三十万の手足
ミシリ。握られるギーア=タムールの左手の中で、地竜ガニアの尾は脈動した。
「おまえが天界だと。神だとでも言う気か!」
吐きかけられる炎を斬り割った聖剣リンドヘルドは、そのままの勢いでガニアの尾を切断する。
「所詮はトカゲの浅知恵」
ギーア=タムールは平然と切り取った尾を放り出し、一方の地竜は一瞬で尾を元通りに生やした。それだけではない。放り出された尾からは竜の体が湧き出し、赤い竜は二頭となった。けれど聖騎士団長は動じない。
「神は我が内におわし、同時に外にもおわす。極小の点に立ちながら極大の世界を包む。神は私であり貴様でもある」
「ならばこの地竜ガニアに挑むは神に挑むに等しいと知れ」
前後から挟む二頭の竜に、ギーア=タムールは首を振った。
「だからトカゲだと言う」
「何」
「神は貴様たり得るが、貴様は神たり得ないのだよ」
「屁理屈を!」
二頭の赤い竜は前後から同時に火を吐いた。当然、上下左右に逃げ場はある。しかしそこには罠があった。目には見えない空間の亀裂が、トラバサミのように敵が踏み込むのを待っている。
地竜の力は大地の上でのみ発揮される訳ではない。大地より離れた場所であっても大地の上であるかの如く振る舞えるのだ。一瞬で何もない空間に穴を掘り、罠を仕掛けるくらいは造作もない事だった。
しかし。
ギーア=タムールは動かない。まるで川の流れに身を浸す修行僧のように、炎の中で身じろぎもしない。ただの炎ではない、岩山をも一瞬で溶かす地竜の灼熱の炎である。いかな青璧の巨人と言えど、マトモに浴びて無事に済むはずがない。そのはずだ。ガニアは困惑した。
前後から吹き付ける炎の怒濤が不意に止んだ。不用意である事は地竜も理解している。だが好奇心には勝てなかった。相手がいかにして、どのように炎に耐えているのか、どうしてもその目で確認したかったのだ。
暗闇の中、ギーア=タムールの体は薄青く輝いていた。強烈な光ではない。少しボンヤリとした、風が吹けば揺らめきそうな、そう、まるで無数の小さな炎が集まっているかの如く。
「まさか」
「どうした」
その口元が微笑んだ。
「この体を炎とした事がそれほど不思議か」
「お、おのれは」
地竜は動揺している。これでは炎を事実上封じられたも同じ。燃え上がらせる事には長けていても、炎を消す事まで得意としている訳ではない。青い炎の集合体は言う。
「そも、炎は神が下界にもたらした物。言わば、もっとも小さな神の力の顕現」
「小さいだと」
感情的になるガニアの言葉には、もはや地竜としての威厳はない。怒鳴る声もただの虚勢である。聖剣リンドヘルドが静かに振り上げられた。
「神の威光の前には、貴様の口が吐く炎も、かそけきランプの火も同じ。小さき力を誇る竜よ、己が卑小さを知るが良い」
闇に燦然と青く強い輝きが満ちる。
「ほざくなぁっ!」
前の地竜が叫ぶと同時に、後ろの地竜が尾を打ち付けた。青い光がそれを断つ。しかしそれは愚策、地竜の数が増えるだけ、と見えた。少なくともガニアはそのつもりだったのだろう、よって次に展開した光景に愕然とする事となる。
切断された尾からは三頭目の地竜が姿を見せた。ただし一瞬。その体はすぐに茶色い土塊と化し、ボロボロと崩れて行く。そして尾を切断された二頭目の竜も、土塊となり後を追った。
「何をした……おのれ、何をした!」
ガニアの怒声には恐怖が垣間見える。ギーア=タムールは静かに答えた。
「地竜の力は大地の力。世界に大地が存在する限り、貴様の力は恒久無限。ならば、なすべき事は簡単だ。貴様を大地から切り離せば良い」
「切り離すだと? 何を馬鹿な」
「いまこのリンドヘルドの輝きが照らす域内に、貴様の世界の法則は通用しない。ここはすでに天界の内である」
それを信じた訳ではない。信用する理由もないからだ。だが、もしも。地竜ガニアは背を向けた。そして全速力で飛ぶ。その目の前に青い聖剣の輝きが映るまで、三秒とかからなかった。再び背を向けて飛ぶ。また目の前に青い光が現れる。ガニアは姿を消した。遠くへ、できるだけ遠くへと空間を跳躍する。しかし姿を現わした地竜の目の前には、やはりギーア=タムールがいるのだ。恐るべき速さで先回りをしているのでなければ、答は一つ。
「非力で矮小な己を受け入れよ。神は常に貴様の眼前におわす。竜よ、ひざまずき頭を垂れるが良い」
「笑わせるな」
地竜はうめく。
「神に頼らねば満足に歩く事もできぬ力なき者が何を言う。神にすがらねば目を開ける勇気もない臆病者が何を言う」
「己を知らぬ勇気など、ただの蛮勇」
「命とはそういうものだ! 生きるとはそういう事だ! 神以外の光を知らぬその目には見えまい、この世に満ちる数多の光がな!」
青い光が瞬いた。地竜ガニアの首に、胸に、腹に、青い直線が斜めに走る。そして静かになだれ落ちて行く。暗黒の奈落の底に。
「愚かなる竜よ。神こそがすべてを照らす光の根源なのだ」
炎の集合体から元に戻ったギーア=タムール。その耳の内に聞こえるかすかな声。
――ならば一つだけ教えておいてやろう
「しつこいトカゲだ」
と苦笑するが、次の言葉に眉を寄せる。
――おまえは神以外の光を一つ、知っている。見えぬが故に気づかぬだけだ
「ほう」
――そのときまで、おまえは気づくまい。そして悔やめ。そのときに……く、や……
声は消えた。静寂の中、青い聖騎士団長は一つ笑う。
「ならばそれを楽しみに待とう」
「悔やむがいい!」
天上から落ちてくる六本の黒い稲妻を、魔剣は一撃で弾いた。
「悔やみはしない!」
ランシャは一瞬で雲の上まで駆け上るが、ゲンゼルはさらなる高みへと飛び去る。そして黒い稲妻を投げつけるのだ。
(レク、あいつの足を止める方法はないか)
「あいつ足ねえだろ」
(レク)
「わーってるよ、せかすなって……あ、こういうのどうだ」
レクの提案にランシャはうなずき、ただちに実行した。
「言霊よ開け!」
「ザンビエンが敵に回ったのはちょっと痛いね」
左後頭部のソトンが言う。
「元より当てにはしていない」
ゲンゼルは答えた。
「そもそもこの世界を手中に収めるためには、いずれ倒さねばならん相手だ。それが少し早まったとしてもどうという事はない」
「でもあのランシャは厄介だね」
右後頭部のアトンが言う。
「弱くはない。だが所詮、経験の浅い小僧だ」
ゲンゼルは答えた。
「ジクスが倒れ、ギーア=タムールも姿を消したいま、趨勢は固まりつつある。余が最後に立っているためには、もはや遊んでいられる段階ではない」
腕を広げて背中向きに天に昇り続ける漆黒の三面六臂。六本の人差し指が東西南北天地の六方位を指す。
「六方壊滅」
ゲンゼルが黒い歯を剥き出しにしたと同時に、各指の先端に輪状の闇が生まれる。下界から駆け上ってくるランシャに向けて雷鳴の如く轟く声で叫んだ。
「消え失せよ、小僧!」
だがそのとき。
「あ」
ソトンとアトンが同時に声を上げる。その目は天上に向けられていた。
真上から雷の速度で激突する巨大な塊。魔道士ダリアム・ゴーントレーが天使を退けたときに使った流星の言霊である。これにはいかな三面六臂の魔人とは言え、動きを止めざるを得なかった。それを見てランシャが一気に迫る。しかし。
「壊滅せよ」
ゲンゼルの両目に宿る黒い炎。上に向けた人差し指の、その周囲を巡る黒い輪が回転しながら拡大すると、流星は一瞬で砕け散った。同時に下に向けた指の黒い輪も広がる。それはランシャをこの世界から抹消し、地上を粉砕するはずだった。
ランシャは魔剣レキンシェルを振る。まだゲンゼルまでは随分と距離があるにも関わらず。まるで何もない空間を斬るかの如き動きに、ゲンゼルの口元は緩んだ。
「悪あがき……」
言葉は途切れた。何故ならゲンゼルの全身を、無数の氷の刃が貫いたから。何だ、どういう事だ。ここは雲を遙か下に見る高い空。空気も薄く水分もない。こんな大量の氷がどこから湧いて出て来たというのか。
そう、考えるまでもなく答は一つ。ゲンゼルは気付いた。あの流星が氷でできていた事に。
水ならば下界に豊富にある。精霊王ザンビエンの力をもってすれば、それを一瞬で宇宙にまで運ぶ事は容易かろう。そんな行為に意味はない。普通なら、常識的に考えるならそう思う。暗愚帝ゲンゼルともあろう者が、無意識に常識に縛られていた。ザンビエンの力は必ず下からやって来るのだと。それは暗愚ではない。ただの高慢だ。
昇竜の如く迫るランシャは、レキンシェルを振りかざしゲンゼルの首を狙う。空中で針山のようになっている暗愚帝は氷を砕きながら迎え撃とうとするが、思うように身動きが取れない。万事休すかと思われた、そのとき。
ばくり。
巨大な影が横手からゲンゼルを咥えたかと思うと、猛スピードで飛び去る。それが天竜ファニアだと気づいたときにはもう遅い。黒い天竜は漆黒の三面六臂と共に遙か遠くへ姿を消していた。
(レク、どう思う)
ランシャは心の中で問いかけた。頭の中に呆れ返ったような声が聞こえる。
「どうもこうもあるかよ。後々面倒くせえ事になるぞ、アレは」
(だろうな)
しかし後を追える速さではないし、リーリア姫たちを放ってもおけない。ランシャは真っ直ぐ地上へと高度を下げて行った。
フーブは相変わらず回り込む月光の将ルーナの剣をかわし、銀色の風を吹き付けている。合間に聖騎士たちを消し去り、周囲の状況に目を配る。ゲンゼルはランシャに敗れたが、おそらく死んではいない。連れ去った天竜の思惑は不明だ。地竜とギーア=タムールの行方はいまだ知れず。現実的に考えるのなら、ランシャとラミロア・ベルチアの動きを注視すべきだろう。
頃合いだ、次の段階に進むか。
風の巫女の両目から発せられた光が天に伸びる。そして花火の様に広範囲に散った。それが何を意味するのか、知っているのはフーブだけ。
聖騎士はもう何人犠牲となったろう。この神殿の中で倒された者だけでも、おそらくは万単位ではないか。フーブの動きには疲れも衰えも見えない。だが所詮は人の意思の集合体、その力は無限ではないはず。それはルーナの確信であり、同時に油断でもあった。
フーブの目が天に向かって光を放つ。自分たちへの攻撃ではない。ならば、何のための光なのか。
「フーブ、貴様何をした!」
「知りたいか」
風の巫女は静かに微笑む。
「慌てずとも良い。すぐにわかる。ほら、もう聞こえるであろう、我が軍勢の足音が」
軍勢だと? ルーナは眉を寄せた。いまこの地にいる軍勢は聖騎士……そして。月光の将はようやく気付いた。
「まさか、アルハグラの」
そう、いまこの周辺には、帝国アルハグラの兵三十万人が集まっている。もしその意識がフーブに囚われたのだとしたら。巫女は笑った。いや、嗤った。
「人間はフーブには逆らえぬ。さてさて三十万の手足、多いか少ないか」