宿主
リンドヘルドの輝きが収まったとき、残ったのは本物のギーア=タムールと暗愚帝の二人。
「貴様は消えてなくならんのだな」
さほど残念そうでもなくそう言うと、青い姿は背を向けた。警戒心などまるで見せずに。ゲンゼルは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「目の前の余よりもザンビエンが気になるか」
「ザンビエンだけではない。フーブもジクリジクフェルも斬らねばならん。まったく肩の凝る話よ」
「しかしザンビエンを斬るなら、いましかないのではないか」
その言葉にギーア=タムールは小さく振り返り、口元を緩めた。
「それでは面白くなかろう」
「天界は怒らぬのか、自由なものだな」
呆れ返る暗愚帝に、青い髪の聖騎士団長はこう返した。
「役目は果たす。だがそれ以外は好きにさせてもらう。人間であった貴様には想像もできないであろう長い時間、この身はただザンビエンと戦う事だけを待ち望んできたのだ。簡単に終わらせてはもったいない」
するとかつてのゲンゼル王は、退屈そうに欠伸をした。
「つまらぬ、つまらぬな」
「ほう、つまらんか」
苦笑するギーア=タムールに暗愚帝は言う。
「もったいないなどという意識を争い事に持ち込むのはつまらんだろう。争いとは命がけで運命に抗うのが醍醐味であろうに」
「見解の相違だな」
黒いゲンゼルも背を向けた。
「これ以上、お主と戦こうても甲斐がない。余は戻るぞ」
「フーブ神殿へか」
「あそこにはまだオモチャが残っておるのでな」
その邪悪な笑顔が透けて見えるような背中が、音もなく消えた。
月の隣に浮かんでいた巨大な天使の姿は消えたものの、砂岩の街ミアノステスの人々は星月夜を見上げたまま、余韻に浸るかの如く各々感じたままを口にしていた。その間を縫うように進む大柄な男。いかに夜の闇の中とは言え、これだけの巨躯がすぐそばを通れば威圧感など感じそうなものだが、誰も彼の存在に気付かないかのように目を向けない。男の名はイルドット。褐色の催眠術師。
ここに戻って来たのは独断である。彼に指示を与えてきた「彼の方」とは連絡が取れなくなっている。しかし、それはそれで都合が良い。己の判断で自由に動けるからだ。
まさか今夜、天使が降臨するなどとはイルドットも思ってはいなかった。だがこれを即座に好機と捉えたのはさすがと言える。目的はランシャ。晶玉の眼を持つ一族の末裔。イルドットの野望には欠くべからざる大事なピースだ。
リーリア姫とタルアン王子が姿を消した事はもう知っている。ならば後、邪魔になるのはバーミュラとライ・ミンの二人の魔道士だけ。この二人が外に出ていてくれたなら、もはや成功したも同然である。そして、天運は彼に味方した。立ち止まったイルドットの黒い瞳には、奉賛隊の隊長たちと共に空を見上げる二人の魔道士の姿が映る。
巨躯は褐色の風となって夜を駆けた。ランシャが宿の奥の部屋にいるのはわかっている。調べ事をするのに催眠術ほど便利なものはないのだ。廊下を走り抜けドアを開く。小さなランプの灯る暗い部屋の隅で、毛布にくるまって震えている少年。
「うあ、あっ、何」
驚いて声を上げる少年に向かって、イルドットは指をパチンと鳴らした。
「眠れ」
一瞬で崩れ落ちたランシャを急いで肩に担ぎ、外へ急ぐ。イルドットを視認できる範囲内にいた者は、すべて催眠術にかかっているはずだ。だが人は歩き移動する。いかなイルドットといえど、ミアノステスの街にいる人間全員を催眠に落とすのは容易ではない。余計な事はせず、早急にここを離れるのだ。
その堅実さは結実し、ランシャを担いだ催眠術師は無事街の外へと出る事に成功した。あとは荒野を駆け抜けるのみ。そして落ち着いた場所でランシャに深層催眠をかけ、操り人形とするのだ。何も間違ってはいない。すべては計算通り。だがイルドットは見落としていた。どんな場合であれ、想定外は常に存在し得るのだという単純な事実を。
イルドットの足下に炎が広がった。伝わる熱と痛みに、直感が告げる。これは本物の炎だと。一気に駆け抜けようとしたものの、炎の広がる方が速い。ましてやランシャを担いだままである。このままなら焼け死ぬのを待つしかない。迷っている余裕はなかった。イルドットはランシャを放り出し、比較的炎の幅が狭い場所に向かって走る。だがその瞬間、周囲の炎は消え去ったかと思うと、突如イルドットの全身から吹き上がった。
「うおぁああっ!」
野獣のような絶叫を上げ、炎の中にのたうち回る褐色の巨躯。そのごうごうと燃えさかる音の向こうにイルドットは聞いた。
「吾の弟子が甘い扱いをしたようだが、そうそう幸運は続かぬ」
「おまえ、おまえは、何者」
「それを聞いても詮無い事よ」
炎に気づいたミアノステスの住民が集まってきたとき、その場には大柄な黒焦げの死体が一つ転がっていただけだった。ランシャの姿がどこにもない事に皆が気づくのは、もう少し後の話である。
一対一なら、どれもたいした相手ではない。だがいかに月光の将ルーナであっても、四対一では少し分が悪かった。しかし炎竜皇やフーブの相手ともなれば、この程度では済まない。ならばこれは彼女にとって、はね除けなくてはならない試練と言えた。
一対一なら、とても勝てる相手とは思えない。だがいかに月光の将ルーナとは言え、四対一なら何とかなりそうに思えた。事実いま相手の攻撃を封じ、こちらが押しているのだ。ただ、ジクリフェルの四賢者が一斉に襲いかかっているというのに、いまだ決定的な一撃を加えられずにいるのもまた事実。これではまるで大精霊ラミロア・ベルチアの力を得たランシャと戦っているかの如きである。妖人公ゼタは脳裏に走る嫌な予感を打ち消した。
「ただの予感ならば良いがの」
その余りにも突然な登場に、四賢者もルーナも飛び退いた。どこから湧いたか不意に現れた黒い人型は、ニンマリと黒い歯を剥く。
「余は暗愚なれば、駆け引きを知らぬ」
暗愚帝はルーナを横目で見やった。
「よって、そなたの味方をする事にした」
一瞬呆気にとられたルーナだったが、すぐに剣を構え直す。
「貴様、団長はどうした」
すると黒いゲンゼルはつまらなさげにため息をつく。
「そなたの兄なら心配はいらぬよ。そのうち戻ってくるだろう。アレはつまらん男だ。強いだけで面白味がない。だがその点」
そう言って視線を四賢者に移す。
「そなたらは何とも面白そうだ」
「黙れゲンゼル! リンドヘルドを持たぬおまえ如き、恐るるに足らぬわ!」
しかし妖刀土蜘蛛の切っ先を向けたゼタを無視し、ゲンゼルはルーナにこう告げた。
「気に入らぬのなら、後ろから斬りかかるが良い。それもまた一興」
そして当惑するルーナに背を向け、四賢者に向き直る。
「さあて、『必死』というヤツを見せておくれ」
暗黒の狂気をはらんだ目が、笑った。
雷の精霊ジャイブルが放つ光は、暗い中をランプよりも明るく照らした。氷の山脈の麓、森と呼ぶには幾分枝葉が寂しい雪の積もる木々の間で、タルアンとリーリアは身を寄せ合っている。魔道士ダリアム・ゴーントレーがどこかに行く間、ここなら安全だろうと下ろされたのだが、確かに野盗山賊の類いは出そうにないものの、山から吹き下ろす風は冷たく、凍えて死にそうだった。火を起こそうにも枯れ葉がほとんどない。小枝は落ちているが湿っている。
「まさか毛布もなしに、ここで一晩明かせって言うんじゃないよな」
震えながら愚痴を言うタルアンの頭の上に座っているジャイブルは、大口を開けて笑った。
「あはは、悲壮な覚悟をした割には、寒さで音を上げるか」
「それとこれとは話が別だろ」
不満げなタルアンの口の周りが曇る。リーリアの吐くため息も白い。
「ダリアムはどこまで行ったのでしょうか」
「さあな、宿主とかいうのを探すんだろ。すぐ見つかるものなのかどうか知らないけど」
そう言うタルアンを、ジャイブルは目を丸くして見つめた。
「そなたたちは宿主を知らんのか」
「知らないよ。ジャイブルは知ってるの」
いささか呆れたという顔で、ジャイブルはこう話した。
「宿主とは言葉通り、宿り主の事だ。ヤドリギが大木に巻き付いて生える。その大木を宿主と言う。ヤドリバチがイモムシに卵を産む。そのイモムシを宿主と言う。ザンビエンはあの強大な力を維持するために、強い生命力を持った宿主に寄生しているのだ」
「へえ、そういうもんなのか」
感心しているタルアンの隣で、リーリアは不意に空を見上げた。枝の間から降るような星空を。
「……ジャイブル、そのザンビエンの宿主とは、精霊ですか」
「いや、精霊を宿主にしたと聞いた事はないな」
「では魔族ですか」
「あのザンビエンが魔族など宿主にするはずがない」
「ならば」
そう、ならば。新たな宿主として選ばれるのは何者か。
「ラミロア・ベルチア。あなたはすべて知っていたのですか」
リーリアの心に、言葉が伝わる。
――神でもない身に、すべてはわからぬさ
「でもあなたは気づいたのですよね。ザンビエンが宿主という言葉を出した時点で」
――それは否定しない
「どうして。どうして教えてくれなかったのですか」
――生贄としての結末を受け入れたおまえに、もはやそれを教える意味はない
「それは違います!」
リーリアは叫んだ。驚いたタルアンは後ろにすっころびそうになった。
「お、おいリーリア、どうした」
しかし妹は兄の方を見ず、空に向かって叫び続けた。
「私が何のために運命を受け入れたか、あなたは知っているはずです! 誰のために受け入れたのか、全部知っているはずです! なのに私を無視するなんて酷い!」
そして空を、いや、氷の山脈の頂上をにらみつけてこう言った。
「連れて行って。私をザンビエンのところまで連れて行って。直接掛け合います」
――無駄だ
「無駄かどうかなんて、やってみなければわかりません」
自信がある訳ではない。だが他にどうしろというのだ。自分が動く以外に何ができる。そう焦るリーリアの心に、ラミロア・ベルチアは静かに告げた。
――いまザンビエンの決めた事を覆せる者がいるとしたら、それはただ一人だけ
「それってまさか」
――そう、ランシャ本人ただ一人だけだ
「そんな。いまのランシャがどんな状態か知ってるくせに」
――すべては天運。すべては巡り合わせ。もしランシャが何かをなすべき人間なら、ザンビエンとて迂闊には手を出せないやも知れない。我らには、それを見ている事しかできないのだよ
「酷すぎる……勝手すぎます! ザンビエンの何がそんなに偉いんですか! ただの人食いの怪物のくせに!」
リーリアは両手で顔を覆って泣き出してしまった。タルアンは訳がわからずオロオロし、ジャイブルは駄目だこりゃ、とため息をつく。そのとき星空に、一筋の流星が走った。それは氷の山脈の頂上に向かって落ちたかに見えた。