決着
ピシリ。ザンビエンのドクロの仮面にまた一つヒビが入る。その爪は敵を攻め立ててはいるものの、ついさっきまで空を覆わんばかりに湧き出していた大量の氷は、どこかに姿を消してしまった。
単調な攻撃はセイタンに余裕を与えている。しかしラミロア・ベルチアの助力を失ったいま、迂闊に力を振るっては相手につけ込まれる事になる。ましてや攻撃を受ける側に回ってしまえば、一気に押し切られてしまうだろう。ランシャが戻るまで現状を維持しなくてはならないのだ。
パキン。セイタンの左肩の氷が音を立てて体積を増す。腹部の氷も一段と重くなる。呪いの氷は徐々にセイタンの内側を侵し、体の動きを制限していた。相手の単調な攻撃のおかげで極端に不利な状況にはないが、それもいつまで持つだろうか。
ザンビエンがランシャの帰還を待っているのは、思考を読むまでもなく明白。あの傷の深さを思えば、戻ってくるとは考えにくいが、確認に向かわせた天使たちの動きが止まっている。何者かが邪魔をしているのか。この特殊な状況下、有り得ない事などないのかも知れない。だとするなら、時間の浪費は危険。多少の博打を打つ事になっても一発逆転を狙うべきなのだろう。
ザンビエンが左側に回り込み、死角から爪の一撃を振り下ろす。一瞬対応が遅れたように見せながら、セイタンはそれを半身で受けた。左肩口から鳩尾にかけてザンビエンの右手の爪が食い込む。人間なら肺腑と心臓をえぐる位置。だがセイタンにそんな物はない。
そこからVの字を描くように右肩へ向かってザンビエンの爪は走ろうとしたが、動かない。動けない。この至近距離は剣の間合い。天雲の剣はザンビエンの左脇に食い込むと、そのまま斜め上、右胸まで斬り抜けようとした。しかしセイタンの手首をザンビエンの左手がつかみ止める。万力のような握力で。仮面の奥の目が笑う。
そのときようやくセイタンの読心が追いついた。ザンビエンの頭の中にあった事、それは。
「考える事は同じか」
仮面の精霊王がつぶやく声。しかし天界の使者はこう返す。
「条件は同じではありませんよ」
確かに爪を動かせないザンビエンより、あらゆる物を切り裂く天雲の剣を手にしたセイタンの方が有利と見える。けれどドクロの仮面は言うのだ。
「左腕と翼を二枚失った分だけ、うぬは弱くなっている」
「その程度、誤差の内です」
そう言って手首を振ろうとするが、包み込むザンビエンの大きな手が固着したかの如く微動だにしない。一方セイタンの左肩と腹の氷は、みるみるうちに体積を増して行く。まだこんな力が残っていたのか、そんな顔のセイタンにザンビエンは笑う。
「常に余力は残して……」
その腰に、胸に、首に、頭頂に、そして顔面に、十本の光の帯が斧のように突き刺さり、ドクロの仮面は砕け散った。セイタンの背中からは翼が消えている。
「ええ、常に余力は残しておくべきですよね」
微笑む顔が瞬時に曇る。天雲の剣を握るセイタンの右手、それを包み込むザンビエンの左手がまだ固く、一向に緩まない。
「往生際が」
悪い、と言いかけたその脳裏に届く、悲鳴の如き信号。下界に降りた天使たちの包囲が突破されたのだ。マズい。そう思った瞬間、真下から稲妻の速度で立ち上る白い光流が、十本の光の帯とセイタンの右腕を一気に切断した。
ザンビエンの足が上がり、セイタンの体を蹴り飛ばす。ああ剣が、天雲の剣が、左腕があれば届いたものを。それが最後の思考。セイタンの股の下から頭の上まで、白い刃が一直線に、真っ二つに切断した。さらにレキンシェルはジグザグに走り、セイタンの体は細切れになって行く。ザンビエンのつぶやきは、たぶん届かなかったろう。
「本当に余力を残すヤツがあるか」
セイタンの体はおぼろに輝く粒子となり、空をボンヤリと照らした。だがその輝きは、赤みを帯びた鮮烈な光に飲み込まれる。遙か東、氷の山脈の方向から昇る日輪。夜が明けたのだ。闇を追いやる強い輝きの中で、ランシャは振り返った。
「ルーナを助けなくて良かったのか」
「そう何から何までは期待していない」
顔を太陽からかばうかのように片手で押さえながら、ザンビエンは答えた。
光が差すグアラグアラの街の外れで、人影が一つ立ち上がる。いや、人ではない。聖騎士だ。あのとき、三人のギーア=タムールが作られたときに空に飛ばなかったのか、アルハグラの兵の死体が転がる荒野を、街に背を向けて歩き出した。だがすぐに止まる足。
聖騎士の前方、東の方向に背を向けて逆光の中に立つ影。その顔は見えないが、それが誰なのかは知っている。影は己の胸に刺さった天雲の剣を抜くと、切っ先を聖騎士に向けた。
「どこに行くつもりだ、セイタン……いや、ギーア=タムールか」
聖騎士は顔を上げた。ザンビエンには見覚えのある顔を。その口元が緩む。
「無駄だ。私は不死身、いかな精霊王といえど殺せはしない」
「殺せはせずとも、いまのうぬには我と戦う力はあるまい」
逆光の影に沈むその顔は、両目だけが輝いて見える。ギーア=タムールは一歩後ずさった。
「それがどうした。いまは戦えなくても、いつかまた力を取り戻し、そのときこそ貴様を打ち倒す!」
「こちらには最初から、うぬを殺すつもりなどない」
「何」
不審げなギーア=タムールの目の前で、さっきまで天雲の剣が突き刺さっていた傷口が、上下に開いて行く。奥には牙と舌が見える。大きく開いたそれは魔獣の口だった。
「うぬには我が宿主となってもらいたい」
「なっ、ふざけ……」
最後まで聞く義理もないとばかりに、ザンビエンの胸に開いた口はギーア=タムールを一瞬で飲み込んだ。後にはただ風が吹くのみ。
「兄を喰ろうて妹と添い遂げる訳にも行くまい」
ザンビエンの左手には、浮き上がるように白いドクロの仮面が形作られて行く。それを顔に押し当てると、精霊王は小さなため息と共につぶやいた。
「残るはあの小僧か」
さて、どうしたものか。ランシャは空の上で困っていた。すべては終わった。ザンビエンを除いた聖魔は倒され、もはやランシャに戦う理由はない。だがザンビエンにとっても同様、という訳ではないのだ。ガステリア大陸に敵のいなくなったいまこそ、支配領域を拡大する絶好の機会。精霊が魔族と人を従える世界を作りたいのなら、いま動くしかあるまい。
それはランシャの望む世界とは言えない。いや、ランシャはそもそも新しい世界など望んではいない。いまのランシャが考える「世界」とは、リーリアとその周辺でしかないからだ。その外側にまで興味は持てない。しかし、ザンビエンがそれを許すだろうか。
リーリアと盟約を結んでいる以上、グレンジア王家は存続させるはずだ。けれどランシャの天寿をまっとうさせるほど、ザンビエンはお人好しではなかろう。いずれ精霊と人とが対立するとすれば、真っ先に邪魔になるのがランシャとラミロア・ベルチアなのはわかり切っている。
現在ラミロア・ベルチアは力を失い、ランシャを助ける者はいない。ザンビエンの力を借りられないランシャなど、ちっぽけな一介の魔道士に過ぎない。精霊王にとっては吹けば飛ぶような存在だ。簡単に叩き潰せる。だからこそ、いまのうちに倒そうとするだろう。ザンビエンならば、きっと。
別にこの世にさほどの未練がある訳でもない。いや、もちろんまったくない訳ではないが。リーリアを見守りたい気持ちはある。しかしそのためにリーリアを危険に巻き込むという本末転倒な真似はしたくない。自分が死んで丸く収まるのなら、それも一つの手だと思う。
理屈ではそう思う。だが、理屈ではない部分で、そう思わない自分がいる事にランシャは気付いていた。それは新鮮な感覚。こんな人間だらけの世界で、こんなに嫌な事ばかりの世の中で、それでも生きていたい、リーリアと共に明日を見たいと考えている自分に驚いていた。
だから困っている。迷っている。
「なあレク、俺はどうすればいい」
手の中に向けられた問いかけに答はない。レキンシェルは刃を収め、まるで意思など持たないかのように静まり返っている。その手のひらに影が差す。振り仰げば、頭上に浮かぶドクロの仮面のザンビエン。
「逃げなかったのか」
「あんたも逃がすつもりはないんだろう」
激流に弄ばれる一枚の木の葉になった気分。ランシャの体にはもうザンビエンの力は通っていない。圧倒する精霊王を前に、自身の魔力では飛んでいるだけで精一杯と言えた。
「まあ、そうだな」
ザンビエンが手のひらを向けると、ランシャの手からレキンシェルが跳ねるように飛び出し、クルクルと回転しながら、やがて本来の持ち主の手に収まった。
「ランシャよ、うぬに恨みはない。いや、感謝していると言ってもいい」
レキンシェルから白い光が伸びる。大きく、美しく、眠る猛獣を思わせる凄みを放つ刃。
「なればこそ、この手で葬ってやろう」
「悪いけど、嬉しくはないな」
「そこまでは期待していない」
ザンビエンは静かに剣を振りかぶる。そこに背後から聞こえる声が。
「いとかしこき氷の王たるザンビエン、諸々の禍事あらむをば祓いたまい清めたまえと申す事を聞こし召せとかしこみかしこみ申す」
後ろを見やり、目をみはる。ザンビエンだけでなく、ランシャまで驚きに動きを止めた。そこに浮かんでいたのは太った犬のような印象の、見覚えのある老人。
「サイー」
思わず同時に声に出た。そう、それは紛れもなく魔獣奉賛士サイーの姿。ザンビエンは用心深げに向き直る。
「まさか亡霊だとでも言いたいのか。くだらぬ」
しかしサイーは手を合わせ、深々と一礼した。
「ここにあるは人の世の奉賛士なれば、言霊を開き精霊王のいやさかを祈るところ」
そしてランシャに微笑みかける。二人の視線が合ったとき、ランシャはその意味を理解した。晶玉の眼にすべてが見えたのだ。サイーは静かに言う。
「眼で聞き耳で話し口で見よ。そなたはこのサイーの弟子。後は任せて良いな」
日が昇ったばかりの砂漠に、素っ頓狂な声が響いた。
「サイーを蘇らせるだって?」
呆れ返るのを通り越して怒りさえ顔に浮かべるバーミュラに、晶玉の眼の男は平然と首を振る。
「本当に死者を生き返らせる訳ではない。そんな事ができるはずもない」
「当たり前だ! 脅かすんじゃないよ」
それは単なる言葉の綾ではないのだろう。もしやと思わせる雰囲気が、彼ら晶玉の眼を持つ二人にはあるのだ。ランシャがそうであったように。
「それで、何をしろってんだい」
文句を言いたげな魔道士に、男は淡々と話す。
「ここにいるあんたたちは、サイーの記憶を持っている。それを貸してもらいたい。百万の言葉を紡ぐより、ただ見せるだけで伝わる事があるからだ」
「そんな事でどうにかなる相手かね」
「どうにかするのはランシャであって私ではない。ランシャが何も願わないのなら、誰にも何もできはしない。だが願えば、それは力を生む」
そう言うと、男は左の手のひらを差し出した。
「何かランシャに伝えておく事はあるか」
さも当然と言わんばかりの男にムッとした顔を見せながら、バーミュラは手を重ねる。
「とっとと帰って来いって言っときな」
その上にライ・ミンが手を重ねる。
「君が見たものについて話を聞きたい、と」
「武芸を語り合いたい」
ウィラットも手を重ね、さらに隊長もゴツい手を置く。
「今度酒をおごってやる」
「いいね、じゃアタシは飯だ」
「お、オイラは、オイラは」
「俺はとりあえず博打でも教えてやっかな」
「一緒にリーヌラに帰るんだ、絶対だ」
「待ってるよ、ずっと待ってるからね」
皆が口々に語りながら手を重ねて行く。晶玉の眼の男は左手の高さを少し下げながら、右手を女に向けて伸ばした。それを両手で取ると、女は遠い空に透き通った眼を向ける。そしてこうつぶやいた。いとかしこき氷の王たるザンビエン、諸々の禍事あらむをば祓いたまい清めたまえと申す事を聞こし召せとかしこみかしこみ申す……。
ランシャはすべてを理解した。その透き通った眼から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
――眼で聞き耳で話し口で見よ
そう、まだ終わっていない。未来は潰えていないのだ。ランシャの口が動いた。
「言霊よ、開け」
それにザンビエンは素早く反応した。体を回転させ、巨大な刃でランシャを狙う。だが直後、白い魔剣は自ら砕け散った。
「レキンシェル! 貴様!」
ザンビエンの驚愕と怒りが僅かな時間的余裕を生み出す。ランシャは言霊を放った。
「天を地に、地を天に」
「させるものか!」
絶対零度の冷気がザンビエンから噴き出し、すべてを凍り付かせる。地面の上のすべてを。
「……何だと」
空の上で精霊王は理解した。言霊が世界を曲げたのだ。空を凍らせようとすれば地面が凍る。ならば、再びザンビエンが身構えたとき。
「氷は水にして水は雲となり雲は雪となる」
再びランシャが言霊を放つ。その意味を考えている余裕などない。時間的余裕はランシャに有利に働くのだから。
「喰らえ小僧!」
ザンビエンは無数の氷塊を湧き出させると、飛ばした。地面に向けて。世界が曲がっているのなら、これで氷塊は上空のランシャに襲いかかるはず。しかし。
氷の凶器はすべて空中で溶け、ただの水となった。ならばまた水を氷に変えるまで、ザンビエンが念じると、水はすべて雲へと変わった。ならば雲を凍らせれば、けれど雲は雪へと変わり、静かに地面に落ちていった。
氷の精霊王たるザンビエンは、氷はもちろん、水のあらゆる状態変化を司る。だがいま、そのコントロールをすべて失ってしまった。いや、おそらく取り戻す術はあるのだろう。ただしそれを探っている時間などもうない。ランシャの手が空中に、八つの角を持つ星形の呪印を描いていたからだ。
「我を封じる気か、小僧!」
呪印と言えど万能ではない。ランシャとザンビエンの圧倒的な魔力の差を考えれば、封ずる事など不可能なはずだ。それなのに、ザンビエンは焦った。このちっぽけな人間の子供に、確信を伴った恐怖に近い感情を持っている自分に驚きながら。
氷を操る魔力を使えないのなら、この手で叩き潰すまで。ザンビエンは下に向かって飛んだ。世界が曲がっているのだから、これで拳がランシャに届くはず。周囲で景色がグルグルと回り、めまぐるしく変化して行く中で、ランシャの姿は間違いなくザンビエンの手元に近付いていた。
唸りを上げて一撃必殺の拳が振られる。僅かに身をかがめてそれを紙一重でかわすと、ランシャはザンビエンの胸に呪印を放った。しかしザンビエンは構わず二撃目の拳を振った。この程度の呪印如きで封じられるものか、その思いを肯定するように呪印はザンビエンの胸の表面で儚く消える。硬い拳がランシャの頭部を今度こそ撃ち抜くかに見えた、そのとき。
ビシリ。硬い音と共に、ザンビエンの胸に大きな亀裂が走る。拳の軌道が揺らぎ、ランシャには後方に飛んでかわす余裕が生まれた。
「……ランシャ、貴様、何をした」
胸を押さえ愕然とする精霊王に、ランシャは静かに応える。
「いまの俺に、あんたを封じる力はない。ただ」
透き通る、誰よりも澄んだ眼が見つめていた。
「あんたの中に眠ってるヤツなら、封じられると思ったんだ」
「思った、だと」
ザンビエンの胸には、さらに大きな亀裂が。
「確信もなしに我と戦ったというのか」
「あんたは確信なんて持てる相手じゃないんだよ。自分でどう思ってるか知らないけど」
大きな二つの亀裂は無数の小さな亀裂でつながり、そして小さな亀裂はザンビエンの全身に広がって行く。
「一つ聞いていいか」
ランシャが問い、ザンビエンが応えた。
「何だ」
「もしあんたが南の果てにある氷の大陸にいたら、誰も手出しはできなかったはずだ。何でガステリアにいたんだ」
「くだらぬ事を聞く」
ひびに覆われた仮面の下、ザンビエンは鼻先で笑った。
「氷の大陸に精霊の住まう土地はない。それだけだ」
「それだけ? 本当にそれだけなのか」
「どれほどの力を得られようとも、独りで生きて何が面白い。うぬもそれに気付いているはずであろうが」
仮面は砕け、ザンビエンは片手で顔を覆った。
「やむを得ん。うぬの封印が解けるまで、また氷の山脈に眠るとしよう」
「今度は前ほど長くはない。たぶん、すぐだ」
「フン、だといいがな」
ザンビエンの体は輪郭がぼやけ、霧のように薄れて行く。
「もう二度と会う事もあるまい。ランシャよ、せめてもの手向けだ」
そう言うと、何かを放って寄越した。それを素直にランシャは受け取る。何であるかなど確認するまでもない。
「さらば」
「ああ、さよなら。ありがとう、精霊王ザンビエン」
その姿はもう見えない。だが言葉は届いたはずだ。手の中にある、古い薄汚れた小刀を見つめながら、ランシャは確信した。
晶玉の眼を持つ女が告げた言葉は、奉賛隊の中に電撃のように広がる。
「来る!」
「来る!」
「来る!」
「ランシャたちが戻って来る!」
女が指さす北の方角を、皆は見つめる。やがてウィラットの千里眼がその姿を捉えた。
「こっちに向かって飛んでいます、三人、無事です!」
喜んだ奉賛隊の面々は手を取って踊り出す。砂漠の真ん中で大騒ぎ。そこに一瞬、日を陰らせて、両腕にリーリアとタルアンを抱えたランシャが降りて来た。駆け寄る皆の先頭を猛スピードで走るのはバーミュラ。そして何も言わずリーリアを抱きしめると、大声を上げて泣き出した。
皆に揉みくちゃにされながら、ランシャは人垣の向こうを見つめる。初めて見る二人。自分と同じ眼をした男と女。二人は何も言わず近付いて来ると、ランシャの前に立った。一同は不意に静まり返り、バーミュラの泣き声しか聞こえない。
「あんたたちが助けてくれたんだな、ありがとう」
ランシャの言葉に、男は首を振る。
「おまえが生きたいと願わなければ、誰も助ける事などできなかった。礼は自分に言うといい」
その静かな微笑みに、思わずランシャの口を言葉が突いた。
「……あんたら、もしかして俺の」
だが。
「いや、何でもない」
ランシャは笑顔で首を振る。男と女は顔を見合わせ、また微笑んだ。そして手に持った荷物を肩に担ぎ直す。
「もう行くのか」
「ええ、私たちのなすべき事は終わったから」
優しげな女の声。どこかで聞いた事があるような。
「おまえには私たちと一緒に来る権利もあるが、どうする」
力強い男の声。こちらもどこかで聞き覚えがある。ランシャはリーリアに目を向けた。笑っている。絶対の信頼を込めた顔で。透き通った眼の少年はうなずいた。
「俺にはこっちでやる事がある」
「そうだろうな。おまえはおまえの道を行けばいい」
男は言った。
「それがどんな険しい道でも行けるはず。あなたなら」
女が言った。
そして二人は背を向けると、二度と振り返らずに砂漠の向こうに去って行った。
「さあて! 感激のお出迎えはこれくらいにしようぜ」
ザッパ隊長が声を上げた。
「食料もそう余裕がないんだ、こんな砂漠の真ん中でいつまでもウロチョロしてられねえ。とっとと次の街まで急ぐぞ。出発の準備だ、準備!」
皆は名残惜しそうにランシャに手を振りながら、それぞれ自分の持ち場に戻って行く。バーミュラだけはまだ、困り顔のリーリアを抱きしめてオイオイ泣いていたが。
「おい婆さん、いい加減泣き止んでくれよ」
隊長のその言葉に、バーミュラはキッとにらみつけた。
「うっさいね! 婆さん言うんじゃないよ、このヒヨッ子が!」
そしてようやくリーリアを解放すると、ランシャを見つめる。
「これで終わった、なんて安心するんじゃないよ」
「ああ、わかってる。いまから始まるんだ」
「人間は場合によっちゃ精霊よりも魔族よりも厄介だからね、覚悟しとくこった」
「肝に銘じておく」
ランシャは笑顔でうなずいた。
「大丈夫ですよ」
リーリアが笑顔で胸を張った。
「ランシャには私がついてますから」
「うん、大丈夫だよこの二人なら」
タルアンも笑った。頭の上でジャイブルが前方を指さす。
「よーし、じゃあ旅だ旅だ! 旅を始めるぞ!」
「おー! 旅だ旅だ!」
駆けて行く二人を見て、隊長もバーミュラもそれぞれ歩いて行く。残されたのはランシャとリーリア。
「ランシャ」
リーリアが見つめている。
「私、まだあなたに言われていない言葉があるんですけど」
ランシャは一瞬目を丸くしたが、しばし考えるとリーリアの耳元で何やらささやいた。
「はい」
リーリアは微笑むと、左手のひび割れた青い指輪に目をやった。
「あなたが証人ですよ、ラミロア・ベルチア」
雲一つない空を、太陽が高く昇って行く。何よりも明るく、何よりも厳しい砂漠の太陽が。二人の前途を照らすかのように。
――俺、少しだけ変わったかもな、リン姉
ランシャは空を見上げて、心の中でそうつぶやいた。