泣かなかったな、なんてことがふと過って。身動きとれずにいる俺を顧みることなく、静かに、彼女は部屋を出ていった。
追いかけなければ、そう思ったけど、動けなかった。もう戻らないのは、本能でわかってしまった。
盆休み、帰省もせずにふらふらと、近所へ買い出しに出た俺の鼻先に。あの日食べられなかった団子の匂いがすいと掠めて、ようやく遠くなりかけていた記憶を容赦なく炙り出す。
――ああ、まだ。
濃いな。それでいて、どろどろしてる。
未だ鮮やかに香る記憶とともに、知りもしない味を、口の中で転がして、反芻する。
きっとそれは、どこまでも沈み込むように甘くて。塩辛くもあったのかもしれない。ついつい顔を埋めずにはいられない、彼女のうなじみたいに。ついぞ見せてもらえなかった涙みたいに。
いつかは。
長い時間をかけて、分解したり、揮発したりして。こんなどろどろした想いも、変わっていくのかな。
澄んで固くなって、透明で綺麗な、あの宝石のように。甘じょっぱい蜜に溺れた、哀れな虫を閉じ込めたまま。
そうして永劫に輝く宝石の一部になれるなら、果たせない約束というのもありなのかもしれない――なんて。そんな心にもないフレーズで自分自身を慰めながら。
今年もひとり歩く。ねっとりと濃くて、どろりと纏わり付く、なかなか暮れない琥珀色の夏を。
お読みいただき、ありがとうございました。