医者の恥
氷の山脈に落ちたかに見えた流星は、山頂には激突せず宙に浮かんでいる。その中心に灰色のローブをまとった人影を映して。
――早かったな
透き通った巨大な氷の魔獣は、けだるげに顔を上げた。
「精霊王の依頼とあらば、何をおいても急ぐしかございますまい」
そう言うダリアム・ゴーントレーの右手にぶら下がるのは、ランシャの体。それをザンビエンは射るようににらむ。
――最後の最後に、この小僧を頼る事になるとはな
「お急ぎなされませ。どのような邪魔が入るやも知れません」
「たとえば、どんな邪魔だ」
その声にダリアムは顔を向け、ザンビエンは目を端に動かした。一段低くなった岩場に立つ水色の髪の美しい女。ダリアムは初めて見る顔だったが、それが誰かを知っていた。いわんやザンビエンをや。
――何用だ、ラミロア・ベルチア
精霊王の顔に表情はない。対する水の大精霊には笑顔があった。
「小娘に泣きつかれたのでな。おまえに文句を言いに来た」
――生贄の文句など聞くいわれはない
「ランシャを喰らうつもりか」
ザンビエンは一呼吸置いて、面倒臭そうな顔を向けた。
――喰らうのではない
「宿るのであろう。ランシャにとっては同じようなものだ」
――人の身には永劫とも思えるほどの命を与えられるのにか
「望まぬ長命など、地獄に等しい。違うか、魔道士」
ラミロア・ベルチアはダリアムを見つめている。
「はてさて、おかしな事を」
かつて魔人と呼ばれた男は笑った。
「不老長寿が人の夢である事は大精霊様もご存じのはず」
「それは違うな」
水の大精霊も笑った。
「古来より不老長寿を願う人間は、死の恐怖に取り憑かれた者たちばかりだ。己の死を想像すらしない若者は、不老長寿を望んだりはしない」
――何が言いたい
ザンビエンの苛立ちが伝わってくる。ラミロア・ベルチアは再び精霊王を見やった。
「おまえはそれで本当に良いのか、誇り高きザンビエン。抵抗の一つも出来ぬ、か弱き幼子を押さえつけて養分として、それで満足なのか」
――か弱き、だと
苦笑と言って良い笑みを浮かべて、ザンビエンは質した。
――この者が、か弱き幼子かどうか、うぬとて知っておろうが
「本来ならば、な。本当ならばザンビエンの宿主に選ばれるほどの人間だ、か弱い訳がない。だがいまのランシャがそうではない事は、おまえが一番よく知っているはず」
魔獣は沈黙した。それを見て、ラミロア・ベルチアは続ける。
「いと正しき精霊王よ。ランシャに記憶を戻してやったらどうだ」
「なんですと」
さしものダリアム・ゴーントレーも思わず焦って声を上げたその提案を、しばし吟味するかのようにザンビエンは唸った。
――そんな事をして何になる
「もしランシャが納得しておまえの宿主となれば、おまえはランシャの持つ力をすべて引き出せる。違うか」
再び黙するザンビエン。だがそれは肯定の沈黙であった。ラミロア・ベルチアは言う。
「ランシャが納得してくれればこちらも気が楽だ。小娘もこれ以上騒がんだろうしな」
「お待ちください、このような提案を真に受けられては危険です」
慌てて割って入るダリアムを視線一つで抑えると、氷の山脈の主は大精霊にこう問うた。
――無理矢理にランシャを宿主としても、ギーア=タムールには勝てぬか
「勝てぬだろうな。まあフーブとジクリジクフェルがどう動くかにもよるだろうが」
――とは言えど、他の宿主を探す暇もない
「ならば、思い切って賭けてみるしかあるまい」
――うぬの詐術は人間並よな
「人聞きの悪い事を言うな。私は嘘などついておらぬぞ」
――果たしてそうかな
ザンビエンが笑う。刹那、ダリアムの右手にぶら下がっていたランシャの体が白光に包まれた。全身が震え、見開かれた目からも光が漏れ出す。そしてその光は、透き通った晶玉の眼に宿った。
――目覚めたか、小僧
ザンビエンの問いかけに、ランシャは静かに顔を上げた。当惑はしているが、動揺はしていない。ダリアムの手を離れ、自力で宙に浮かぶとこう言う。
「どういうつもりだ、ザンビエン」
――うぬには一から説明せねばならぬな
精霊王は一つ、似合わぬため息をして見せた。
黒い人影がゆらり、揺らめいたように見えた。次の瞬間にはもうその大きな右手が、黒山羊公カーナの首をつかんでいる。
「ぎょえっ」
喉を締め上げられ無様な声を上げたカーナに、暗愚帝はニンマリと黒い歯を見せる。
「黒い者同士、仲良くしようではないか」
そう言い終わらないうちにカーナの八本の足が伸び、鋭い爪となってゲンゼルに襲いかかった。先端が相手の体に深く突き刺さる。が、カーナの直感が警告を鳴らした。何の抵抗も感じなかったからだ。思わず足を引き戻そうとしたものの、遅かった。ゲンゼルの体内に侵入した部分はスッパリと、鋭利な刃物で切り落とされたかの如く消失している。
しかしカーナが悲鳴を上げる事はなかった。何より喉を締め上げられていたし、それにも増して魔獅子公フンムの恐るべき戦斧が、カーナの首すれすれを、ゲンゼルの右手首に直撃したからだ。だが今度は打って変わって、ゲンゼルの体は鋼鉄の硬さを披露して見せた。怪力自慢のフンムが振り下ろした戦斧を、黒い手首は揺れる事すらなく跳ね返したのだ。
「ぬおっ」
たたらを踏むフンムに向かってゲンゼルは言う。
「余は暗愚なれば、理屈を知らぬ。よって火には火を、風には風をもって応ずるのみ」
「何を訳のわからぬ事を!」
フンムの二撃目は敵の脇腹を狙った。これも直撃するが、やはり跳ね返される。けれどさっきと同じではない。力任せに振り抜いて戦斧の柄を折ったフンムの陰から、妖刀土蜘蛛の切っ先をこちらに向けた妖人公ゼタが躍り出たからだ。その神速の突きがゲンゼルの目を狙う。白目のない真っ黒な目を。
「目玉も手首も変わりない」
その言葉通り、暗愚帝は瞬きすらする事なく、土蜘蛛の突きを眼球で受け止めた。それは狂気じみた光景であった。ただし、相手の視界を奪うという目的は達成されている。ゲンゼルは下を見ようとしたが、土蜘蛛の圧力がそれをさせない。そこに意識が集中している隙に、最も遠く離れた場所、つまり足首に二つの穴が開いた。毒蛇公スラの牙によって。
ゲンゼルは妖刀を思わず払いのけると、カーナの体を振り回し、足首に叩き付けた。
「ふげっ!」
カーナの口から変な声が出るが、そんな事はお構いなしである。
「ぬおおおっ、ぬおおおっ、ぬおおおおおおっ!」
ゲンゼルは狂ったかのようにカーナを足首に叩き付け続けた。
「動けばさらに毒が回る」
離れた場所からスラは言う。
「火には火、風には風で応じるのなら、毒には果たしてどう応じる」
「それは決まっている」
ゲンゼルは不意に叫ぶのをやめると、静かに言葉を返した。普段は無表情な顔にあふれんばかりの驚愕を映しているスラに向かって、黒い歯を剥きだす。
「毒をもって毒を制するのだ」
ゲンゼルの全身から黒い油のような汗が大量に噴き出した。それが地面に垂れると白煙が上がる。毒が大地を溶かしているのだ。黒い猛毒は驚くほどの速さで地表を滑るように進むと、スラの、フンムの、ゼタの足下に這い寄った。しかしその程度で動揺する三名ではない。一瞬で頭程度の高さに飛び上がりかわした。かに見えた。
毒液が壁を作る。すなわち垂直に伸び上がる。滝を遡る魚のように、勢いよく上昇した毒液が三名の足下に達しようとしたとき。そこに小さな何かが放り込まれた。すると黒い液体は渦巻き逆巻き、沸騰したかのように泡を生じさせると、弾けて散った。
「……ノスフェラか」
漆黒のゲンゼルのつぶやきに、いつの間にそこに立っていたのか、枯れ木を思わせるひからびた魔界医が応じた。
「いかにもいかにも。我が高名は人間界や田舎魔族の間にも広まっていると見えますな」
「自分で高名と言うのなら間違いない」
皮肉めいたゲンゼルの言葉であったが、ノスフェラは大いに首肯する。
「いかにも。客観的事実に間違いなどないのです」
そしてゲンゼルの右手につかまれたままのカーナに向かって声をかけた。
「カーナ様、ご心配には及びませぬぞ。後程このノスフェラが見事生き返らせて差し上げましょう。あ、聞こえてらっしゃいませぬか」
「聞こえておらぬようだ」
ゲンゼルはボロ雑巾のようになったカーナを放り出す。対するノスフェラは笑顔を見せた。
「まあ構いませぬよ。結果は同じですからな」
「ほほう、大きく出たな。まるで四賢者よりも強そうな口ぶりだ」
「強くはございません。それがしは、あくまで医者にございますから。ただし」
「ただし?」
「見立て違いは医者の恥。勝てない喧嘩に口を出すような、愚かな真似はいたしません」
ノスフェラは口元を釣り上げ、暗愚帝は歯を剥き出す。地獄のような笑顔の応酬であった。
「なるほど、話はだいたいわかった」
ランシャはうなずいた。それを見て精霊王は言う。
――ならば、このザンビエンの宿主となれ
「いや、それはちょっと待ってくれ」
平然と、当然の権利を主張するかのようにランシャはたずねた。
「何のために俺が宿主にならなきゃいけないんだ」
――それはいま説明したであろうが
「ザンビエンの中にいる前の宿主の力が衰えているのはわかった。ギーア=タムールと戦うために力が必要なのもわかる」
――では何がわからぬと言うのか。うぬの生まれ育ったこの世界が、天界に蹂躙されようとしているのだぞ
「それ自体は別に構わないんだけどな」
ランシャは苦笑する。
「別に人間の世界に思い入れがある訳じゃないし、もしかしたら俺たちは天界に支配された方が幸せになれるのかも知れない。ただ、世の中がそんなに甘くない事は知ってる。俺たちの幸せを第一に考えてくれる都合のいい神様なんて、いるはずがない」
それは天界の否定であり、フーブの否定である。
「なあ、ザンビエン。俺がおまえに取り込まれる以外に、本当に手段はないのか」
――他に何があるというのか。ごまかすな、うぬは命を惜しんでいるだけだ
「もしも、もしもだけど」
ランシャの晶玉の眼がザンビエンの目を見つめる。
「おまえの代わりに俺がギーア=タムールと戦っちゃダメか」
この返答に、氷の魔獣はしばし呆気にとられた。呆れ返っているのがヒシヒシと伝わってくる。
――うぬ如きが勝てる相手だと思っているのか
しかしランシャは笑顔で首を振る。
「俺一人の力で四聖魔の一人と戦える訳がない。でも、ここにいる全員が力を貸してくれたらどうだろう」
魔人ダリアム・ゴーントレーが目を剥いた。大精霊ラミロア・ベルチアも驚き慌てる。
「な、何を言い出す」
「冗談でも言い逃れでもない。ザンビエン、俺を取り込んでリーリア姫を喰らえば、本当にギーア=タムールに勝てるのか。俺を戦力として使うのと、どちらが有利に戦えると思う」
――ふざけるな。聖魔の戦いに、うぬ如きが戦力になると本気で思っているのか
「俺は氷の精霊魔法の使い方を知っている。正確にはサイーが知っていたと言うべきなんだろうが、とにかくもしおまえの力を使いこなせる者がいるとしたら、それはこの世界で俺だけだ」
ザンビエンは押し黙った。ランシャは念を押すように、静かに言葉を続けた。
「俺の代わりは他にいない。いま使うんなら、安くしておく」