恥辱
大地を厚さ数メートルの氷が覆う。それは神教国ダナラムの首都グアラグアラの一面を覆い隠し、山脈を越え峡谷を越え、川を湖を凍り付かせ、国境の向こう、帝国アルハグラ領内の砂漠にまで一瞬で達した。無論、その範囲内に存在する生きとし生けるものすべてを氷結させて。
――ランシャ!
大氷結の中心にあって、ランシャの周囲にだけは氷がなかった。いや、もう一カ所。離れた岩陰のリーリアとタルアンの周囲にも氷はない。こちらはラミロア・ベルチアの回転する水の壁が、何とか氷を押しとどめている。水色のリーリアが叫んだ。
「ランシャ、聞こえているか! いますぐこの氷を消せ! 何人死ぬかわからんぞ!」
聞こえていた。声は確かに届いていた。だがランシャは躊躇っている。いま足の下には、吹き上げるマグマの如く大地を砕かんとする巨大な力がこちらを伺っている。氷が少しでも薄くなれば一気に地面ごと斬り割ってやろうと、聖剣リンドヘルドが待ち構えているのだ。
ザンビエンの力を過小評価していた訳ではない。しかしこの咄嗟にこれだけの力が発揮されるとはランシャにとっても想定外だった。氷の消し方がわからない訳でもない。だが迂闊に消せば、間違いなく縦に真っ二つである。厚い氷の向こう側に、ギーア=タムールの気配は消えていない。それどころか、より強くなっている気すらする。どうする。
「ランシャ急げ、間に合わなくなる!」
悲鳴にも似たラミロア・ベルチアの声。ランシャは叫んだ。
「レク、手伝え!」
氷が消えた。すべて一瞬で消えた。厚い氷に封じられたあらゆる命が息を吹き返した。すなわち、ギーア=タムールと聖剣リンドヘルドも。
大地に青く輝く直線が走り、光の剣が土の中から、まるで何の抵抗も感じないかの如き勢いで真上に振り上げられる。それはランシャの体を股から頭まで一気に切り裂くはずであった。だがそれを食い止めたのは、二本の白い刃。ランシャの氷の右手から伸びた氷の剣と、ダリアム・ゴーントレーの握る魔剣レキンシェル。ダリアムの目は驚愕に見開かれている。
ランシャの頭の中に、あの懐かしい声が聞こえた。
「いい加減にしろ、何でオレっちがおまえを助けなきゃいけないんだよ」
(文句なら後で聞いてやる。いまは目の前に集中しろ)
「後があればいいけどな!」
レキンシェルの切っ先がギーア=タムールに向かって走る。右手を放す事も出来ずに引っぱり回されるダリアムが慌てた。
「うぉおい! 待て、待たんか!」
「待てる状況じゃねえだろうが!」
レキンシェルの突きをリンドヘルドは軽々と打ち払い、そのままダリアムの首を狩らんと刃を翻す。だがランシャの氷の剣が上から押さえた。押さえたつもりだった。それをギーア=タムールは力尽くではね除ける。ランシャの体はダリアムにぶつかり、そのまま宙を舞った。しかし地面にぶつかる際に受け身を取り、即座に体を起こして剣を敵に向けると、大上段から振り下ろしてくる聖剣に叩き付けるように氷の剣を振った。
ランシャは己の体を通してザンビエンの強大な力が氷の剣に流し込まれるのを感じている。重い音と全身を砕くかと思うほどの衝撃を受けて、それでも氷の剣は折れずに青いリンドヘルドの刃に耐えていた。
「ほう、少しはザンビエンの力を使えるようになってきたか」
ギーア=タムールは笑顔を見せる。もっともその目は笑っていないが。
「おかげさまでね」
ランシャも笑顔を見せる。全力で食いしばる口を開ける余裕はなかったが。
「それでこそ戦い甲斐もあろうというものだ」
その言葉と共に、リンドヘルドが急激に重くなる。ランシャはザンビエンの力を頼りに耐えるが、腕が震え膝が笑い始めた。
「まだだ。まだまだ。天界の重さはこんなものではないぞ」
何とかはね除けようと、それが無理なら氷の剣を傾けて力を受け流そうとランシャは考えているのだが、圧力が強すぎて上手く行かない。足が地面にめり込んで行く感覚。このまま押し潰す気か。ギーア=タムールの目に嗜虐的な輝きが見えたそのとき。
敵の背後から斬りかかるレキンシェル。しかし相手は振り返りもせず、ただ当たり前のように左手を後ろに伸ばし、白い刃を人差し指と中指でつまんだ。それでもう動けない。圧倒的な実力差。隙などどこにもないかに見えた。少なくともギーア=タムールには隙を見せたつもりはない。だがランシャは気づいていた。目には見えなくとも意識の中に隙が生まれるはずだという事に。
ランシャの氷の剣が膨張した。一気に十倍近い太さになり、リンドヘルドを咥え込む。そのタイミングとスピードは、ギーア=タムールの虚を衝いた。その顔にごく僅かな動揺が見て取れる。ほんの一瞬、剣を押し込む力が緩んだのを見逃さない。ランシャの全身は白い冷気をまとい、ザンビエンの力と一体となって押し返した。さらに剣をひねる。ギーア=タムールの手からリンドヘルドを奪おうというのだ。敵は当然抗うものの、左手のレキンシェルを放す訳には行かない。いかな無敵の聖騎士団長と言えど、右手一本でザンビエンの力を受け止め続けるのは不可能である。故に。
聖剣リンドヘルドは割れた。六十四の断片となって宙に舞い、氷の罠から逃れた。しかし、これこそがランシャの真に待ち望んでいた瞬間。太った氷の剣は砕け、中から針のように細いシルエットが現れる。その先端がギーア=タムールの喉を狙った。だが止まる。刃を失ったリンドヘルドの柄の頭が、暗い夜の闇に溶け込みそうな細い氷の剣の切っ先を止めたのだ。
「貴様、リンドヘルドの能力を知っていたのか」
「俺が知ってた訳じゃないけどな」
共に口元に強気の笑みを浮かべながら、短い会話を交わして二人は距離を取る。ギーア=タムールは左手のレキンシェルを放り出し、右手にはリンドヘルドの刃が戻って来た。ランシャは視線を敵からそらさずに声をかける。
「レク、ダリアム、まだやれるか」
頭の中に返事が聞こえる。
「やらなきゃ終わりなんだろ?」
(まあそういう事だ)
頭の中でそう答えた。
突然氷漬けになったのは想定外だったが、その氷が消えたときの動きには迷いがなかった。月光の将ルーナは真っ直ぐにフーブ神殿へと走る。周囲にはそれを阻止せんとジクリフェルの四賢者が、いや黒山羊公カーナを除いた三名が追いすがった。
行く手を阻む金色の光。細い金色の鎖で編まれた巨大な蜘蛛の巣である。
「邪魔だ!」
ルーナは剣を振るうが、蜘蛛の巣は切れずに絡みつく。足が止まった。
「リンドヘルドでもあるまいし、そんな剣で簡単に切れるはずがないでしょう!」
妖人公ゼタが真上から妖刀土蜘蛛を振り下ろす。しかしルーナは黄金の蜘蛛の巣が絡みついたままの剣で、ゼタの体ごと弾き飛ばした。
「この、腕力馬鹿女!」
地面をはね転びながら悪罵を投げつけるゼタには、もう意識は向いていない。ルーナの正面には魔獅子公フンムと毒蛇公スラが回り込んでいたからだ。
「邪魔をするな、どけ!」
ルーナの気迫にいささか気圧された二人であったが、それで道を譲るほど間抜けでもない。
「どかねばどうする」
フンムは無銘にして無尽たる戦斧を構えたが、対するルーナの返答に息を飲んだ。
「二度と武勇を語れぬほどの、この上ない恥辱にまみれさせてやろう」
「なっ」
それはフンムにとって死ねと言われるより厳しい言葉。全身の体毛がたちまち逆立ち、両目は怒りに充血した。
「おのれはぁっ!」
言葉と同時に手と足が出る。ルーナに急迫し戦斧を振り下ろした。それを剣で受けると一瞬見せかけて、しかし身をかわす月光の将。
「何っ!」
土煙を上げて大地をえぐる戦斧とその主を背に、ルーナは毒蛇公に直進する。金色の蜘蛛の巣が絡みついたままの剣で、鎌首をもたげたスラを殴打した。無論スラとて、ただ殴られただけではない。全身を無数の小蛇に分け、ダメージを減らした。そして一部はルーナの死角に回り、魔法の牙を立てようとしたのだ。
だが突然ルーナの周囲に突風が吹き荒れ、軽い小蛇の群れは巻き上げられてしまう。その風を切り裂いて水平に走る戦斧。これをルーナは左手で受け止めた。そして右手の剣がきらめく。黄金の蜘蛛の巣は細かな断片と化し、無銘にして無尽たる戦斧は柄を切断された。
「愚かな!」
無駄な事をとフンムはあざ笑い、握った柄を振る。そうすれば再び戦斧が生える。故に無尽。そのはずだった。けれど戦斧は生えない。愕然とする魔獅子公に、おぼろに輝く刃が迫る。
「フンム!」
夜に響いたそれはゼタの声か。鎧をまとった巨躯は四肢を切り離され、地面に転がった。しかし、とどめは刺されない。
「おのれ、何故殺さぬ」
月光の将ルーナは冷たい目で一瞥すると、フンムに背を向けてこう言った。
「その問いには、すでに答えた」
神殿の中まで氷に覆われたのは正直驚いたが、動揺はしなかった。氷が消えたとき、炎竜皇ジクスにはハッキリとわかった。
「いまザンビエンの力を振るっているのはランシャだよ」
三本角の少年は、遠い目でつぶやく。
「わかっています」
隣に立つ銀色の髪の少女は、どことなく不満げだ。それに気づかないかのようにジクスは続けた。
「ランシャがザンビエンと手を結んだとなると、ちょっと厄介だ。まさかギーア=タムールを倒せるとは思わないけど、一応それも考えておいた方がいいかも知れない」
「あなたは気にならないのですか」
苛立たしげな風の巫女に、ジクスはようやく目を向ける。
「何が?」
「ザンビエンの様子がここから見えなくなっている事がです」
「君はザンビエンの秘密を知っていたじゃないか」
ジクスは微笑んだ。
「だったらザンビエンだって、こっちの秘密を知ってても不思議はないよ」
「相手はさっきまで封印されていたのですよ」
「封印されていた、眠っていたと言っても、『あの』ザンビエンだからね。常識が通じる相手じゃないし」
話にならないといった風に、巫女は目をそらす。
「遠目、早耳、まだザンビエンの様子はわからないのですか」
怒鳴り声を上げたい気持ちを懸命に抑えているように見えた。だが風の巫女の耳に届く声には、満足の行く情報が含まれていなかったらしい。その眉間にシワが寄ったとき、神殿の中に踏み入ってくる足音が聞こえた。
神殿の中にはギーア=タムールと一緒に直属の聖騎士も降りたはずなのだが、いまは誰の姿も見えない。つまりはそういう事である。月光の将ルーナは大聖堂の中心に立つ風の巫女と炎竜皇ジクスに怒りの眼差しを向けた。その間に割り込むように立ちはだかったのは、神槍グアラ・キアスを手にした風音と神盾グアラ・ザンを持った風切、そして風月の、鳥の翼を模した鉄の仮面の三人。
「……次から次へと羽虫のように」
吐き捨てるようにつぶやいたルーナの言葉に、応じたのは風切。
「ならば追い払えば良かろう。羽虫に食い殺されねばいいがな」
「食い殺せる者なら羽虫とは呼ばれぬよ」
三つの仮面に静かに殺意が満ちる。それに反応するかの如く、ルーナの剣の切っ先が上がった。
「押し通る」