黒山羊の瞠目
氷のゴーレムを構成した氷柱は、おそらく百本ほどではあるまいか。何故なら残りの百本ほどが、四賢者の周囲を取り囲んだから。文字通り、アリの這い出る隙もない。
氷のゴーレムは蜘蛛の巣をつかんで引っ張った。しかし細い黄金色の鎖が編んだこの繊細な作品は、容易な事ではちぎれない。その恐るべき強靱さは、六角形のデザインが長細く歪んだだけで、妖人公ゼタが驚嘆したほど。ゴーレムが非力な訳では決してない。
魔獅子公フンムが一歩前に出て吼える。
「ゼタ、蜘蛛の巣をどけろ! 我が打って出る!」
「正気か。相手の誘いにわざわざ乗ってやるなど、愚かな」
「ならば尻尾を丸めてここに籠もっていろと言うのか! それこそ愚の骨頂! 我は戦士である! 己が力で戦況を変えてみせよう! さあ、蜘蛛の巣をどけよ!」
すると毒蛇公スラが、感情のこもらぬ表情でつぶやいた。
「フンム、出せ」
ゼタが横目で見つめる。
「出してどうなる」
「どうなるか、見たい」
スラの言う事である、単なる興味本位や面白半分ではあるまい。ゼタは諦めたように小さくため息をついた。
「いいだろう」
一瞬の後、カーテンが開くように蜘蛛の巣の一部がほどけ、左右に分かれる。引き絞られた矢が放たれたかの如く、フンムが雄叫びと共にそこから飛び出した。それを受け止めるかのように立ちはだかる氷のゴーレム。
人間と比べれば、フンムは恐るべき巨躯と言って良い。氷のゴーレムはその三倍ほどの体格があった。しかし魔獅子公の突進を受け止めて、ゴーレムは全身を軋ませる。ただ、これに驚いたのはフンムの方。たかが魔法で組み上げられただけのデク人形が、己の全力に後退すらしなかったのだから。
動かないフンムとゴーレム。ここまではスラの想定内と言えた。問題はこの後、取り囲む氷柱の群れが自分たちに攻撃して来るかどうか。一本でも、少しでも動けば次の手が読める。けれど氷柱は動かず、静かに取り囲むのみ。
スラの口が開いた。そこから湧き出る無数の小さな蛇の影。厚みのないそれらは、髪の毛さえ挟まらないほど僅かな氷柱の隙間を通り抜け、玉座の間に拡散する。
「逃げぬのか」
水色に輝くリーリアが言う。確かに、四賢者が氷のゴーレムに気を取られている今なら逃げられそうにも思える。だが左手をつなぐランシャは首を横に振った。
「アイツらにもメンツがある。むざむざと逃がしはしないだろう。もしミアノステスに逃げれば、街が破壊される。それに」
動かない氷のゴーレムの背を見つめる。
「ジクスが出て来るかも知れない」
「炎竜皇がここにいないのが、そんなに不思議か」
ランシャは少し驚いたような顔をリーリアに向けると、小さく微笑んだ。
「自惚れてる訳じゃない。だけど理由もなく手を抜く相手じゃないと思う」
「もし、あやつが出て来たらどうする気だ」
「もうレクの力が使えない以上、マトモに戦っても勝ち目はないかも知れない」
「ないな」
ランシャがジクリフェルの四賢者を一人で抑え込んでいる現状を見ながら、しかしラミロア・ベルチアはそう言い切った。ランシャは苦笑もせずうなずく。
「だからせめて、四賢者だけは倒しておきたい」
その言葉と同時に、右手の氷の大剣が唸りを上げた。天井から勢いよく落ちてきた、何か黒い塊を弾き飛ばす。床に転がったそれは、大きな二本角を生やした黒い山羊の頭。赤い目がギョロリとこちらを見つめると、不快な声で絶叫した。
次の瞬間、ランシャとリーリアの足下を水の輪が回転する。そこに巻き込まれたのは無数の黒い紐のような影。すると山羊の頭は舌打ちし、首から胴体が生えて飛び出した。
「ほっほっほ、嫌ですねえ、気付いていたのですか」
おそらくは黒山羊が囮となって注意を引きつけ、蛇の影たちが背後から襲いかかる算段だったのだろうが、ランシャはそれを完璧に防いだ。それなのに、目の前の黒山羊は余裕の笑みを浮かべている。虚勢か、それとも。
一瞬迷ったランシャの足下で、異変が起きていた。水の輪に巻き取られた無数の蛇の影が、合流し、合体し、太く長い影へと姿を変えたのだ。それに気付いたときはもう遅い。水の輪から飛び出した長大な蛇の影が、ランシャの体に巻き付き、締め上げる。
「二段構えの策ですよ。小憎らしいとは思いませんか」
黒山羊公カーナの言葉は本音だったのかも知れない。ランシャの体に巻き付いた長い影の先端が二つに割れて裂ける。その内側には長い牙が。人間の頭を三つ飲み込めるほどに広がった黒い口は、上からランシャに食らいつこうとした。だが。
影の大蛇の首を上からつかみ止めたのは、巨大な影の手。そこにつながる影の腕は、ランシャの足下の影から伸びている。カーナは瞠目した。
「ままままさか、スラの術を真似したと!」
影の手が大きく引かれると、スラの放った影の蛇はほどかれてランシャの体から離れた。稲妻のように白光が走る。ランシャの氷の大剣が切っ先を天井に向け、その向こうで黒い大蛇は四散した。
「来ないで」
白い片翼の少女はルオールをにらみつけた。
「わたしはランシャのそばに居るの。ランシャはわたしのそばに居るの」
「もうランシャはここにはおらんでござるよ」
優しく告げるライ・ミンに、少女は馬鹿にしたような顔を見せる。
「見えないの、ランシャはずっとここに居る」
そう言って空を指さした。しかしライ・ミンは首を振る。
「あれは偽物でござるよ」
「嘘よ。ランシャはずっとランシャだもの」
聞く耳を持たない少女は、ツンと顔をそむけてしまった。ライ・ミンは小さくため息をついて、ルオールに向き直った。
「御貴殿からも何か言ってもらいたいでござるな」
「何かって……これ女だよな」
深刻そうなルオールを、ライ・ミンはキョトンとした顔で見つめる。
「そのようでござるが、それが何か」
「いやいやいや、何かじゃねえよ。何でニナリが女になってんだよ」
「人の心はイロイロでござるからな。中にはそういう者も居るでござろう」
「そ、そうなのか? そんな簡単に言っちまっていいのか?」
何故か赤い顔で焦るルオールに、ライ・ミンは困ったような表情でこう言った。
「いま大事なのは性別ではござらんよ」
「それはそうなんだが、わかってるんだが、でもよ」
「男のくせにウジウジしてるのね、気持ち悪い」
そこに聞こえた少女のつぶやきに、ルオールは感情的になった。
「な、なんだとこの野郎」
「だってランシャはアンタみたいにウジウジしてないもの」
「ウジウジしてんのはテメエの方だろうがよ、こんなところに隠れやがって」
今度は少女がムッとする。
「隠れてんじゃないもん、ランシャが迎えに来てくれるのを待ってるだけだもん」
「迎えに来る訳ねえだろうが、ランシャにだってやる事があんだよ。お姫様の事とかな」
「お姫様なんて関係ないでしょ。ランシャはいつか、わたしのところに戻ってくるもの」
「戻らねえよ、アイツはそんな軽いヤツじゃねえ。おまえランシャの事何もわかってねえんだな」
「うるさいな! ランシャの事はアンタなんかよりずっとわかってるんだから!」
「じゃあいまランシャがどこに居るか言ってみろよ! 言えねえだろうが! 言えねえなら俺様が言ってやるよ、アイツはお姫様助けに行ってるんだ。おまえじゃなくてお姫様を選んだんだよ」
少女は目に涙を浮かべながら、恨みがましくルオールをにらみつけている。その視線を真正面から受け止めつつ、ルオールは続けた。
「しゃあねえだろう。おまえが何を言ったってどうしようもないんだよ。ランシャの事はランシャにしか決められねえ。もう諦めろ、離れろ。生きるってのはそういうもんだ。くっつく事もありゃ離れる事もある。それを繰り返すしかない。おまえだけじゃねえ。みんな、誰も彼もそれに慣れてくんだよ。ずっと永遠に一緒に居られるヤツなんか、どこにも居ないんだからな」
「……嫌だ」
少女は震える声を振り絞った。
「嫌、嫌、嫌、絶対に嫌! ふざけんな、わたしの事なんか知らないくせに! ランシャの事も知らないくせに! アンタなんかに何がわかるの、わかるもんか!」
「おまえの事くらい知ってるよ! 気弱な腰抜けで頑固で、けどまっすぐで他人の面倒ばっかり見てるんだろうが! ランシャの事だっておまえよりよっぽど知ってる、クソ真面目で器用なくせに不器用でいっつも損な役回りばっかしてるヤツだ、違うかよ! アイツだっていい加減、幸せになったっていいんじゃねえのか」
ルオールの言葉に、少女は声を上げて泣き出してしまった。
「わたしだって、幸せになりたいのに」
「だからって、ランシャにお姫様を諦めろって言うのかよ。んな訳に行かねえだろうが。なあニナリ、ランシャの事が好きなら遠くから見守ってやろうぜ」
「それは良いでござるな」
ルオールの背後でライ・ミンが言った。
「ではこういうのはどうでござろうか」
ライ・ミンは少女に近付くと、何やら耳元でささやいた。少女の顔が音を立てて真っ赤に染まる。その瞬間、少女の右側の背に二枚目の白い翼が生え、周囲が明るい光に包まれたかと思うと、上空の巨大なランシャの姿は消え去り、綿のような地面からは木々が枝を伸ばして花が咲いた。少女はモジモジしながら上目遣いでルオールを見ている。
ライ・ミンはホッとしたようにつぶやいた。
「これで一件落着でござるな」
「ちょ、ちょっと待て、アンタいったい何を言った」
そう突っ込んだとき、ルオールの意識は遠くなった。
不用意に目を開けたので、太陽を直接見る事となった。ルオールは慌てて目を閉じると、今度は用心深く顔を持ち上げ、体を起こしてから再び目を開けた。見えるのは赤茶けた砂岩の山肌。
「……戻って来たのか」
「無事に戻れたようで安心したでござる」
声の方に顔を向ければ、ライ・ミンがしゃがみ込んでいる。その足下に横たわるニナリ。
「無事に戻れない事もあり得たのかよ」
「世の中に絶対はござらんからな」
ライ・ミンの返事に苦虫を噛み潰したような顔を見せながら、ルオールは立ち上がってニナリに近付いた。
「コイツは大丈夫なのか」
「なあに、じきに目覚めるでござろう」
ライ・ミンは微笑むと立ち上がり、背後を振り返った。そこに立つのは砕かれた氷の柱。中に閉じ込められていたはずのイルドットの姿はない。
(やはり、ただの人間ではござらんかったか)
とは言え、当面の目的は果たせた。あまり欲張るものでもなかろう。まずはこの二人をミアノステスに連れ帰る事だ。後の事はそのときに考えるとしよう。ライ・ミンは空を見上げた。はるか西、リーヌラのある方角の空を。