蠱毒
六十四片に分かれた聖剣リンドヘルドは、怒濤の如く風月に襲いかかる。それを細い剣でことごとく受け流す風月。その動きは明らかに人の身の限界を超えていた。
「なるほど素性の良い剣士なのだろう。剣技は見事としか言いようがない」
そう言いながらも、ギーア=タムールは不満げだ。
「しかし神の戦士を名乗るには、いささか地味に過ぎる」
リンドヘルドの断片は突如動きを止め、ギーア=タムールの手元に戻って行った。
「もう良かろう。一撃で決める」
六十四片の青い刃は、一本の剣へとまとまり姿を変え……られなかった。断片はまとまろうとするのに、何故か隙間が埋まらないのだ。おそらくは、何か油のような物が塗り付けられている。
「ほう」
ギーア=タムールの口元が緩む。と、同時に風月が一気に距離を縮め、鋭い突きが敵の喉元を襲った。しかし切っ先は届かない。その先端を爪が抑えていた。ギーア=タムールの左手小指の爪が。
「なかなか奇抜な戦い方だな。確かにフーブの戦士を名乗るならば合点も行く。リンドヘルドの能力を逆手に取ったのには感心した。だが」
まとまれなかった六十四の断片が、青い炎に包まれる。何か動物質な物が焼ける不快なニオイがした。
「いかに不死身であろうと、この程度の剣を受けてやる訳には行かぬ」
青い炎の中から、ギーア=タムールの右手に姿を見せる聖剣リンドヘルド。一閃で風月は消し飛ぶ、その場にいた誰もがそう思っただろう。けれど聖剣は振られず、床に突き立った。そして聖騎士団長は膝をつく。苦悶の声を上げて。
「貴様……何をした」
「私がリンドヘルドに塗り付けた物が何か、わかるか」
風月は静かに語る。
「おまえにはわかるまい。あれは人間だ」
「人間、だと」
「より正確に言うなら、フーブ神が人間の憎悪を抽出した物だ。それをおまえは炎で焼いた。すなわち、浄化した。浄化された憎悪を何と呼ぶか、知っているか」
苦悶と疑問に顔を歪めるギーア=タムールに、風月は解答を示した。
「それは、『祈り』だ」
ギーア=タムールの目が驚愕に見開かれる。
「馬鹿な、祈りだと」
「そう、いまおまえを苦しめているのは、祈りだ。人間の純粋な、フーブ神への祈りだ。理解せよ、ギーア=タムール」
風月は言う。
「これが、神の戦いである」
何が少々痛いだ。炎竜皇ジクスは、全身を走る激痛に絶叫した。
「陛下を抑えて!」
魔界医ノスフェラの指示で、慌てて魔獅子公フンムがジクスの体を抑えたが、その怪力をもってしても手に余るほどの暴れよう。それでもノスフェラの指は、ジクスの右肩と左手首をゴッソリとえぐり取った。
背後では毒蛇公スラと黒山羊公カーナが、迫る聖騎士たちを牽制している。しかし多勢に無勢、そうそう時間は稼げそうにない。
「まだですか、ノスフェラ! 急いで!」
カーナの叫びに、ノスフェラは笑顔を浮かべる。
「ご心配には及びません。それがしの医術をもってすれば今回の治療は」
「自慢はいいから早く!」
魔界医はいささか不満げな顔を見せたものの、ため息と共に、何もない空間から小瓶を取り出した。中には黒い丸薬が詰まっている。
「取り出しましたる、このノスフェラ特製万能滋養強壮剤をば」
叫び疲れたか、痛みが故か、朦朧としているジクスの小さな口をこじ開け、ノスフェラは丸薬を数粒押し込んだ。
「さあ、飲み込んでくださいませ、陛下。それにて治療は完了にございます」
そのとき、スラの声が叫ぶ。
「回り込まれた! フンム!」
弾かれたように魔獅子公が立ち上がる。
「おのれ雑魚どもが!」
だが聖騎士たちはすでに頭上にあって、剣を振り下ろしている。その切っ先がフンムに届かんとした瞬間。赤い光の帯が宙を走り、触れた聖騎士たちは一瞬で蒸発した。
赤い帯は空を裂くように伸びると、妖人公ゼタと剣を交える月光の将ルーナにまで一瞬で届く。咄嗟に剣を立てて身を守ったルーナだったが、強大な力の前に、軽々と弾き飛ばされてしまった。
「陛下!」
歓喜の声と共に振り返るゼタの目に映るのは、燃える炎の左手を高々と掲げて立つジクスの姿。左手から伸びる熱線の帯は、次々に聖騎士を舐め取って行く。それを何とか逃れた者も、復活した暗黒の右手に飲み込まれた。いかな不死身の聖騎士と言えど、その身を粒子に変えられては、あるいは異界に飲み込まれては、戻ってくる術などありはしない。
そのとき、フンムがジクスに指し示した。膝をついたギーア=タムールを。
「陛下、彼の者の首を!」
魔獅子公の声に応じたように、光の帯は上空より振り下ろされる。赤く輝く断頭台の如く。だが、首は落ちなかった。食い止めたのは、銀色の輝き。風切の神盾グアラ・ザン。
「おのれフーブ、何故ギーア=タムールを助けた!」
風の巫女に食ってかかろうとしたフンムたちだったが、その前に神槍グアラ・キアスを構えた風音が立ちはだかる。
「別に助けた訳ではありません」
巫女は微笑む。あざけるように。
「もう良いでしょう、ギーア=タムール。冗談もほどほどにされませ」
「……フン」
するとギーア=タムールは、何事もなかったかのように平然と立ち上がった。
「いまのは渾身の小芝居であったと思うのだがな」
「あの程度の『祈り』で倒れるなどとは思っておりませぬ。されど、人間の祈りがあなたへの武器となる事は、ご理解いただけたでしょう」
「何のための理解だ。何故手の内をさらす」
「無論、我らが共通の敵と戦うために」
そう言うと、風の巫女は視線を向けた。漆黒のゲンゼル、暗愚帝に。
また一人、聖騎士が黒い霧となって消えた。斬りかかれば食われ、立ち止まっても食われる。しかし効果範囲はさほど広くないのか、距離を取る者は食われない、ように思えた。だが聖騎士たちは当たり前の事を忘れていた。この暗愚帝にも前に動く事はできるのだと。
一瞬で距離を縮めた相手に、また一人聖騎士が食われた。黒いゲンゼルは笑う。
「余は暗愚なれば、策などわからぬ。よって、しらみつぶしに喰らうしかできぬ。しらみつぶしに、全員をだ」
「共通の敵だと? 笑わせるな。聖騎士を滅した数なら、そこのジクリジクフェルの方が多いくらいだ。あの黒いのが共通の敵なのではない。聖騎士の前に立ちはだかる者はすべて敵である」
「されど、優先順位というものがございましょう」
巫女の微笑みに、ギーア=タムールも笑顔を返す。
「ほう。あの黒いのが、それほど危険だとでも言うつもりか。くだらぬ」
「なれば、ご自分でご確認くださいませ」
「何」
ギーア=タムールが眉を寄せたそのとき、崩壊したフーブ神殿の中を突風が吹き荒れた。輝く銀色の風が。しかし、風は不意に止んだ。
「なるほど」
鼻先で笑うギーア=タムール。いつの間にか周囲に広がる景色は、フーブ神殿の中ではない。どこまでも遠く、どこまでも銀色の世界。ただ視界の中で一箇所だけ、銀色ではないところがある。そこにあるのは人型の漆黒。
「どうやら、貴様と私だけがこの空間に閉じ込められたらしい」
ギーア=タムールはゲンゼルに話しかけた。
「この程度、外に出るのは造作もない。揃ってフーブの鼻を明かしてやるのも一興だと思うのだが」
その口元が、ニヤリと曲がった。
「貴様、この趣向に乗りたいようだな」
暗愚帝は黒い歯を剥き出している。
「余は暗愚なれば、後先の事など知らぬ。ただ目の前の獲物を喰らうのみ」
巨大な天使を前にして、魔道士ダリアム・ゴーントレーは魔剣レキンシェルを振るった。白い刃が唸りを上げ、逆三角錐の胴体をえぐる。天使はダリアムたちを捕まえようと腕を振り回すが、結界に触れるのを怖れるあまり、歪な動きしかできない。リーリアとタルアンを抱えたまま、ダリアムは軽快に天使の周りを飛び回り、斬りつけ続けた。
「こ、これで天使が倒せるのか?」
ダリアムの体にしがみつき、振り回されて酔いそうになるのを懸命に堪えながら、タルアンがたずねる。しかし魔道士は、さも当然というようにこう答えた。
「天使を倒せる訳などございますまい」
確かに、考えてみれば流星の直撃を受けても無事なのだ、魔剣で斬り刻んだくらいで倒せる相手ではない。
「で、では、これはいったい何を」
「舌を噛みますぞ、しばらくお黙りください」
ダリアムにそう言われては、黙るしかないタルアン王子であった。
魔剣レキンシェルはその氷の刃を伸ばし、天使の巨大な腕を、手を、指を斬った。天使に痛覚があるのだろうか。反応を見る限り苦痛は感じていないようだ。だが感情はあるのかも知れない。もちろんそれは天使そのものの感情ではなく、遠い空の向こうから天使を操っている者の感情であるのだろうけれど。
天使の動きに苛立ちが感じられる。ならば、あともう少しだ。ダリアムは知っている。天界の住人とは、決して超人的に高潔な人格の集まりではない。ただ高慢なだけの連中も少なからずいる。この世界を「下界」と呼び、文字通り見下している者も多いのだ。なればこそ、付け入る隙はある。
天使の背後に回り込んだダリアムは、六枚の翼に攻撃を加えた。レキンシェルがきらめくと、翼の表面にさざ波が立つ。そして、翼を構成する羽毛の一枚を斬り落とした瞬間、天使は猛然と振り返った。いわゆる逆鱗に触れたのだろう。
怒り狂った天使は両腕を激しく振り回すものの、それ以上の攻撃を見せない。だが時間の問題だと魔道士は踏んでいた。その読みは正解であったようだ。ダリアム・ゴーントレーは見た。彼の目には、晶玉の眼には見えるのだ。氷の山脈を覆う天使の結界が、大きく膨らんだのが。
結界は膨らみ広がり、しかも天使とダリアムたちを飲み込んだ。さっきまで結界の外にいたのに、いまは内側にいる。天使が声もなく笑ったかに見えた。そう、この結界は泡のような物。外から触れれば壊れる可能性があるが、中に飲み込み結界自体を大きく膨らませれば、外縁部に触れる事は難しくなる。すなわち結界の内側なら、天使は思うまま戦えるのである。
天使が両手を広げた。手のひらに渦が巻き、強大な引力が発生する。それはダリアムたちを捕まえ、一気にたぐり寄せた。しかし。
天使の全身は氷結した。ダリアムは歯を剥き出して笑う。
「結界が急速に拡大すれば、その内側に込められた『天界の力』は希薄になる。無論、吾の程度の次元であれば、希薄になっても巨大な力である事に変わりはないが、果たしてザンビエンにとってはどうであろうかな」
天使が輝いた。氷を溶かそうとしているのだろう。だが、逆に氷はみるみる厚さを増す。それだけではない。中に閉じ込められた天使の体が小さくなって行く。まるで水を失った花がしおれるように。
「これは、いったい」
驚愕の表情を浮かべたリーリアのつぶやきに、ダリアムは答えた。
「ザンビエンの呪いの氷の内側は、これもまた結界。天界の力も届きませぬ。天界との繋がりを断たれた天使など、もはや精霊王の敵ではないのです」
浮遊する氷は肥大を続け、対して天使は反比例するように収縮して行く。やがてその体は幾つかの点となり、とうとう消滅した。そのとき、ダリアムの晶玉の眼は見た。氷の山脈を覆っていた結界が砕け散ったのを。そして聞いた。天地を揺るがす咆吼を。
魔獣と呼ばれた精霊王が、ここに復活した。