見えない鎖
天から落ちた水色の光は、地上すれすれで水平に飛んだ。眼下には低層の建物が連なり、その合間の路地には時折武装した兵が立つ。アルハグラの兵隊だろうが、途方に暮れているように見えた。
水色のリーリアにお姫様抱っこされたランシャは、耳元を過ぎ去る風の音を聞きながら、さてどう声をかけたものかと悩んでいる。しかし先に口を開いたのはリーリアの方だった。
「ごめんなさい、ランシャ」
リーリアの顔の水色が薄まっている。
「来るなと言われたのに来てしまって」
「いや、まあそのおかげで助かったんですが」
それは事実である。とは言うものの、この場の現状は厳しい。大精霊ラミロア・ベルチアの力をもってしても大した助力にはならない。どちらかと言えば、足を引っ張る可能性の方が高いだろう。そんなランシャの気持ちを知ってか知らずか。
「父は人を捨ててしまいました。もはや人の世の王とは呼べません」
涙は流さない。けれどリーリアの言葉は慟哭に聞こえた。
「私が父を討つとき、助けてくれますか」
「それは無理だ」
その声にリーリアは振り返る。漆黒の三面六臂が迫っていた。
「余を倒したくば、他人の力など当てにせず、己の力でどうにかせよ」
黒い歯がむき出しになり、六つの手が六角形の呪印を描く。だがそれを、ランシャの左手から放たれた正三角形の呪印が打ち砕いた。
「俺が姫の力だ」
ランシャが飛ぶ。ゲンゼルに向かって。だがその全身にみなぎっていた力は、突如消え失せた。頭の中に響く魔獣ザンビエンの声。
――ゲンゼルと戦う事は許さぬ
人の意識は小さな力。それはこの世界にごく僅かな影響しか与えない。一つ一つバラバラならば。だが何万、何億という人間がもし同じ方向に進めば、理屈の上では世界を変革し得る巨大な力となる。あくまでも理屈の上では。
現実には人間は同じ方向を向けない。何故なら肉体を持つからだ。人の意識は肉体に束縛される。肉体は優劣を生み、差別を生む。肉体のほんの僅かな違いに人間はこだわり、他者との相違点ばかりを躍起になって探す。個としては集団の中に埋没する事を選びながら、己の体だけは特別であると思いたがるのだ。
ではもし、肉体がなければどうだろう。人の肉体から意識だけを抜き出し、無数に集める事ができたら、それらは容易に同じ方向を向き、そこには巨大な力が発生するのではないか。かつてそう考え付き、かつ実行に移すだけの異能を持ち合わせていた者がいた。それがフーブである。
戦乱の時代も彼女を後押しした。戦場で死を迎える数多の命から意識を抜き出し『喰らう』事により、人が死ねば死ぬほどフーブは強大になる。その力はやがて周囲の思惑を超え、誰にも制御不能となり、とうとう人の世に在りながら神となった。
もはや人間はフーブに逆らえない。いかに巨大な戦力を投入しようと、すべての兵の意識が抜き去られてしまっては何の役にも立たないからだ。結果、人類は敵対ではなくフーブとの協調を選んだ。その死をフーブに捧げたのである。こうしてフーブ信仰は誕生した。
だがそれも文字通り風前の灯火。いまフーブに襲いかかる敵は、人の姿をしているが人ではない。天界の力を身に帯びた聖騎士たちの意識は、フーブの影響を受けないのだ。
風切、風音、風月の三人を防御に回しているものの、多勢に無勢。特に一度死んだ肉体を無理矢理動かしている風月は、もはや限界を超えている。入力の増加に対して出力が頭打ちになり、動かす価値がなくなってしまった。風切と風音もそう長くは持つまい。事ここに至っては、選択肢は二つしかない。結界の内側に閉じこもるか、打って出るか。
しかし閉じこもるのは現実的とは言えない。人の意識といえど所詮は力、使えば消費される。絶えず外界から補給され続けなければ、神としての能力を維持できず、すべてを失う羽目になる。つまり実質、打って出る以外に手段は残されていない。
備えはできているのだ。フーブの力を最大限引き出せる機能を持つ肉体はすでに用意してある。風の巫女という肉体を。後はただ、その中に入り込むだけ。もちろんフーブに入り込まれれば、巫女の意識はフーブに同化される。故に巫女一人あたり一度しか使えず、次の巫女適格者を探し出すまでその肉体に縛られねばならないという難点はあるが、いまは非常時、やむを得まい。
濃密な銀色の風が吹いた。風に触れた聖騎士たちの体が粒子となって散る。風の作る円陣の中心で風の巫女は、いや、受肉したフーブは微笑み叫んだ。
「降臨!」
闇。ギーア=タムールの周囲は突然暗黒に包まれた。だが眉一本動かない。聖剣リンドヘルドの青い輝きが辺りを照らしているものの、何一つ見える物はない。大地はなく空もない。音も風もない虚無の空間。けれど彼は知っていた。この青い光に誘われて、闇の中から何かが集まってくるであろう事を。
背後に気配が揺らめいた。ギーア=タムールは振り返らずに、ただリンドヘルドを後ろ向きに斬り下ろす。左右を炎の壁が走り抜けて行く。その熱波が通り過ぎたとき、ようやく後ろを振り返った。
聖剣の青い輝きの中に浮かぶ、真っ赤な巨竜。
「なるほど、ここが異界か」
空気すらないであろう場所で、ギーア=タムールの声が聞こえる。竜の口が、ニッと笑った。
「そう、我らが世界だ。おまえの命運もここで尽きる」
「何を勘違いしている」
聖騎士団長は微笑み返した。
「天界から見れば、ここも下界の一つに過ぎん」
「この世界に天界などない!」
竜の長い尾がムチのように襲いかかる。だがそれを、ギーア=タムールは左手一本で軽々と受け止めた。
「残念、私が天界なのだよ」
そう笑いながら。
ザンビエンの力がなくとも飛ぶくらいは造作もないが、反撃できる余裕もない。ランシャは黒い三面六臂からの攻撃をかわし続けながら精霊王に問うた。
「何故力を貸さない、ザンビエン!」
――貸さないのではない。貸せないのだ
頭の中にザンビエンは応えた。
――グレンジアの一族とは血の盟約で結ばれている。加護を与えるのが我が役目であれば、その当主と戦う訳には行かぬ
ラミロア・ベルチアの思念がそこに割り込んでくる。
「ヤツは人である事を捨てたのだぞ、しかも魔族や精霊をも支配するつもりでいる」
――つもりはあくまでつもりであり、ゲンゼルの勝手だ。それを理由に盟約を破棄はできない
「ええい、何たる石頭!」
ゲンゼルのリーリアに向けて放った六角形の呪印を、ランシャが辛うじて叩き落とした。そのとき、リーリアの水色の光が薄まる。
「兄をここに呼び寄せてください」
同じ口が疑問を呈する。
「タルアンを? そんな事をして何になる」
同じ口がさらに応える。
「いいから早く!」
次の瞬間、タルアンの姿がリーリアの目の前に浮かんだ。突如呼ばれたタルアンは、不思議そうにリーリアを見て、次に漆黒の三面六臂に目をやった。
「ひいいいいいっ!」
それが何者であるか、さすがに一目で理解する。
「リーリア! ち、ち、父上っ」
慌てるタルアンにリーリアはうなずくと、こう声を張った。
「緊急動議を提出します」
タルアンは目を丸くした。ゲンゼルが意識を向け、リーリアと視線を合わせる。
「帝国アルハグラ第十二王位継承権者リーリア・エル・グレンジアの名の下に、ゲンゼル・ダン・グレンジアの王位を剥奪し、王家より追放する旨、ご賛同いただける場合には挙手をお願いいたします」
リーリアが手を挙げ、タルアンも勢いにつられて手を挙げた。黒いゲンゼルは首をかしげた。
「何の茶番だ」
「訂正いたします。第十二王位継承権者ではありませんでした。いまは第三王位継承権者です」
「何だと」
「いまグレンジア王家は、あなたを含めて四名しか存在しません。うち半数がこの動議に賛意を示しました。事実上過半数であり、あなたはもはやグレンジアの王族ではありません」
「そんな決まり事を作った覚えはない」
「私がいまここで作りました。不服とあらば、人の姿に戻り、ゲンゼルとして反論を述べてください。グレンジアは人の世の王族です。人でない者の意見は受け付けません」
そしてリーリアはランシャに顔を向ける。
「精霊王ザンビエンよ、グレンジア一族と血の盟約を結びし者よ、いまこそご加護を与えたまい、王家の敵を討ち滅ぼしたまえ」
「笑止。そんな子供じみた理屈が通用するとでも」
黒い歯を剥き出したゲンゼルの動きが止まった。その全身は厚い氷に包まれている。
――なるほどな
頭の中に響くのは、ザンビエンの声。
――いささか小賢しいきらいはあるが、話として筋は通る
「では」
リーリアにザンビエンは告げた。
――よかろう、娘。うぬを正統なグレンジアの後継者と認めよう
重い音と共に氷が砕け散る。
「ザンビエン、裏切るつもりか!」
しかし砕けた氷はただの氷ではない。破片がヘビのように集まりゲンゼルの周りにまとわりつくと、首を締め上げた。
――それこそ子供じみた理屈よな
ランシャの体に再び強大な力が戻ってくる。レキンシェルの白い刃が伸び、輝いた。
――我が盟約を結んだのはグレンジアの血統である。ゲンゼル、うぬではない
一瞬の静寂の後、聞こえるのは小さな笑い。声の主、ゲンゼルの姿は不意に煙のように消えた。その場に氷の頸木を残して。
「余は暗愚なれば」
空の上から声が聞こえる。ランシャは飛んだ。
「余は暗愚なれば、敵味方を知らず。すべてを滅するのみ」
吹き付ける銀色の風をかわし、回り込んで斬りつける。その単調な繰り返し。それが月光の将ルーナの戦い方。派手な特殊能力もなければ奇想天外な策略もない。しかしこの地味な攻撃が効果的である事を、彼女は経験的に知っていた。信じていたと言うべきか。
回り込むルーナの剣をかわし、銀色の風を吹き付ける。その単調な繰り返し。それが月光の将に対する戦い方。派手な特殊能力を見せつけ奇想天外な策略を弄する事も可能だが、この地味な戦法こそ相手をここに釘付けにするために効果的である事を、フーブは理解していた。
月光の将は厄介な相手ではあるものの、倒すだけならそう難しくはない。ギーア=タムールが天竜ファニアに飲み込まれたこのタイミングである、邪魔をするのは有象無象の聖騎士のみ、一気に倒してしまっても問題はないのかも知れない。しかしまだギーア=タムールが死んだと決まった訳ではない。もし生きていたとしたら、正面からぶつかるのは得策とは言えない。『壁』が必要になるだろう。
それに天竜や暗愚帝ゲンゼル、ザンビエンの力を振るうランシャに、その近くにいるラミロア・ベルチアもこの先どう動くかまだ不明だ。フーブの力を持ってしてもすべてを見通すのは難しい。ならば安全策をとる必要がある。月光の将ルーナの首には、言わば目に見えない鎖が巻き付いているのだ。そう簡単に手放すものかとフーブは考えていた。