血の涙
念ぜよ、さらば与えられん。魔族であれ精霊であれ、はたまた人間の魔道士であれ、念ずることによってその力は発揮される。この世界の暗部から、もしくは異界の闇より力を取り出す窓口となるのが思念である事は、種族を違えど共通である。すなわち、すべての力は心より始まるのだ。心の強さが扱える能力の基準となる。
いま水色に輝くリーリア姫の身体に宿る水の大精霊、ラミロア・ベルチアの心が揺れていた。正しくは、心の内側に隔離したはずのリーリアの精神が動揺していた。一体化したリーリアの精神が起点となり、ラミロア・ベルチアの心までが震撼しているのだ。
こうなる事を避けるため、リーリアには外界の情報に触れられないようにしていたというのに、その防御をかいくぐって心の内側にまで外界の様子を送り込んだのは、皇国ジクリフェルの四賢者が一人、毒蛇公スラであった。
「や、やめろ、私は、私を誰だと」
巨大な蛇体の尻尾に巻き付かれながら、恐怖に裏返った声で叫ぶ第一王子ラハムを、スラは感情のこもらぬ目で一瞥した。
「おまえ、うるさい。黙れ」
尻尾に力を込めて胴を締め付けると、ラハムは呼吸ができなくなり、無言で口をパクパクと動かす。
「その方は大事なコマなのですがねえ」
隣から聞こえる声にスラが目をやると、黒山羊が立っていた。毒蛇公はどうにかカーナに聞こえるであろう小さな声でこうつぶやく。
「いまは、こっちが優先」
「まあ、それはそうなのでしょうが」
「おまえ、戦わないのか」
「それはあなたもでしょう。お互い肉体労働には向いておりませんものね」
「まあ、それはそうだ」
そして二人の魔族は、目の前で行われている戦いに目を向けた。
無銘にして無尽の戦斧が振り下ろされる。立ちはだかる透明な水の壁。しかし戦斧はそれを突破する。水色のリーリアは跳び下がり、間一髪でかわした。だがその背後に赤光。妖刀土蜘蛛の電光の突き。けれどそれを遮る横殴りの水流が妖人公ゼタごと土蜘蛛を押し流した。
ラミロア・ベルチアは振り返る。魔獅子公フンムがさらなる一撃を加えようと構えていた。ゼタとフンム、それに対するラミロア・ベルチア、双方の力は互角と言えた。無論、本来であれば互角になどなり得ない。力の差は歴然なのだ。リーリアの動揺がラミロア・ベルチアの足を引っ張っているからこその互角である。
水の大精霊は迷っていた。この状況から抜け出すには、二つの手段がある。リーリアの動揺を抑えるか、リーリアを放り出して逃げるかだ。とは言え、後者の選択はない。もうすり切れて僅かしか残っていないが、それでも誇りと呼べるものがなくはないのだ。ラミロア・ベルチアを名乗る限り、一度手を取った人間を放り出せはしない。
ならば動揺を抑えるしかないのだが、それにはこの娘に決断を要求する。リーリアにとっては残酷な現実、つまり兄を見殺しにするしかないという事を認めさせねばならない。この選択は諸刃の剣。下手をすれば、いま以上に動揺が激しくなるだろう。
実を言えば、選択肢はもう一つ残されていた。だが、それはリーリアにとって重すぎる。おそらく兄の死以上に耐えきれない負荷となるだろう。だから結局のところ、最初の選択肢しか残されていない。なのにラミロア・ベルチアは迷っている。
――まったく、随分と甘くなったものだ
胸の内で苦笑しながら、水色のリーリアは紙一重でフンムの戦斧をかわした。
乾いた大地から生える無数の棘のように、数十人のライ・ミンが林立する。巨大化した黒いドラゴンは、踏みつけるのを躊躇した。だが持ち上げた足は下ろさねばならない。咆吼と共に集団の真ん中を狙って体重をかけた。
無論、砂糖菓子の如きその体である。ライ・ミンの頭が足の裏を突き破る。しかしそれでいい。ドラゴンの足に突き刺さった何人かのライ・ミンの頭部が、ジュッと音を立てて溶けた。頭を失って倒れる仲間を見ながら、しかしライ・ミンの群れは動揺もせず、泰然としている。その様子にイルドットは困惑した。
ライ・ミンは先ほど言葉を発している。ならば催眠が効く状態なのだろう。とは言え、さすがに対象を決めずに催眠をかけるのは難しい。もし、あのライ・ミンの集団が全員本物ならば、一度にまとめてかける事は可能だが、そんな事は有り得ない。それどころか、全員偽物の可能性があるのだ。迂闊には動けなかった。
「なぎ倒せ!」
イルドットの声が飛ぶと、ライ・ミンの群れの真ん中に足を下ろしたドラゴンが、そのまま体を回転させて太い尾で周りを叩く。次々と尾に上半身をめり込ませるライ・ミンたちは、中のガスに触れてまた一瞬で溶けた。ガスの正体は、赤髪の少年ニナリ。彼の嫉妬と羨望がより強く、より深刻なほど、肉を溶かし腐らせるガスの毒性は高くなる。これはそういう魔法であった。
ライ・ミンの数は半分ほどに減ったものの、残りはいまだ平然としている。それを見てイルドットは確信した。やはりコイツらは全員偽物だ。ただの人形だ。本物がどこかに隠れているに違いない。だがどこに。イルドットの意識が正面から周辺に向けられ、散漫になったそのとき。
イルドットの太い首の後ろに手が伸びた。肩に担いだ荷物の中から。気付いたときにはもう遅い。褐色の巨躯は一瞬で氷の柱に閉じ込められた。
白い氷柱の隣に立つ姿を、ルオールは見上げている。ああ、やっぱりコイツは俺なんかの手が届かないところに行っちまったんだな、と思いながら。
「ランシャ」
その声に振り返ったランシャが歩み寄る。無言で伸ばされた手につかまって、ルオールは立ち上がった。そして、暴れる暗黒のドラゴンを指さす。
「わかるか、あれ、ニナリだ」
眉を寄せてドラゴンを見つめるランシャに、ルオールはすがった。
「なあ、頼むよランシャ。ニナリを助けてくれ。この通りだ」
涙を流し、頭を下げる。そのルオールの姿は、ランシャの心を動かした。いや、それだけではない。ドラゴンも動きを止め、こちらを見つめている。だが。
「その必要はないでござるよ」
そう一斉に叫んだのは、ライ・ミンの集団。そして口々にこう言った。
「御貴殿には行くべきところがござろう」
「ここは拙者にまかせるでござる」
「いま急いでは後悔すると考えているのでござろうが」
「しかし急がねばもっと後悔するでござるよ」
「さあ、すぐに飛ぶでござる」
その言葉を聞いて動揺したのはランシャではない。暗黒のドラゴンが絶叫を上げた。身を翻し、ランシャに向かって走ってくる。
「ラン、シャ! ボク、が! ボク、が!」
しかしその前に回り込んだライ・ミンの集団が、ドラゴンに向かって手をかざした。
「風に乾け」
吹き荒れる突風がドラゴンの足を止め、その表面をメリメリとめくり上げると、内側に封じられていたガスが噴き出し、巻き上げられて行く。ライ・ミンの集団の中の一人が、ランシャを振り返った。
「後の事はまかせて行くでござる、ランシャ」
するとランシャは、ルオールに向き直る。
「ルオール、ニナリの事を頼めるか」
「ええぇっ」
思わず素っ頓狂な声を上げたルオールは、目を白黒させた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、何しろって言うんだよ、無理に決まってんだろ」
「御貴殿は彼の友人でござるか」
ライ・ミンの言葉にルオールは焦った。何やら嫌な予感がしたのだ。
「友人、っていうか、ただの仲間だから、その」
「では、協力していただくでござる」
ライ・ミンは微笑み、ランシャにうなずいた。ランシャもうなずき返し、ルオールを見つめた。その透明な瞳で。ルオールは観念するしかなかった。
「……ああ、もう! 何だよ、いったい何すりゃいいってんだよ!」
それを聞いてランシャは微笑むと、一瞬で高く飛び上がった。雲の上まで。ルオールはそれを見上げてつぶやいた。
「行っちまった」
「やっと行ったでござるな。さて、それではこちらも始めるでござる」
ライ・ミンはそう言うと、ルオールの肩を軽く叩いた。
「軽く死ぬような思いはするでござるが、本当には死なないので安心するでござるよ」
「へ?」
襲いかかる魔獅子公と妖人公は恐ろしく、リーリアは何度も身を固くし目を閉じた。そのせいで、ラミロア・ベルチアが支配する自分の肉体までもが動きを止める事に気付きはしたのだが。
――恐れるな、目を閉じるな、私を信じよ
リーリアの内側に響くラミロア・ベルチアの声。言いたい事は理解できる。しかし、だからといって恐怖を制御できるものではない。
「お願いです」
リーリアは叫んだ。
「私を置いて逃げてください」
しかし返ってきたのは呆れたような声。
――それができるくらいなら、とっくにやっている
「でも」
――リーリアよ。グレンジアの末裔よ
「はい」
――おまえには決断をしてもらわねばならぬ
「私にできる事ならば」
――ならば、ラハムを諦めよ
これはラミロア・ベルチアにとっても大きな賭けであった。もしリーリアがさらに動揺するようなら、さすがに命取りとなる。それに対し、リーリアは静かに応えた。
「……諦める、とはラハム兄様が死ぬという事でしょうか」
――そうだ。おまえがラハムの死を受け容れれば、おまえの心は安定し、私は力を存分に使える。魔族どもを打ち破るのも容易かろうし、このリーヌラを解放する事も可能だ。さもなくば
「さもなくば、私たちが死ぬと?」
リーリアの問いに、ラミロア・ベルチアはしばし沈黙した後、こう答えた。
――いいや。さもなくば私は私を守るために、帝都リーヌラを滅ぼさねばならん
「リーヌラを滅ぼす……」
息を呑み絶句するリーリアに、大精霊は続ける。
――この魔族どもは手強い。退けるには全力を振るわねばならない。だが私の全力は巨大過ぎて上手く御せないのだ。目の前の魔族の体に流れる血潮を毒に変える事はできるが、それをすればリーヌラの住民の血も毒へと変わる。そんな事は望むまい
選べというのか。兄の死かリーヌラの滅亡かを。リーリアは思い出していた。優しかったラハムを。笑顔を見せるリーヌラの民を。状況が逼迫しているのは理解できる。だがどちらかの命を選択する事など、リーリアにはできなかった。
「私は……私には」
――おまえは王族だ
しかしラミロア・ベルチアは決断を促す。
――民のために血の涙を流す事を厭うてはならない
選ぶしかないのか。いや、もはや選択肢すら存在していない。ただラハムの死を粛々と受け容れる、リーリアにできる事は他にないのだから。彼の死を容認し、そこに正義を認める。王族として民のために今なすべき事は、それがすべて。
ラミロア・ベルチアは感じた。水面の波紋が消えて行くように、心の動揺が静まって行く。リーリアが心を決めたのだ。
そこに真上より振り下ろされる妖刀土蜘蛛。だが水色のリーリアはこれを左手の指二本で挟んで止め、右斜め下から跳ね上がってきた戦斧を右手でつかみ止めた。その瞬間、毒蛇公スラの尾がラハムの体を持ち上げる。
「この男、殺す」
しかしリーリアの目はそれをまっすぐに見つめた。視線を逸らさず、心動かさずに。
その口が開きかけたとき、天井の向こう、頭の上のはるか遠くで、何かが破れるような音がした。リーリアが思わず見上げると同時に、玉座の間を強烈な冷気が襲う。床から伸びた巨大な氷の棘にゼタとフンムは後退し、その棘の群れはリーリアの周りを囲んだ。そしていつの間に現れたのか、リーリアの隣に立つ人影。
魔獅子公フンムが吼えた。
「貴様、ランシャか!」
呆然と見上げるリーリアの隣で、ランシャは微笑みこう言った。
「一人で選ばせはしない」